東大阪親睦会

個人的な観点からの意見、情報、感想、思い等の記述です。

民意を問う

2009-03-31 21:18:03 | Weblog

 

 西松建設による政治献金問題等でますます困惑する政治…、小沢党首は自身の進退は、今後の世論の動向を見て判断するとしている。「国民の生活が第一」をスローガンとする民主党だからこそ、民意を中心に判断するとのことだろうか。
しかし、民意なんて所詮捉えどころがなく、ちょっとしたことで移り行くものである。あまりに民意を強調しすぎる風潮に嫌悪感を感じていた折、産経新聞の正論欄に、これぞ正に正論と思った意見「民意を問えという政治暴論」(京都大学教授・佐伯啓思)があったので要点を抜粋してみた。

・「民意」なるものが明確ではない。せいぜい、世論調査の結果である。しかも、今日の大きな政治的論点について、「国民」が確かな「民意」を形成すると期待することは難しい。だからこそ、ひとにぎりの政治家に政治の主導を任せるという代議制が成り立っているわけだ。
・政治家は、大きく民意からそれることは不適切だとしても、短期的な局面でいちいち民意によって動く必要はない。
・もし「民意」を本当に反映したなら、政治は「民意」とともにきわめて不安定に漂流するであろう。
・この「民意」をめぐる綱引きは、政策論争よりもイメージと人気の争奪戦になるだけであろう。
・今日の政治課題は、民意が反映されていないことではなく、政治を「民意」に預けることで政治家が政治から逃げている点にある。政治とは政治理念を打ち出して、それこそ「民意」を動かす指導行為だからなのである。

 正にその通りと思う。最近はやたらに各マスコミが世論調査を行い、その結果をさぞ重要情報かのごとく報じる。世論調査が不要とは言わないが、もっとサンプル数を上げ(大規模に)年1~2回で充分ではないかと思う。しかも最近の世論調査は、何か政治家の不祥事や不適切発言の後を追って行い、それ見たことかと言わんばかりの具となっている。
一方、政治家も世論に気をつかい、特に自分に都合の良い世論調査ついては、相手を攻撃する武器として用いている。もっと、理念とビジョンを全面に打ち出した政治が行われないものだろうか。


イエスの涙

2009-03-29 19:19:04 | Weblog
 キリスト教関係の新刊として1位となり(http://www.roy.hi-ho.ne.jp/shomoku/ntb/1/f01.htm)、話題となっている「イエスの涙」(ピーター・シャビル著)を読んだ。従来、一般的なキリスト教の教えに反する内容を扱ったものとして特に有名なものとして、「最後の誘惑」「ダビンチコード」等が挙げられる。これらは、イエスを過度に人間的に扱ったり、イエスが結婚する等々、イエスの生き様が従来の教えと違う点でセンセーショナルとなった。 しかし「イエスの涙」は、多くのキリスト教が「イエスは全人類の解放のため十字架に架かるために来た」と疑いもなく信じているのに対し、「十字架はイエスの願いでなく、本来、生きて神の国を築くことが願いであったのでは」と教義そのものを中心テーマとしている点で目新しい。
 イエスの出生地である中東は「世界の火薬庫」と呼ばれ、紛争が絶えない。この小説のイエスが願ったように、2000年前のユダヤ人たちがイエスを受け入れていれば、中東は火薬庫ならず平安をもたらす地となり、世界平和が実現したかもしれない。すなわち、イエスをこの地上にうまく迎えられなかったことが、この世界が平和でない原因であると断言するのは言い過ぎであろうか。もしそうであれば、イエスをこの地上に迎えることができれば、世界平和を実現できるのでは… 幸いに、イエスは「私はまた来る」と語っており、再臨のイエスを我々がうまく迎えられるかどうかが世界平和実現の鍵ではないかと、この小説を読んでその思いを強くした。