●だんじりと布団太鼓の古い絵図
地車や布団太鼓、屋台の古い絵図は、なかなか残っていませんし、残っていても19世紀後半ころのものが多いです。ところが、「摂津名所図会」には寛政八年(1796)~寛政十年(1798)の成立で、今で言う大阪市内のだんじりと布団太鼓の祭の様子がえがかれており、当時の様子を知る貴重な資料と言えます。そこで、その絵を見ると意外なことが見えてきました。
今回はだんじり編です。まずは、だんじり本体部分の拡大図から囃子方の様子を見ていきます。
●だんじりに◯◯◯⁉︎ 鳴り物
図会の絵を見ると、阪神、河州、泉州、播州の祭関係者は少しびっくりする鳴り物があります。?のところにあるのは。。。?
?のところにあるのは三味線でした。他に、小さめの太鼓と鉦が、欄干の下側にありますが、内ゴマ・内側にある車輪のすぐそばなので、演奏しにくくはないのでしょうか。また、現在では花形となる大太鼓らしきものが見当たりませんが、見えない部分で演奏しているのかもしれません。
次は本文と本体を見ていきます。
●誉田から始まった(車楽)?
ここの文章が分かりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?と思ったら
夏祭 車楽(だんじり)囃子
車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて今は尾州の津島祭ありて、船にて巡り囃し立つる也。又熱田祭にもあり其他諸州にあり大坂の車楽ハ数おほし(多し)。特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて今は尾州の津島祭ありて、船にて巡り囃し立つる也。又熱田祭にもあり其他諸州にあり大坂の車楽ハ数おほし(多し)。特に東堀十二濱の車楽ハ錦繍を引はへ美麗を尽くして生土(うぶすな)の町々を囃しつれて牽めぐるなり。これハ大坂名物の其一品なるへし
車楽ハ河内国誉田祭よりはじまりて
とあり、河内の国の誉田(こんだ)祭(現・大阪市羽曳野市誉田八幡神社)より始まったとしています。
享和元年(1801)成立の「河内名所図会」でも、
誉田例祭(まつり)車楽(だんじり)
誉田の車楽は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。これだんじりのはじまりなりとぞ
と書いてあり、この地域から「だんじり」が始まったという認識を当時の人が持っていたことがわかります。しかし、絵を見ると、河内の方は三輪で大津祭の山や、大阪府南部に分布する櫓(やぐら)を彷彿とさせます。しかし、現在の櫓(やぐら)よりも随分大型なものであったようです。
では、車楽(だんじり)とは一体何を意味するのでしょうか?
●車楽(だんじり)とは?
ここの文章がわかりにくい、もっと詳しく、そもそもこれは文章か?という方は下の本をお読みください。名著です。
『日本の祭と神賑: 京都・摂河泉の祭具から読み解く祈りのかたち』(創元社)2015 |
誉田
の車楽(だんじり)は、古風にして他の囃子とハ違ふ也。
「摂津名所図会」や「河内名所図会」の作者である、秋里籬島は「だんじり」を「車楽」と書き、「誉田の車楽は、古風にして、他の囃子と違う」と書いています。
つまり、秋里は車の形に言及しているのではなく、囃子に言及しているのです。
「車楽」の字も、猿楽、能楽、神楽のように、芸能や音楽を表す楽が後についているので、車楽(だんじり)も車ではなく、車の上で演奏する音楽や芸能を意味していると思われます。
「摂津名所図会」や「河内名所図会」とほぼ同時期にできた浜松歌国(1776〜1827)の「摂陽奇観」には
「河内国古市郡応神天皇陵、誉田祭、卯月八日にも出る。これは神功皇后三韓退治の御時、磯良の神、住吉の神など船にて舞いたまふをまねびけるとぞ。(中略)およそ上代の遺風なるべし、これ車楽のはじまりと誉田の村民はいふなり」
とあり、車楽は船の上で行われた芸能が起源だということが伝わっています。車楽という書いて「だんじり」と呼ぶ言葉は車両の上での芸能を意味していたようです。
楽車
↑これだと、音楽や芸能をする車両を意味します。
車楽
↑これだと、車のうえで行う、音楽や芸能という意味です。
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