幕末、神奈川宿には日本と通商条約を結んだ各国の領事館が置かれていました。今回は、その領事館を一気に巡ってみましょう。
その前に、幕末の外国との流れをおさらい。では、中学・高校の日本史の授業を思い出して。
1853年
アメリカのペリーが艦隊を率いて浦賀にやってきました。世に言う黒船来航です。
バーン!と来て、
ドドーン!!と大砲をぶっ放して、
じゃあな、あばよ!!!
…と帰っていきました。
要するに、条約を結んで仲良くしましょう、来年、返事を聞きにまた来ますね。とのこと。
突然の黒船の来航に、日本中、大パニックだったようです。
でも、突然と言いながら、実は幕府首脳は半年も前から、ペリーが日本に向かっているという情報を掴んでいたとも。大衆に隠していたなんて、まるでUFOの存在を隠蔽している(?)現在のアメリカ政府みたいなもの?
1854年
約束通り再来日したペリーとの間で、日米和親条約が結ばれました。
1858年
アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ロシアの5ヶ国と修好通商条約を結びました。関税自主権がないとか、治外法権を認めたとか、いわゆる不平等条約。歴史の教科書に出てましたね。
そしてその結果として、5ヶ国のうち、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスの領事館が神奈川宿に置かれることになりました。ロシアの領事館は函館だったそうです。
思い出しましたか?それでは、いよいよ領事館巡りに。
【オランダ領事館-旧長延寺】

長延寺というお寺がオランダ領事館に充てられました。現在は跡地が公園になっています(京急神奈川新町駅に隣接しています)。また、門前が神奈川宿の江戸見付に当たるそうです。宿場のはずれだったということですね。
オランダは、鎖国をしていた江戸時代でも、西欧で唯一交易が許されていた国。他の国に比べたら、少しは親近感もあったでしょうか?
長崎のオランダ商館から神奈川宿長延寺へ拠点を移してきたのは、現在で言えば、昔の知人(でも、あんまり親しくはない)が遠方から近所に引っ越してきて、「今まで以上に、仲良くしようね」って言われたような感じかな?
【フランス領事館-慶雲寺】

フランス領事館は慶雲寺に置かれました。幕末のフランス公使としてレオン・ロッシュが有名ですが、初代のフランス領事はベルクールさん(のちに公使に昇格)でした。フランスは軍事顧問団を送るなどして幕府を援助しましたが、戦局が新政府側に有利になるにつれて方針を見直し、ロッシュは更迭されたそうです(トカゲの尻尾切りは今も昔も…)。
そうそう、このお寺は浦島太郎ゆかりの寺としても有名で、全国各地に残る浦島伝説が神奈川にも在るぞ!と主張しています。慶雲寺としては、フランス領事館云々…よりも、こちらをイチオシにしているようです(まぁ、アピール度としてはそうなりますよね)。
【イギリス領事館-浄瀧寺】

イギリス領事館は浄瀧寺に。イギリスは薩摩・長州に肩入れし、諸外国で明治新政府を最初に認めた国なんだそうです。幕末の外交官としてパークスが活躍した時には、領事館はすでに浄瀧寺から移転していました。
【アメリカ領事館-本覚寺】

開国の立役者・アメリカの領事館は神奈川宿を見下ろす本覚寺に置かれました。初代領事は教科書でもお馴染みの、タウンゼント・ハリス。なんと、彼は自ら望んで(自薦で)駐日領事になったのだとか。黄金の国ジパングにどんな夢を見たのかな?
そう言えば、此処を領事館として使用するにあたり、山門をペンキで塗ったそうですが、これが日本でのペンキ使用の最初とか。お寺もびっくりしたでしょうね。
「なんて罰当たりな!喝っっっ!!」
という住職の怒りも、アメリカ人には
「△@X●◎Д☆!※!???」
なんて感じだったのでしょうか?それとも通訳に
「コレハ、亜米利加ノ漆喰デス。ドウカ、オ気ニナサラズ」
とでも言わせた?
私も、現在も微かに残るというペンキの跡を確認してみようと思いましたが…わかりませんでした。そもそも見る場所が違っていた可能性も?
また、門前には岩瀬忠震(いわせただなり)のレリーフがあります。忠震は幕府の代表としてアメリカと開国の交渉に当たり、江戸や品川を開港せよというアメリカの主張を断固として拒絶し、横浜を開港地とすることで折り合いをつけたのだそうです。
開国により、良くも悪くも神奈川宿は随分と影響をうけたようです。領事館や外国人宿舎として本堂や境内を提供せよという、幕府の依頼(というより命令)を断った寺院もあったとのこと。
神奈川宿に各国が領事館を置いていたのは、ほんの数年。その後、品川や横浜など外交や貿易に有利な地へ移っていきました。
短い期間とはいえ、外交の表舞台にもなった神奈川宿には、領事館に充てられた寺院の他にも、諸外国と関係があった場所はかなりあります。そういったところだけを巡ってみるのも、面白いかもしれませんね。
-H-