HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

紫禁城 武英殿

2024-02-12 | 北京を歩く
武英殿は紫禁城外朝の南西側にあります。





明代の15世紀前半に建てられました。
ここは明代末期の1644年、農民反乱を起こして紫禁城を乗っ取った李自成が大順政権の即位式を行った場所として知られます。

その後清代になると、康熙帝の時代に武英殿書局として文書を編纂する場所として活用されるようになります。



乾隆帝の時代にはかの四庫全書の一部の編纂作業が行われました。
ちなみに、四庫全書は2021年のテレビ東京「開運なんでも鑑定団」に千葉県在住の応募者が出品し、4冊で1,500万円という価値が付けられました。
1940年に北京で働いていた祖父が骨董品市場で見つけて買い求めたのだとか。



民国時代の1913年には大総統になった袁世凱がここに数百人の外交人の賓客を招いて茶会を開いたという記録もあります。

その翌年の1914年には火災で焼失し、その年に再建されました。



今は陶磁器や書画の展示施設として利用されています。

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紫禁城 太和門

2024-02-09 | 北京を歩く
故宮の太和門です。

午門を抜けると正面に大きく見えてきます。



紫禁城の門としては最大です。





外朝の入口に当たります。明代の1420年の造営だそうです。威厳と迫力たっぷりです。



この門は1888年12月に光緒帝と隆裕が結婚式を挙げる数日前、門を警備していた2人の門番がかがり火をつけたままうっかり居眠りしてしまい、門に引火して焼失してしまったというエピソードがあります。

これは大変なことです。
これでは花嫁の隆裕はしきたりにしたがって太和門から紫禁城に入ってくることができません。

そこで西太后は熟練した職人を集め、結婚式では紙や竹竿などを使って張り子の太和門を作り、代用したのだとか。

結婚後の光緒帝は隆裕と良好な関係を築くことができず、時代の激流に飲まれるように短く不運な人生を歩みました。

隆裕は光緒帝の関心を得られず、清代最後の皇太后として不遇な時を過ごし、失意のうちに45歳でこの世を去ります。
二人の不幸はこの瞬間から始まっていたのでしょうか。

今の門はその翌年に再建されたそうです。

小説「蒼穹の昴」では、梁文秀が殿試を受験するために紫禁城を訪れた際、太和門の西側の門である貞度門を通過するシーンが描かれていました。これは1886年頃の設定です。

ところで、紫禁城の内外を歩くと、いたるところでこれでもかという数の門に出くわします。

往時のこの用心ぶりには驚くばかりですが、これだけの門をこさえてどういう通行管理体制をしたのでしょうか。今のようにセキュリティカードやパスワードや生体認証とか便利なものがなかったわけですから、すべて人力でのオペレーションだったはずです。

相当な労力を要したことは想像に難くありません。





これは東側の門である昭徳門です。
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漢口旧ロシア租界 旧ロシアンクラブ

2024-02-02 | 武漢を歩く
旧ロシアンクラブは漢口の旧ロシア租界、蘭陵路にあります。



1916年に建てられました。左右対称のデザインです。ビル正面の2階部分にはロシア建築らしいベランダが設えられています。

壁面は壁柱によって縦方向に分割されていて、おり、壁柱には縦方向の優美な装飾ラインが施されています。
こういう装飾は旅順や大連に残るロシア建築ではあまり見かけませんが、これもロシア風なのでしょうか。



ロシアンクラブは当時の漢口で暮したロシア居留民の集会や娯楽の場所だったそうです。漢口のロシア租界は1896年に始まりました。ロシアが旅順を租借したのとだいたい同じ時代です。





漢口のロシア租界は1924年前まで続きました。

ビルは最近修復が行われたようですが、必要以上に手を入れず、比較的オリジナルの姿に忠実に工事を行ったように見受けられます。



左側が旧ロシアンクラブです。今はレストランとして使われているようでした。




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浩海火焼雲傣家菜 - 話題の行列店で名物の中華シチューを味わう

2024-01-30 | たべる
近所のモールに、いつも店の前で行列しているレストランがあります。春夏秋冬、いつ通りかかっても店の前には人だかりができています。

ここは20店ほどのレストランが集まる一角です。
周囲の店はがらんとしていても、この店だけは賑わっています。1時間、2時間待ちは当たり前のようです。並んでいるのは若者ばかりです。

提供しているのは創作雲南料理のようです。

外観上はごく普通のレストランですから、相当に客を惹き付ける看板メニューがあるに違いありません。
とはいえ、この行列に並んでまで試してみる気にはなれず、いつも横目で眺めていました。

仕事が休みになったある平日の午後4時ごろ、たまたま店の前を通りかかったら空席がありました。
これはチャンスかもしれません。

入店してみました。



スマホでこの店の人気メニューを検索して、支持1位と2位のメニューを注文してみました。

人気1位は油燜鶏という鍋料理のようです。

辛さが5段階で選べるというので、真ん中の3にします。
ちなみに「燜」という漢字は鍋にふたをしてとろ火で煮るという意味を指します。

ややスパイシーな香りとともに、中央に穴の開いた鍋が運ばれてきました。



この穴あき鍋は刷羊肉(北京火鍋)で使うやつです。



見たところ、じゃがいもを溶かしたとろみのあるスープに鶏肉がぎっしりと入っています。
いや、これはもはやスープではありません。シチューみたいなものです。

さっそく食べてみます。



熱々のシチューをはふはふ、ふうふうと口に含むと、なんとも旨味にあふれた味わい深いが広がります。

これは美味しいです。初めて食べる味です。

どんな味付けをしているのかわかりませんが、たくさんの香草や調味料が入っているのか、複雑な味です。しかし刺激は少なく、どちらかといえばマイルドです。じゃがいもがその働きをしれいるのかもしれません。
これは人気になるのも頷けるというものです。

人気2位の黒三剁はどうでしょうか。

豚肉や赤トウガラシ、青トウガラシ、カラシナなどを細かく刻んで炒めた料理のようです。



これまた美味しいです。

1位も2位も、味付けが濃い目でいかにもごはんに合いそうなメニューです。
現に周囲のテーブルを見回すと、大盛のごはんを左手に持ってかき込んでいる客の姿が目立ちしました。

おそらく、両方とも伝統的な雲南料理ではないと思います。
中華料理の業界も顧客獲得のために工夫し、日々進化していることを実感しました。

よい店を見つけました。
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紫禁城内廷 乾清宮

2024-01-27 | 北京を歩く
乾清宮は内廷後三宮のひとつで、内廷の中心的な宮殿です。北京中軸線上に位置します。





1420年に造られ、その後何度か火災による焼失と再建を繰り返し、今の建物は嘉慶帝邸時代の1798年に建てられたものです。

皇帝の日頃の執務や謁見受け、生活の空間であったほか、清代には元旦や万寿節などの祝祭日にここで盛大が宴席が催されたそうです。





有名な「正大光明」の扁額は三代皇帝の順治帝の揮毫です。長城を越えて明を滅ぼし、中原の覇者となった愛新覚羅の若き皇帝が書いたものです。



雍正帝以降の皇帝が次期皇帝の者の名前を書いたメモをこの扁額の裏に隠し置いたというのも有名な話ですが、そのことは側近のどこまでが知っていたのでしょうか。

浅田次郎先生は小説「中原の虹」でこの4文字について、登場人物である鎮国公載沢の見解として、お世辞にも上手な字であるとは言えない、幼い順治帝は異国語だった漢字を懸命に学び、この簡単な4文字をおそるおそる書いたのだろう、という見方を示していました。

なるほど、そう言われてみればそのようにも見えますし、想像力を掻き立てられます。





小説では、この乾清宮で宣統帝溥儀が袁世凱の謁見を受けるシーンがありました。

袁世凱は溥儀から湖広総督の勅命を受けたのち、皇族内閣を解散して自分を総理大臣にして全権を与えてほしいと切り出します。

袁世凱の突然の訴えに戸惑う親王らを尻目に、幼帝の溥儀は突如幽霊となって玉座の上に現れた西太后の声に操られて袁を内閣総理大臣に指名し、親王皇族の異議を認めぬ、と堂々と言い放って周囲を驚かせます。

なんとも愉快なシーンでした。

「蒼穹の昴」は、乾隆帝が78歳になった老絵師のカスチリョーネを呼んで2人きりで満洲語で話し合ったのもここでした。

これは創作であるとしても、乾清宮はさまざまな歴史の舞台になってきた紫禁城の重要な施設のひとつです。



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紫禁城 九龍壁

2024-01-24 | 北京を歩く
紫禁城の九龍壁は寧寿宮エリアの皇極門の前にあります。





乾隆帝時代の1772年に造られました。長さ29メートル、高さ3.5メートルの壁に9匹の龍のレリーフが描かれています。

生き生きとした龍はそれぞれ違う形や表情をしており、迫力満点です。



この九龍壁には有名な逸話があります。

左から3番目の龍の腹の部分は瑠璃瓦ではなく木材彫刻が嵌め込まれています。
これは製作中にうっかり瑠璃片を破損してしまった職人たちが、製作の締め切り日が迫る中どうしようどうしようとなり、制裁を恐れて2日2晩をかけて急ごしらえで製作し、隠蔽したものだとか。

完成した九龍壁をみた乾隆帝はたいそう感嘆し、喜び、瑠璃瓦の1枚1米を何度も観察したそうですが、バレずにごまかし切ったのだとか。

おもしろいですね。



ここです。



いかがでしょうか。

今であれば木材部分は経年で塗料が落ちてしまっているのでバレると思いますが、当時はそれだけ仕上がりがよかったのだと思います。

浅田次郎の小説「中原の虹」では、この九龍壁に関するもう一つの伝説が描かれています。

あらましはこうです。

●今の九龍壁は乾隆帝が再建したものだが、明代にあった九龍壁はもっと立派だった。
●李自成の農民一揆が紫禁城に押し寄せた際、明代最後の皇帝となった崇禎帝は天命のみしるしである龍玉をこの九龍壁に塗りこめ、景山に登って自ら命を絶った。
●その後満洲軍が長城を越えて紫禁城に入城を果たした。当時7歳の幼帝だった順治帝が九龍壁に小さな手を触れたとたん、黄龍の鱗が崩れて隠されていた龍玉が転げ落ちてきた。つまり、龍玉は順治帝が皇帝となることを認めた。

摂政王だった醇親王と鎮国公載沢がこの壁の前でそれを語り合い、やっぱり伝説だよな、と確認しあうシーンでした。

その後、一人で現場に残った載沢は「落城」というタイトルのまぼろしのシネマを観ます。
スクリーンは皇極門で、その奥が九龍壁です。

載沢は、そのまぼろしのシネマを通じて伝説が本当であったことを知ります。

李自成がどんなに頑張って探しても見つけられなかった龍玉を、順治帝は夢に現れた祖宗に導かれてあっさりと手にしたのでした。

こういう傑作小説の印象的なシーンに我が身を置くことができるのは、駐在員ならではの特権です。






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日清カップヌードル日本風味を食べる

2024-01-21 | たべる
中国でも日清カップヌードルは広く浸透していて、合味道というブランド名でほとんどのコンビニやスーパーで見かけます。

ラインナップもたくさんあります。
しょう油味やシーフード、カレーといった定番商品のほかに中国ならではのオリジナル商品もあります。

忙しいときや時間がないときには重宝します。しかし、味は日本製のそれとは少し違います。
国も材料も違うのですからカスタマイズするのは当然です。

最近、このラインナップに日本とまったく同じ味の商品3類(しょう油、シーフード、カレー)が加わったということで話題になっているので、試してみました。

しょう油味です。



値段は中国仕様より少し高めです。1つ10元弱ですから、日本で買うのと同じぐらいでしょうか。

パッケージも日本のそれと同じです。一見輸入品かと見紛うようです。



合味道とは書かれていません。

熱湯を投入して3分待ちます。味はどうでしょうか。



驚きました。

これは完全に日本のカップヌードルと同じ味です。スープのだしが効いていて、とても深い味わいです。
完コピです。

数年ぶりに食べる味です。



日清さん、やりますね。これはありがたいです。

外国でも日本とまったく同じ味を再現することができるのですね。ちょっと本気出してみた、というところでしょうか。

この国にこういう商品に対する市場があるのでしょうか。実験的な商品だと思いますが、外国においてこういうチャレンジは興味深いものです。

今後中国で消費者がこの商品に対してどういう反応をするのか、注目してみようと思います。
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天津旧英国租界 張作相旧居

2024-01-18 | 天津を歩く
天津の旧英国租界である五大道を歩いていると、張作相旧居なる洋館を見かけました。



場所は重慶道です。



偶然です。ああ、あの張作相の家か、とつい独り言が出ました。

張作相といえば浅田次郎の小説「中原の虹」に出てくる新民府の張作霖馬賊の三当家です。
小説では白猫とか猫攬把とよばれていました。
牙のような鋭い八重歯があって、白虎張の弟分だから白猫、という説明でした。

ぶっきらぼうですが男気のある人情家として描かれていました。
銀花が包丁を握った亭主に追われて血まみれで天主堂に逃げ込んできたピンチを救った場面がありました。



実際はどういう人物だったのでしょうか。

張作相は1881年生まれで1949年に没しています。
張作霖のもとで兵団を率い、奉直戦争に従軍しました。吉林省の省政を指揮し、吉海鉄道や吉林大学をつくりました。張作霖爆殺事件の後は張学良を立てました。

天津のこの家には満州事変後の1933年から逝去するまでの16年ほどを過ごしたようです。
引退後に日本から満州国の要職への就任を打診されたこともあったようですが、断ったそうです。やっぱり実際にも男気のある人物だったようです。



この3階建ての洋館は1929年に建てられました。
張作相への篭絡を図った関東軍の幹部たちは何度もこの屋敷に手土産を持って足を運んだのではないでしょうか。


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漢口給水塔旧址

2024-01-15 | 武漢を歩く
漢口の旧英国租界の中山大道を歩いていると、こんな8階建てのレンガ造りの八角形の塔が目に入ってきました。





これはなんでしょうか。
遠方から見たら一瞬教会かと思いましたが、違うようです。給水塔です。



1909年に建てられたものだそうです。
こういう形の給水塔は初めて見ました。

水道技術が発達した現代ではとうに給水塔としての役割は終えているはずですが、こんな街の真ん中でよく今まで保存されてきたものです。

レンガ造りでこの高さの建造物は珍しいと思います。

建造から1世紀以上を経た今でも目立っていますから、当時は相当目立ったと思います。
武漢には70年代までそれほど高い建造物がなく、この頃までこの給水塔はランドマークだったそうです。

高さは41メートルあるそうです。英国人技術者ミューアの設計によるそうです。



ほとんど劣化のない明るい目の色のレンガが目を引きますが、これは近年改修が施されたためのようです。

この給水塔は1日当たり2.7万トンの水を供給する能力を持ち、租界地区すべてと旧漢口の中心エリアの約10万人用の水を賄い、1980年代初頭まで活躍したのだとか。
いやはやなんとも重要な近代歴史遺産です。

最上階にある監視塔は火の見櫓の役割も果たし、地元の民間消防組織と保安協会が派遣した監視団が巡回に当たったそうです。

つまり、棟は給水塔と消防とという2つの役目を持っていたわけです。

最上階にある監視塔には警鐘があったそうです。
今もあるのでしょうか。また、どんな音を出したのでしょうか。

願わくば一度監視塔に登ってみたいものです。



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ジャーディン・マセソン商会社員住宅旧址

2024-01-12 | 武漢を歩く
武漢の旧ロシア租界の黄陂路を歩いていると、こんな存在感のあるレンガ造りの洋館を見かけました。





交差点に面した外壁がカーブしながらギザギザの階段状になっていて3階のエントランスに繋がっています。

この建物は写真スポットになっているらしく、若者が入れ代わり立ち代わり、この建物の前でポーズを決めて写真に納まっています。



この建物はなんだったのでしょうか。

エントランス付近に掲げられている優秀歴史建築のプレートを見ると、怡和洋行住宅とあります。

怡和洋行とは英国資本のコングロマリットであるジャーディン・マセソン商会のことです。

1832年設立の東インド会社の後継となった企業で、アヘンと茶を貿易を担いました。

かの幕末の長崎で坂本龍馬らと交流して活躍した武器商人のグラバーが所属していた会社でもあります。

この建物はこの会社の漢口支店の役員クラスの住宅だったそうです。

エントランスを入って右に曲がると、階段が半円を描いて建物を取り囲んでいます。
非対称の3階部分と4階部分には開放的なベランダとバルコニーが設えられています。



なんだか子どもが積み木かレゴで作ったような遊び心満載のつくりです。子どもが見たら喜んでぴょんぴょんと階段を駆け上っていきそうです。

設計者などの詳しい情報がわかりませんが、優秀歴史建築のプレートに-1919-とあるので、これが建築年次なのでしょう。



当時の漢口租界の覇者だった英国を代表する会社の社員住宅ですから、ここで暮らした社員は肩で風を切って租界を歩いていたのではないでしょうか。
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旧ヘミングス&バークレー社ビル

2024-01-09 | 武漢を歩く
漢口旧英国租界の鄱陽街と青島路の交差点にこんなモダニズム様式の立派な6階建てビルが建っています。



これは英国の建築会社であったヘミングス&バークレー社の社屋でした。中国語では景明大楼です。

ヘミングス&バークレー社(Hemmings & Berkeley Co、中国語では景明公司)は、何度かこの日記漢口編でご紹介していますが、武漢の歴史上最も大きな功績を残した外資系建築設計企業です。
漢口にはこの会社が設計した建築物が実にたくさん存在し、今もその姿をとどめています。

これだけ多くの歴史的文化財を生み出したわけですから、戦後の武漢における街づくりや建築活動にも少なからず影響を与えたはずです。

近代史に名を残しそうなものですが、英語のサイトを調べてみると、思いのほかヒットしません。
地元の英国ではそれほど知られた存在ではないようです。これはなぜでしょうか。

この6階建ての社屋もヘミングス&バークレー社が設計・建設したものです。1920年に建築が始まり、翌21年に竣工しました。

1階はオフィスとして使用され、2階と3階がアパート、4階と5階は持ち家だったそうです。

1921年の漢口で6階建ビルはかなり珍しかったはずです。英国租界の中でも注目を集めるビルだったと思います。

最上階のベランダが設えてありますが、今も利用できるのでしょうか。足がすくみそうな高さです。

ビルは1938年の日本軍による武漢陥落後には日本軍が接収しましたが、当時何に使われたのかはわかりません。



なお、このビルの5階は1948年8月7日に起きたとされる集団強姦事件の現場です。その日ここで開催されたダンスパーティーで20人以上の米軍将校が30人以上の中国人女性に恥辱を尽くしたと。通報を受けた漢口警察局も取り合わず、武漢国民政府も事件を隠ぺいした事件とされています。

ネットでこのビルの情報を検索すると、この事件の情報ばかりが出てきます。



ビルは現在、武漢戦略発展研究所という組織が利用しています。
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漢口聖教書局旧址

2024-01-06 | 武漢を歩く
漢口の旧英国租界である鄱陽街で「聖教書局」と大きい旧字体の表札を掲げるレンガ造りの建物を見かけました。



キリスト教関連の建物だったようですが、書局とはなんでしょうか。

調べてみました。

この建物は、1911年にロンドン宣教会(London Missionary Society)の主導によってR.E.ヘミングスが設計して建てられたキリスト教関連書籍の印刷所だったようです。



当時、国内の聖書の70%がここで印刷・出版されていたのだとか。

日中戦争を経て戦後もその役割を担い続けたそうです。

2階部分と3階部分が回廊方式になっていて、優美な装飾が施されていてとても気品があります。

かなり保存状態が良好に見えますが、2015年に大規模な修復が行われたようです。
2階と3階部分の美しいレンガも実はこの時にオリジナルに忠実に入れ替えたのだとか。

ネットの情報によると、武漢の建築業界の中では歴史建築の優秀な修復事例として評価を得ているようです。





いずれにしても、そういう競争をしてくれるのはよいことです。

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漢口米国海軍YMCA旧址

2024-01-03 | 武漢を歩く
漢口米国海軍YMCA旧址は旧ロシア租界・黎黄陂路沿いに建っています。



1913年に建てられました。左右対称でバロックっぽい風格です。

4階建てですが、1階部分が低いので半地下構造でしょうか。

正面のエントランスは2階部分に通じているようです。

当時はセーラー服を着た米国人海兵がこの建物に出入りし、娯楽や交流を楽しんだのでしょうか。
中国にYMCAが入ってきたのは20世紀初頭です。

エントランスの上部に「YOUNG MEN’S CHRISTIAN ASSOCIATION」とレトロな書体の文字が残っています。租界時代の古写真を参照すると、これは当時のままのようです。



よく文字を残したものだと思いますが、武漢ではこのように当時の名称をそのまま壁面に残している建物をよく見かけます。そういう土地柄なのでしょうか。

立ち入りはできないようでした。
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西直門天主教教堂 - 北京四大カトリック教会

2023-12-31 | 北京を歩く
西直門近くにある西直門天主堂を訪ねてみました。

通称「西堂」とよばれる北京四大カトリック教会の一つです。四大教会とは、この西堂のほか、東堂(2022年2月16日の日記)、南堂、北堂です。



現在のゴシック様式の西堂は三代目の建築と伝わります。

初代は康熙帝時代の1723 年にイタリア人宣教師で技術者だったテオドリカスによって建てられました。ちょうど300年前です。
文献がありませんが、テオドリカスは宮廷画家兼宣教師だったカスティリオーネの同僚に当たる人物でしょうか。
たぶんカスティリオーネもこの教会に足を運んだと思います。

四大教会のうち、ほかの3つはイエズス会の教会でしたが、ここだけは違ってローマ教皇庁の直属だったそうです。

嘉慶帝の時代にカトリック教が禁じられると、西堂も1811 年に取り壊されました。

その後アロー戦争を経て英仏により宗教活動が再開され、1867年までに再建されました。しかし 1900 年の義和団事件で再び破壊されます。

現在の教会は1912年に建てられたものだとか。

1960年代に入ると教会は閉鎖され、倉庫などとして利用されました。この間、鐘楼などは取り除かれたそうです。

今も現役の教会として開放されています。

僕が訪問したのはクリスマスが近い12月の週末の夜でした。
教会が美しくライトアップされ、華やかな雰囲気になっていました。



教会の中では熱心な信者が静かに祈りを捧げていました。





仏教や道教の寺もそうですが、この国の宗教施設を訪れる参拝者は日本のそれよりも神頼みの真剣度が高いのが特徴です。

この建物は近年になってかなり大がかりな修復が施されたようです。
細部の装飾や壁面のレンガをみると、古そうな部分と新しい部分が混ざって修復痕がはっきりと分かります。近年再建されたと思しき鐘楼はたしかに新しそうです。



近代中国の激動の300年を生き延びてきた生き証人のような教会です。



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塗堃山、傅紹庭公館

2023-12-28 | 武漢を歩く
漢口の旧ロシア租界の黎黄陂路に同じような3階建て洋館が二つ並んでいました。



武漢市商務局が使っているようですが、租界時代の建物だと思います。
なんだったのでしょうか。

守衛らしきおじさんに一声かけて、近づいて写真を撮らせてもらいました。



塗堃山、傅紹庭の旧居とあります。

調べたところ、塗堃山と傅紹庭はアジア石油会社(アジアチック・ペトロリアム、Asiatic Petroleum Company、シェルとロイヤル・ダッチの合弁企業)の買付人でした。

ここは1930年頃に魏清記造営工場が両者のために一棟ずつ建てた住宅なのだとか。

日本軍が武漢を占領した時代は、日本の行政部門がここを利用したようです。

どういう用途で使ったのでしょうか。
少し調べてみましたが、わかりませんでした。



二つの建物はほとんど作りです。3階建てのレンガ構造で、中央の2階部分にベランダが設えてあり、1階玄関部分の庇の役割を果たしています。

この建物が立つ黎黄陂路は石畳で感じのよい街路樹が並ぶ非常に美しい歩行者天国です。


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