脳腫瘍に負けない!!闇を抜けて君に幸あれ 

48歳で脳腫瘍を発病したパパを応援する妻、ちぇぶの日記です。

魔法の薬

2006-05-14 00:48:25 | 今までのこと
テモダールを入手して飲み始めました。
飲んだその日から劇的な変化が現れました。
パパの歩く速度が速くなり、体が傾かなくなり
ネクタイも上手に結べるようになりました。
効かなかったらどうしようという不安がまず吹っ飛びました。
これだけ症状が良いんだから悪くなってるはずがないと確信しました。

MRIにも良い結果が徐々に現れ、今に至っています。
主治医は魔法の薬ではないから・・・といいますが、
私たちにとっては確かに魔法の薬になりました。
パパは今では発症前とほとんど変わらぬほど元気になっています。
神様に感謝しています。
この幸せがずっとずっと長く続きますように

救い

2006-05-14 00:47:04 | 今までのこと
あの電話がなければ私は持ちこたえられなかったかもしれません。
その日、家族を会社と学校に送り出し一人で家にいました。
一人になると涙が止まりません。
悪いことばかり考えます。
電話は近所に住む友達からでした。
当時それほど親密にしていたわけではないのですが、彼女は電話に出た私の第一声を聞いて「おかしい」と気づいてくれました。
「どうしたの?」ときかれ言葉に詰まりました。
「とにかく一緒にお昼を食べよう」と私を誘い出してくれました。
会って顔を見てこれは尋常ではないと気づいた彼女はとにかく話をしてみてといいました。
ことの一部始終を話すと、彼女は私の背中に手を当てて全部聞いてくれました。
その手がとても温かかったのを今も覚えています。
そして、「とにかくあなたが倒れちゃしょうがないんだから、病院に行きなさい。」と言いました。
「どこでもいいから良く知ってる病院にいって落ち着ける薬をもらってよく眠りなさい。」と言いました。

私は次の日彼女に言われたとおり病院にいきました。
なんと子供のかかりつけの小児科です。
そこの先生は年配の女性で厳しいけれども温かいとても素敵な人でした。
先生に全部話しました。夫の病気のことも子供を抱えて不安で不安でたまらないことも。
先生は言いました。
「その状況なら、そんな風になるのは当たり前です。」
「とにかく眠らないといけないから、落ち着ける薬を出すから今夜これを飲んでぐっすり寝なさい。」と
「この先もっと大変なことがあるかもしれないけれど、そのときになればそのときちゃんとどうにかできるから、人間はそういう風にできているのよ。」と
「あなたは自分の体をいたわらなければいけないのよ。今できるのは自分の健康管理をすることよ。」と

気持ちがすっと軽くなりました。
「そのときになればちゃんとできる。人間はそういう風にできている。」この言葉になぜかものすごく救われました。
その夜先生からいただいた薬を飲んで次の日目覚まし時計が鳴るまで久しぶりにぐっすり眠ることができました。

ぐっすり眠った次の日私はあることに気づきました。
もしも私が死んでしまってもこの状況は変わらない。
今まで私が抱えてきた不安や恐怖を今度は娘が抱えることになるんだと。
なぜそんなことに気づかなかったんだろう。
大切な大切な子供たちにこんな思いをさせるわけにはいかない。
やっぱり私が頑張らなくちゃ。
子供たちのために元気でいなくちゃ。そう思うことができました。

久しぶりに落ち着きを取り戻し冷静に考えることができるようになって
私は新しい恐怖を味わいました。
こんな大事なことも忘れてしまう。
命より大事な子供たちのことも考えなくなり終わらせたいという気持ちに支配されてしまう。これが鬱か・・・と思いました。
鳥肌が立ちました。
気づかぬうちにとんでもないことになっていました。
危ないところで気づいてよかった。
友の電話に感謝です。
もちろん彼女は今も私に寄り添っていてくれてつねに私を励ましてくれます。
こんなところで思いがけず親友をゲットしてしまいました。
神様にも感謝です。

もしかして鬱だった?

2006-05-14 00:46:40 | 今までのこと
手術はいやだ。薬は高額。しかも自力で個人輸入。
効くかどうかもわからない。
パパは日に日に弱っていく・・・。
どっちに進んでも事態は好転しないように思えました。
私の父が毎日のように
「考えていても泣いていても良くはならない。子供たちのためにしっかりしろ。」
と毎日のように言ってくれましたが私の心には届きませんでした。
私の心のなかにあった言葉はただ一つ
「終わりにしたい。終わりにしたい。もう終わりにしたい。」
それだけでした。
どうしてもこの状況を受け入れることができませんでした。
終わりにするってどういうことか
本気で死にたいと思いました。
何とかして生きようとしている夫の隣で私は確かに死にたいと思ったんです。
家族全員で死んでしまおうか。
独りで逝ってしまおうか。
毎日そんなことばかり考えていました。
楽になりたかった。
1日が終わると何事もなかった今日に安堵して一応眠ることができました。
しかし、朝が来るのが怖かった。
何かあるかもしれない新しい1日が来るのが怖かった。
変わってゆく夫を見るのがつらかった。
怖くて怖くてたまらないのに日の出前に目が覚めてしまう。
毎日震える思いで目を覚まし、家族がおきるまで1人きりで泣きました。
そんな時一本の電話がかかってきたのでした。



命の値段

2006-05-14 00:45:20 | 今までのこと
ものすごく厳しい状況に目の前が真っ暗になりましたが
倒れてなんかいられません。
私たちには時間がなかった。決断は速かったです。
パパの気持ちが一番大事です。
どうしたいかが最大の決め手になりました。
彼は「手術をしたら一家の大黒柱ではなくなるということだよな。」
と言いました。
「手術をしてもまた再発するかもしれないんだよな。」
とも言いました。
そんな手術には踏み切れない。効くと信じてテモダールにかけようということになりました。

しかしここにも重大な問題が・・・
テモダールは未承認の薬です。
多くの人が認可を待つのに今なお認可されていません。
主治医はこの薬の入手には手を出せないと言いました。
あくまで患者が個人輸入して自分の意思で飲むということだと。

家に帰ってPCで個人輸入の方法を探しました。
対応しているところを2軒ほど見つけましたが、
値段にびっくりです。
夫の場合1ヶ月に40万円という金額になります。
(人それぞれ体重、症状などによって飲む量が違うらしいです。)
夫の命に値段がつきました。
1ヶ月40万円
命の値段としては安いかもしれないけど、
一般サラリーマン家庭にとってはかなり無理のある数字です。
私の心は壊れる方向へとまっしぐら。
思えばこのころの私は危なかったと今になって思います。

再発

2006-05-14 00:44:16 | 今までのこと
結果は厳しいものでした。
手術から約半年、退院から3ヶ月速すぎる再発でした。
手術をすれば左半身は完全に麻痺、視野は半分になり
社会復帰は不可能。
その手術を2週間後にするといわれました。
手術を受けてもまた再発する可能性がなくなるわけではありません。
今たって歩いて笑って話をして、会社にだって行っているパパに
あまりにも厳しい宣告でした。

私たちは手術以外の方法はないかと医師に問いました。
ほかに方法があるとすれば未承認の薬テモダールにかけるしかないといわれました。
しかしこの薬は効く人には効くけど効かない人には効きません。
これが効かなかった場合は間に合わなくなる可能性もあるといわれました。

パパの様子が

2006-05-14 00:43:12 | 今までのこと
5月の連休明けにパパは会社に復帰しました。
入院していたときや自宅療養していたときには気づかなかったことが
いろいろ出てきました。
肌着の後ろ前がわからない。ネクタイが結べない。
朝の身支度に今までの倍以上の時間がかかります。
朝そんな姿を見てしまうと彼が帰ってくるまでずっと
電車にはちゃんと乗れてるだろうか?
仕事はちゃんとできてるだろうか?
道に迷っていないかな。
心配はつきません。

1ヶ月たち日常生活にそろそろ慣れてきたかなと思うころ
徐々に新しい心配事が増えてきました。
パパなんとなく曲がっています。
左肩がどうしても下がってしまう。
Yシャツのボタンがずれているのに気がつかず
その上にネクタイを結んでしまう。
鏡を見てもおかしいことに気づきません。
動きはどんどんゆっくりになり
なんだか20歳くらい年をとったように見えました。
ご飯を食べるときに左手を使わなくなりました。
一つ一つは些細なことでも
気になって気になって仕方ありません。
そんな日が続き、7月の末にMRIを撮りました。


マクロビオティック

2006-05-14 00:42:36 | 今までのこと
そのころ私はパパの体のために何かできることはないかと
必死になって探していました。
インターネットや本を読んでみると、末期がんから生還した人たちの話がたくさんありました。
どうも食事が大事らしい!自分にもできることがあるかもしれないと思うと
私はここにのめり込んでいきました。
玄米菜食にすれば治る。そう信じてしばらくの間この食事を続けました。
料理が好きだった私は体によくておいしいものをと一生懸命勉強しました。
でも今まではどうやったらおいしいくなるか。を考えてたのに
使ってはいけないものが多すぎて、作る私も苦痛、食べる夫も辛い
という結果になってしまいました。
もともとやせていた夫の体重はどんどん減っていきました。
これで本当に大丈夫なのかな?不安になりまたいろいろ調べ始めました。
すると玄米菜食で栄養失調になりなくなった方もいることがわかりました。
何事も極端はいけないんですね。
最初は何でもこれならいけるんじゃないかと思い、10冊本を読めばその気持ちは確信に変わります。
しかし100冊本を読めば必ずまったく反対のことを書いている人もいるのです。
たとえば塩をたくさん取ったほうがいいという人もいれば塩は絶対にダメだという人もいるのです。
大切なのは著者たちは私や私の夫を見て書いたわけではないということです。
結局自分にあった方法は自分で考えて選ぶしかないんだということを学びました。

退院後

2006-05-14 00:41:25 | 今までのこと
退院してしばらく自宅療養をしていたパパは毎日家の周りを散歩したり
お昼寝したり、近所にお買い物に行ったりのんびりとすごしました。
しばらく体を慣らしてから会社に復帰しようと毎日一生懸命でした。

退院

2006-05-14 00:40:44 | 今までのこと
いよいよ待ちに待った退院の日がやってきました。
この年は桜の開花が遅く、4月5日小学校の入学式にはまだ5分咲きくらいでした。
4月8日パパの退院をまるで待っていたかのように桜の花は満開になりました。
私達の街は遠くからわざわざ見に来る人がいるくらい桜並木が見事なんです。
家に着くとパパは言いました。
「あ~生きて帰ってこれた。」って
「よかったね、よかったね。」って2人で喜びをかみしめました。
子供たちも学校から帰ってきて、
「パパお帰り~。」ってよろこんではいるんだけど、なんか不思議な感じで
飛びつくとかではなくなんか普通に普通にしていたように思います。

退院してみると、発作後の混乱は嘘のように消えました。
いつもの穏やかなパパに戻っていました。
『もう本当に病院がいやでたまらなかったんだなぁ』と思いました。

2人で桜並木を散歩しました。桜の花の香がしました。
幸せな気持ちになりました。
『家族がそろうっていいな。』って思いました。

精神科

2006-05-14 00:39:00 | 今までのこと
次の日精神科の予約を取ってもらって受診することになりました。
「パパには入院が長くなっているから、精神的に疲れてきているみたいだって先生心配してたよ。精神科のプロの先生に話を聞いてもらうだけで気分が楽になることもあるってよ。」と言いました。
嫌がるかと思ったパパは以外にもあっさり
「そうしてみるよ。と言いました。

精神科の先生は一人ずつの話を聞きたい。と言いました。
まずパパから診察室に入りました。
10分ほどして診察室から出てきました。
次は私の番です。心配な事を手短に話し説明を受けました。
「おそらく発作の影響で脳の皮質の問題だろう。」と言うことでした。精神的なものが原因ではないように思う。大きな痙攣の後に感情の抑制がきかなくなることはわりとよくあることですよ。ということでした。
少し安心したところに、診察室のドアをガンガン叩く音が聞こえました。
パパがドアを開け
「まだ??早く部屋に帰りたい。早く帰りたい。なんか目の前が暗くなってきた。
視野が狭くなったみたいだ。早く帰る。早く帰る!」と叫んでいます。
私はあわてて病棟に連絡し、お迎えに来てもらえるように頼みました。
迎えの看護助手さんが来るまでの間、待合室のソファに横になるパパの手を握り
「大丈夫だょ。私がそばにいるから。」と繰り返し言い聞かせました。
病室に着くと落ち着きを取り戻したパパは「目はもう大丈夫だ」と言いました。

今思うとあの時パパはやはり精神科という場所にいることが耐えられなかったのではないかと思います。「目の前が暗くなった。」と言うのも嘘だったかもしれないとさえ思います。
だってその事をその後彼は主治医に隠し通したんですから・・・

主治医の先生と話をしました。
「もう早めに退院した方がいい。化学療法の1回目が終わったらすぐ退院することにしよう。」と言いました。
「そのあいだも奥さんが病院に来たらなるべく外に連れ出すようにしてください。病室にずっといるストレスが取り除ければずいぶん違ってくると思うから。」
と言うことでした。
「確かに発作の後で興奮しているということはあるけど、精神的にもかなり追い詰められていると僕は思います。同室の人も仲良くしてた人はみんな退院しちゃって、今は割と状態の良くない人が多いから、話相手もいないんだよね。本当は心の中を全部話せるカウンセラーがついていてくれるといいんだけど、今この病院にはそういうのが得意な精神科医がいないんです。」
「彼が一番信頼しているのは奥さんと僕です。でも僕も病棟にいける時間はほとんどないし、話を聞いてあげることができない。退院していい空気を吸って家でのんびりすれば大丈夫、よくなりますよ。」と先生は言いました。
「退院後も2週間ごとに通院はするし2ヶ月に一回くらいはゆっくり雑談できる時間をとるようにします。」と先生は言ってくださいました。

それから退院まではなるべく子供達を病院に連れて行くことにして、みんなでお茶を飲みに行ったり、スーパーに買物に行ったり、病院の外で食事をしたり、とにかく病室にいる時間を少なくするように心がけました。
退院が決まったこともありパパは見る見る元気を取り戻しました。