朝144-59-64夕方165-74-65十時138-64-58昨夜寝たのは二時すぎ中々眠れず、目覚ましたのが七時半八時半まで布団の中、やっと起きて朝食、薬、血圧計り十時、少しパソコン触り木村屋に弁当買に行く、帰り西部により、義雄さん三代目になるか聞く、七福神社に國貞の墓あると言ってしまう、半年前までは國貞神社と思っていたが半年前に實治等の名前書きに行った時國貞ノ墓と正面に書いてあると思い何回か見に行ったが國貞ノ墓と読めたので関谷の綿屋の歴史にも國貞ノ墓とあると書いていた、今日三時過ぎに若宮神社の碑文を見に行ったが國貞神社と書いてあり、碑文も漢文で書いてあるが少し浮でているので漢字が少し解る、碑文は善左衛門さんが書いている、世話人の所に書いてあったと探したが解らなかったはず、設立年月日も大正ではなく明治三十七年旧八月十五日建立と読めた、設立は何処を探しても解らなかったが今日は綺麗に浮き出ていた、拓本取った後もあったが大風と雨でゴミとれて出たか、驚いたのは國貞神社と正面に有ったからで゜ある、今まで半年間國貞ノ墓と見えていたのか、何度も國貞ノ墓とみている、幻か、西部が磯五郎さんから当代まで五代一番長く続いている、國貞ノ墓を消して國貞神社に書き換えるのが大変だった、文章がぐじゃぐしゃになっているから整理しないといけない。明日天気良ければカメラに取っておこうと思う、今室内十五度あるが腹のあたり寒くてかなわない、岩間昼過ぎきて腎臓に効く木の枝持ってきてくれた、大きな字を半年も見間違えるとは頭可笑しくなっていたか。バイバス手術してからだ。綿神社に鎌倉時代と作文したのは三木さん、忠さん、竹本さん達だとヤマキヨの息子が犬の散歩に通り教えてくれた。正次郎も犬の散歩で通り大野原の人で関谷を調べているひとが誰かの墓を無いといって讃岐に聞いていたとはなした、碑文に墳墓ーー散ーーとかと浮き出ていた、見えないから神社を建立したと思われる、拓本取ればよく解るのだがもう取り方忘れたし道具無くなった。