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HIZAKURI

旧東海道踏破の覚書、ただし日本橋から箱根まで

まず、小田原宿のあらましを

2014年08月07日 | 平塚宿-大磯宿-小田原宿

さて、小田原宿。
此処は1601年に成立した、江戸から9番目の宿場町。そして江戸から来ると初めての城下町。小田原城というと北条氏五代が真っ先に浮かびますが、家康が関東に入国すると大久保氏が治めました。1614年に大久保忠隣が失脚・改易された後、城番時代、阿部氏・稲葉氏の治世を経て、再び大久保氏が小田原藩主として返り咲いたのは1685年のことでした。


地図で見るとおり、小田原宿は城の南側、海に沿う形で形成されています。
江戸から来ると、箱根越えの前に此処で宿泊し翌日に備え、また箱根を越えて来た旅人もその疲れを癒すため小田原に宿を求めたので、とても繁盛した宿場町だったそうです。本陣4軒、脇本陣4軒、問屋場2ヶ所、旅籠95軒を数え、宿場内の人口は5,400人、家数1,500…(江戸後期)、東海道中でも屈指の規模を誇りました。

↑昔の町名ごとに標柱が建てられています。

街道に沿って、昔の町名ごとに標柱が建てられ、側面には町名の起こりや謂われが記されています。街道歩きの際、これはとても助かりますし勉強になります。
では、本陣やら問屋場やらを探してみようか…となるのですが、ところがなんと、それがいっこうに見当たりません。今まで歩いた宿場には案内板とか説明板が出ていたのですが、此処、小田原宿にはどうやらそれがないようです。本陣はかろうじて見当をつけましたが、問屋場や高札場はついに発見できませんでした。

…これはちょっと残念。

きれいな標柱を建て、昔ながらの家屋も残し(復元し)、東海道をアピールしているようにも思えますが、肝心なところが…。もっとも、何処に問屋場があったのか、とか、高札場の場所は…なんていうマニアックな(?)人は、案外少ないのかもしれませんね。

しかし!
マニアックな(??)我々、HIZAKURI隊は妥協を許しません!!

問屋場がわからないのなら、せめて本陣だけでも!と意気込みましたが、本陣についてはまた次回以降で。


【江戸見付】

小田原宿の入り口です。弥次さん・喜多さんは、酒匂川を越えてすぐに、旅籠の客引きに捕まっていますが、それは此処・江戸見付よりも外側だったのでしょうね(多分)。


【小田原の一里塚】
↑江戸から20番目です

酒匂川方面から来て、国道1号線の右側に江戸見付の案内板があり、そのちょうど反対側に一里塚の碑があります。ここも一里塚の面影はなく、案内板と石碑のみです。
案内板によると、江戸時代の記録(相模国風土記稿)に、
「高さ6尺5寸、幅5間、塚の上に榎が在ったが枯れてしまったので、今は松の小樹が植えてある。昔は対の塚だったが、今では片方しか残っていない。多分、街道筋が変わった際に、海に没してしまったのだろう、云々」
と記されているようです。片方は海の藻屑なんだ…。


【問屋場】
↑江戸口の問屋場が在った高梨町

↑上方口の問屋場が在った中宿町

問屋場は、高梨町と中宿町の2ヶ所に在ったとのことです。高梨町も中宿町も旅籠が集中している宿場の繁華街でした。


【脇本陣】

清水家が経営する本陣の脇に在りました。本陣を「大清水」、脇本陣を「小(古)清水」と呼んだようです。資料館がやっているのかどうかは定かではありません…。
そう言えば、弥次さん・喜多さんが、小田原宿で旅籠の客引きに捕まった際、
「小田原では小清水か白子屋に泊まるつもり…」
と言っています。


【高札場】

高札場は宮前町に在ったそうです。此処は地理的にみると宿場のちょうど真ん中あたり。小田原城の大手門にも近く、高札場としてはうってつけの場所だったのでしょうね。


【上方(板橋)見付】
↑丁寧な案内板があります。

国道1号線と旧東海道が分岐する地点が上方見付です。ここから外は板橋村でした。城下町でもある小田原らしく、上方見付は小田原城の石垣・城壁で固められ城門が設けられていたそうです。

↑交差点の名称にも。


そんなところで、まずは駆け足で小田原宿のカナメをご紹介しました。
カナメと言えば、本陣。
本陣は次回、まとめてご案内予定でございます。

-H-



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