今日から9月1日ですね
田圃の稲穂が頭を垂れてツクツクボーシから秋の虫の音にBGMが変わって来ました
小さい頃、9月1日と言うと1年で一番憂鬱な日でした
半分もやらなかった夏休みの宿題
そして9月と言うと運動会の練習
かけっこはいつもビリかブービーの僕は繰り返される練習が嫌でたまらなかった
特に行進練習
マーチに合わせて昔は背の高い者順に行進するんだけど
かけっこがビリの僕は胸を張って行進したくなかった
出来たら後ろの方でうなだれて歩きたかった・・
今日からそんな9月の始まりです
何だか・・人生
詰んでしもうたな
親元を離れて大阪で暮らした2年ほどはあかんかったけど
20歳で上京してからはけっこうスムーズだった
18~9歳で大阪にいた頃
きったないアパートに住んで団体に所属していなかったので
彼女どころか友達もそんなに出来なかった
そんな頃、パチンコ屋で同い年のタケシに出会った
僕と同じプー太郎で気弱な僕よりもっと気弱だった
いつもスカンピンだった僕らは
「バイトでもするか、どこぞに楽な仕事無いやろか」と話していたら
たけしが倉庫番の仕事を探してきた
現在で言うピッキングって言う奴か
「倉庫番てたぶん倉庫の番なんやからたぶん楽やで」
それで労働意欲のまったく無い2人がバイトを始めて
たけしが2日目に
僕が3日目にクビになった
クビにされた、たけしはショックで泣いていた
僕は全然、気にしなかった
たけしが
「やっぱりわしら他人に使われるのはムリやで」
「軽トラ買うて百姓から野菜仕入れて団地で売ろうや」
とか言っていた
たけしとは喫茶店でよく女の子によく声をかけた
「僕らと一緒にちゃ~飲みましょうよ」
とか
ひっかかる娘なんていなかった
僕はこの先また学校に入るつもりだったけど
たけしはどこかに就職を考えていた
そんな時、たけしの的屋の叔父さんがたけしの就職口を探してきた
〇〇興業と言う会社の電話番だった
「電話番ちゅー事は事務仕事やな、そんなの出来るんか?」
と聞いたら
「なんでも最初は掃除や雑用もやるらしいで」
「仕事着も制服も無いしジャージでええそうや」
あくる年僕は上京してたけしとの付き合いも無くなった
たけし・・
どうしているだろう
毎晩つまらんテレビばかりなので
古川琴音ちゃんのムーランルージュのドラマを繰り返し見てたら
ラブ♪ラブッ♪ムーランルージュ~♪♪
と頭の中がラブッ♪ラブ~♪とラブラブだらけになってしもうた
そう言えば若い頃からミュージカル系の映画とか好きだったな
フェームとか何べんか見たし
そう言えば琴音ちゃんアイリーンキャラにどことなく似ているような
フラッシュダンスなんかもおもしろかったし
僕自身踊り系で体を動かす事が好きで24~5歳の頃は毎日仕事が終わると
ジムで3時間くらいエアロビをやってたな
今、エアロビやったら‘死ぬ.けど
何年か前、いつもの散歩コースにある倒壊寸前の道祖神に車が突っ込み
車の保険金で祠が新調されて立派に蘇ったことがあった
他所さんのブログを見ていたら同じような事が別のお地蔵さんの祠にもあり
おまけにそれまで首の取れていたお地蔵さんまで修復されたらしい
道祖神もお地蔵さんも江戸時代に作らたらしいけどちょっとした神通力が備わっているのかな
今から50年以上も前・・
僕が8歳位かな
台風の後、いとこ達と浜に泳ぎに行っておぼれた事があった
都会から遊びに来ていた大学生に助けられたんだけど
あの大学生がいなかったら今頃、僕自身があの浜辺の岩場の隅でお地蔵さんになっていただろう
お地蔵さんになった僕は台風がきて風雨にさらされたり
灼熱の日に泳ぎに来た観光客やビキニの女の子を眺めたりして
いつの間にやらお地蔵さんになった僕の事はすっかり皆の記憶から忘れ去られて
僕の魂は暗い海の底で(助けて!)と叫びながら
どうやってもたどり着けない岸を恨めしくもがいているだろう
今日は京都の祇園祭の宵宮だな・・
今年こそ行こうと思っていたのに
前に祇園祭に行ったのは40年以上前の18歳の時
あの頃、僕は通っていた芸術系の専門学校を辞めて
改めて大学受験を受けなおすべく予備校に通いだした時だ
一緒に行ったのは専門学校で知り合った友人2人と3人で行った
一つ歳上の小林君ともう一人は忘れた
友人2人とはその日を最後に会ってない
だからあの日の祇園祭はそれぞれの道を歩みだした別れの日だった
蒸し暑い晩に鴨川からそよとした風が土手に吹き付けてきて
四条大橋の上は浴衣を着て団扇で首筋を扇ぐ老若男女が群れて
コンチキチンの鐘の音が響き渡り宵宮の炎が最高潮に達しようとしてた
小林君が言った言葉をはっきりと覚えてる
「大学を受けなおすんやて、止めとけ止めとけ!受験勉強なんてせぇへんて」
その頃、僕はパチンコに嵌っていて勉強なんてほとんどしなかった
小林君の言った通り案の定あくる年の受験は失敗した
小林君どうしてるだろう・・・
京都はほとんど毎年のように行っているけど
四条大橋の上から鴨川の土手を見下ろすと
いつもあの日の光景が浮かんでくる
今日も朝から暑くって
それでも時たま涼しげな風が吹いてくるけど
昔は夏の暑い盛りによくパチンコ打ちに行ったな
よくあんな空気の悪い中で一日いたもんだ
パチンコ屋と言ったら昔
2~3日前にここのブログに登場したや〇ざの親分のたけしさんに会った事があった
僕の2台隣の台で打っていたんだけど
いっぱい出していた
一発台と言われるパチンコ台で
それこそ特定の穴に入賞すれば可能な限り玉が出続ける
(たけしさん・・儲かってるな)
と思っていたんだけど・・・
その当たり台の予定数が終了して
たけしさんはまた打ち始めるんだろうな・・
と思っていたら
おもむろに店員を指先でちょいちょいと呼びつけてる
そうしたら店員がバツが悪そうにやってきて
パチンコ台の表のふたを開けて一発必中の穴に玉を店員が入れていたんだ
(ひどいな~あれじゃ絶対に負けっこないやん)
たけしさんは気分良く鼻歌を歌いながら球を出してたけど
周りの客は横目でそれを見ながら皆、見て見ぬふりをしてた
や〇ざが無敵な時代だな
たけしさんその店の用心棒をしていたんだけど
(用心棒と言うより営業妨害だな)
ある日店の景品交換所が強盗に逢った
たけしさんが色めき立った
その日、たまたまうちの職場に来たんだけど
「どうなりました?」
「今、犯人を捜査してる最中なんだ」
「警察がですか?」
「ばかやろう!俺が捜査してるんだ」
「どうするんですか?」
「ばかやろう!逮捕するのに決まってるだろう」
結局、犯人は捕まらなかった
パチンコ屋はその後もたけしさんの一発台に玉を入れたかどうか知らないけど
何年かして店はつぶれた
7月に入るとけっこう各地で夏祭りが行われるね
アセチレンガスに燈された屋台、射的に輪投げ、型抜き・・
何だか郷愁を誘う
一時期のギャンブル依存体質はきっとあの頃に培われたんだな
もうずいぶん昔になるけど勤め人の頃
地元の夏祭りの晩、僕は救急病院で夜間の受付をしていた
夜間の受付は事務員だけじゃ無くて技師にも順番に当番が回ってきて
診療の段取りもするんだけど、酔っ払いや喧嘩のケガ人もいて結構大変だった
頻繁に警官なんかも呼んでた
その日僕は・・・
(世間は祭りで浮かれとるのにツイて無いな)
(これで一晩泊って4000円は割に合わんな)
その頃、事務の当直代が4000円だった
夜中の2時か3時頃だったか
リハビリの常連患者さんでや〇ざの親分のたけしさんが受付に半纏を着てやって来た
さっきまで神輿を担いでいた感じだ
親分と言っても組員数人の末端の親分さんで
その時、たけしさん少し顔色が悪くて怒ったような顔をしていた
「たけしさん、どうされました?」
僕は愛想良く尋ねた
「さっき指、詰めたんだ!」
と言って僕に詰めた人差し指を差し出した
たけしさんはすでに両手の小指は前に詰めていて無かったから
今回で3本目だ
宿直のDrに患者の症状を院内電話で知らせるんだけど
「指を詰めたそうですよ」
Dr「ええ!嫌だな~」
Drが処置室にやって来て
「繋ぎますか?」って言ったら
たけしさん
「ばかやろう!繋ぐわけ無ぇだろう!」
ちぎれた指を繋ぐとなったら大変な手術で時間もかかるんだけど
や〇ざ屋さんが刃物で切断した指の処置はそれほど手間がかからない
骨を削って切断面の上下を縫い付けるだけだから
その時の処置も5分ほどで終わったと思う
外科のDrは優しい先生だったけどテキパキして肝が据わっていた
処置が終わってたけしさんに
「この指どうしますか?」って
僕が指を差し出したら
「お前にやるよ!」
って言われた
(いらないよぅ~)
と僕はホルマリンの瓶にとれた指を入れて処置室にほっといた
もう、たけしさんも優しいDrも死んじゃっていない
遠い昔、夏祭りの日の思い出
何だかこの動画を見たら少し涙ぐんできたんだけど
高校を卒業して家元を離れて初めての夏
祇園祭の宵宮
20歳で上京して友達と浅草の三社祭に行ったけど何の感慨も湧かないんだけど
祇園祭には何かしら強烈なノスタルジーを感じる
そう言えば僕の田舎の隣町にも祇園祭りがあった
通称祇園さん
田舎にしてはけっこう大きなお祭りでカラフルな山車や屋台なんかも結構出てて
宵宮には花火も打ちあがった
隣町は徳島県で僕の小さい頃には港を跨ぐ大橋も
山を掘りだして道を繋いだトンネルも無くて
僕の家から祭りの行われる隣町のメインストリートまで路線バスに乗って
バスの天井と家の庇がすれすれにぶつかりそうになる危なっかしい町中の細い道路を抜けて
糸魚川の親知らず子知らずのようなくねくねと曲がった海沿いの断崖の道を走り
右側に小さな島が点在する小さな松島のような湾を眺めながら
ようやくバスが着くような隣町だった
その頃は道路も舗装されて無かったんで乗客は少なからずバスの酔った
あの頃バスで30分ほどかかった道のりも現在は5分ほどか
じいさんとばあさんに手を引かれて祭り見物したけど
今では隣町の祇園祭も廃れてしまった
祭りのあくる日には必ずバスの最終便に乗った連中が途中の山道で幽霊を見たと言う
話が小学校の教室で話題になった
それだけ昔の道は暗かったんだろう
昨日は浅草に昼近くまでいたんですが
三社祭の神輿は見かけなかったけど
三社祭は上京したての最初の年に初めて行った
渋谷を歩くと必ずスカウトマンに声を掛けられる日本人離れした友人と二人で
法被を着た女の子二人に
「一緒に写真に写ってよ」
って言ったら
「やだよ!」
って言われた
そいつと二人で女の子に声をかけてそんな言われ方したのは初めてだった
(浅草恐るべし)
って思った
さっき岩井志麻子さんの本を読んでいたら
「あなたの一番古い記憶ってどんなもの?」
と言う件があった
一番古い記憶・・・
僕の一番古い記憶は母の背におわれて兄のいる保育園を見に行ったこと
保育園を覗くと兄がポツンとシーソーに座っていた
前後するかも知れないけど叔父さんが新妻を連れて実家に挨拶に来て
その宴会の席で山田太郎の
「僕のあだ名を知ってるかい~♪朝刊太郎って言うんだよ~♪、」
って歌ったこと
そのどっちかだな
だけど成人してから後の記憶って
嫌な事ばかり思い出すね