響庵通信:JAZZとサムシング

大きな好奇心と、わずかな観察力から、楽しいジャズを紹介します

続々ジャズ音故知新:オスカー・ピーターソン

2015-06-03 | 音楽

J.A.T.P.滞在記事が『スヰングジャーナル』に載っている。
1947年創刊『スヰングジャーナル』(全20ページ:定価20円)の1953年12月号は、
38ページ:90円になって発行されていた。
増ページに対し誌代が高いような印象だけれども、そのうち9ページがJATP関連記事で占められて、
表紙もジーン・クルーパと並んで微笑むジョージ・川口である。


[わが国でジャズのコンサートが漸く最高潮に達して来た時機と合致してJATPが来演した…]で始まる
野川香文氏の『J.A.T.P滞日の10日間』によると、
来演の影響で日比谷、共立、日劇などの入場者が減り主催者側は軒並み欠損していた、らしい。
(*日比谷=日比谷公会堂、共立=千代田区一ツ橋にある共立女子大学の講堂で規模・設備に乏しかった戦後音楽関係のメッカになっていた)
1953年はルンバの王様:ザビア・クガー、黒人コーラス:デルタ・リズム・ボーイズが来日し、年末にはサッチモが予定されていて〈お小使い〉を倹約しなくてはならない。
いつでも聴ける国内ミュージシャンが〈とばっちり〉を受けた構図だ。
渡辺弘とスターダ・スターズ・シンフォニック・オーケストラの日比谷公会堂は税込200円、共立講堂のトップ・ジャズ・コンサート(ブルーコーツ、キューバン・ボーイズほか)が250円という広告があった。
200円~250円は、かなりの負担だったと思う。
JATPのチケットがいくらだったか記述がないけれど、〈入り〉はそれほどでもなかったようだ。

同号に、この年度から読者投票に加え批評家によるポール・ウインナーを設定したD.B(ダウン・ビート誌)を、牧芳雄氏が解説する特集があり、
そのなかにピーターソンに係わる論評がある。
[今度J.A.T.P.の来演で私が最も感銘を深くしたのはピータースンとカーター(注:ベニー・カーター)だが、正直なところ私は今日彼のナマを聴く迄オスカーを過小評価していた事を恥じるものである…中略…リズムの力強さと云い、指使いの正確無比と云い、フレーズを作る感覚と云い非の打ちどころがない…成程彼がバッド・ポウエル以上に置かれても、これは当然のことだろう。そしてアート・テイタムというヴェテランがたった三点の差でオスカーに従っているのは流石である…](カナ表記は原文ののまま)
牧さんの分析は部門別順位に触れていないが、批評家と読者では人気に違いがある。
批評家:①オスカー・ピーターソン(53票)②アート・テイタム(50票)③エロール・ガーナー(40票)…バッド・パウエルはデイブ・ブルーベックと4位タイ(20票)
読者:①オスカー・ピーターソン(1136票)②デイブ・ブルーベック(613票)③バッド・パウエル(586票)…⑤エロール・ガーナー⑥アート・テイタム。

日米ジャズ評論家が注目したピーターソンとテイタムについて、こんなエピソードがある。
[10代のピーターソンが女の子を集めてはジャズらしいものを弾いていたとき、何も言わずに見ていた父が自惚れをたしなめるため、
“お前に聴かせようと買ってきた”と、レコードをかけた。
アート・テイタムの「タイガー・ラグ」だった。
最初は連弾かと思ったが一人で弾いていると知って大ショック。
一か月以上、ピアノに近寄れなくなってしまった]

初めて尊敬するテイタムに会ったのは、20代中ごろ。
完璧主義者というイメージから想像できないけれど、
〈おふざけ〉得意なピーターソンのアクションを4コマ漫画風にまとめると、
1.ワシントンのルイス・アンド・アレックス・クラブで演奏していたとき、
「見ろ!オスカー・ペティフォードがいるぜ」と相棒のレイ・ブラウンをからかった。
(注:ペティフォードはD.B誌評論家投票でブラウンより上位のベース奏者)
「彼がなんだってんだい」…むきになるブラウン。
2.ピーターソンがアート・テイタムをネタに、しっぺ返しを食う。
「テイタムが来てるぞ!」とブラウンが脅かす。
「それがどうした!」…冗談にテイタムのフレーズを真似する。
 (何度もそんな言い合いを続け)
3.ある晩、「エアメイル・スペシャル」を弾いているとき、
「アートが来ている!」
「駄目、駄目!」…その手に乗らず…恰好までそっくりに弾きまくる。
「違うんだってば!本当に来てるんだ、バー・カウンターを見ろよ」
4.振り向くと…□?■?↓×↑…居た。
「ン!」ビビッて曲は…オ・シ・マ・イ。
続きは『ザ・グレイト・ジャズ・ピアニスト/レン・ライオンズ著:塩川由美訳』(音楽之友社)を引用する。
Q:そのクラブの仕事は、それっきりですか?
A:アートは演奏しろと言ってくれたけど、“とんでもない、どうぞ忘れてください”
そしたら、ブルースを1コーラスしか弾けない男の話をしてくれた。
もっと弾いてくれと言われれば、同じコーラスを何遍も繰り返し弾いた。
男は自分のやれることを全て聞かせてくれたのだ。
そこで僕はピアノに向かって「ティー・フォー・トゥー」を2コーラス弾いたんだ。
それが、僕のやれる全てだった。
次にアートが弾いたけど、聴いて参ってしまった。
Q:その後、テイタムとは何度か会ったんですか?
A:ずいぶん親しくなっても恐怖症が残って、彼がいると弾けなくなっちゃうんだ。
“オレがいるとやりにくいんだったら、遠慮するよ。きみには演奏して貰いたいからな”
しばらく経って、L.A.のどこかで演奏していたとき、客席から“明るくやれ、オスカー・ピーターソン!”と、声が聞こえたんだ。
アートの声と分かっても気にならなかった。
乗り越えられたんだよ。

Q:あなたデビューさせたのは誰ですか?そして、手始めに何をやりましたか?
A:JATPのノーマン・グランツで、皮切りは49年のカーネギー・ホールでのコンサートだった。
ノーマンが最初に僕の演奏を耳にしたのは、RCAのレコードだったが、
ノーマンは全然気に入らなかった感じだった。
(注:47年12月15日、カナダで録音したピーターソン・オリジナル「オスカーズ・ブギ」ほか)
2回目、プロモーションでモントリオールに来ていたノーマンが帰るため空港に向かっていたタクシーのなかでラジオ放送を聞いたんだ。
レコードだと思った彼は、ピーターソンの生中継だと知り引き返すよう頼んだ。
(注:『ジャズ・オット』のインタビュー集で、その時の演奏はもちろんブギ・ウギではなくもっとメロディックな曲だったとピーターソンが答えている)
Q:全てはそのタクシーのおかげというわけですね。
A:そこから全てが始まった。

このエピソードには《オチ》がある。
「なんというレコードかね」
「レコードじゃありません。“アルバータ・ラウンジからの中継です”」
「直ぐ車をそこに引き返すんだ」
三十一歳の新進プロモーターと二十四歳の黒人ピアニストの劇的な出会いであった。
あとになってピーターソンはラウンジから降りてきたスエード靴を見て、ノーマン・グランツであることがわかった、と語った
『油井正一のジャズ名盤物語:FM選書』(共同通信社)より。

「マイ・リトル・スエード・シューズ」というスタンダード・ナンバーがある。
チャーリー・パーカーがスエード靴を愛用していたノーマン・グランツに捧げた曲として知られている。
      Chalie Parker and His South cf the Border Orchestra

パーカーほど〈好き・嫌い・解る・判らない〉アレルギーで迷うアルバムはない。
多くの識者ご推薦ダイアル、サボイ盤をさしおいて申し訳ないけれど、
音質もよく、見た目も整然なバーブ盤から耳慣れるとよい。
グランツのバーブ30センチLPレコードは、MGV-8000から始まる。
そして、8010まで11連作がパーカーのアルバムだ。
  MGV-8000 The Charie Parker Story #1
             8001 The Charie Parker Story #2
             8002 The Charie Parker Story #3
             8003 Night And Day
             8004 April in Paris
             8005 Now's The Time
             8006 Bird And Diz
             8007 Charlie Parker Plays Cole Porter
             8008 Fiesta
             8009 Jazz Perennial
             8010 Swedish Schnapps
(*パーカーが苦手な方でもこの中の1枚はお持ちではないだろうか)
『Fiesta(MGV-8008)』は、
レギュラー・カルテット/クインテットにボンゴ、コンガを加えた51年と52年の2セッション全12曲を録音順にまとめた異色のフィエスタ(お祭り)アルバムである。
どうもラテン・パーカッションの入ったジャズを軽視し過ぎる傾向は残念だが、
ここは、サービス精神旺盛なパーカーの色と光が眩しい演奏を聴いていただきたい。
「ティコ・ティコ」「ラ・クカラッチャ」「エストレリータ」の名曲ほか、コール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」やスタンダード曲「ホワイ・ドゥ・アイ・ラブ・ユー」など…
51年のセッションで1曲目に録音された「マイ・リトル・スエード・シューズ」は、LP(=CD)の最後12曲目に収められている。
グランツを敬愛して真っ先に演奏したのだろう、
そして、アルバムの締めに置いたグランツも、慎ましい。
なお、録音曲数最多のピーターソンに、
♪「マイ・リトル・スエード・シューズ」のレコーディングはない…(*^。^*)

1944年に旗揚げしたJ.A.T.P.は毎年アメリカ国内、カナダなど57年までに18回巡演。
その後も10年間断続的にツアーし、
52年春からヨーロッパにも定期的に訪れた。
しかしアルバムとして残っているのは(編集盤も含め)僅かで、現在は入手困難な状況にある。
最高メンバーを集めた絶品ステージを聴くチャンスが殆ど無いことが、J.A.T.P.を不人気にしている一因かもしれない。
グランツ艦隊(クレフ、ノーグラン、バーブ、パブロ盤)の日本母港ポリドール・レコードは、83年(昭和58年)が最強だった。
箱入り3LP『40年代のJ.A.T.P.』『50年代のJ.A.T.P.』『J.A.T.P.イン・トーキョー』
2LP『J.A.T.P.コレクション』
『J.A.T.P.イン・ストックホルム ’55』『クシュ/J.A.T.P.イン・ヨーロッパ』『J.A.T.P.アット・モントゥルー ’75』『J.A.T.P.アット・ザ・サンタ・モニカ・シビック ’72』
の陣容。
ただ、83年はレコード文化の改新(アナログ→デジタル)直前に当たり、翌84年からジャズ・レコード・カタログにCDが登場。
初年LP>CD比率が85年には拮抗、86年遂に逆転されている。
CD時代になって総べてのLPが復刻されないのは致し方ないとしても、
1944年7月2日の記念すべき第1回、パーカー参加の46年、52年:ピーターソン・カルテットが加わったカーネギー・ホール・セッションなど、
常に聴きたいと思はないか?

知人のS氏は、長い間『JATP・イン・ヨーロッパ』を探されていた。
原盤は、1960年11月21日、ディジー・ガレスピー、キャノンボール・アダレイ、J.J.ジョンソン、スタン・ゲッツ、コールマン・ホーキンスなど17名のスターによる、
スエーデン・ストックホルムのコンサートハウスで催された正味2時間50分に及ぶ18曲のライブ。
アメリカ・バーブ4連番(V-8539,40,41,42)でリリースされた。
ポリドール・ジャズ・レコード・カタログに載っている『クシュ/……』は『JATP・イン・ヨーロッパ
 V-8542に相当する。

♪クシュ(Kusu)
ガレスピーのオリジナル。
18曲中一番長い演奏。
初出がこの『イン・ヨーロッパ』で、60年代盛んに録音されている。
英文ライナーノーツには曲名由来が記述されていないけれど…
レオ・ライトのフルートが新しい一日の夜明けを、続いてガレスピーはミュートで祈りを捧げ、多忙な日常が始まる。
ハイ・ノート・ガレスピー、かってない激昂のゲッツ、あやしいほど平然なジョンソン、
陽が落ち再びミュートが感謝を唱える。
強く弱くアート・デイビス(b)チャック・ランプキン(ds)はナイルの波音…だろうか。
紀元前、北アフリカで繁栄した[クシュ王国]をイメージする起承転結の演奏だ。
ポリドールが『クシュ/……』1枚だけ発売したのも、うなずける。

一意専心、S氏が手を尽くし見付けたのが埋蔵盤復活の、
『J.A.T.P.Complete Live In Stockholm /Novenber 21,1960』である。

苦労した以上の〈祝福〉もあった。
Solar Records(Made in EU)という初耳レーベルが、
オリジナル:バーブLP4枚を連番通りCD3枚ボックスに収め、余裕トラックにボーナス曲を追加して2011年に発売した。
LPからCDに移行するさい〈おまけ〉みたいに別テイクやお蔵入りした演奏を付けた〈そんじょそこら〉にあるボーナスとはわけが違うのだ。
『スヰングジャーナル』(1957年7月号)に[JATPヨーロッパへ]という小さな記事があった。 
“ノーマン・グランツのJATPが欧州に飛び、4月20日のストックホルムを初演奏として、スカンジナヴィア、パリー、チューリッヒ、ドイツ、イタリー、アムステルダム、ブラッセルと演奏をつづける。今回のJATPはいつもより小さい編成で、エラ・フィッツジェラルドを看板に、オスカー・ピーターソン・トリオ、ジョー・ジョーンズ、ロイ・エルドリッジ、ヴァイオリンのスタッフ・スミスの面々である。”
もっとも詳しいFini-Rigazioのピーターソン・ディスコグラフィーに、スエーデンのTaxというレーベルでエラの珍しいジャケット写真が掲載されている。

1957年に渡欧した際の、ディスコグラフィーに未発行とされ・演奏者所属レコード会社のアルバム・リストにも載っていない〈微妙な存在〉のLPである。
主なミュージシャンがバーブ専属のためローカルに流通した〈幻の盤〉だったのかもしれない。
現物を見てないけど、A面が4月28日のピーターソンでB面は29日のエラのステージと思われる。
A:オスカー・ピーターソン(p)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)ジョー・ジョーンズ(ds)ロイ・エリドリッジ(tp)スタッフ・スミス(vln)
グランツの采配が冴えている。
先発:エルドリッジの3D。
♪「アンディサイテッド」…ミュート・トランペットで高音連発のエキサイト。
♪「エンブレイサブル・ユー」…オープン・トランペットのスイート・バラード。
♪「スクール・デイズ」…8ビートでポピュラー・ソングを歌う
中継ぎ:ジョー・ジョーンズの独り舞台(このコンサートで一番長い演奏)
♪「レスター・リープス・イン」…シンバルを叩かず太鼓に徹した繊細テクの6分17秒ドラム・ソロ。
抑え:ピーターソンのバイオリン初共演。
♪「ムーンライト・イン・バーモント」…忍び寄るピアノに4弦ボーイング、ピチカートが続く。
♪「ビューグル・コール・ラブ」…ビバ・ニューオリンズ・ジャズ。
この6曲がボーナスの実態なのだ。

ピーターソンは数多くの作曲家作品集を発表している。
コール・ポーター、アービング・バーリン、ジョージ・ガーシュイン、デューク・エリントン、ジェローム・カーン、リチャード・ロジャース、など十大作曲家(ここだけの修辞)の名曲が聴ける。
ピーターソン・トリオは1950年代=ピアノ・ギター・ベース、60年代=ピアノ・ベース・ドラムスのフォーマットに分かれている。
厄介なのは、これらのスタンダード・ナンバーを両方のレギュラー・トリオで残しているのだ。
年代を逆に説明すると、
6年間、三位一体だったハーブ・エリス(g)が脱退するという痛手を受け、ピーターソンは替わりを探したけれど彼以上のパートナーが見つからず、
新たなアプローチでドラマーを加入させることになった。
ニュー・トリオはワン・ポイントのジーン・ギャメイジ(『マイ・フェア・レディ』の(ds)を経て、
1959年春からエド・シグペンが座るザ・トリオが、ピーターソン名盤群の核になったのである。
 
結成したばかりのザ・トリオ:ピーターソン(p)レイ・ブラウン(b)エド・シグペン(ds)で、
十大作曲家それぞれ12曲入った『ソング・ブック』(バーブ盤)がある。
メルル・ショア(Merle Shore)のファンタスチックなイラストでミニ画廊が出来そうなジャケットである。

    

このシリーズを黙視(黙聴?)する解説書が多いようだが、
1959年夏、シカゴ『ロンドン・ハウス』に4週間出演中、昼スタジオで6日間に120曲以上の録音を果たしたピーターソンの挑戦が聴き取れる。
ブラウンの役割、シグペンの立場を確立したメモリアル・セッションだと思う。

カレンダーを50年代頭に戻すと、既にギター・トリオで『オスカー・ピーターソン・プレイズ』(クレフ盤)10枚の吹き込みがあった。
初めの1年はギターをバーニー・ケッセル、1953年からハーブ・エリスが前述のザ・トリオ誕生まで務めている。
特にエリスが在籍した5年間は、
ピーターソンが“私一人じゃなくグループで作りたい音を見つけたのは、このグループが最初だった”と語っているほど、それまでピアノ中心だったサウンドが三人対等の刺激で演奏するようになった彼の存在が、大きい。
それなのに筆者は、
見るだけでも価値を上げるディビッド・ストーン・マーティン(David Stone Martin)の《
背を向け左手を鍵盤に激しくタッチしている》イラストを色違いで統一したLPを、
お目にかかったことが、無い。

    

同じ時期の『ノーマン・グランツ・ジャム・セッション』シリーズは一部の輸入盤・国内盤は見かけても、
これは背を向けっぱなしだった。
ピーターソン・ギター・トリオ時代(1951~58)のケッセル、エリスをまとまって聴けるチャンスを隠匿する理由は、何だ?

S氏発見のソーラーは、やはり〈そんじょそこら〉のレコード会社ではない。
有りそうで無かった[2イン1]CD…同じコンポーザーの『ソング・ブック』『プレイズ』シリーズをカプリングしていた。
両シリーズは収録曲がほぼ同数で重複しているのも多いので、よくある別テイクを比べるのと全然違う。
ただ、アービング・バーリン、リチャード・ロジャース、ハリー・ウォーレン&ビンセント・ユーマンス、ジミー・マクヒューしかないのが、不満だ。
ジョージ・ガーシュイン・2イン1は、他のEUR盤がある。
ジャケット・デザインは『ソング・ブック』だが、20曲以上のCDを探したら、
《しめた!》
2イン1 だよ!
そうはいっても、レコード店(CDショップというべきかも)は、あまりにも無残…
《棚にあるものだけ》

        “詳しくはウエブでどうぞにゃ困っちゃう”
            (毎日新聞脳トレ川柳句)       おわり

 

【付録】
ピーターソンとバイオリンのコラボレーション
◆ステファン・グラッペリ
出会いはパリだった。
1973年、ジョージ・ムラーツ(b)に代わり重用したデンマーク出身ニールス・ヘニング・エルステッド・ぺデルセン、パリに定住していたケニー・クラーク(ds)のメンバーで『ジ・オスカー・ピーターソン─ステファン・グラッペリ・カルテットvol.1&2』を録音した。
第2次世界大戦前からフランス・ホット・クラブ五重奏団で広く知られているジャズ・バイオリンの第1人者グラッペリはこの年65歳。
いつものウイットに富んだピーターソンもパリ生まれパリ育ちのエスプリに押されっぱなし。
原盤は、America-6129,6131(フランスのレコード会社)
2005年、「ジャズ・イン・パリ」というシリーズでジャケット・デザインを心象のパリ風景に改めCD化した。
ますますピーターソンから遠ざかった気がしたが…現在それも廃盤。
◆イツァーク・パールマン
イスラエル出身、20世紀最も偉大なバイオリニストの一人と称せられるパールマンと71歳になったピーターソンの『サイド・バイ・サイド(日本語副題:我が心のジョージア)』(テラーク:1994年録音)がある。
ピーターソン(p)パールマン(vln)ハーブ・エリス(g)レイ・ブラウン(b)グラディ・テイト(ds)
クラシックがすり寄ったのではなくジャズが媚びたものでもない。
パールマンの【艶】にピーターソンが【光彩】を放った最晩年の代表作である。

            
    枯葉                  わが心のジョージア
◆ユーディ・メニューイン
ユダヤ系アメリカ人で英国に帰化して貴族の称号を授与されたバイオリン、ビオラ奏者。
1980年英国BBC・TV『ワーズ・アンド・ミュージック』出演記録がある。