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HIZAKURI

旧東海道踏破の覚書、ただし日本橋から箱根まで

小田原をもうひと巡り

2014年08月13日 | 平塚宿-大磯宿-小田原宿

さすがに小田原は今までの宿場とは違って、規模も大きく、見どころすべてをまわりきれないのが残念です。

【蓮上院土塁】
↑こちらからは柵の中へは入れないようです

秀吉の小田原征伐の際、北条氏が築いた土塁の遺構です。
江戸口見付から東海道を離れ、北側への小道を進むと、その道沿いにあります。現在の小田原城から見るとかなり東側になります。土塁の延長は9キロにもなったそうですが、残っているのはこの蓮上院土塁をはじめ、ごく僅かのようです。北条時代の小田原城の大きさを物語る遺構です。

↑爆撃跡と蓮上院土塁

昭和20年8月13日の空襲で、投下された爆弾が、此処、蓮上院土塁に落ちました。土塁がえぐれた跡がはっきりとわかります。


【報徳二宮神社】
↑小田原城内に建立されています

ご存知、二宮金次郎こと、二宮尊徳を祀る神社。
ところで、ご存知と言いながら、二宮尊徳って何をした人なんだろう?親孝行?勉強家?だから有名なのか?
名前は知っていても、あんまり立ち入ったことは知らない二宮尊徳。いい機会なので調べてみました。

一言でいえば、農業政策に重きを置いた経営コンサルタントでしょうか。
薪を背負って読書をするあの少年時代の像から、よっぽど貧農の家に生まれたのかと思っていましたが、実は裕福な農家の出身なんだそうです。ただし、酒匂川の氾濫で田畑が流され、小さい頃から随分と苦労はしたようです。

彼のサクセスストーリー(?)を簡単にまとめると

①小田原領内の裕福な農家に生まれたが、小さい頃、川の氾濫で家の田畑が流出。
②父母が他界した後、自家の家計を切り盛りし、財政を再建。
③小田原藩家老・服部家へ出仕し、服部家の財政を再建。
④才能を小田原藩主・大久保忠真に見込まれ、大久保家の分家・宇津家(下野=栃木県に領地がありました)の財政再建を任された。
⑤その後、北関東各地の天領・旗本領・大名領の仕置を行う。
⑥その功績により、幕臣に取り立てられた。
⑦下野の天領に赴任中、死去。

ざっとこんな感じでしょうか。
彼が行った財政再建策は「報徳仕法」と称され、各地で疲弊していた農村の再建に努力して、それなりに成果を上げ続けたのですね。

↑本殿

ところで、あの薪を背負った像は、今でも小学校にあるのかな?私の通っていた小学校には、正門前にデ~ンと建っていましたが。そして、夜中に歩き出す…そんな学校の怪談、ありませんでしたか?

↑こちらは成人後の像

余談ですが、小笠原諸島の父島に遊びに行ったとき、戦前、小学校があったといわれる場所に、首なし金次郎の像がありました。その名の通り、首から上がない、薪を背負った金次郎の石像です。地元の人の話だと、戦後、小笠原がアメリカに統治されていた時代、金次郎の像は軍国主義の象徴とされ首を刎ねられたのだとか。撤去するのではなく、首を刎ねて見せしめのようにその場に残しておくとは…。


【北条氏政・氏照の墓所】
↑繁華街にはちょっと場違いな気も…

北条氏四代氏政と、その弟・氏照(八王子城主)の墓所。小田原駅のすぐそばです。秀吉の小田原征伐後、氏政と氏照は主戦派と目され、秀吉の命で自刃させられました。五代目の氏直(氏政の子)はどちらかというと穏健派だったようで、また家康の娘を正室に迎えていたこともあり、命は助けられ高野山に入ったそうです。
氏政は、北条氏を滅亡させた凡庸な武将のイメージがありますが、北条早雲に小田原城を乗っ取られた大森某同様、歴史は勝者によって作られる、ホントのところはどうだったのでしょうかね…。

↑北条氏政。江戸時代になってから描かれた肖像画

ところで、此処は今や隠れたパワースポットなんだそうです。
なんでも、「幸せの鈴」を近くの店で買って、それに願いをかけて此処に結ぶと、その願いが叶うとか…。小田原籠城の際、領民が苦しむのを案じて開城を決意した、氏政の優しい想いが鈴に宿るのだとか。
確かに、鈴がたくさん墓所の周りのフェンスなどに結ばれていました。

↑氏照は八王子のゆるキャラ「うじてるくん」として生まれ変わりました

そうそう、北条氏って、ここで滅亡したように思われていますが、実は江戸時代、ひっそりと大名として存続していました。氏政の子(氏直の弟)、氏規の家系が河内狭山藩1万石の大名として明治維新を迎えています。関東の覇者が1万石の大名…。盛者必衰のあわれを感じます。

-H-



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