空腹も満たされたところで、さて酒匂川。

今まで通過してきた六郷川、馬入川は船渡し、そして此処・酒匂川は徒歩渡しとよく言われますが、実際に徒歩渡しが行われたのは3月15日から9月15日の半年間だったそうです。9月16日から3月14日までは川に仮橋が架けられ、旅人はそれを利用して川を渡っていました。そして3月15日の早朝には橋が壊され、また徒歩渡しの季節到来…となりましたそうで。
徒歩渡しにも様々な方法がありました。代表的なものとして、
手引き渡し…人足に手を引かれて歩いて川を渡る。
肩車渡し…人足に肩車されて渡る。
輦台渡し…人足が担ぐ輦台に乗って渡る。



渡し賃としては手引き渡しがいちばん安く、肩車渡し、輦台渡しの順で高くなります。
輦台渡しは、輦台そのものの料金(輦台にも種類がありました)に人足の人数分ですからね。大名かお金持ちのみ利用可、といったところでしょうか。ただし、渡し賃さえ払えれば、身分によっての制限はなかったようです。
もちろん、水位によっても渡し賃は違ったようです。
肩車渡しの場合でも、水位が高くなれば、補助のための人足をもうひとり雇わなければならなかったり。
とある旅日記には
「こしかたぐるま47文(=約940円)」
と記されているそうです。馬入川の渡し賃(10文=約200円)より、かなり割高ですね。
ちなみに、酒匂川が川留になる基準は、水位が胸のあたりを越えたら…ということだったそうです。
それでは酒匂川を渡りましょう。
今は(此処を通過したのは12月でした)、ちょうど仮橋が架かっていた時期です。堂々と橋を渡れますな。



無事に酒匂川を渡りました。これでもう小田原宿は目と鼻の先。
【新田義貞の首塚】
酒匂川を渡ってすぐ、街道から少し海側へ入った場所に新田義貞の首塚があります。住宅街の一画にあるので、少々わかりづらいかも。

義貞は越前(福井県)で戦死し、その首は晒しものにされましたが、家臣・宇都宮泰藤が奪い返したそうです。宇都宮さん、義貞の生まれた上野国(群馬県)に首を持ち帰ろうとしたのですが、この地まで辿り着いたときに病のため動けなくなり、やむを得ず葬ったのが首塚のある場所だとか。


戦死した義貞はもちろんですが、宇都宮さんもさぞ無念でしょうね。群馬県か…まだまだ遠いなぁ…。合掌。
新田義貞の首塚を訪れるために街道から海側に逸れた一行、どうせなら海を見に行こう、ということになりまして。西湘バイパスの下をくぐり抜け、小田原の浜辺へ!

遠い南蛮の国々へ想いを馳せたHIZAKURI隊一同、海辺を離れ再び東海道へ向かいますが、その途中、さらに寄り道を。
【上杉龍若丸の墓】
上杉龍若丸?誰??
調べによると、龍若丸は関東管領・上杉憲政の嫡男で、上杉氏の居城・平井城が北条氏康に攻囲された際、和睦の使者として氏康のもとを訪れましたが、捕われの身となり首を刎ねられたそうです。僅か12、3歳だったとか。哀れに思った小田原の人々が供養塔をたてたのがこの場所だそうです。

この小さな社を撮影して案内文を読んだりしているとき、たまたま通りかかった近所の方が社の扉を開けてくれました。

大森藤頼、新田義貞、そして上杉龍若丸。
本日のHIZAKURIは、こういった無念のうちに散った、もののふの想いも連れて旅するかのようです。
さあ、東海道に戻った一行、山王川を越え、いよいよ小田原宿に到着か!…と、その前に最後にもう一ヶ所だけ。
【山王神社】
この近辺の山王原村の鎮守さま。秀吉による小田原攻囲戦の際には、徳川家康が日々参詣したとも。もともとはもっと南寄りにあったそうですが、大波で被害を受け、此の地へ移ったのが江戸初期のことでした。

此の地へ移転する前、神社には「星月夜の井戸」がありました。水面に星や月が映るほど澄んだ井戸だったのでしょうか?謂われを調べてみたものの、よくわかりませんでしたが、響きがロマンチックですなぁ。この井戸に因んで、神社は「星月夜の社」とも呼ばれたそうです。
移転したあと、井戸も作られ、「星月夜の井戸」の名を引き継ぎました。

星月夜の井(戸)といえば、鎌倉にあるものが有名のようです。今はこちらも塞がれているそうですが、昔は昼間でも星を映したとか。
そして、山王神社を出ると、
いよいよです。
ついに到着!
江戸を発ってから9番目の宿場町・小田原宿です。


小田原は城下町と宿場町を兼ねた地です。宿場はもちろん、天下の名城・小田原城関連も見どころ盛りだくさん、といったところでしょうか。
次回は宿場とお城に果敢に挑む所存です。
-H-
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