石垣山城。
苦難の末にたどり着いた城(敢えてあの苦行については繰り返しません)。
途中、何もなかったわけでもなかったのです。

江戸時代、石垣山から江戸城へ運び出そうとして沢に落としてしまい、泣く泣く放棄せざるを得なかった石材だそうです。
【早川石丁場群】

そして朦朧としながらたどり着いたのが石丁場跡。
早川石丁場群と名づけられていることから、此処を含め、広範囲に渡っているのでしょうね。石丁場って、簡単に言えば、城の石垣などに使う石を切り出した場所。此処のものは江戸城の石垣に利用されたそうです。当然、石垣山城にも使われたのでしょうね。
道が高架になっている、その脇から下へもぐりこみます。

石がゴロゴロしている、なんだか荒涼とした一画です。
この辺り一帯で石を切り出し、川を下り、相模湾を船で江戸まで運んだそうです。

石を切り出すために楔を打ち込んだ矢穴が残っています。見事に一直線ですね。
この石丁場を通り過ぎしばらくすると、道は登りから平坦になります。
そしてついに到着!石垣山城。
城の隣に「一夜城Yoroizuka Farm」があります。

此処で食べたアイスクリームの美味しかったこと。
江戸時代、街道をゆく旅人が峠の茶屋で一服するときは、きっとこんな感じだったんだろうなぁって、身をもって体験したHIZAKURI隊なのでありました。
【石垣山城】

小田原の北条氏攻めに際して秀吉が築城した云々…は、城好きさんや歴女さんにお任せして説明省略。でも、小田原城の面々もびっくりしたでしょうね。朝、起きてカーテンを開けたら、家の前に一夜にして高層ビルが出来ていた…そんな感じ?

私のイメージだと、あんまり人も来ないような、荒れ果てた山城だったのですが、小奇麗に整備されています。
もっと即席の、小さな城かとも思っていたのですが、これは、ホントに本格的な城ですね。小田原方に悟られないように築城できたなんて信じられません。人の出入りのチェック、情報統制、箝口令が徹底されたのでしょうね。

ところで、小田原攻めの後、石垣山城ってどうなたんだろう?
調べてみると、あんまり詳しく出てきません。その役目は小田原城攻めだけで終わって、歴史の表舞台から消えたということなのでしょう(小田原開城後も、秀吉が若干は使用したようです)。
江戸時代、一応は小田原藩が管理し、一般人の山への出入りは禁じられていたようです。東海道を旅する人たちにとっては、とくに名所旧跡だったわけでもなく、その存在すら知らなかったということなのかな。

帰りは「通常ルート」の早川駅方面へ下山。
搦め手から攻めて、大手門から凱旋。そんなところでしょうかね~(?)
う~ん…凱旋ね…お疲れ様でした。

-H-