HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

紫禁城 九龍壁

2024-01-24 | 北京を歩く
紫禁城の九龍壁は寧寿宮エリアの皇極門の前にあります。





乾隆帝時代の1772年に造られました。長さ29メートル、高さ3.5メートルの壁に9匹の龍のレリーフが描かれています。

生き生きとした龍はそれぞれ違う形や表情をしており、迫力満点です。



この九龍壁には有名な逸話があります。

左から3番目の龍の腹の部分は瑠璃瓦ではなく木材彫刻が嵌め込まれています。
これは製作中にうっかり瑠璃片を破損してしまった職人たちが、製作の締め切り日が迫る中どうしようどうしようとなり、制裁を恐れて2日2晩をかけて急ごしらえで製作し、隠蔽したものだとか。

完成した九龍壁をみた乾隆帝はたいそう感嘆し、喜び、瑠璃瓦の1枚1米を何度も観察したそうですが、バレずにごまかし切ったのだとか。

おもしろいですね。



ここです。



いかがでしょうか。

今であれば木材部分は経年で塗料が落ちてしまっているのでバレると思いますが、当時はそれだけ仕上がりがよかったのだと思います。

浅田次郎の小説「中原の虹」では、この九龍壁に関するもう一つの伝説が描かれています。

あらましはこうです。

●今の九龍壁は乾隆帝が再建したものだが、明代にあった九龍壁はもっと立派だった。
●李自成の農民一揆が紫禁城に押し寄せた際、明代最後の皇帝となった崇禎帝は天命のみしるしである龍玉をこの九龍壁に塗りこめ、景山に登って自ら命を絶った。
●その後満洲軍が長城を越えて紫禁城に入城を果たした。当時7歳の幼帝だった順治帝が九龍壁に小さな手を触れたとたん、黄龍の鱗が崩れて隠されていた龍玉が転げ落ちてきた。つまり、龍玉は順治帝が皇帝となることを認めた。

摂政王だった醇親王と鎮国公載沢がこの壁の前でそれを語り合い、やっぱり伝説だよな、と確認しあうシーンでした。

その後、一人で現場に残った載沢は「落城」というタイトルのまぼろしのシネマを観ます。
スクリーンは皇極門で、その奥が九龍壁です。

載沢は、そのまぼろしのシネマを通じて伝説が本当であったことを知ります。

李自成がどんなに頑張って探しても見つけられなかった龍玉を、順治帝は夢に現れた祖宗に導かれてあっさりと手にしたのでした。

こういう傑作小説の印象的なシーンに我が身を置くことができるのは、駐在員ならではの特権です。






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日清カップヌードル日本風味を食べる

2024-01-21 | たべる
中国でも日清カップヌードルは広く浸透していて、合味道というブランド名でほとんどのコンビニやスーパーで見かけます。

ラインナップもたくさんあります。
しょう油味やシーフード、カレーといった定番商品のほかに中国ならではのオリジナル商品もあります。

忙しいときや時間がないときには重宝します。しかし、味は日本製のそれとは少し違います。
国も材料も違うのですからカスタマイズするのは当然です。

最近、このラインナップに日本とまったく同じ味の商品3類(しょう油、シーフード、カレー)が加わったということで話題になっているので、試してみました。

しょう油味です。



値段は中国仕様より少し高めです。1つ10元弱ですから、日本で買うのと同じぐらいでしょうか。

パッケージも日本のそれと同じです。一見輸入品かと見紛うようです。



合味道とは書かれていません。

熱湯を投入して3分待ちます。味はどうでしょうか。



驚きました。

これは完全に日本のカップヌードルと同じ味です。スープのだしが効いていて、とても深い味わいです。
完コピです。

数年ぶりに食べる味です。



日清さん、やりますね。これはありがたいです。

外国でも日本とまったく同じ味を再現することができるのですね。ちょっと本気出してみた、というところでしょうか。

この国にこういう商品に対する市場があるのでしょうか。実験的な商品だと思いますが、外国においてこういうチャレンジは興味深いものです。

今後中国で消費者がこの商品に対してどういう反応をするのか、注目してみようと思います。
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天津旧英国租界 張作相旧居

2024-01-18 | 天津を歩く
天津の旧英国租界である五大道を歩いていると、張作相旧居なる洋館を見かけました。



場所は重慶道です。



偶然です。ああ、あの張作相の家か、とつい独り言が出ました。

張作相といえば浅田次郎の小説「中原の虹」に出てくる新民府の張作霖馬賊の三当家です。
小説では白猫とか猫攬把とよばれていました。
牙のような鋭い八重歯があって、白虎張の弟分だから白猫、という説明でした。

ぶっきらぼうですが男気のある人情家として描かれていました。
銀花が包丁を握った亭主に追われて血まみれで天主堂に逃げ込んできたピンチを救った場面がありました。



実際はどういう人物だったのでしょうか。

張作相は1881年生まれで1949年に没しています。
張作霖のもとで兵団を率い、奉直戦争に従軍しました。吉林省の省政を指揮し、吉海鉄道や吉林大学をつくりました。張作霖爆殺事件の後は張学良を立てました。

天津のこの家には満州事変後の1933年から逝去するまでの16年ほどを過ごしたようです。
引退後に日本から満州国の要職への就任を打診されたこともあったようですが、断ったそうです。やっぱり実際にも男気のある人物だったようです。



この3階建ての洋館は1929年に建てられました。
張作相への篭絡を図った関東軍の幹部たちは何度もこの屋敷に手土産を持って足を運んだのではないでしょうか。


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漢口給水塔旧址

2024-01-15 | 武漢を歩く
漢口の旧英国租界の中山大道を歩いていると、こんな8階建てのレンガ造りの八角形の塔が目に入ってきました。





これはなんでしょうか。
遠方から見たら一瞬教会かと思いましたが、違うようです。給水塔です。



1909年に建てられたものだそうです。
こういう形の給水塔は初めて見ました。

水道技術が発達した現代ではとうに給水塔としての役割は終えているはずですが、こんな街の真ん中でよく今まで保存されてきたものです。

レンガ造りでこの高さの建造物は珍しいと思います。

建造から1世紀以上を経た今でも目立っていますから、当時は相当目立ったと思います。
武漢には70年代までそれほど高い建造物がなく、この頃までこの給水塔はランドマークだったそうです。

高さは41メートルあるそうです。英国人技術者ミューアの設計によるそうです。



ほとんど劣化のない明るい目の色のレンガが目を引きますが、これは近年改修が施されたためのようです。

この給水塔は1日当たり2.7万トンの水を供給する能力を持ち、租界地区すべてと旧漢口の中心エリアの約10万人用の水を賄い、1980年代初頭まで活躍したのだとか。
いやはやなんとも重要な近代歴史遺産です。

最上階にある監視塔は火の見櫓の役割も果たし、地元の民間消防組織と保安協会が派遣した監視団が巡回に当たったそうです。

つまり、棟は給水塔と消防とという2つの役目を持っていたわけです。

最上階にある監視塔には警鐘があったそうです。
今もあるのでしょうか。また、どんな音を出したのでしょうか。

願わくば一度監視塔に登ってみたいものです。



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ジャーディン・マセソン商会社員住宅旧址

2024-01-12 | 武漢を歩く
武漢の旧ロシア租界の黄陂路を歩いていると、こんな存在感のあるレンガ造りの洋館を見かけました。





交差点に面した外壁がカーブしながらギザギザの階段状になっていて3階のエントランスに繋がっています。

この建物は写真スポットになっているらしく、若者が入れ代わり立ち代わり、この建物の前でポーズを決めて写真に納まっています。



この建物はなんだったのでしょうか。

エントランス付近に掲げられている優秀歴史建築のプレートを見ると、怡和洋行住宅とあります。

怡和洋行とは英国資本のコングロマリットであるジャーディン・マセソン商会のことです。

1832年設立の東インド会社の後継となった企業で、アヘンと茶を貿易を担いました。

かの幕末の長崎で坂本龍馬らと交流して活躍した武器商人のグラバーが所属していた会社でもあります。

この建物はこの会社の漢口支店の役員クラスの住宅だったそうです。

エントランスを入って右に曲がると、階段が半円を描いて建物を取り囲んでいます。
非対称の3階部分と4階部分には開放的なベランダとバルコニーが設えられています。



なんだか子どもが積み木かレゴで作ったような遊び心満載のつくりです。子どもが見たら喜んでぴょんぴょんと階段を駆け上っていきそうです。

設計者などの詳しい情報がわかりませんが、優秀歴史建築のプレートに-1919-とあるので、これが建築年次なのでしょう。



当時の漢口租界の覇者だった英国を代表する会社の社員住宅ですから、ここで暮らした社員は肩で風を切って租界を歩いていたのではないでしょうか。
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旧ヘミングス&バークレー社ビル

2024-01-09 | 武漢を歩く
漢口旧英国租界の鄱陽街と青島路の交差点にこんなモダニズム様式の立派な6階建てビルが建っています。



これは英国の建築会社であったヘミングス&バークレー社の社屋でした。中国語では景明大楼です。

ヘミングス&バークレー社(Hemmings & Berkeley Co、中国語では景明公司)は、何度かこの日記漢口編でご紹介していますが、武漢の歴史上最も大きな功績を残した外資系建築設計企業です。
漢口にはこの会社が設計した建築物が実にたくさん存在し、今もその姿をとどめています。

これだけ多くの歴史的文化財を生み出したわけですから、戦後の武漢における街づくりや建築活動にも少なからず影響を与えたはずです。

近代史に名を残しそうなものですが、英語のサイトを調べてみると、思いのほかヒットしません。
地元の英国ではそれほど知られた存在ではないようです。これはなぜでしょうか。

この6階建ての社屋もヘミングス&バークレー社が設計・建設したものです。1920年に建築が始まり、翌21年に竣工しました。

1階はオフィスとして使用され、2階と3階がアパート、4階と5階は持ち家だったそうです。

1921年の漢口で6階建ビルはかなり珍しかったはずです。英国租界の中でも注目を集めるビルだったと思います。

最上階のベランダが設えてありますが、今も利用できるのでしょうか。足がすくみそうな高さです。

ビルは1938年の日本軍による武漢陥落後には日本軍が接収しましたが、当時何に使われたのかはわかりません。



なお、このビルの5階は1948年8月7日に起きたとされる集団強姦事件の現場です。その日ここで開催されたダンスパーティーで20人以上の米軍将校が30人以上の中国人女性に恥辱を尽くしたと。通報を受けた漢口警察局も取り合わず、武漢国民政府も事件を隠ぺいした事件とされています。

ネットでこのビルの情報を検索すると、この事件の情報ばかりが出てきます。



ビルは現在、武漢戦略発展研究所という組織が利用しています。
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漢口聖教書局旧址

2024-01-06 | 武漢を歩く
漢口の旧英国租界である鄱陽街で「聖教書局」と大きい旧字体の表札を掲げるレンガ造りの建物を見かけました。



キリスト教関連の建物だったようですが、書局とはなんでしょうか。

調べてみました。

この建物は、1911年にロンドン宣教会(London Missionary Society)の主導によってR.E.ヘミングスが設計して建てられたキリスト教関連書籍の印刷所だったようです。



当時、国内の聖書の70%がここで印刷・出版されていたのだとか。

日中戦争を経て戦後もその役割を担い続けたそうです。

2階部分と3階部分が回廊方式になっていて、優美な装飾が施されていてとても気品があります。

かなり保存状態が良好に見えますが、2015年に大規模な修復が行われたようです。
2階と3階部分の美しいレンガも実はこの時にオリジナルに忠実に入れ替えたのだとか。

ネットの情報によると、武漢の建築業界の中では歴史建築の優秀な修復事例として評価を得ているようです。





いずれにしても、そういう競争をしてくれるのはよいことです。

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漢口米国海軍YMCA旧址

2024-01-03 | 武漢を歩く
漢口米国海軍YMCA旧址は旧ロシア租界・黎黄陂路沿いに建っています。



1913年に建てられました。左右対称でバロックっぽい風格です。

4階建てですが、1階部分が低いので半地下構造でしょうか。

正面のエントランスは2階部分に通じているようです。

当時はセーラー服を着た米国人海兵がこの建物に出入りし、娯楽や交流を楽しんだのでしょうか。
中国にYMCAが入ってきたのは20世紀初頭です。

エントランスの上部に「YOUNG MEN’S CHRISTIAN ASSOCIATION」とレトロな書体の文字が残っています。租界時代の古写真を参照すると、これは当時のままのようです。



よく文字を残したものだと思いますが、武漢ではこのように当時の名称をそのまま壁面に残している建物をよく見かけます。そういう土地柄なのでしょうか。

立ち入りはできないようでした。
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西直門天主教教堂 - 北京四大カトリック教会

2023-12-31 | 北京を歩く
西直門近くにある西直門天主堂を訪ねてみました。

通称「西堂」とよばれる北京四大カトリック教会の一つです。四大教会とは、この西堂のほか、東堂(2022年2月16日の日記)、南堂、北堂です。



現在のゴシック様式の西堂は三代目の建築と伝わります。

初代は康熙帝時代の1723 年にイタリア人宣教師で技術者だったテオドリカスによって建てられました。ちょうど300年前です。
文献がありませんが、テオドリカスは宮廷画家兼宣教師だったカスティリオーネの同僚に当たる人物でしょうか。
たぶんカスティリオーネもこの教会に足を運んだと思います。

四大教会のうち、ほかの3つはイエズス会の教会でしたが、ここだけは違ってローマ教皇庁の直属だったそうです。

嘉慶帝の時代にカトリック教が禁じられると、西堂も1811 年に取り壊されました。

その後アロー戦争を経て英仏により宗教活動が再開され、1867年までに再建されました。しかし 1900 年の義和団事件で再び破壊されます。

現在の教会は1912年に建てられたものだとか。

1960年代に入ると教会は閉鎖され、倉庫などとして利用されました。この間、鐘楼などは取り除かれたそうです。

今も現役の教会として開放されています。

僕が訪問したのはクリスマスが近い12月の週末の夜でした。
教会が美しくライトアップされ、華やかな雰囲気になっていました。



教会の中では熱心な信者が静かに祈りを捧げていました。





仏教や道教の寺もそうですが、この国の宗教施設を訪れる参拝者は日本のそれよりも神頼みの真剣度が高いのが特徴です。

この建物は近年になってかなり大がかりな修復が施されたようです。
細部の装飾や壁面のレンガをみると、古そうな部分と新しい部分が混ざって修復痕がはっきりと分かります。近年再建されたと思しき鐘楼はたしかに新しそうです。



近代中国の激動の300年を生き延びてきた生き証人のような教会です。



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塗堃山、傅紹庭公館

2023-12-28 | 武漢を歩く
漢口の旧ロシア租界の黎黄陂路に同じような3階建て洋館が二つ並んでいました。



武漢市商務局が使っているようですが、租界時代の建物だと思います。
なんだったのでしょうか。

守衛らしきおじさんに一声かけて、近づいて写真を撮らせてもらいました。



塗堃山、傅紹庭の旧居とあります。

調べたところ、塗堃山と傅紹庭はアジア石油会社(アジアチック・ペトロリアム、Asiatic Petroleum Company、シェルとロイヤル・ダッチの合弁企業)の買付人でした。

ここは1930年頃に魏清記造営工場が両者のために一棟ずつ建てた住宅なのだとか。

日本軍が武漢を占領した時代は、日本の行政部門がここを利用したようです。

どういう用途で使ったのでしょうか。
少し調べてみましたが、わかりませんでした。



二つの建物はほとんど作りです。3階建てのレンガ構造で、中央の2階部分にベランダが設えてあり、1階玄関部分の庇の役割を果たしています。

この建物が立つ黎黄陂路は石畳で感じのよい街路樹が並ぶ非常に美しい歩行者天国です。


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故宮 内金水橋

2023-12-25 | 北京を歩く
故宮にある金水橋は北京でもっとも有名な橋のひとつではないでしょうか。



金水橋はひとつの橋ではありません。外金水橋と内金水橋に分けられます。天安門の外にあるのが外金水橋、午門と太和門の間の広場にあるのが内金水橋です。

内金水橋は人工の川である内金水江に架かる5つの横並びの橋です。

最初は明の永楽帝の時代に造られ、清の康熙帝時代の1690年に再建されました。

長さ20メートルほどの5つの橋が短い間隔で並んでいますが、川が蛇行しているのでそれぞれ微妙に違う方向を向いていて、これが独特の趣を醸しています。



欄干の装飾が豪華で凝っています。

この5つのうち、中央の橋(御路橋とよぶそうです)を渡ることができたのは皇帝だけだったそうです。なるほど、この橋の欄干の装飾は龍を象られて一番凝っていて、幅も広くなっています。



故宮にはこの「皇帝専用」というのがたくさんあります。

今は我々観光客でも皇帝の橋を堂々と歩くことができます。

横側から見ると、花崗岩の白い橋が荘厳で壮観な午門の楼閣と華麗な太和殿とコントラストを織りなし、とりわけ美しく見えます。



水面に欄干が写り込んでとても写真映えします。

北京の代表的な景観のひとつです。
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故宮 午門

2023-12-22 | 北京を歩く
天気のよい週末に故宮に行きました。

北京紫禁城の正門である午門から入場します。



午門は北京中軸線の重要な部分を占める建築物です。

南側に向かってコの字型をしています。



南側から門に近づくと、三方向から迫力のある高さ約38メートルの赤い壁が迫ってきます。

門は明の永楽帝時代の1420年に建てられ、清の順治帝時代の1647年に再建、さらに嘉慶帝時代の1801年に修復されたそうです。
その後も細かい修復を重ねてきました。

正面から見ると午門には3つの門がありますが、実は左右の見えない部分にも2つずつあるそうです。

清の時代、中央の門は皇帝だけが出入りを許されたのだとか。例外的に皇帝の婚礼時に皇后が1回だけここから入ることが、科挙の最終試験である殿試の上位3人(状元、榜眼、探花)は1度だけここから出ることが許されたそうです。

小説「蒼穹の昴」に登場する梁文秀は状元でしたので、ここを歩く資格を得たことになります。



左側の門は文官と武官が、右側は皇族が出入りしたそうです。

現在、我々のような一般客は中央門から入場することができます。





皇帝の気分になって分厚い門をずずいとくぐります。
視界が開けると、太和門と金水河に架かる内金水橋が目に入ってきます。

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漢口の中国共産党中央委員会指導者住居旧居

2023-12-19 | 武漢を歩く
漢口の旧租界エリア・天津路でこんなレンガ造りの4階建ての洋館を見かけました。

交差点に面した一角が面取りしたように曲線になっているのが印象的です。

集合住宅だったのでしょうか。



目線よりだいぶ高い2階部分に文物のプレートが掛けてあるようです。



目を凝らすと、「中共中央領導人住居旧官邸旧址」と書いてあります。

調べてみると、ここは国共内戦時にかの周恩来や鄧小平が潜伏した場所のようです。

文献によると、1927年7月に第一次国共合作が決裂した際、共産党の組織と活動は地下に潜ったと。その際中央軍事委員会の書記だった周恩来、鄧穎超、瞿秋白、楊之華、李維漢、鄧小平がここに秘密裏に暮らしたのだと。

この間、彼らは党中央委員会の緊急会議を準備し、主宰し、秋の収穫暴動の開催を決め、幹部が地下に潜るための準備をしたと。
党の多くの重要な決議もこの住宅で行われたと紹介されています。

建物自体も1927年に建築されたようですが、最初から誰でも借りることができる集合住宅だったのでしょうか。

詳しい情報がわかりませんでした。
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漢口英国租界 英文楚報館(The Central China Post)旧址

2023-12-16 | 武漢を歩く
旧漢口英国租界の勝利路を歩いていると、こんな5階建て鉄筋コンクリートのクラシックリバイバル風の洋館がポツンとありました。



これはなんのビルだったのでしょうか。

湖北省文物保護単位を示すプレートに英文楚報館と書いてあります。



調べてみました。

「英文楚報」(The Central China Post)は、戦前の漢口に存在した英国資本の英字メディアでした。

ここはその新聞社の社屋だったようです。

ビルは1924年に建てられました。
当初の構造は鉄筋コンクリート造4階建てで、後に5階部分が増築されたようです。



英文楚報は明代末期の1904年に作られた英国資本のメディアでした。

創設者は英国人宣教師で漢口聖教書店の支配人だった人物で、主に中国各省のニュースを伝えた英字新聞でした。

当初は隔日の発行で、1911年に日刊化しました。1924年に建物が完成した後、ロイター通信もこの建物にオフィスを置きました。

1938年の日本軍による武漢陥落後、英文楚報は漢口で発行される唯一の英字新聞になりました。

「英文楚報」は1920年代から30年代にかけて、英国が中国で発行した四大新聞のひとつでした。

英文楚報は湖北省、湖南省、四川省、陝西省などの地方からのニュースを掲載するために教会ルートを頼りにしていました。当時、外国の新聞に掲載する武漢に関するニュースは、ほとんどがこのメディアから発せられました。

日中戦争が始まると、武漢の防衛に関する多くのニュースもここから欧米に発出されました。

1941年、日本軍は英文楚報を接収し、すべての財産を没収しました。

現在は別の名前のビルとなっていますが、近隣の住民は今でも新聞大楼と呼んでいるそうです。
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旧日清汽船株式会社漢口支店ビル

2023-12-13 | 武漢を歩く
沿江大通と江漢路の一帯は漢口の旧英国租界で最も華やかなエリアですが、その超一等地となる交差点に建っているのが旧日清汽船株式会社漢口支店ビルです。





日清汽船は明治40年に設立された日本の会社です。

今はグランドマディソンというホテルになっています。



日清汽船漢口支店は何度か社屋の建て替えをしているようです。
現存しているこの社屋は竣工は1930年です。

設計は当時の漢口で名を馳せていた英国資本のヘミングス&バークレー事務所が行いました。

地上5階、地下1階建てですが、とても実験的で遊び心があって、自由にのびのびと設計した感じが伝わってきます。

随所に工夫が凝らされていて、変化があるので眺めていて飽きません。

エントランスの1階と2階の間にはドーリア式列柱が、そして3階部分と4階部分には二重のイオニア式列柱が並んでいます。

各階に施された装飾やレリーフもとても優美で精巧です。
最上階の真ん中には古代ローマ風のドームが乗っています。

日清汽船の主要航路は上海−漢口でした。
このほか、漢口を発着する路線としては、宣昌線、湘潭線、常徳線がありました。



現在のロビーフロアです。当時、ここは乗船券売り場だったのでしょうか。



1920年に漢口を訪問した芥川龍之介も、おそらくこの日清汽船を利用したと思います。

日清汽船の隣は、漢口租界のランドマークである漢口税関(江漢関)です。





漢口の旧英国租界に残る日本関連の建物のうち、横綱クラスはこの日清汽船と横浜正金銀行の二つだと思います。

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