西部さんは三豊合資会社を個人で創ると考えていたようであるが合資会社は業務執行社員が居り、周りに理事が四五人居たらしい。その他社員と称する人(役員)も居るらしい。関谷の綿の歴史を調べもせずに話している人が居て綿屋の歴史を捻じ曲げている。私など裏に本家の綿工場があり物心付いたときから綿の中で育った。その綿工場がどんな工場かも知らない人が綿の歴史を調べもせずに勝手に歴史を作りあけている、それが今の豊浜の綿の歴史うんぬんと言っている人たち。早くしないと八十前後の元綿屋さんが居なくなってしまう。もうニ三人しか残っていないよ。戦前から綿屋をやっている人に聞かないとだめ、昭和三十年ころから始めた綿屋さんは何人かいる。其の人たちに聞いても解らない。考えて調べてはなすべきである。