響庵通信:JAZZとサムシング

大きな好奇心と、わずかな観察力から、楽しいジャズを紹介します

気になるミュージカル・ファミリー

2020-09-05 | 音楽

ミュージカル・エンターテインメントのファミリーがある。
オスカー・ハマースタインⅡの祖父ハマースタインⅠは、1846年、

プロイセン王国時代シュチェチン(現:ドイツに接しバルト海に面するポーランドの港湾都市)でドイツ系ユダヤ人の両親から生まれた。。
ハマースタインは幼い頃にフルート、ピアノ、バイオリンを学んでいた。
父親は将来理系の道に進むよう厳しく教育したが、音楽を続けたかった彼は17歳のとき、
アメリカに向かい数か月かけてニューヨークに着いた。
ニューヨークでは、いみじくも父のこだわる“理系種子”が開花したのか沢山の煙草製造特許で財をなした。
さて、そこからがハマースタインの真骨頂…ライフ・シフトを音楽に大転換したのだ。
日本の諺に当てはめると、まさに「40にして惑わず」
1889年、マンハッタン区ブロード
ウェイに『ハーレム・オペラ・ハウス』を最初に、
『コロンブス劇場』『マンハッタン・オペラ・ハウス』など次々に、4th,5th,6th劇場を持ち7番目はペンシルベニア州ピッツバーグにも進出。
日本の習慣で言えば「還暦」を迎え大興業主になった彼は、
先行するメトロポリタン・オペラの製作方針に不満を抱き8番目『新マンハッタン・オペラ・ハウス』を建て、

同時代のオペラ…1900年フランスで大成功した『ルイーズ』、クロード・ドビュッシーの1902年パリで初演の『ペアレスとメリサンド』、
ドイツ:ドレスデン宮廷歌劇場でリヒャルト・シュトラウスの1905年『サロメ』、1909年『エレクトラ』などを…アメリカで初演、

同時にヨーロッパのオペラ歌手も『マンハッタン・オペラ歌劇団』でデビューさせ、オペラを大衆の間に広めた。
ハマースタインには最初の妻に4人の息子ハリー、アーサー、ウイリー、エイブラハムと、後添えとの間に2人の娘ローズ、ステラがいる。

4人兄弟の2番目アーサーは建築の技能があり20代で父の劇場建設に関わり、劇場経営者であり作曲・劇作家として多くのミュージカルを製作した。
父ハマースタインは、タイムズ・スクェアに改名される前のロングエーカー・スクェアに建てた4th『オリンピア劇場』で自身が作詞・作曲した
唯一のコミックオペラ『サンタ・マリア』(1896) を初プロデュースして、まずまずのヒットになったが…その後の興行状況は芳しくなかった。
4年後、ミュージカル草創期三大オペレッタ作曲家の一番手ビクター・ハーバートと
イタリアのソプラノオペラ歌手エマ・トレンティーニ主演『Naughty Marietta (いたずらマリエッタ)』の大成功が…最後の製作になり、
トレンティーニを巡る事件が、「不惑」を迎えたアーサー最初のミュージカル製作に繋がるということになる。
ビクター・ハーバートの出自はかなり複雑でドイツ人医師と再婚した母と暮らし、
ピアノ、フルート、ピッコロなどを学び、シュトゥッドガルト国立音楽舞台芸術大学に進み、在学中にプロとしてドイツの主要オーケストラで
いろいろな楽器を演奏、最終的にはチェロ奏者として名を挙げている。
27歳のときオペラ歌手の妻とアメリカに移住。
アメリカでは生涯を交響楽団の指揮に捧げる一方、ティン・パン・アレー
作曲家の間でも著名で、35歳から作曲を始め、沢山の名作を残した。
また、アービング・バーリン、ジェローム・カーン、ジョン・フィリップ・スーザ(♪星条旗よ永遠になれ を作曲したマーチ王)らと
ASCAP(アスキャップ=アメリでカ合衆国における音楽の権利保護を目的とした非営利団体)の創立メンバーでもある。
ハマースタインはメトロポリタン歌劇団に対抗するため、
ヨーロッパ全土から探したトレンティーニを
マンハッタン歌劇団のスターとしてデビューさせた…が、   
ハーバート自身指揮する公演中、
主題歌「Italian Street Song (イタリア人の街の歌)」のアンコールを指示…が…トレンティーニは従わなかった、
激怒したハーバートは、
彼女の次回作に予定されていた『The Firefly (蛍)』の作曲を拒否する事態になった。
『いたずらマリエッタ』をサポートしていたアーサーはハーバートほどの作曲家を探せず、
ブロードウェイと全く無縁のクラッシック音楽作曲家ルドルフ・フリムルに白羽の矢を立てた。
フリムルは1879年チェコのプラハ生まれ、15歳でプラハ音楽院に入学、アントニン・ドボルザークからピアノの作曲を学んだ。
1904年にカーネギーホールでピアニストとしてデビュー、2年後ニューヨークに移住。
1か月かけて作り上げた『蛍』(1912 ) はクリスマスを挟み2劇場でヒット。
アーサー製作、オトー・ハーバック作詞・脚本、フリムル作曲トリオの成功が続き、
フリムルは三大オペレッタ作曲家の二番手と目されるようになった。

2歳年下の弟ウイリーは20歳のとき、父のオーソドックスな経営で成果の上がらない『ビクトリア劇場』を引き継いだ。
広報宣伝担当の履歴を持つ彼は、人気のボードビル・ショーを低価格で提供し、
スター、未知の新人芸人、全ての有名人、不思議な現象、イリュージョン師、エキゾチック・ダンサーなどの多彩なプログラムに、
聴衆が引き付けられ、出演者達も『ビクトリア』に出ることを楽しむようになった。
アービング・バーリンも【百曲のヒット作曲家】という呼び物に出演している。
正装したバーリンは♪That Mysterious Rag を含む数曲を演奏、アンコールしなかったが…聴衆は好意的だった。
劇場側の宣伝は、歌の才能には触れず有名人の作曲家だった…ひょっとして喉を披露したのかも。
♪That Mysterious Rag (w:Ted Snyder m:Irving Berlin)は、ポピュラー音楽に革命をもたらした♪Alexander's Ragtime Band
♪Everybody's Doin' It Now とで、Trio of Songs 1911 と呼ばれるヒット曲である。
腎臓を患っていたウイリーはオスカーとレジナルドの息子を残して38歳で夭折したが、
二人には演劇に関わることを望んでいなかった。
しかし、オスカーはブロードウェイミュージカル史上最高の作詞家・脚本家であり製作者・演出家になる。
レジナルドもアーサーを補佐、主要ミュージカル再演などに欠かせない製作・演出家・舞台監督になった。

 Hammerstein Theatre

    〈ここからのハマースタインは2世を指しファミリーは彼との続柄で表記する〉

ハマースタインは名門コロンビア大学で4年間(1912─1916)、更にもう1年ロー・スクールに学び、成績優秀、いろいろな課外活動にも積極的だった。
スポーツでは野球1塁手、カルチャーはバーシティ・ショーに参加した。
これは伝統行事の学生製作ミュージカル・プレゼンテーションで、後に同大学出身者ロレンツ・ハート、リチャード・ロジャースも出演している。
ロー・スクールをやめた後、
25歳のオスカーは伯父アーサー製作・演出、ハーバート・ストハート作曲のミュージカル『Always You』(1920 )に作詞・脚本家でお目見え、
作詞家でハマースタインの師匠オトー・ハーバック、劇作家フランク・マンデルらと共同作業を始めた。
ストハートは,『蛍』でミュージカル作曲家になったルドルフ最大ヒット作といわれる『ロース・マリー』(1924) の曲を半分担当した。
音楽監督としてもブロードウェイで活躍し、サイレント映画時代の終わりごろからハリウッドに移り、
MGM映画『オズの魔法使い』(1939) でアカデミー賞ベストミュージック・オリジナルスコア賞を受賞している。

ハマースタインはその後40年間多くの作曲家と組んで数々の優れた作品を創り出した。
最初の名コンビが前章【続々気になる伝記映画】で紹介したジェローム・カーンである。
カーンはそれまで同じ作詞家と長い間仕事するのが苦手だったけれども、
ミュージカル『サニー』(1925) で初めて出会ったハーバック=ハマースタインが転機になり、ハマースタインとは生涯続いた。
伝記映画『雲流るままに』の中で、
創作意欲を失ったカーンのもとにハマースタインが一冊の本を届けに来る印象深いシーンのとおり、
エドナ・ファーバー女史の長編小説『ショウ・ボート』を読んだ二人は、これこそ、
どれも似たような甘美なオペレッタや絢爛のレビューを改革できると確信した…という。
人種差別、過酷な黒人水夫、結婚生活破綻などこれまで避けてきたリアルなストーリーが、
ミュージカルの歴史に輝く道を切り開いた。
フロレンツ・ジーグフェルド・ジュニア製作『ショウ・ボート』は、
作曲カーン、作詞・脚本ハマースタイン、演出ジーク・コーハンとハマースタイン、振付サミー・リーで、
1927年12月27日からジークフェルド劇場で527回上演された。
以後、6回も再演し最後の1994年では947回を記録、映画化も3回ある。
なお、初演楽曲のうち♪Billは作詞ハマースタインとP.G.ウォードハウス、
この曲はカーンとウォードハウスのミュージカル『Oh,Lady!Lady!!』(1918) で使われなかったが『ショウ・ボート』で大ヒットした。
♪Goodbye My Lady Love は作詞・作曲ジョーゼフ E.ハワード(1904)、
♪After
the Ball は作詞・作曲チャールズ K.ハリス (1891) この楽譜はティン・パン・アレーで1892年に200万部のベストセラーになった。
  *YouTubeでトーチ歌手ヘレン・モーガンが唄った♪Billと、バリトン歌手ポール・ロブスンの歌う♪Ol'Man Riverがご覧できます
カーン=ハマースタインは次作に『ショウ・ボート』で重要なジュリー役を好演したヘレン・モーガンのために、
『Sweet Adeline (かわいいアデラン)』を書いた…これは、
伯父アーサーが祖父ハマースタインⅠの名を付けて1927年に建設した『ハマースタイン劇場』で、
製作アーサー、作詞・脚本ハマースタイン、弟レジナルドの演出、ハマースタイン一家挙げての公演になった。
その後二人の作品は低調を続けたが1932年にはカーン最高傑作と言われる『Music in the Air (音楽は空のかなたに)』がヒットした。
1945年秋,『ショウ・ボート』再演準備のカーンはマンハッタンを通行中…脳出血をおこし、
病院に運ばれ息を引き取ったときにはハマースタインも傍にいた。
カーンの急死でハマースタインは翌年のミュージカル『Annie Get Your Gun (アニーよ銃をとれ)』をアービング・バーリンに委託している。

ハマースタインにはカーンの存命中に別の作曲者とのコラボがある。
アーサー製作『Wildflpwer』 (1923 作詞ハマースタイン&オトー・ハーバック、作曲ビンセント・ユーマンス&ハーバート P.ストハート)、
『ローズ・マリー』 (1924 作詞ハマースタイン&ハーバック、作曲ルドルフ・フリムル&ストハート)、
『Song of the Flame』 (1925 作詞ハマースタイン&ハーバック、作曲ジョージ・ガーシュウィン&ストハート)、
ローレンス・シュワーブ&フランク・マンデル製作『The Desert Song (砂漠の歌)』
(1926 作詞ハマースタイン&ハーバック、作曲シグムンド・ロンバーグ)、
シュワーブ&マンデル製作『The New Moon (ニュームーン)』 (1928 作詞ハマースタイン&シュワーブ&マンデル、作曲シグムンド・ロンバーグ)の大ヒット連発があった。
シグムンド・ロンバーグは生年月日・ブロードウェイ初演がハーバート、フリムルより遅かったので、
三大オペレッタ作曲家の三番手紹介になったしまったが、作品は一番多い。
なによりもジャズ・ファンには『ザ・ニュー・ムーン』の♪「恋人よ我に帰れ」、「朝日のようにさわやかに」は不滅の名作として残った。

いよいよコロンビア大同窓三人が20世紀最高のパートナーシップを始動する。
ハマースタイン=カーン・コンビ以前にリチャード・ロジャース=ロレンツ・ハートの強力チームがあった。
ドイツ系ユダヤ人移民の両親から生まれたハートも、コロンビア大出身で、劇場を多数経営しミュージカルを製作するシュバート兄弟のためにドイツ演劇翻訳を手伝っていた。
ロジャースはコロンビア大学在学中、兄の友人からハートを紹介され、二人でミュージカルの創作に励んだ。
1919年ブロードウェイにデビューしたロジャース=ハートは、ハートが48歳で亡くなるまでの23年間で26作品のミュージカルを書いていた。
その中には、初めてのフルスコア『ギャリック・ゲイエティーズ』 (1925) の主題曲♪Manhattan は初めてのスタンダード曲になり 『コネチカット・ヤンキーズ』 (1927)、
『ジャンボ』 (1935)、
『オン・ユア・トーズ』 (1936)、『抱かれたベイビー』『やっぱり正しくありたい』 (1937)、『シラキュースから来た男たち』 (1938)、『女の子が多すぎる』 (1939)、『パル・ジョイ』 (1940)、
『バイ・ジュピター』 (1942)にもスタンダードの名曲がある。
『シラキュースから来た男たち』はロジャースとハートが今まで誰もシェイクスピアを取り上げなかったので、『The Comedy of Errors (間違いの喜劇)』を翻案したもの。
最後になった『バイ・ジュピター』はロジャース=ハートのミュージカル最多上演回数(427)を記録した。
『ギャリック・ゲイエティーズ』を製作したシアター・ギルド社が、久々にロジャース=ハートに持ち込んだ企画がある。
劇作家で映画の脚本も手掛けるリンだ・リグズ女史の戯曲『Green Grow the Lilacs (ライラックは緑で育つ)』(1913)だ。
この頃ハートのアルコール依存症が進み、一緒の仕事は難しくなっていた。
ロジャースは、ロンバーグの『May Wine』(1935)以来ヒットが出ないハマースタインにハートの代わりを頼んだ。
偶然にも、時を同じくしてハマースタインも戯曲の音楽化を考えていた。
初顔合わせになった二人は、
通常ミュージカルは歌える俳優で構成されるが、20世紀初頭のオクラホマ州インデアン居留区に入植した開拓者たちをベースにした『オクラホマ』では、
物語と歌と踊りを一体化させようと逆に演技できる歌手をキャストに、『ポーギーとべス』の演出家ルーベマン・マムーリアン、
バレエ『ロデオ』(1942)で成功した振付家アグネス・デ・ミルのスタッフで臨んだ。
1943年3月、トライアウトの7評判は低かったがロジャースとハマースタインは自信を持っていた。
ブロードウェイ本公演は熱狂的観客に迎えられ5年9か月のロングランになって、
1956年の『マイ・フェア・レディ』に抜かれるまで上演数2212回の大記録を打ち立てた。
2年後、全く同じスタッフで、
ハンガリーの劇作家で後に
アメリカに亡命したフェレンツ・モリナールの悲喜劇『リリオム』を原作にした『Carousel (回転木馬)』を公演し、
ロジャースとハマースタインは、ミュージカル第一期黄金時代を担うことになった。
『回転木馬』はロジャース=ハマースタインのメガヒット『オクラホマ』『南太平洋』『サウンド・オブ・ミュージック』『王様と私』に次ぐ上演回数を挙げた。
因みに、この5作は複数回再演され、映画化されている。

ハマースタインには、最初の夫人マイラ・フィンとの間に息子ウイリアム、娘アリスがいて,
マイラと離婚
後、2番目の夫人ドロシー・ジェイコブスンに息子ジェイムズがいる。
ドロシーにはスーザンという1歳の娘を連れての再婚だが、ハマースタインの死後まで共にしている。
ハマースタインの父ウイリー(ウイリアム)の名を継いだ長男ウイリアムは、
1954年の『ショウ・ボート』再演で舞台監督、直後の『回転木馬』再演の演出に携わり、
次男ジェイムズは1958年『フラワー・ドラム・ソング』で舞台監督を務めていた。

共作を含めると850曲以上書いたといわれる彼の遺作が『サウンド・オブ・ミュージック』リハーサル中、
2幕目の終りころに追加したトラップ大佐とマリアの…♪エーデルワイズ になった。
ハマースタインは『サウンド・オブ・ミュージック』公演の初日から9か月余過ぎ、
ペンシルベニア州の自宅で亡くなる…65歳だった。

                  ─おわり─

     『補遺】 ハマースタインⅡ
     《受賞歴》
      アカデミー賞1941年歌曲賞 ♪思い出のパリ (映画 レディ・ビー・グッド)
             45年歌曲賞 ♪春のごとく (映画 ステート・フェア)
      トニー賞…19
50年 南太平洋   52年 王様と私

      グラミー(=2012年部門再編前)…1961年 ベスト・ミュージカルシアター・アルバム
      ピューリアッツ賞…1944年特別賞(=アメリカの文化貢献者)

          〈付録〉 映画でハマースタインⅡを演じた俳優
           エドウィン・マックスウェル (アル・ジョルスン物語=セリフなし)
           ポール・ラングトン (雲ながるるままに=準主役)
           ミッチェル・コワール (我が心に君深く=セリフなし)