HIZAKURI

旧東海道踏破の覚書、ただし日本橋から箱根まで

江戸時代の小田原城は?

2014年08月12日 | 平塚宿-大磯宿-小田原宿

さあ、小田原まで来たうえは、我々HIZAKURI隊も小田原城に登城せねばなりますまい。
ということで、板橋見付は諦めて方向転換、小田原城へと向かいました。

↑やってきました小田原城。天守閣

小田原城と言えば北条五代。このあたりのことは戦国フリークさんにお任せしまして、江戸時代の小田原城に関するエピソードはないのかな?
調べてみると、まず出てくるのが元禄時代の大地震(1703年)によって、天守閣はじめ多くの建物が倒壊したということ。天守閣は宝永3(1706)年に再建されました。現在の天守閣は、この宝永の再建時の図面を基に、昭和30(1965)年に鉄筋コンクリート造りでよみがえったものです。

↑銅門

城郭の規模も、北条氏の時代からすると随分と縮小されたようです。北条時代の小田原城は、それこそ大阪城を凌ぐほどの縄張りだったようですが、天下泰平の世ともなると、そんな巨城、幕府にしてみれば、かえって物騒なだけだったのかもしれませんね。

↑常盤木門

戊辰戦争時の小田原藩は、大いにバタバタしました。幕末の藩主は大久保忠礼(ただのり)。幕府から京都警衛や甲府城番を任せられたりしましたが、上方から官軍がやって来ると、忠礼はこれに従いました。小田原に官軍の本営が進んだ際には、自ら警護の指揮を執ったそうです。
ところが、幕府の軍勢が小田原・箱根に向かうと、幕府側が優勢との情報が流れ、一転して幕府側に味方しました。しかし、なんとその情報が誤報だと知れ、すぐに官軍に再恭順しましたが、忠礼は謹慎、そして隠居。領地も減らされて僅か10歳足らずの養子・忠良(ただよし)が小田原藩を相続したのでした。忠礼殿、早まりましたなぁ…。

↑殿様気分(?)で天守閣から相模湾を望む

幕府としては、西から攻め上がってくる敵に対して、天下の険・箱根と難攻不落の小田原城で食い止めるべく、此処に譜代重臣の大久保氏を配したのでしょうが、結局、思惑通りにはならず、小田原はあっさり官軍の手に。まぁ、井伊直弼亡き後の彦根藩も官軍として参戦したご時世ですから、仕方なかったのでしょうか。もっとも彦根藩は、安政の大獄や開国による攘夷派との軋轢など、一連の責任を幕府から押し付けられた恨みみたいなものが、相当強かったとも聞きましたが…。

↑取り壊し中の小田原城。栄枯盛衰ですなぁ…

さて、明治になると、多くの城が破却・売却されましたが、小田原城もそのひとつでした。廃藩置県後、城の維持管理など、とてもできなかったのでしょうね。天守閣、城門などは取り壊され、天守台には藩祖・大久保忠世を祀る大久保神社が建立されたそうです(明治33年に市内城山へ遷宮)。
その後、小田原御用邸が城内に設けられたり(関東大震災で倒壊)、二ノ丸や石垣の復元・整備が行われたりしながら(予算の関係で、江戸時代より規模が縮小されたそうです)、戦後、小田原城址公園となり、そして天守閣の復元と相成りました。


エピソードの派手さは戦国時代には及ばないものの、地震あり、富士山の噴火あり(小田原もかなりたいへんだったそうです)、戊辰戦争あり、破却あり…江戸時代の小田原城も、調べてみるとそれなりに波乱万丈のお城だったようでした。

-H-



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