幻の姫谷焼

幻の姫谷焼を現代に再生

試行錯誤の連続

2018-08-05 20:24:50 | 日記
姫谷焼の粘土の試験を何度したかわからない。
飽きもせず自分も呆れるが、だれもする人がいないのでするしかない。
御本手茶碗の粘土をようやく見つけた。
明日になると、また違うのではないかと、また試行錯誤の繰り返しになるかも。
今度こそはとするが、なかなかうまくいかない。
おいつめて、おいつめてやるが、失敗の連続。
だれも色々やったが、みんな頓挫した。
頓挫しない自分に呆れる。

窯跡

2018-08-05 19:23:20 | 日記
一番暑い昼間に窯跡に行ってみた。
窯跡付近も暑かった。窯跡は草がぼうぼうに生えていて、窯跡には近づけなかった。
窯跡の西側の山で粘土を採取していた場所を確認した。白磁の粘土でなく、御本手茶碗の粘土です。窯跡から100メートルぐらい離れていて、ここに粘土があるから、姫谷に窯を築いているのでしょう。

粘土から謎が解けた

2018-08-05 08:57:37 | 日記
姫谷焼は謎が多い焼き物です。
窯跡周辺をつぶさに粘土の採取をして
焼いてみた。
姫谷焼は御本手を焼くために作られた
窯です。
昔は重たい石や土を遠くから運ぶのは大変だから、材料の近くに窯を築いています。
窯跡のすぐ近くに、御本手茶碗を焼く粘土があり、掘った跡もあります。
姫谷焼の始まりでしょう。
磁器を焼く材料は姫谷にはありません。
窯跡から離れた、神石郡にあります。
姫谷焼が水野藩の窯であれば、神石郡に窯を築きます。ところが、この窯跡は浄土真宗本願寺派正福寺の土地だったのです。
正福寺の同族の渡辺さんに色絵皿が伝世していることからも、正福寺が姫谷焼を支援していたのは間違いない。
色絵をするには莫大な費用がかかるから、藩だろうと思われたが、西本願寺がバックにいるので、
で資金は関係ない。
100年以前の話になると、全くおかしな話なります。
倉敷市真備町の災害も、だいぶ昔水害があって、
学校に石碑があっても、倉敷市付近は災害がないといいように考える。
姫谷焼も都合のいいように解釈されたのでしょう。
毛利元康が朝鮮から陶工を連れて帰り、1600年に毛利が神辺城から撤退して、正福寺が支援したのは、粘土の方から間違いない。