響庵通信:JAZZとサムシング

大きな好奇心と、わずかな観察力から、楽しいジャズを紹介します

ディスクMを廻せ

2012-11-28 | 音楽

 

【迷ったときのマクリーン】という諺がある…そうだ。
といっても、自家用の諺で一般には全く知られていない。
響(東京:神田神保町で1964年から93年まで営業していたジャズ喫茶店)では、
リクエスト順にレコード演奏を続けていた。
たまにそれが途絶えると、次に何をターンテーブルに載せていいか、
不意を突かれる。
一瞬?迷わずマクリーン・コレクションに手を伸ばす。
店内の雰囲気を乱さずに、自然の流れを続けるのに…
マクリーンが一番だった。
【困ったときのコルトレーン】という手もあった。

 

ジャッキー・Maクリーンは、高校時代1歳年上のソニー・ロリンズ、3歳上のケニー・ドリュー達とバンドを組んでいて、〈バードの物まね〉とからかわれていた。
NHK:Eテレが2002年から03年にかけて放映した『ドキュメント地球時間:JAZZ』のなかで、マクリーンは、こんな話をしている。
 ある日学校から帰ると、母親がこう言いました。
 「多分、信じないと思うけど今日チャーリー・パーカーから電話があったわよ」
 思わず興奮して「何だって、そりゃ一体どういうことなんだ」
 すると母親は「今夜『シャトー・ガーデン』という店にきてくれって…
 青いスーツにシャツとネクタイも忘れずに。
 彼が来るまでそこで前座をつとめて欲しい」って。
 私は大あわてで練習を始めました。
 一世一代のステージのためにです。
 幕が開くとお客はガッカリしていました。
 そこにいたのがバードでなく私だったからです。
 とにかく私は演奏を始めました…中略…
 バードがきたのです。
 サックスのケースがまるで宙に浮かぶように近づいてきました。
 パーカーはこう言いました「一曲一緒にやらう」
 彼と1曲共演し私は舞台を降りました。

 

パーカーはマクリーンをまるで自分の息子のように接していたようだ。
『チャーリー・パーカーの伝説:ロバート・ジョージ・ライナー著/片岡義男訳』(晶文社)のマクリーンの回想
1952年には、私はバードランドでマイルス・デイビスと共に仕事をした。
バードがスタンドに上がってきて、演奏した。
パーカーといっしょに演奏するのははじめてだった。
(筆者注:プロになってからということだろうか)
彼は、私が音楽に関しておこなっていた努力に対しては、いつも親切で、それなりに評価してくれていた。
私のソロに、パーカーがさかんに拍手を客席から送ってくれることもあった。
ほかにはあまり拍手はなかったので、この拍手の主はパーカーだと、私にはわかっていた。

 

マクリーンの初録音は、Maイルス・デイビスの『ディグ/プレスティッジ』で20歳のときである。
そのときのエピソードが『マイルス・デイビス自叙伝/JICC出版局』に載っている。
要約すると、プレスティッジへの2回目のレコーディングの10月(1951年)にプレスティッジがマイクログルーブ(LP)という新しい技術を使って、78回転盤(SP)の制限時間3分以上の録音が可能になって、長いソロが取れる自由な可能性に、興奮している・
「オレは、お決まりの3分間の演奏に飽き飽きしていたんだ…本当に自由なソロを取る余地なんかなかったからだ…これがジャッキーの初レコーディングになった…ジャッキーもよくやった…たしかこのレコードのタイトルは『マイルス・デイビス・オールスターズ』だったが、単に『ディグ』とも呼ばれている」

 

これまで、チャーリー・パーカーと比較されたり、影響を受けた、と言われたことのないアルト・サックス奏者はいなかったように思えるけれど、正直なところパーカーの曲は、誰が演奏してもパーカーに聞こえてしまう。
パーカーの音に聞こえるのは非常に良いことで、〈学ぶ〉の語源が〈真似ぶ〉からきているように、先ず真似る精進が、自分を創造する一歩になるんじゃないかな。

 

マクリーンは、前述の『ドキュメント地球時間…』で、こんなことも言っている。
 チャーリー・パーカーを崇拝する多くの仲間が彼を真似てドラッグに手を出しました。
 私もその一人です…ドラッグとの関係について言えば私もバードも大した違いはありません。
 問題は家族です。仮に家族が大目にみてくれてても悲惨な状況に変わりはありません。

 

パーカー自身は、自分のまねをする若者たちを見て嘆き悲しみ、インタヴューに答えている。
 「俺は麻薬の力なんか借りずに最高の演奏をしているんだ。俺の言うことを聞け。
 俺の真似をするんじゃない。俺は12歳でとりこになっちまったから、救いようがないんだ」
 (『セレブレイティング・バード/JICC出版局』より)

 

マクリーンは、パーカーから吸収したのは模倣ではなくアップテンポに乗った時の自由なフレーズであった。
『Let Freedom Ring/Jackie McLean (Blue Note 4106)』
というアルバムがある。
そのまま日本語に置きかえると『自由に鐘を鳴らさせて』というわけで、
ハードバップから脱却してアバンギャルドな境地を開いた作品である。 

 

              曲目:Melody For Melonae
             I'll Keep Loving You
            Rene
             Omega

              パーソネル:
          ジャッキー・マクリーン(as)
          ウォルター・ディヴィス(p)
          ハービー・ルイス(b)
          ビリー・ヒギンズ(ds)

              録音:1962.3.19                   NYC
 

 

4曲中3曲が彼のオリジナルで、
1曲目の「メロディ・フォー・メロネエ」は6歳の愛娘メロネエのために
作曲した、と自身がライナー・ノーツで紹介している。
ちょっと横道にそれさせてもらうと、あまり自らライナー・ノートを書くケースは少ないので
読む前にワクワクする。
もちろん、長い英文をよむのは得意じゃないけれど輸入盤を抱え込んで、
うん、うん。
解ってうなずく…うん、考えこんでしまう…う~ん。
しかし、東芝EMIでCDになったとき、ヤッタネ、四つ折り解説書で表の解説が油井正一さんで、
裏には和田政幸:訳のマクリーン全文が記載されている。
(ただし、現行の状況は不明)

 

話は戻って、実は、メロネエちゃんについてはマクリーン初リーダー盤の
『The Jackie McLean Quintet』(Roulette)でも「リトル・メロネー」という曲を収録している。
モチーフは同じ感じだけれども、「メロディ・フォー・メロネエ」には、
幼児の成長ぶりがマクリーンのハイ・トーンに籠められている。
さらに5年後「メロネエのダンス」も作曲している。
『レット・フリーダム・リング』には、娘ばかりでなく、息子と母も入っている。
「ルネ」はアルト・サックスを習っている息子のために、
母の名前はアルファ・オメガ・マクリーンで、オメガはジ・エンドという意味であるとライナー・ノーツで述べている。

 

因みに、オメガとはギリシャ語のアルファベットの最後の文字、と英和辞典に載っていた。

マクリーンの隠れ名盤といえば…えっ、隠れ名盤ってなんだ?

失礼、これも自家用の分類で、〈サイドマンとして参加したセッションだけれども,そのミュージシャンがいたからこそ(?)より高い人気をよんだ盤〉というもの。
録音順に『直立猿人/チャールス・ミンガス』(アトランティック)
      『クール・ストラッティン/ソニー・クラーク』(ブルー・ノート)
      『レフト・アローン/マル・ウォルドロン』(ベツレヘム)の3枚だ。

 

マクリーンの人脈と経歴をみると、ますますおもしろくなって、ジャズは辞められない。 
少年時代にソニー・ロリンズ達とバンドを組んでいたとき、近所に住んでいたバド・パウエルからジャズを学んでいた。
マクリーンをマイルスに推薦したのがパウエルだった。
マイルスは、彼をハーレムのシュガー・ヒル出身だったから会ったことはあった、といって
『バードランド』で演奏させている。
1951年早春、マクリーン19歳。
ロリンズも一緒のステージだった。
その年の9月にマイルスは久しぶりに『バードランド』で
チャールス・ミンガスと一緒にやれることを喜んでいる。
だが、マイルス,マクリーン、ミンガスが共演しているアルバムはない。
このころマイルスが多用したギル・コギンズ(p)を紹介したのは、マクリーンで、
マイルス・バンドを去った後もポール・チェンバース(b)、トニー・ウイリアムス(ds)を紹介した。
マクリーン初リーダー盤でピアノを弾いたのがマル・ウォルドロンだった。
3か月後、ミンガスの『直立猿人』で共演した。
Maクリーン、Maル、Miンガスのトリニティ(三位一体)について、『レット・フリーダム…』で油井正一さんの名文がある。
 [ウォルドロンが、ジャッキーをミンガスに紹介した時、ミンガスは狂喜して叫んだ。
 「この男がほしかったのだ。俺がほしかったのはパーカーでなく、マクリーンだったのだ!」
 そして生まれたのがミンガス畢生の傑作《直立猿人》だったのである]

 

『Pithecanthropus Erectus/The Charlie Mingus Jazz Workshop』
邦題:直立猿人のアトランティック原盤タイトルである。
わざわざ英文にしたのは、Charlie にひっかかったためで、
ブリニンクス・ディスコグラフィーの表記も同じであった。
巷説によると「俺をチャーリーと呼ぶな、チャールスと呼べ」といって怒ったそうである。
他のアルバムはおおかたCharles となってはいるが、60年代に入ってもCharlieの盤もある。
いったい、いつ怒ったのか、怒りの度合いはどのくらいだったのだろうか。

 

『ジャズの前衛と黒人たち/植草甚一』(晶文社)の「ミンガスファイブ・スポット事件について」に、こんな記述がある。

 

 [ジャズ界の《怒れる男》として自他ともに許す
 彼は、つまらないことでプンプンと怒りだし、
 途中で演奏を止めてしまったり、
 突如として誰でもかまわず殴る癖があるからだ。] 

          植草甚一氏サイン→        

 

 

 ミンガスは、1971年に初めて来日した。
招聘元は、そんな噂を心配して「本当に日本にきてくれるのだろうか」
「コンサートに間に合うのだろうか」と、
ステージの幕が上がるまで気が気じゃなかったようだ。
演奏が始まったのを扉越しに聞こえて、やっと安心できた顔の社長が忘れられない。

 

植草さんの本の続き…
ファイブ・スポットでは、ステージで演奏をはじめたところ客がうるさくてしょうがない。
あまりウルサイので、ついにミンガスは我慢しきれなくなった。
それで、ベースから手をはなすとマイクを引き寄せて、
長い演説をブッタのである。
その演説を録音していた者がいて、原稿にすると52字詰め50行にのぼる怒りを喋った。
                      


             大手町:サンケイホールでのチャールス・ミンガス
                      (筆者写す)

 東京公演ではプログラムで紹介しているジャッキー・バイアードが不在で、急きょ日本人が代役した。
不覚にも誰だったか覚えていない。
演奏中しきりに、ピアニストに気を配っているミンガスを見て、
本当は、とても優しい人だと感じた。

                      

『アメリカの影/Shadows』という映画がある。
カサベテス監督の処女作で、マンハッタンを舞台に、
白人と黒人の三兄妹の葛藤を描いている。

デビッド・ミーカーの『ジャズ・イン・ザ・ムービーズ』には、
脚本なしで16ミリ・カメラで撮影し、
チャールス・ミンガスが音楽を担当し、
サウンドトラックにシャフィ・ハディのホーン・ソロ、
フィニアス・ニューボーン・ジュニアのピアノ、
ジミー・ネッパーのトロンボーンも入っている。
と、簡単に紹介している。

 

 

 《あらすじ》
長兄のヒューは黒人、なかの兄ベニーと妹レリアは白人の肌をもっている。
ヒューは、元有名歌手だったが三流クラブでストリッパーの司会で家計を支えている。
ベニーは、自称トランペット吹きだけれど遊び仲間のデニス、トムとつるんでナンパばかり。
レリアは、作家を志して悩む20歳。
小説家デビッドの紹介で白人好青年トニーと恋に…
彼女を送っていったトニーは、黒人であるのを知り動揺する。
ヒューは妹が傷つくのを察し、トニーを追い返す。
一時的なショックのトニーはすぐ謝るが、ヒューは許さなかった。
レリアはプライドを取り戻し、マネージャーと喧嘩も信頼もしながらヒューは旅に出る。
ベニーは相変わらず三人で女漁り、クラブで声をかけた女にヒモがいて、
倉庫で三対三の大乱闘。
(殴り合いのダメージに、ピアノ、ベース、ドラムス、サックス、トロンボーンが入る)
派手にやられて、ベニーが
「まともに恋人を作るべきだ…こんなことに飽きたよ…もうやめる」
ネオンが眩しい街で、三人はそれぞれ違う方向に歩き去る。
【この作品は即興的演出によって制作された】のスーパーインポーズが被って…
               FIN

カサベテス監督は、台本を作らず俳優達に場面の説明だけをして即興の演技を16ミリ・カメラでマンハッタンのタイムズ・スクエアをロケして捉えた。
16ミリ・フィルムでは登場人物一人から四人までがぎりぎりのショットになり、モノクロ81分、迫真のドキュメンタリー映画になった。
画面はいきなりロックをバックに狂喜乱舞の若者たち。
ロールアップ・タイトルで先ず三人の名前、ベン・カラザース、レリア・ゴルドーニ、ヒュー・ハード。
そう、本名を役名にした無名俳優を登用し、即興にこだわった。
ミンガス、シャフィのインプロビゼーションも期待できそうだ。

ジャズ・ファンなら“!”というカットを、さすが植草さんは見逃さなかった。
[カサベテスの即興演出とモダン・ジャズの即興演奏が結びついて、かりに映画を一種の皮膚だとすると、あたらしい肌ざわりを感じさせるようになった。ファースト・シーンがバードランドの前であり…](植草甚一 ジャズ・エッセイ 2/河出文庫)
気ぜわしく歩くベニー(不良仲間のひとり)と、ミンガス・ソロに眼も耳も奪われて気が付かなかった。
確かに、路上に突き出たバードランドの文字があり、この映画を象徴している。

ジャズによる映画音楽といえば、マイルス・デイビス『死刑台のエレベーター』が際立っていて、サスペンスの心理描写はサントラ盤としても独立して鑑賞されるが、チャールス・ミンガス『アメリカの影』は、殆どがベース或いはサックス・ソロであり、あたかも科白(せりふ)のような効果を感じる。

サントラの解説で、ミンガス(b)、フィニアス(p)、ネッパー(tb)は周知のミュージシャンだが、サックス奏者のシャフィ・ハディはあまり馴染みではない。
やっかいなことに、『新・世界ジャズ人名辞典/スイングジャーナル社』(注:新といっても88年版が最新)に、シャフィ・ハディが載っていない。
カーティス・ポーターの項にカッコ内で(シャフィ・ハディ)と記述され1/7ページの小さな扱いである。
Answers.com を開くと、
[シャフィ・ハディ(カーティス・ポーター、1929年9月21日生まれ)はアメリカ人ジャズ・テナーとアルトサックス奏者でチャールス・ミンガスとハンク・モブレーのレコーディングで知られている]とある。
じゃあ、ミンガス、モブレーのCDを当たってみよう。


  

 

  上段左:『ハンク・モブレー/ブルーノート』…カーティス・ポーター(as,ts)
      右:『ザ・クラウン/アトランティック』…シャフィ・ハディ(as,ts)
  下段左:『メキシコの想いで/RCA』…カーティス・ポーター(シャフィ・ハディas)
      右:『イースト・コースティング/ベツレヘム』…シャフィ・ハディ(as,ts)

カーティス・ポーターからシャフィ・ハディに改名した経緯は不明だけれど、
この4枚全部同じ年の録音なのにレコード会社次第でまちまちなのが良く解らない

ミンガスは25歳(1946年)で初リーダー盤を出して以来、56歳、遺作となった『ミー・マイセルフ・アン・アイ』(アトランティック)まで、共演盤を含めると250枚に達する、モダン・ジャズ・ベースの革命者である。
主な作品の2番手にあげられるのが、『直立猿人』であろう。
50年代の彼は、チャーリー・パーカー、マイルス・デイビス、バド・パウエルなど多くのセッションに活躍しながら、年に1~2枚のペースで話題の自己盤を発表している。
『直立猿人』は1956年に録音され、その年は4枚の共演にとどまった。
[人種差別などの不正や不条理に対しての怒りを見事に作品化、大きな衝撃を与える]
と、前述の『新・世界ジャズ人名辞典』は解説している。
翌年(1957年)がこの時代のミンガス全盛期になって、その間だけカーティス・ポーターが登場している、という訳である。
因みに、『アメリカの影』サウンドトラックはそのまた翌年にかけて録音した形跡がある。
映画でキレのいい音を出していたドラマーは、ダニー・リッチモンドだった。
 

『Hank Mobley/Blue Note 1568』
◆Bill Hardman(tp) Curtis Porter(as,ts) Hank Mobley(ts) Sonny Clark(p)
   Paul Chambers(b) Art Taylor(ds)
◆1.Mighty Moe and Joe/2.Falling in Love With Love/3.Bag's Groove/
   4.Double Exposure/5.News          Rec.1957.6.23
1tp、2saxを見ただけで、これは、ハードバップに違いない。
H.モブレーはジャズ・メッセンジャーズ旗揚げ時から参加していて、すでにアルフレッド・ライオン(ブルーノート・レコードの創始者・プロデューサー)のお気にいりである。
B.ハードマン、S.クラークはこれがブルーノート初レコーディングだった。
ハードマンはこのころジャズ・メッセンジャーズのレギュラーであり、
クラークはこの年(1957年)だけでブルーノートにリーダー盤5を含め12共演盤があるなど、ライオンの寵児になっている。
で、カーティスはこれっきりのブルーノート。
ミンガス・グループでも直後に、ジョン・ハンディ、ブッカー・アービン、ペッパー・アダムス、エリック・ドロフィー、ユセフ・ラティーフ、ジョージ・アダムスなど、
強烈個性なサックス奏者が続き、不運な評価に甘んじてしまっている。
気になってしょうがない…もっと彼を知りたい。
資料は、ライナーノーツということになる。
CD化されるとき出来るだけLP仕様を踏襲することに異があるわけじゃあないけれど、
原盤英文を12センチ四方に縮小されては、読みようがない。
といって、ブックレットの日本文解説は《隔靴掻痒》(かっかそうよう)の感がないでもない。
再び、東芝EMIが頼りになりそうだ。
『ハンク・モブレー』は『レット・フリーダム・リング』同様、四つ折り解説書である。
表は、マイケル・カスクーナ書き下ろし(和田政幸:訳)裏が、ロバート・レビンの原盤英文になっている…3/4縮小だから読めないことはない。(注:現行の状況は不明だが)
しかもしかも、カーティス紹介の記述は、
全体の4割以上のスペースを占めているじゃないか。
ですがですが、内容の骨子が人名辞典とほぼ同じってことは、案外、出所がいっしょだったりして?
しかししかし、お宝発言がいくつかあり、要約すると。
*1946年、カーティスはデクスター・ゴードンを最初に聴いたとき、ピストルで撃たれたような衝撃を受け、ずっと心に残って、チャーリー・パーカーよりも印象が強かった。

*デトロイトでポール・チェンバースやベニー・ゴルソンなど多くの優れたミュージシャンとギグ(ジャズ演奏)をして、ゴルソンは私(カーティス)を励ましてくれた、彼(ゴルソン)は大人で私は子供だ。何から何まで比較すると私のほうが劣っている。

レビン(ライナーノーツの筆者)は、チェンバースはカーテイスとのギグが初めてのプロの仕事だった…と付言している。

私も付け加えると、
カーティスは幼少で両親が別れたので祖母のもとで青春時代を過ごしている。クラリネットを買って貰ってジャズに興味を持った。
父はそのころデトロイトに引っ越している。
ワシントンDCのハワード大学から3年後デトロイト大学に移ってテナーを学んだのも縁を感じる。
チェンバースはペンシルベニア州ピッツバーグ生まれだが、13歳のとき母を亡くし父とデトロイトに移り、高校では最終的にベースを演奏している。

ゴルソンは、カーティスと同郷ペンシルベニア州フイラデルフィア出身で8か月早生まれの同い年。
 フイラデルフィアからは年齢順に、チャーリー・ベンチュラー、ジミー・ヒース、スタン・ゲッツ、リッチー・カミューカ、ジョージ・ヤング、ソニー・フォーチューン、ルー・タバキン、マイケル・ブレッカーなどのテナー・サックス奏者の大名行列だ。

*1956年のクリスマス期間中、『バードランド』で初めてミンガスと共演した。
かーティスはミンガス・バンドの主要メンバーになったがミンガスは初めアルト・サックスを吹かせていた。
彼の音は彼自身の向上により、というものでパーカーの模倣ではない。
自分でも、「常にパーカーの才能には敬服しているけれど、そのように吹きたいとは思はなかった」と云っている。

カーティスはいつか少人数のジャズ・グループで映画のサウンド・トラックを書きたいと希望していたようだ。

さて…と改まるほどじゃあないが、『ハンク・モブレー』に戻って、
カーティスは、「マイティ・モー&ジョー」「恋に恋して」をアルト、他はテナーで参加している。
また、「マイティ・モー&ジョー」「ニュース」は彼のオリジナルである。
上品なテナー・バトルになった3,4,5曲目のソロ・オーダーを明かすと、
「バグス・グルーブ」:カーティス~ハードマン~モブレー~チェンバース
「ダブル・エクスポージャー」:ハードマン~モブレー~カーティス~クラーク~
                  モブレー&カーティスの8小節交換~テイラー
「ニュース」:モブレー~ハードマン~カーティス~クラーク~チェンバース
特に、「ダブル・エクスポージャー」の小節交換は流麗・明晰な連結が聴きどころ。

全く脈絡ない話ながら、
投資の格言に【もうは、まだなり。Maだは、Moうなり】というのが、
あるそうで、

今回は、Maクリーンで始まり、Moブレーで、
終わり】です。