蓮の道

日々の暮らしの中で気がついた事や、感じた事などを書いています。

天国と地獄って・・・

2007-12-20 00:24:01 | Weblog
死んだら行くところだと思われているけれど、私はそうではないと思う。

娘を出産する前に、私はたくさんの不思議な夢を見ましたが、
その中の一つに地獄の夢があったのです。

混んだ道路で、イライラした人々があちこちで喧嘩していました。
目を吊り上げて、悪いのはお前だと。自分じゃないと・・・。

朝、目が覚めて、この夢は地獄だと思いました。

地獄も天国も、この現実にあるのだと思います。
死んだ後は、それが継続するだけ・・・。

今を天国にするのも地獄にするのも、自分次第なのではないでしょうか?

死んだ後に天国に住みたいなら、身近な人を大切にして
小さな事を喜び、人とのふれあいの中で出来るだけ相手を想い
優しい自分でいられるようにして、ちょっとした人の親切に感謝して
フワッと優しい気持ちになれる事が天国のような気がします。

ヨーギの本に書いてありました。人は誰もが幸せになりたいのだと。

だから泥棒をする。搾取する。自分を主張する。戦争をする・・・。
悪い事だと思われる事をする人も、いい事だと思われる事をする人も、
誰もが同じように幸せになりたいからするのだと・・・。

傷つけ合うのは哀しくないですか?
たくさん傷つけあって、もう嫌だと私は思いました。

人が持っている傷は、自分だけが痛ければいいというモノではないのです。
痛い傷を持っている人は、知らずに誰かを傷つけてしまうと思います。
気持ちは伝染するモノだからです。

死んだら楽になるなんて、私は思いません。
いらない人なんて、誰もいません。

もしも死後の世界があるなら、死んだ時に思っている事がその後も継続するだけなのではないでしょうか。

だから生きている間に、どんな状況だろうとも小さな事で幸せを感じられるようになる事が、全ての人が持って生まれた使命のような気がしています。


幸せを感じられるか、環境や人を恨んで一生を過ごすかは自分次第ではないでしょうか。

死んだ後なんて、誰にも本当の事はわかりません。

死ぬ瞬間に何を思うかが天国と地獄への分かれ道だとしたら、一瞬一瞬を大切にして楽しくいられるように努力する必要があると思っています。

嫌な事はいっぱいあります。この世に生きているんだから当たり前の事です。
でも、小さな幸せを見つけて天国をこの世に創るか、地獄でいるかは自分次第なのだと思います。

一番可愛い頃

2007-12-08 00:02:12 | Weblog
子供が3~4歳の頃、よく「今が一番可愛い時ですね~」などと言われたものだ。
子猫を飼い始めた頃も、小さくてコロコロと可愛いのは今のうち・・・などと言われたりしました。

娘はもう直ぐ10歳。子猫は家に来てからおよそ4ヶ月。
小さい赤ちゃんの時も可愛かったけど、今の方が断然可愛い。

可愛らしさに愛おしさが加わり、赤ちゃんの時よりも可愛いと思う。
今が一番可愛い。

来月になったら、たぶん来月の方が今よりも可愛いだろうし、
10年後は、今よりも10年後の方が可愛いような気がします。


自分の事も同じで、10年前の写真を見ると今よりも若いけど、
今の方が素直で可愛くなっているような気がする(のは、私だけかも?)


老人になって死が訪れるようになる時までは、後30年以上もあると思うけれど、死ぬ時が一番可愛い人になっていられるようになりたいなぁ、と思う。(子供の頃から可愛くない子だったので、そう思うのかも?)


怒ってばっかりだったり、ひねくれていたり、頑固だったり臆病だったり、今思えば、とんでもない嫌な奴だった時の自分があり、今でも嫌な奴の部分はたくさんあるけれど、だから毎日少しずつでも、生まれる前の元の姿に戻れるように嫌な部分を改善していけるように暮らして行ければ、それだけで生まれて来て生きている意味があるような気がしています。

昨日よりも今日の自分を可愛いと思えるように・・・。

感情への名前付け

2007-12-01 01:56:59 | Weblog
哀しいとか、嬉しいとか、怒りとか、「感情」を表現する言葉はたくさんありますが、本当に自分が感じている事は、その言葉に当てはまるんだろうか?

(何年も前の読んだ本なので、なんだったのか忘れてしまいましたが、
憎しみを感じるのと愛を感じる場合、同じような事が身体に起きていると書かれていたような気がします。)

ザワザワと感じ、発散したい衝動があるとき、それをなんと名前付けするかは
人それぞれ違うし、置かれた状況によっても違うのかも知れませんが、
なんらかの普段とは違う反応が起きているのが感情なのだと思います。

それに名前をつけるのは、学習によってではないかと、昨日考えました。



赤ちゃんの時、何か不快な事や欲求があると、とりあえず泣き叫びますよね?
それに対して、お母さんなり世話をしている人が「お腹がすいたのね」とか、
「寂しかったの~?」とか、「甘えたかったのね」などと、名前付けをします。

赤ちゃんは、そうか、こういう感じは「お腹がすいた」という事か、「寂しかった」という事か、などと心身におきる衝動に名前をつける方法を学んでいくのだろうと思います。


もう少し大きくなると、心がムズムズするとき、お母さんに「イライラして怒るのは止めなさい!」と言われる子と、「どうしたの?何があったの?」と聞かれ、
「それって、どんな気持ちだろうね?」とか「何がそうしているんだろうね?」と
尋ねられて一緒に感情の出所を探し、イライラしていたのは、眠かったからなのか、寂しかったからなのか、思い通りに行かなくて、こうしたかったのでできなかったとか、細かな、最初に感じた事に近い言葉を捜す作業をする事を教えられて育った子は、同じ言語を持っていて、同じ事を感じていたとしても、違う事を言うようになるような気がします。


キレル子供、キレル大人。そんな人は感情が湧き出ても、それに自分が納得する言葉付けをする事ができず、そうじゃないのに~!ってキレテしまうような気がします。

似たものが似たものを癒すとホメオパシーでは言われますが、自分の感情に似た言葉を見つけられたら、気持ちに起こった事を解放する事ができ、それほど、キレルほどに感情が爆発しなくて、ある程度は穏やかにいられるのではないでしょうか?

それに、もしも自分の感じた事にもっとも近い言葉を人に伝える事ができたなら、
誰かは共感してくれたり、理解しようとしてくれたりするものなのだと思います。


感じた事を自分なりの表現方法で表す事を大切にするように育った人と、言わなくても分かるよ、同じなんだからって言われて、人と同じになるように育った人とは、感じている事は同じだったとしても、表現の仕方は全然違い、感情のあり方を表現する方法が薄ぼんやりとしてしまって誰かや何かと混合されてしまい、セッションしても、個別化された個人の感覚を言葉にするのは難しいような気がするので、ホメオパシーの従来のセッションの仕方では正確なレメディーをマインドから探すのは至難の業のような気がしています。