Happy in Seattle

コーヒー飲みながらの~んびりと日々の生活で感じたことをシアトルからお届けします。

新しくなりました♪

2006年05月28日 | その他
ブログのデザインをかえてみました!
どうですか?
タイトルもかわりましたので、お気に入りの登録よろしくお願いします。
コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久々の雨

2006年05月20日 | アメリカの生活
外でなんだか音がすると思ったら、雨でした。
サーッと木々の葉に雨が当たる音。
冬の間は毎日雨で青空がちょっぴり恋しかったけど、やはり雨の日もいいものです。
土の匂い、木の香り。
穏やかな気持ちになれますね。
静かに読書でもしたい気分です。
あ、本を読んでいたら眠気が・・・・
グー・・・。
コメント (13)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プール開き

2006年05月19日 | アメリカの生活



最近のシアトルはとても暑いです。気温29度。
この時期にしては記録的な暑さだそうです。
「あ~気持ちよさそう♪」
そんな事を思いながらカモはじーっとプールを眺めているのでしょうか。



あ!飛び込んだ!
「プールでの初泳ぎ、最高♪」

プールへのお客さん第一号はご近所のカモでした。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母の日に思うこと

2006年05月15日 | 思うこと



私と母は遠く離れています。天国とシアトル。今ではこうして、テレビの上で私のことを見守ってくれています!テレビ見過ぎって注意されそう。ワハハ。

母が亡くなったのは私が24歳のとき。母が47歳でした。幼稚園の頃に両親が離婚したため、私は母と二人で暮らすようになりました。「遠いところに出張に行ってる」なんて、ドラマにでてきそうな嘘の理由を最初は信じていました。成長するにつれて「あれ?離婚してたん?」と気づき、別にそのことに対して何を思うわけでもなく自然に受け入れて生活してきました。母とは何でも話し合える、隠し事の全く無い親子関係でした。いつも色んなことを応援してくれて、アドバイスしてくれました。明るく生きるということを教えてくれたのも母。私にとって一番大切な人でした。

私が15歳になるまでは大阪の難波で喫茶店を経営、その後は夜に仕事に行っていた時期もあります。そんな時、私は一人で過ごすことが多かったのですが、どれだけ遅い時間に帰ってきても必ず朝は起きて毎日美味しいお弁当を作ってくれました。そんな愛情をしっかりと感じていたからこそ、いつも通じ合っていられたんだと思います。時間はすれ違うことはあっても、しっかり愛情を示すということは大切なんですね。今振り返れば、私なんて料理も洗濯も掃除もしないダメな娘でした。はは。もっと協力できることがあったのでは?と思うとチクッと胸が痛みます。

いつも、どんなんときも笑顔で見守ってくれて母は私の心の支えでした。いつもいつも一緒だった母と離れて暮らさなくてはいけなくなったのが18歳のとき。母の再婚でした。母には女性として自分の人生を生きて幸せになってもらいたかったので、再婚には大賛成でした。しかし、残念ながらそれは幸せというものではありませんでした。母がその人と一緒に生活するようになったのは、私が17歳のとき。そのときも私は反対しませんでした。ただ一緒に生活しだすと、母と私が仲良く話をしていても怒る、お酒を飲んでは暴力を振るうといったようなことが始まりました。私が一緒にいることが原因なのではないかと思い、18歳のときに私は一人で生活することを選びました。今でも覚えています。私がワンルームのマンションで生活を始める日。母も一緒に来てくれて、「ごめんね。」と泣いていました。どんなときも笑顔を忘れない母ですが、それ以降は泣いていた日も多かったと思います。私が家を出ても状況はかわらず、夜中に裸足で家を飛び出して来たと電話があり迎えに行ったことも何度もあります。私が「おはよう朝日」という番組のリポーターをしていた頃です。私は強い性格ですが、母の年齢や性格を考えると、辛くてもその状況を変える事が出来なかった母の気持ちというのも理解が出来ます。でもこれはDVで悩んでいる人の典型的なパーターンだと思います。どこかで踏み出さなくてはいけないのですが、クモの糸のようにからまってしまった糸を解けないと諦めてしまうのでしょう。そして何とかやり直せるのでは?と考えるようです。一度は家を出ても戻ってしまうという繰り返しです。そんな状況の中、母の仕事の合間にランチしたりお茶したりする時間は母にとっても私にとっても幸せな時間でした。

私が22歳のとき。3ヶ月間バスなどでアメリカを旅することになりました。空港まで見送りにきてくれて「夢がかなって良かったね。」と私の手を握り泣いていました。たった3ヶ月の旅でしたが、自分が飛び出せない分、私には自由に生きて欲しいという母の願いだったのでしょう。外の世界へと踏み出していく私の姿がまぶしく見えたのかもしれません。

その後、母に癌がみつかりました。余命1年という宣告。年を重ねれば、いつかは天国に召されるわけですが、まさか自分の家族が・・・考えたこともありませんでした。必ず通らなければいけない道ですが、それが突然、あと1年と告げられたときにはショックでした。それを知って生きていける母ではないと分かっていたので、母には最後まで余命のことは告げませんでした。ただ何も言いませんでしたが、あと数年かもしれないと思っていたようです。「治療は辛いけど、必ず治るから頑張ろうね!」と励ましました。母も「ママ頑張るからね。」と私の手を握って言ってくれました。手術が終わって退院。母は無事退院できたことを喜んでいましたが、それもつかの間。しばらくして再入院を告げられました。病気のことに関して、母は私に弱いところを見せたことはありませんでした。「頑張るから、心配しないで。」といつも明るく笑顔でした。そんな母が泣いていたというのを聞いたのは、母が亡くなったあと、ご近所の方からでした。「また再入院することになった。もう戻れないかも・・。」と泣いていたそうです。私には決して見せなかった涙です。頑張って一人で娘を育ててきて、再婚して苦労して、そして癌なんて・・・神様どうして?と私もいっぱい悩みました。死なんて考えたくないという時期もありました。でも治療に関して出来ることは精一杯やって、その反面、残された時間を母と楽しく過ごそうと切り替えました。

入院中は毎日お見舞いに行きました。まだ母が大部屋で元気なときは、あっさりしたものが食べたいという母の希望で、デパ地下でお刺身丼、そうめんなどを買って行きました。母が好きだったミックスジュースも差し入れました。阪神百貨店の地下にあるジューススタンドまで水筒を持って行き、「これにいっぱい入れてもらえますか?」というと快く応じてくださり、母に届けることができました。とても喜んでくれました。個室に移ってからは寝ている時間が多くなりました。抗がん剤の影響もあって、辛そうでしたが、それでも私のことを心配して「ママは大丈夫だから、毎日来なくてもいいよ」と言っていました。

そんなある日。ふと、泊まって看病しようかなと思い立ち、「今日からここで寝泊りして仕事に行くから!」と母に伝えました。家からビデオデッキを持って行き、一緒にビデオを観たりしながら時間を過ごすこともありました。「みきちゃんが娘でよかったよ。」と、母が私に言ったことがありました。そして、その日は寝ている時間が長くて何か夢をみているようでした。夢の中で洗濯物をたたんでいたようです。一生懸命手をパタパタと服をたたむように動かしていました。そのとき「頑張りや。みきちゃん頑張りや。」と寝言でハッキリと大きな声で言いました。夢の中でも私の応援をしてくれているんだなと思うと嬉しい気持ちと、少しずつ夢の世界にいる時間のほうが長くなってきている母をみているのが辛くもありました。

その夜、母が美貴子も疲れているだろうからと、祖母に交代を頼みました。私は問題なかったのですが、母が心配しているようだったので、一週間ぶりに祖母と交代しました。交代してから4時間後。母は天国へと旅立ちました。ずっと一緒だったのに、最期を見届けることはできませんでした。これも母の優しさだったのかなと思います。それに母からすれば、祖母(母親)と一緒で安心して逝けたのかなとも思います。

「普通に、平凡に生きていくことが難しいよ。」それが母の口癖でした。平凡というのは退屈な人生ではなく、自然に毎日穏やかな時間が流れいくということなのでしょう。私にとっても、母が亡くなるまでは平凡な人生ではありませんでした。どこかに行ってしまいたいと思ったこともあります。一人で泣きながらご飯を食べたこともあります。でも乗り越えれば必ず笑える時間がくるって思います。母はこうも言っていました。「同じ時間を過ごすなら、明るく笑顔で過ごしたいね。」

“元気に、どこででも生きていく”というのが、私の人生のテーマです。私が辛いとき、次から次に困難な問題が降りかかってきたとき、友達も支えになってくれました。でも何よりも、自分が強くなること。それが大切だと思います。私が辛いとき思っていたのは、“この世の中には辛い出来事の数が決まっていて、神様が乗り越えられると判断した人に振り分けている”ということです。だから必ず私は乗り越えられるんだって信じて頑張っていました。この先もそうだと思います。

母が生きていればと思うことはよくあります。でも振り返ることよりも、私が私らしく人生を生きていくことが親孝行ではないかと今では思っています。

10歳の誕生に母からもらったバースデーカードが今でもあります。なぜかそのカードだけが私の元に残っています。「美貴ちゃんお誕生日おめでとう。犬とママだけの寂しいお誕生日だけど、これからもママは美貴ちゃんを応援しているよ。自分の好きなことを見つけて進んでいってください。夢をかなえてくださいね。ずっと応援しています。」10歳の時にこのカードを見てどう思ったのか、それは覚えていません。でも今は亡くなった母から今の私へのメッセージのように心に響きます。とっても不思議だけど、一人になった私が寂しくないように残してくれたメッセージのように感じます。

いま、辛いことを抱えている人もたくさんいると思います。でも私もこうして色んなことを乗り越えてきて進んできたんだから、きっと乗り越えて進んでいけるって信じて、明るく、たくましく!自分で幸せを呼び寄せるように頑張ってください。私も頑張ります!

今日、シアトルで迎えた母の日に、こんなことを思ってみました。

コメント (18)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

え!なんで?なんで?

2006年05月13日 | Food



ある日。
いつもお買い物に行くWhole Foods Market。
オレンジがいっぱ~い!
おいしそう♪
と、思って箱をよーくみたら・・・・・



うひゃっ!!
お、お、大阪?!
California Orangesって書いてあるけど・・・Osakaから???
Osaka Oranges??
ということは、私にとっては故郷の味になるのかなあ・・・・?
なんだか嬉しいような、嬉しくないような。あはは。

コメント (11)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カモの親子

2006年05月11日 | アメリカの生活

コガモたち発見!・・・といっても、この時期は私の住むBellevueでもコガモに簡単に出会えます。とても心和む光景ですね。ヒョコヒョコと道路を横断することもあり、車も止まってカモ親子の横断を見守っています。



鳥の楽園。ここはなんと、私が住むアパートの隣のアパートなんです。お隣さん♪カモやグースがのんびり過ごせる鳥達の楽園を眺めながらウォーキングしています。気持ちいいですよ!ハッピーを連れて(愛犬コッカースパニエル)お散歩するときは、ハッピーも立ち止まってジ~ッと見ています。「なんや、あれ?」と思っているのでしょう。「カモやで、ハッピーちゃん」と説明してあげています。(←100%通じていない会話)

町の中にはたくさんこういった場所があります。今まで緑が少ない大阪に住んでいた私にとっても、ここは楽園といえるでしょう

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする