川崎宿をめぐったついで、というわけでもないけれど、
川崎宿本陣コレクションのはじまり、はじまり。
で、川崎宿の本陣は3軒。
上方から、佐藤本陣(上の本陣)、惣兵衛本陣(中の本陣)、田中本陣(下の本陣)。そのうち惣兵衛本陣は江戸後期に廃業したそうですが、それでも一時期、ひとつの宿場に本陣が3軒もあったことに。他の宿場に比べてちょっと多すぎない?本陣2軒は結構あるようですが…。
何故、川崎宿に3軒も本陣が置かれたのかな?
多摩川が川止めになった際のことを考えて…でしょうか。或いは大名や幕府役人たちの川崎大師への参詣も見込んで?
そういえば、川崎宿の脇本陣ってどこにあったか聞かないですね。脇本陣がない代わりに、本陣が3軒だったのでしょうか。
それはさておき。
せっかくなので、川崎宿本陣を一挙にどうぞ。
【佐藤本陣】

3軒のうち、いちばん京側(上方)に在ったので、「上の本陣」とも呼ばれました。また別名「惣左衛門本陣」とも。
現在のいさご通り、川崎信用金庫の向かいあたりにあったそうです。他の2軒が案内板が建っているのに対して、佐藤本陣は跡地にある店舗(セブンイレブンのお隣)のガラスに、さりげなく説明文がはめ込まれているので、ちょっと見つけにくいかも。
佐藤本陣でよく話題に出るのが、詩人・佐藤惣之助。
誰、それ?
って感じですが、あの「六甲おろし」の作詞者だそうです。「六甲おろし」ならプロ野球ファンなら良くも悪くもお馴染みですね。彼、阪神ファンだったのかな?
【惣兵衛本陣】

佐藤本陣と田中本陣の真ん中にあるので「中の本陣」。
江戸後期に廃業したそうですが、或る意味名誉職だった本陣は、経済的にはたいへん苦しかったといいます。大名が宿泊するから礼金がっぽり…なんてのは甘い甘い。
「これ、世話になるのぉ。これは褒美の品じゃ。代々家宝として大切にいたせよ」
「ははぁ~ありがたき幸せ」
といった感じで、宿泊費代わりに扇子一本が下賜された…なんてこともあったらしいです。
う~ん、絶対に泣きたくなる。
まぁ、これは極端な例でしょけど、実際は宿泊で2万円~10万円、休息だけなら1万円~2万円程度だったとも(大名の石高や、時代によっても変動が在ったようです)。
とは言うものの、大名が泊まればそれなりに接待はするでしょうから、不足分は本陣の自腹ということ。割に合わない「商売」だったのかもしれませんね。
【田中本陣】

川崎宿の本陣と言えば、やはり田中本陣でしょう。いちばん江戸側に在ったので「下の本陣」と称されました。
江戸中期に家督を継いだ田中休愚は、川崎宿再興の立役者。それまで江戸町人が請け負っていた六郷の渡しの運営を川崎宿が譲り受けることに成功し、その渡し賃の収入が、傾きかけていた宿場の経営立て直しに大きく寄与したそうです。
そう言えば、三角おにぎり発祥の地はこの田中本陣とも。三角に作ったおにぎりを3つ並べて葵の御紋に見立てたとか。
そんな田中本陣も、江戸後期にはすっかり廃れていたようで、幕末、江戸へ向かうアメリカ総領事ハリスは、急遽宿泊を此処から万年屋(旅籠)に変更したのは、地元では有名な話。
しかもハリスさん、
「万年屋に変更して本当に良かったマンネン」
と言ったとか(多分、英語でね)。
惣兵衛本陣でも見たように、本陣の経営は私たちが思っている以上に厳しかったのでしょうね。
川崎宿は、当時の面影が皆無に近いので、あとはいかに想像力を働かせるかです。
街道沿いある「東海道かわさき宿交流館」「砂子の里資料館」に寄ってから、宿場内を探索してみると、イメージがわきやすいと思います。
以上、川崎宿本陣コレクション、これにて、おしまいでございまする。
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