紹太寺をあとにして、HIZAKURI隊一行は湯本を目指します。
↑入生田駅付近の東海道
このあたり、なんとものどかな雰囲気で、右手に山、左に川の合間を縫っていくような感じで道は続きます。
【駒ノ爪橋跡】
↑案内板のみで、橋の痕跡は見当たりませんでした
ここに駒ノ爪橋という名の橋があったようです。案内板によると、源頼朝の乗馬が暴れて橋に蹄のあとを残したという逸話があり、後世、旅人はその馬の頑健な足にあやかりたいと祈願したそうです。
【日本初の有料道路】
↑こちらも簡単な案内板があります
これまた案内板によると、1875年、湯本と小田原の板橋間の旧東海道が拡張され、ここを日本初の有料道路としたそうです。人力車は1銭、大八車は7厘、小車は3厘を通行料として徴収されました(1銭=10厘)。「箱根に人力車が通れる道を作れ」と提言したのは福沢諭吉だったとか。
【山崎の合戦場跡】
湯本の三枚橋にかけてのこのあたりは、江戸時代は山崎村でした。ここは、明治維新を迎えた頃、新政府軍と幕府軍との間で激しい戦いがあった地。ちょうど山崎インターチェンジ一帯のようです。どこぞに山崎古戦場の碑があるようですが、道路工事中で近づける雰囲気ではなく断念。
戦いは、小田原藩を中心にした新政府軍と、請西藩主・林忠崇(はやし・ただたか)や遊撃隊を中心とする幕府軍との間で、1868年(明治元年)5月26日に勃発しました。双方とも30名ほどの戦死者を出したそうですが、数にまさる新政府軍の勝利に終わりました。
↑遊撃隊・伊庭八郎。実際に斬られたのは左手首
遊撃隊第二軍隊長・伊庭八郎(いば・はちろう)は三枚橋で敵兵と斬りあい、左手首を斬られながらも奮戦しました。左手首を皮一枚でぶら下げたままの血まみれの八郎の姿に、敵兵も恐れをなして近づいて来なかったそうです。その戦いぶりはのちに江戸にも伝わり、徳川贔屓の江戸っ子たちは大いに溜飲を下げたとか。
戦場を離脱した八郎は左手首の切除手術をした後、函館五稜郭へ渡り、ここでも新政府軍相手に抵抗を続けますが、重傷を負い自決、26歳でした。片手でも戦い続けるその執念、天晴というか、凄まじいというか…。
↑新政府軍との戦いへ出陣する直前の林忠崇
伊庭八郎も悲劇なら、こちらの人物も悲劇でした。請西藩(千葉県木更津市)1万石の大名・林忠崇です。山崎で新政府軍と戦ったとき、僅か20歳。その後、奥州へ転戦し、ここでも新政府軍と交戦、仙台でようやく降伏しました。最終的には彼も五稜郭を目指していたようです。若さゆえなのか、徳川家に対する忠義心と正義感に燃えていたのでしょうね。
請西藩1万石はお取り潰し。あの会津藩でさえ、大幅な領地削減と辺境への転封があったとはいえ、大名としての存続は許されました。戊辰戦争でお取り潰しになったのは、この林忠崇唯ひとり。
それからの忠崇、苦労の連続。旧領に戻っての農業を手始めに、東京府や大阪府の下級官吏を勤め、函館では商家の番頭までしたそうです。小藩とはいえ大名だった者が…。
かつての家臣たちの奔走により、彼の名誉が回復したのは明治27年のこと。ようやく華族としての地位を得ることができたそうです。戊辰戦争から25年以上、辛酸を舐め続けた忠崇でした。
ちなみに彼が亡くなったのは1941(昭和16)年。文字通り最後の大名として、92歳の生涯を終えました。
↑伊庭八郎奮戦の地・三枚橋
そんな彼らのことを想いながら三枚橋に到着。ここから湯本の温泉街です。象ヶ鼻を出発してから1時間20分ほど。途中の紹太寺で時間を割いたとはいえ、順調に歩みを進めるHIZAKURI隊でした。
-H-
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