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幕末の日本に旋風を巻き起こした水戸藩の尊王攘夷論 

2023-01-01 | 茨城県南 歴史と風俗

思想的性格:儒教の中華思想 
  君臣関係の最も伝統的なあらわれとして皇室を尊崇しようとする尊王論、また(神州)日本を侵略する意図をもつ夷秋(いてき)をうちはらおうとする攘夷論は、本来幕府ないし封建制に対立する性質のものではなく、江戸時代の初期から武士階級の思想の中に存在していた。それは儒教の名分論にもとづくもので、内にあっては君臣の大義、外に対しては華夷(かい)の弁を明らかにし、尊卑の別をきびしく立てようとするのである。

 しかし江戸時代中期以降、外国船が姿をあらわし国防問題がおこると、尊王論および攘夷論は、現状に反発しこれを批判する意味合いを含むようになった。江戸時代末期の政治思想ならびに政治改革運動で、その源流は水戸藩の水戸学にあった。 
           
        
            
攘夷論と天皇の権威を尊重する
  尊王論を結びつけた水戸学
 1758年(宝暦8)の宝暦事件、1766年(明和3)の明和事件は、尊王論が幕府の忌諱(きい)にふれた最初の事件である。これは宮廷周辺に伝統的にあった尊王賎覇(せんぱ=覇者を蔑み、天皇を至上のものとする)の感情、あるいは浪人の不平の感情から起ったものであるが、
 幕府に対する不満の気持がひろがりつつあった社会的雰囲気のなかで、これを反映することによって政治的色彩をもったものであった。
 
尊王論が攘夷論と結合して尊王攘夷論となり、かつ具体的な目標をもつ政治論として、ひろく武士階級の政治意識をとらえるようになったのは、1840年代、第9代水戸藩主徳川斉昭、その家臣藤田東湖らが唱えた水戸学(後期)においてであった。 

 水戸学とは、江戸時代後期の水戸藩で醸成された儒教思想で天保の改革をとおして大成された。その源流は第2代藩主徳川光圀が行った『大日本史』の編纂にあるとされる。このときかに全国から集められた学者が修史事業に携わるなかで、やがて儒教思想に国学や史学、神道にもとづく国家意識を結びつけ「尊王賎覇」が説かれたのである。 

 1837年(天保8年)の大塩平八郎の乱は、浪人的政治改革の理想と、民衆の封建制への不満意識とが結合する可能性を示したものであった。

 斉昭らの尊王論は、このような動きに対抗して、将軍・大名の立場から、忠道徳の最終のよりどころを尊王に求め、これによって退廃する封建的秩序の再建強化をはかったものであり、さらに攘夷を強調することで内の悩みを外に転じ、士気の振起をはかったものであった。

 そしてこれが全国の武士層中堅分子の心をとらえたのは、封建支配者の内憂外患に対する深刻な危機意識に表現をあたえたからであり、やがて次の段階においては、改革論、政治運動へと発展する。
  
   
 
  

 

    
反幕閣政治運動の展開 
 尊王攘夷思想が改革運動に発展するためには幾多の前提条件が必要であった。

 第1は1853年(嘉永6)ペリー来航以後、開国か鎖国かの外交問題が紛糾し、公家の政治参与、雄藩の中央政界進出、下層武士の政治活動のいとぐちがひらかれ、幕府首脳部の政治的無能に対する批判がおこってきたことである。 

 第2は、外交問題をめぐる封建支配者間の対立が激しくなり、それが1858年(安政5)に将軍継嗣間題と条約勅許問題に集中したことである。
 この政争の過程で、京都で活動した諸藩の中堅分子および浪人の間に、開国か攘夷かの差別をこえて、幕閣の独裁に反対する内政改革論で連携しようとする動きが生まれた。

 第3に、大老井伊直弼を首班とする幕府は、公家勢力の台頭、雄藩の政治的圧力、浪人や下級藩上の活動をおさえるために、改革派の要求をしりぞけて、紀伊藩主徳川慶福(よしとみ、のちに家茂、いえもちと改名)を擁立し、勅許をまたずに日米修好通商条約の締結を断行し、ついで反対派をいっせいに処罰する安政の大獄を強行した。 

 これによって封建支配者間の対立は、幕閣派と反幕閣派の二大陣営に統一され反幕閣派は、井伊大老に反対する理念を尊王攘夷に求めるようになった。 

 1860年(万延1)の井伊襲撃の桜田門外の変、1862年(文久2)の老中安藤信行襲撃の坂下門外の変は、浪士や民間出身の志士からなる尊攘激派の行為であった。
 1860年に貿易が開始されるや、その影響とそれを利用する投機の結果とがかさなって、日常必需品をはじめ諸物価が騰貴した。攘夷派は、この現象をとらえて開国・貿易が国害をもたらすと扇動したが、かならずしも民衆をとらえなかった。
 貿易は、一時経済の混乱をまねいだが、結局開国前から芽生えていた資本主義的な経済活動を比較的順調に発展させたからであった。しかし緑米で収入を得ていた武土階級、とくに下層武士は物価騰貴に生活をおびやかされ、攘夷の気分は高まった。

 1860年から1863年にわたって尊王攘夷の志士は、一万では公家に幕府との対抗を説き、他方では外人の殺傷、佐幕開国派公家および貿易商脅迫のテロ手段に訴えて、朝幕間の対立を強め、また幕府を外交上窮地におとしいれる戦術をとった。  
 このため京都における幕府の支配力は後退し、尊攘派の公家とむすぶ薩長土3藩の勢力はのびた。  

 1862年、薩摩藩主の父、島津久光が勅使大原重徳(しげとみ)を擁して江戸にきたり、雄藩合議政体をめざす幕政改革の勅命を伝え、ついで翌年土佐藩主山内豊範と長州藩世子毛利元徳(定広・広封)が勅使三条実美(さねとみ)・姉小路公知を守って攘夷督促の勅命を幕府に手交し、ついに幕府に攘夷実行を承諾させた。  

 この時期の尊王攘夷運動は、下級藩士と浪士との改革派が少壮下層公家とむすんで実権をにぎり、雄藩藩主勢力を背後からあやつっていた。
 その尊王攘夷思想も、幕府専制に対立する意味で尊王、民族統一意識をある程度反映する内容で攘夷を主張し、反幕的色彩が濃かった。
 しかし運動はやはり幕藩体制下層武士等の改革運動であり、名分論・封建主義・排外主義のわく外には出なかった。 

          湊川碑(表)拓本 
   
 南北朝時代、南朝に忠誠を尽くした武将楠正成を顕彰して、1692(元禄5)年、光圀は佐々十竹に命じ、戦死した地である湊川(神戸市)に碑を建立した。
 「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字は光圀の筆による。 〔茨城県立歴史館『頼重と光圀ー高松と水戸を結ぶ兄弟の絆』 平成23年2月〕   

下級武士の幕府批判の大義名分へ転換 
 尊王攘夷運動は、1863年に、薩摩・会津を中心とする藩主勢力の公武合体派が孝明天王および上層公家と連絡しておこなったクーデタ(文久3年8月18日の政変)で大打撃をうけ敗退した。時を同じくして同年7月のイギリス艦隊の鹿児島攻撃、64年(元治1)のイギリス、アメリカ、フランス、オランダ4国連合艦隊の長州攻撃の体験をへて攘夷実行の自信がくだかれた。尊王攘夷派は各地で幕府あるいは藩庁の弾圧をうけた。

 この苦境の中で尊王攘夷派は脱皮成長した。それが最も典型的におこなわれたのは、4国遵合艦隊と幕府軍の両面の攻撃をうけた長州藩であった。
 なわち足軽・郷士級の最下層武士を中心に農民・町人をふくめた非正規軍たる奇兵隊以下の諸隊が組織され、高杉晋作ら志士はこの諸隊をひきいて決起し、藩庁軍を破って、藩の権力を掌撰し、長州藩の動向を倒幕運動に一決させた。


 この倒幕派が尊王攘夷派と異なる点は、運動目標の上では、攘夷に代わって倒幕へ集中した点にあり、運形態の上では、豪農・豪商層をより広範にくみ入れて、民衆の反封建闘争のエネルギ分散に努めた、それを反映利用した点にあった。
 このような倒幕運動の形態は、1863年の大和天誅(てんちゅう)組の挙兵、同年の真木和泉らによる但馬生野の変にも.見られ、また薩摩摩・土佐をはじめ諸藩でも、よりゆるやかな度合であったたが同様にあらわれた。

 そしてこうした国内の動きに呼応して、イギリスを先頭とする外国側も、従来の幕府'支持の方針を改めて、諸藩の改革派開明分子の成長を支援し、これによって幕藩休制を改革して、貿易の発展をはかるという方策に転換した。

 改革派が藩政の実権をにぎった薩摩・長州藩では、急速にイギリスに接近し、軍事改革、殖産興業につとめた。そして1866年(慶応2)に百姓一揆、打ちこわしの激化する中で幕藩制の危機が深まり、薩長両藩倒幕派の同盟によって幕府打倒の運動がすすみ、ついに1867年から18年にかけ大政泰還・王政復古が実現された。

〔参考〕 水戸學について    
  


 
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