蓮の道

日々の暮らしの中で気がついた事や、感じた事などを書いています。

舞州に行ってきました

2009-02-27 16:53:34 | Weblog
大阪のゴミ処理施設に行ってきました。
ゴミがどうなっているのかが知りたかったわけではなくて、この施設がフンデルト・ヴァッサーという画家のデザインを元に創られた建築だからです。


自然との共生がテーマになっていて建築物には植物が植えられ、自然には直線はなく、似ていても全く同じものはないので、ヴァッサーの作品の中にも同じものはなく、曲線で創られていてとても美しいのです。

写真では何度も見たことがありましたが、実際に行って実物を見ると、その大きさにまずは驚きました。




大阪に行かれる事があれば、是非一度見学に行かれる事お勧めです!
ゴミ焼却施設の見学も興味深く、知らない事だらけで面白かったですよ。

高い煙突からは焼却した煙が出ているものだと思っていたのですが、
煙は匂いも熱で処理されていて、煙突から出るのはクリーンにされた空気だけなんですって、知りませんでした。



ヴァッサーの建物はアパートなんかもあるのですが、その屋上には植物が植えられ、もしも町がヴァッサーの家ばかりだったら空から見ると町中が緑で覆われているのですよ。素敵です。
そんな町があったら暮らしてみたいし、土が屋根にある暮らしは土があることで夏は涼しく冬は暖かくて快適なのだそうです。

自然と生きる。自然に生きる。
これは私の理想で憧れです。


ホメオパシーをしているのも同じ理由なのですが、レメディーという自然界の力を借りて自分と自分を取り巻く世界との循環を妨げる滞りを手放し、自然の中に戻すのです。


誰かが持っている病の形になって滞ったエネルギーが、似た姿の自然界のモノのと共鳴することであるべき場所に戻る。受け入れ手放すという事で自然と循環して生きる。いつもそうしながら生きられたら良いなって思ってます。

妄想と想像

2009-02-11 00:41:27 | Weblog
広辞苑によると、妄想とは根拠のない主観的な想像や理念で、想像とは現前の知覚に与えられていない物事の心象を心に浮かべる事だそうです。

似たような事のような気がしますが、どこが違うかと考えたりします。



現実にないことを事実ととらえるのが妄想で、現実にあることから考えを広げるのが想像だとしたら、妄想である場合はとても時間的に現在と近く、想像は少し遠いのかもしれません。


想像するのは夢のようなもので、そうなるかもしれないし、そうできるかも知れないというあやふやなものです。そうだったらいいなとか、そうなったらいいなとは思いながらも、現時点ではそうではないとい事を知っていますが、妄想は現実にはそうでないことを、そうである現実、そうなるべき事実ととらえてしまう事なのかも知れません。


想像はその先に動いてゆけるし、動いていく原動力にもなるのに対し、妄想ではその場に止まってしまって時間に取り残されているような気がします。


妄想があるからそうそそれは病的だというわけではありません。人は誰でも妄想の世界で生きているからです。
ホメオパシーのレメディーを探す時にレパートリーという辞書のようなものを使いますが、その中にはMindのセクションにDelusions(妄想)というのがあります。

レメディーを見つけるのにとても大切な項目で、他の人からみたら、そう?そんなことないでしょ!と思うような事が、本人に取ったら当然であることが妄想です。


そんな誰にでもある妄想が病的にまでなってしまうのは、想像する自由を許さなかったからではないかと私は考えています。こうあるべきという思いこみや、自分以外の誰かの現実に合わせて生きようとしてしまったからではないかと。(一人一人の現実は、それぞれが違っているからです)


自分の世界からはぐれてしまった人が、色濃い妄想の世界に入り込んでしまうのかもしれません。想像は自分の世界がなければできないような気がします。


病的な妄想がある人が妄想のレベルで生きているわけではなくて、その人たちはほとんどがこれはこうであるという事実のレベルや感情のレベルで生きていたりします(理解しづらいと思いますが・・)



妄想ってなんだろう?想像とはどう違うんだろ?と、何年も気になっていて、
時々考えたりしていました。妄想があるからと薬を飲まなくてはならない人はどうして想像しないんだろうと気になったりしていたからです。


だからなにがわかったわけでもなく、こんなことかな、となんとなく思いついたので書いてみました。