蓮の道

日々の暮らしの中で気がついた事や、感じた事などを書いています。

セルフケア教室の終了

2007-11-29 02:07:37 | Weblog
6回コース×2。初夏くらいからの出会いの教室が本日終了しました。

一周り目は通常のセルフケア教室だったのですが、もっと他の事と云うことで2周り目の教室をしていたのです。

来てくださっていたお2人は、どちらも個性的で魅力的な方でした。
(美人でもあり、会うだけでも楽しかったりしましたが・・)

毎回長時間で、4~5時間はお話していました。
新しい事を説明しなければならないプレッシャーもありましたが、たくさんの事を学ばせてもらうことができ、終わってみればとても楽しい事ばかりでした。(お二人、ありがとうございました!)


私がホメオパシーを始めてから6年が経とうとしています。
毎回教室では、知りえた事を全部伝えたいと思うのですが、感覚で掴んだ事を人に伝えるのは難しくて、早口でたくさん話しすぎて混乱させてしまったようにも思います。

一回限りの完結教室では、楽しかった~、面白かった~、聞けて良かった~と、言っていただけると、とても嬉しいし、ホメオパシーって面白そうって興味を持っていただけるためにしています。

6回の教室でも同じですが、6回学ぶ事で、セッションをしてレメディーを飲んでいなくても、その人の周囲が変化したと言われる事があります。

ホメオパシーの学校の生徒だった時、6回の教室の初回と最終回を学長が講義をしてくださって、私が中4回の講義をしたのですが、最終回に来た学長に「この人たちは、最初に居た人と同じ人?」と尋ねられた事があります。

何かを学んで考え方が変る事で雰囲気が変るので、違う人のように感じるのかもしれません。

セルフケアの教室をしていて、いつも思うのですが、セルフケアは症状からレメディーを探し、急性症状のために必要なモノだし、市販の薬を飲むことは抑圧になるのでレメディーを使う事で、その後に薬に頼らない健康でいるために役立つ事だけど、私がする事なんだろうかって。

名古屋でホメオパシーを教えてくれる場所が増えました。

症状にあわせて、次々と思いつくレメディーを飲んで行く方法は、一見症状が緩和されたり良くなるので使っていて分かりやすいし、楽しいし、対処療法的に使うには市販の薬よりもましなのだと思います。

そういう使い方を必要としている人がセルフケアを学びたい場合は、これにはこれっというレメディーの使い方を教えてくれる場所に行った方が良いと思います。


あれこれ飲んで、その時に不都合な症状だけが改善されれば良いという人もいると思うからです。その人は心身ともに健康なので、深い所を問題視しなくても、根本的に癒されなくても、楽に生きていけるんだろうと思うからです。






人に話しをする事は苦手です。理解とは他人との融合なので、それを見つけることが私には難しいからです。

ホメオパシーを必要としている人がいると思います。(私がそうだからです)
セッションと、セルフケア教室は別物です。
同じようなのだけど、違います。

セッションをした後で何からの説明をする時がありますが、それは私の主観が入っていて、感じたままを話ているので、ただのおしゃべりです。

レメディーを選択する時には、その時私が感じた事と離れたり、混ぜ合わせたり、書き留めた事を再考して調べてレメディーを探しています。

教室で話す事は主観であるので、それとセッションとは別です。
同じ人に話しているから、同じだろうと思われていると、とても困ります。

そんな思いもあって、今後は教室を辞めようかとも考えていますが(私には教えるという事は向かないし)、変な使い方をして、せっかく興味を持ったのにホメオパシーが嫌いになってしまう人がいるのは哀しい事なので、どうしてもセルフケアで使いたいという人のためだけに細々と続けて行こうかとも考えています。



受け取り方と表現の仕方

2007-11-27 23:55:15 | Weblog
たぶん、これが「自分」というモノだと思う。

ある共通の事実があるとして、そこに居る人たちは同じ事実に関わったとしても、何を感じて受け取るかが違います。

受け取っている段階では、内面的な事なので本人が「自分だな」と認識するわけです。そこで何を言うか、どう行動するかで他人が「ああ、あの人らしいな」と思ったりするのですよね?

人には本来の姿と云われる「核」があると云う人がいます。
よくよく考えつめて行くと、その「核」とは自分という個ではなく、存在するもの全てが行き着く所ではないかと私は考えています。(今のところですが・・)


では、自分が思い込んでいたり、他人が思い込んでいる「自分らしさ」とは何かと言うと、それはフィルターや殻のようなものではないでしょうか?


例えば、それは幼児体験かも知れないし、環境によってそうならざるを得なかった理由があるのかも知れないし、何かショックな事があったのかも知れませんが、そんな場面で自分を守り、生存し続けるために必要であった、外の世界に適応するために作られた仮面のようなもの。

そして、そのフィルターのようなモノを通して外の世界を見るので、世界はいつも変らず、同じだと思ってしまいます。フィルターが厚くなればなるほどに、世界は小さくしかみられなくなり、固執した考えにとらわれるようになって、息苦しくなるのだと思います。

苦しくなるほどに、もっと自分を守ろうとしてフィルターを強固にして行くという悪循環が起こります。

それは個性ではなくて(個性にみえますが)、適応している姿なのだと思います。
大切な表現方法ではありますが、過去の悲しみや苦しみを表現している姿なので、
本来のその人の個性が輝く姿とは異なってしまっているのではないでしょうか?

誰もが実は、本当の自分の姿を知っています。
だから、たとえ世間的には満たされていたとしても幸せなんだけど虚しい・・などと感じたりするです。

それは心からの警告なのですが、それを無視してしまうと、今度は小さな体調不良が起き、それを薬で抑圧してしまうと、もっと重大な病へと移行してしまうのです。

変化の起こりは、とても小さな気が付かないことです。
自分を覆っているフィルターが少し薄くなり、小さな変化に気が付くことから始まるからです。

受け取り方が変り、受け取り方が違うから表現の仕方が変ります。
表現の仕方が違うから、周囲の反応が変ります。

小さな事から自分の住んでいる世界が変化し始めます。
そして今までの「当たり前」の世界が変り、たくさんのエネルギーを使って自分を守る必要が無くなり、フッと気が穏やかになります。

そうなる事で、それまでの抑圧していたエネルギーが解放されて、身体症状として表現する必要が無くなり、病気という表現をとっていたエネルギーが消え、症状も消えて行くのがホメオパシーの作用の仕方なのだと(私は)思います。


・・・人にわかってもらえるように説明するとき、相手が何を考えて理解する人かが分かっていると、相手に合わせて話が出来るのですが、こんな風にブログだと誰をも対象にしていないので、独り言になってしまっているなって思います。

たぶん、何を書いていても同じような事を説明しているのだと思いますが、
親切な方、どこが意味不明だったとか、そうじゃないでしょ!とか、間違っている!などと思われたりしたら、是非、コメントをお願いします。


自分の色

2007-11-16 23:27:28 | Weblog
何でもない時、元気な時は他の人の話もよく聞けるし、受け入れる事ができやすいのですが、落ち込んでくるとそうはいかなくなります。

自分の色が濃くなるからではないかと思います。

何だか頑なになって、これはこういうモノっていう自分の偏見が強くなります。
それは自分を守ろうとする無意識の作用なのだと思います。

ホメオパシーと関係なく暮らしていた頃には気がつきもしなかったのですが、自分の色が濃くなっている時には他を受け付けないので、協調するという事が出来づらくなり、人間関係も問題が出やすくなっていたような気がします。

今は自分が落ち込んでいる時には、何でだろう?って考えるようになったので、人を悪く思って人のせいにしたりする事はなくなりつつありますが、そんな時は自分のことで精一杯で人の話を偏見なく受け入れる事は難しくなっているのでしょう。

どんな作用なのか分かりませんが、私が落ち込んでいる時にはセッションの予約が全く入りません。(ちょっと前まで、そうでした)

自分の色が濃いと、人の話を聞いても自分の色を重ねてしまい、相手の本来の色が見えなくなってしまうので、それを何だか人は察知するのかもしれません。

ホメオパシーのセッションは出会いなのだと思います。

無意識だとは思いますが、レメディーを使って自分の本来の姿に戻りたいと願う人が、その必要なレメディーを見つけてくれる人に必要な時に出逢うのではないでしょうか?

自分の色が濃いと、相手の人の色がクリアに見えないので、その人に必要なレメディーを見つける事が出来ないから、出来ない人の所に誰も来ないのだと思います。

上手く出来ているのですよね。

身体症状だけが良くなればいいと思う人は、同じような考えを持つ人の所に行くのだろうし、そうやって自分に必要なレメディーを見つけるのでしょう。

自分の色がなくなり透明になる!と云うのは理想ですが、そうも行きません・・。

私には私の色があり、そんな色があってもいいやって思ってくれる人がやって来て、その人の必要とするレメディーを一緒に探す無意識の世界の旅の同行者にしてもらえたら、とても幸せな事なのだと思うようになりました。




続・捨て猫

2007-11-10 01:12:38 | Weblog
家に一度やって来た事のある子猫の野良猫一家は、その後、6匹いた子猫のうち4匹は死んでしまったらしく、元々元気だった子猫と、家にやって来て病院で手当てを受けた子猫だけが生き残り、2匹になったので母猫の母乳をたくさん飲めるようになり、元気に育っているようです。

人の手を加えたことで生き残った事が良かったのかどうか、私には分かりません。

生まれてきたんだから、命の限り生きていくのは動物の本能です。
死ぬときが来たら、潔く死ぬのでしょう。

家に来た事のある子猫は、来たときには両目とも閉じていて、じっと動かず、
命のがけっぷちを生きているようでした。

小さいガリガリに痩せた身体で人に甘えることもせず、自分の命と向き合っているようでした。

家では娘が拾って来た子猫(たぶん元野良猫)を飼っています。今も私の膝の上で寝ていますが、この子は声があまり出ません。かすれた声でしかなけないのです。

野生では、というか野良猫としては生きていけなかったのだと思います。

今は丸々として甘えん坊で、元気に走り回っています。
夜はいつも一緒に寝ています。すごく可愛い奴です!

幸せいっぱいな感じで生きていますが、拾って来ずに、あのまま、目を閉じたまま死んでしまっていたら、それはそれで猫にとっては同じだったような気がします。

生きているから生きぬく。生きていけないんなら覚悟する。
今はぬくぬくと生きていますが、いつでも死ぬ覚悟が出来ているような気がします。

今を精一杯生きて、死ぬときには潔く死ぬ。私もそうありたいと思います。





感情や症状と原因

2007-11-01 02:27:40 | Weblog
セッションの時に限らず、人の話を聞くとき、その人が言っている事を
そうなのだろうと聞きます。

そう言っているのだから、そうなのだろうと。

そう思っている事、言っている事は「うそ」ではないのですが、
そこからレメディーを探すことはできません。

ただ人の話を聞くとき、それはたぶん友達だったり家族だったり、職場の人だったりするかもしれませんが、その人が言っているのだから、その人はそうであると思ってしまいます。

自分自身でも、これが嫌だとか、これで怒ったとか、これが嬉しかったとか、そう気がつく事は出来ますが、なぜ、そう感情が動いたのかが大切であり、なぜなのかの理由である原因に気がつくのは自分自身の気持ちだけでなく、周囲の人に対しても難しいのです。

「なぜ?」がわからなければ、正しいレメディーを見つける事は出来ません。

その「なぜ?」は、身体症状や感情、昔の記憶、夢の意味、趣味や人間関係の作り方や仕事の選択の仕方、願い事・・・全ての「あなた」や「私」の存在の、形にならない核(元)である原因から来ています。

感情は結果です。原因ではありません。
起こる出来事も結果です。身体症状も結果です。

結果に対してレメディーで対応してしまったら、’その人’を癒すとは言え無いのではないかと私は思っています。

一時的に良くなったように表面では見えても、また違う形で同じ問題が戻ってきます。

それで良いのなら、それはそれぞれの選択なので良いのかも知れませんが、生きていることはその場で終わりではなく続いて行くものです。

後々の長い道のりを想うと、今の症状や感情が起こった原因から改善する事で、それまでには想像もつかなかったような穏やかな、心地よい暮らしが訪れるチャンスだと思うのです。(原因から改善しなくても好い人という急性の症状だけにセルフケアの範囲で救急箱にある薬の代わりにレメディーを使う方法も良いと思いますが・・)

私も私の家族も、ホメオパシーと出逢えた事で原因を改善しつつあり、それまでには想像すらできなかったような暮らしをしています。だから、もっとたくさんの人にホメオパシーが伝わって欲しいと願っていて、ホメオパシーの道が広がればいいなと願っています。