脳腫瘍に負けない!!闇を抜けて君に幸あれ 

48歳で脳腫瘍を発病したパパを応援する妻、ちぇぶの日記です。

発作後

2006-05-14 00:38:19 | 今までのこと
なにかがおかしい。
嫌な予感がしていた私はパパに会いに行くのが怖かった。
1日たって病室に行くと、一見いつもと変わらないパパがいました。
少し元気がないように見えるだけでした。
話をしているとやはりおかしい。
今始まったばかりの薬がなみなみと入った点滴を見て
「もうすぐ終わるから。」と言う。
「でもまだたくさん入ってるよ。」と言うと
「もう終わるんだよっ!!」といらだつ。
「毛布の足のところが変なんだ。なおしてくれ。」と言い
新聞紙がばらばらになったままベッドの上に広がっています。

どうやら時間の感覚がわからない。
毛布や新聞の折り目がわからないからのばせない、たためない。
点滴の量がわからない。
周りの音が必要以上にうるさく聞こえる。
そんな感じでした。
はじめてパパが病気である事を実感し、心の底から怖くなりました。

その日主治医の先生から電話をいただきました。
やはり様子が変だと言うことでした。
私が気付いた事を話すと、発作の後の脳の過剰な動きと
入院が長引いてるための精神的なストレスが大きいのではないか。
とのことでした。
病気が大きく動いているということではないだろうと言う先生の言葉にも
私はなぜか安心できませんでした。
パパにわからない様に病院に来てほしいと言われました。
こんなことは後にも先にもこのときだけでした。

次の日先生に会いに言ってみると、
「感情の抑制がきかなくなっているように見えます。」
と言われました。
精神科の受診を考えてみませんか?と言うことでした。
「私はもう少し様子を見て見ます。」
と答え、何もなかったようにパパに会いに行きました。
放射線でも抜けなかったもみ上げの部分が片方だけ眉毛の上まで剃りあがっています。
「どうしたの?」というと
「いやーボーっとしてたらいきすぎちゃってー」と言いました。
いくらボーっとしててもそこまで剃ってしまうってあるのかな?
と思いました。
でもそれ以外はいつものパパなのでもう大丈夫かな。と思っていました。
先生に呼ばれて、今回の発作の事をパパも一緒に聞く事になりました。
運悪く主治医の先生は手術に入っていて、
同じチームの違う先生が話してくれることになりました。
するとパパは最初から先生に食ってかかる様な感じでした。
そしてだんだん感情が高ぶり
「俺は大丈夫なんだー!!先生はオペで忙しいんだろ!
もういい早く行けよ。ほら患者さんが待ってるよ。
早く行っちゃってくれよ。俺はもう大丈夫なんだーー。俺は大丈夫だーー。」
病棟中に響き渡る大声で叫びだしました。
医師の声、看護士さんの声全てがパパの気持ちを逆なでするようです。
「いいから、わかったから、落ち着こう、ネェ、パパ落ち着こう。」
私はパパを抱きしめていました。
私の声は届いたようで、パパはまもなく静かになりました。
パパを先に部屋に戻すと先生が言いました。
「あれがチョット怖いんです。やっぱり精神科に行ってみる事をお勧めします。」
と言われました。
実は前の晩も感情の抑制がきかなくなり
隣のベッドの人のところで
「俺はもうだめなんだ。もう終わりなんだ。」と子供のように泣き続けたのだと
いうことでした。
どうしていいかわからないまま、私は精神科を受診する事を決めました。




移送

2006-05-14 00:37:26 | 今までのこと
日曜日なので近所の救急病院にいたのは常駐の先生ではなく大学から来ている当直の先生でした。
たまたま現在入院中の大学病院から来ている先生だったので、今日は外泊中で病院に帰ろうとしているところだった。と言う事を話しました。
するとあっさり、
「じゃあ発作がおさまったらすぐ大学にかえった方が良いょ。」と言われました。
病院から病院まで救急車で送ってもらえるのかなあと思っていたら、
そういうことはできない。自力で行ってくれ。ということでした。
意識は戻ったものの、ぼんやりと半分眠ったようで立ち上がることもできないパパを電車に乗せていけということでしょうか。
日曜日なので民間の救急移送車も受け付けてくれません。
これ以上この病院にいても何もしてくれないということがわかりました。
私は困り果て入院している大学の病棟の看護婦さんに電話で相談しました。
やはり救急車は県境を越えることができないため使うことはできないということでした。
でもなるべく早くつれてきたほうがいい。タクシーで連れて来たらどうだろう。
といわれました。
タクシーを呼び薬の影響で眠り続けるパパを乗せて私と娘が付き添って
大学病院へ向かいました。
病院に付くまでの間気が気ではありませんでした。
冷たい雪が降るなか大学病院に到着しました。
「着いたよ」と声をかけると、パパは目を開け
「トイレに行きたい!」と叫びました。
トイレまで運んでいくのはとても無理なので
「看護婦さんが今来てくれるから待って。」
と言いました。
「嫌だ!今トイレに行きたいんだ。そこにトイレがあるんだ。」
タクシーの窓をがんがん叩いて叫びます。
私はこんなパパをはじめて見ました。
嫌な予感がしました。
まもなく看護婦さんが来てくれてストレッチャーに乗せられたパパは
あきらめたようにおとなしくなりました。

二度目の外泊

2006-05-14 00:36:51 | 今までのこと
3月2週目の週末パパが帰ってきました。
入院前から自分の誕生日は家で迎えたいと言っていたパパの願いが叶いました。
退院こそできないものの、家で誕生日を迎えられるのはとても嬉しいことでした。
小さなケーキを買ってお祝いをしました。
食後お風呂に入ったパパがなかなか出てきません。
心配になった私が声をかけると、
「うん大丈夫だょ。」
とパパの声。
お風呂から出てきたパパがチョットおどけた声で
「いやー頭洗ってたら髪の毛ごっそりぬけちゃってさぁ」
って言いました。
毎日毎日少しずつ抜けていた髪の毛がこの日ごっそり抜けたのでした。
右半分の髪の毛はほとんどなくなっていました。

寝る前にパパは
「あ~病院に帰るのいやだなぁ。」
って言いました。
次の日下の子が早い時間からバスケの試合にでかけました。
調子がよければ午前中の試合を見てから病院にかえろうということになっていました。
パパが起きて来ました。
なんか様子が変。動きがとても遅くて、左足の動きが悪いように見えます。
「パパ今日の試合どうする?見にいける?」
と声をかけてみました。
「今日は~やめて~おこ~~かな~~。」
間延びした返事が返ってきます。
『おかしい!!』再び私はそう思いました。
「じゃあ早めに病院にかえろうね。」
いすに座っている体が傾いています。
返事がなくぼんやりしています。
「パパどうしたの?大丈夫?」
見ているうちに痙攣が来ました。
いすからずり落ち体中を硬直させながら、
「ごめんね」と言ってパパは意識を失っていきました。
私はパパの体を支えることしかできませんでした。
同じ部屋にいた娘に救急車を呼んでもらい
最初に運ばれた近所の救急病院に行きました。




放射線始まる

2006-05-14 00:35:58 | 今までのこと
まもなく放射線治療が始まりました。
位置がずれないようにその人のためだけのマスクが用意されます。
「スパイダーマンか13日の金曜日のジェイソンみたいだろ。」
なんてパパは笑ってました。
放射線の副作用で気分が悪くなることもなく、順調に進んで行きました。
同じ部屋で放射線治療を受けてる人が他にもいたのでいろいろ話も聞いていました。
副作用で髪の毛は抜けます。と言われてはいたものの周りの方は皆一部分抜けていると言う感じでした。
しばらくしてパパの髪も抜け始めました。
看護婦さんにとっては日常茶飯事の事なのでしょう。
そして髪はまた生えてくるものだからでしょうか?
パパにガムテープがひとまき渡されました。
会いに行くたびにゴミ箱を見ると、毎日枕やふとんの上に落ちた髪の毛を自分でガムテープでとっているようでした。
手術の時短く切った髪の毛もそろそろ伸びてきていて抜けるととても目立ちました。
本当はショックだったに違いありません。
目立たないように丸刈りにしておけばよかった。
このころからパパは少し元気がなくなりました。
髪の毛がなくなるとすごく病人っぽく見えるものです。

放射線が終わって化学療法1回目に入る前、外泊許可が出ました。
家に帰れるというだけでパパは元気を取り戻しました。
週末久しぶりに家に帰って、近所を散歩したり、
子供達のバスケットボールの試合を見に行ったり、
久しぶりの外の世界を満喫してリフレッシュできたようでした。
次の週末も帰ってくることに決めました。




放射線治療と化学療法

2006-05-14 00:34:32 | 今までのこと
術後の回復は非常に順調でした。術前も術後も特に症状がなく、術後の合併症また大きな障害も出ず、あんなに大きな手術をしたのに、まだ病気であるという実感がなくて不思議な感じがしていました。
先生から今後の治療計画のお話がありました。
摘出した細胞の検査の結果グレード3であることが確定し100%取れたわけではないので、やはり放射線+化学療法が必要であること。
化学療法には3種類の選択肢があること。
選択肢は

1、ニドラン(この病気の現在の標準治療)
2、ナツラン+ニドラン(ちょうど治験の最中でパパの場合はこの治験に入れる)
3、テモゾロマイド(日本では未認可、しかし効く可能性が高い。治験はすでに終了)

2、のナツランはどんな薬か、いろいろ説明は受けましたが難しい。
脳腫瘍に抗がん剤が効きにくい理由は脳血管関門のため比較的分子量の小さい抗がん剤も腫瘍部分まで入っていくことができないからと言われています。
活発に活動している細胞より眠っている細胞には余計に入っていきにくいと聞きました。
ナツランは眠っている細胞を刺激して起こす働きがあるということでした。
起きたところにニドランを送り込んでやっつける作戦ということです。
ナツランは飲み薬なので、1日3回1週間飲んで、次の日にニドランの点滴を受けるというやり方です。

3、のテモゾロマイドは国内未承認です。効く人には本当に効きますが、経済的負担は半端じゃない、やるならば個人輸入でということでした。

選べと言われても、この段階でパパは健康な人となんら変わらないのです。1回40万の未承認の薬を使おうとは思いませんでした。
1と2では若干2の方がいい成績を出していると言われると、この治験に参加するのが一番よいように思われました。
そして私達は治験に参加する事を決めました。







手術直後

2006-05-14 00:33:59 | 今までのこと
手術翌日、パパの病室に行ってみるとまだ術後数時間しかたっていないというのに
目を開けちゃんと会話のできるパパと会うことができました。
先生が様子を見に来て
「どうですか?おばかになっていませんか?」
と笑いながら言いました。
私達は
「はい大丈夫です。」
と答えました。
脳の手術って本当に不思議、手術が終わったらあっという間に元気になっていくんです。
2日目には歩いてトイレに行っていたし、『このまま元気に退院できるといいな』
と思っていました。

手術

2006-05-14 00:33:16 | 今までのこと
手術の日がやってきました。
よく晴れた気持ちのいい日でした。
テレビドラマの影響か、手術室にはストレッチャーに乗せられていくと思っていました。ところがです。
「じゃ、行きましょうか。」看護婦さんは言いますが、ストレッチャーはありません。
なんとなんと手術室まで自分の足で歩いていくのです。
手術を受ける患者は浴衣を着ています。
エレベーターに乗るとやはり今日手術を受けると思われる人がもうひとり。
手術室までお医者さんと患者と家族がみんなでぞろぞろ。
なんかちっとも緊迫感の無い笑える光景でした。
パパは「行ってきまーす!」と手を振って手術室に入っていきました。
まるで温泉に入りに行くみたいに見えました。
朝9時に手術室に入って15時間、長い長い一日でした。

夜12時にまもなくなろうというころ、「終わりました。」
の知らせが来ました。
ICUに入るとずっとうつ伏せだったために顔がパンパンにはれたパパがいました。先生が来て
「お約束どおり、HOTな部分は全部取れました。そのほかの部分もぎりぎりのところまでとることができました。」
と言いました。
そしたらパパが言ったんです。
「先生、ありがとうございました。」って・・・
後で先生が
「手術直後にお礼を言われたのは初めてだ。」
って言っていました。
心配していた術後の障害もほとんど出ず(ほんの一部分見えてるものを認知できない認知障害はでましたがこれはほとんど気になりません。)、パパは大変な手術を乗り切ったのでした。


手術前夜

2006-05-14 00:32:56 | 今までのこと
目が半分見えなくなる事を受け入れれば助かるんだ。そこで私達はどうにかして納得しようと努力しました。
私の涙はこの頃から止まる事を忘れました。
ところが、もっと悪い知らせが・・・次に主治医の言った言葉は
「視野の部分を攻めたとしても、あなたの場合ここにも腫瘍細胞らしきものが見えるんです。ここは脳梁といって右と左の脳を繋ぐ部分。ここはアンタッチャブルなんです。」
アンタッチャブル=触れられない部分
そこをとれば起き上がることはおろか、目を開けることも出来なくなるそうです。

元気になって子供達と過ごすために受けると決めた手術です。
その状態になるのは困ります。

医師の最初の予想に比べて悪い方悪い方へ転がった。そういうことだと思いました。

私達の出した答えは、触れられない部分は仕方ないからおいといて、
メチオニンHOTの部分は完全に、緑の部分は出来る限りぎりぎりまで
とってください。というものでした。
この時手術だけでは終わらない放射線も抗がん剤もやらなければならないことがわかりました。

術中MRI、それから飲むと腫瘍の部分が蛍光塗料を塗ったように光るという
薬も使って、とてもとても厳しい手術を受けることになりました。
手術前日は手術で起こりうる最悪の事をたくさん言われます。
その上で承諾書にサインをしなければなりません。
自分の意思で手術を受けます。起こりうるリスクは知っています。ということです。きついなぁ。本当に。

M先生と最終打ち合わせをし、
「手術前には最悪起こりえる事をたくさん言わなきゃならないから怖くなっちゃうけど、そういうことが起きることはめったにないんだよ。大丈夫!」
と言う言葉に救われ、何とか手術当日を迎えることができました。

視野

2006-05-14 00:31:35 | 今までのこと
どちらを選んでも元通りには戻れないんだ。と思いました。
パパはこんな話を聞いても冷静で、取り乱すことも泣く事もありませんでした。
ただ淡々と現実を受け入れようとしていました。
冷静に冷静に、どうすることが一番いいのか考えていたのだと思います。

彼は
「たとえ半分目が見えなくなっても、僕は子供達を大人になるまで見守りたい。完全でなくなっても生きる方を選びたい。」
そう言いました。

何より手術を受ける本人の気持ちが一番大切、その方向で行くことに決めました。

メチオニンホット

2006-05-14 00:30:49 | 今までのこと
さてメチオニンPETの結果が出ました。
これで手術の詳細が決まります。
この検査結果素人の目にも非常にわかりやすいもので
最も活動の激しい部分が赤く見えます。
この部分をメチオニンホットと言います。
その次が緑でその次が青だっだかな?多分。
赤い部分はやるからには絶対とらなければいけません。

うちの場合赤の部分はとっても大丈夫なところでした。
でも緑は、やはり視野の部分に引っかかっていました。
「これを全部とると視野が半分欠けます。」
「視野を守って取り残せば、再発の可能性が高まります。」
ということでした。

欠けた視野は二度と戻ることはない。リハビリなどで治る種類のものではないという事を言われました。