響庵通信:JAZZとサムシング

大きな好奇心と、わずかな観察力から、楽しいジャズを紹介します

ソウル・ブラザー・エルビン・ジョーンズ 順風編

2013-04-14 | 音楽

“エルビン・ジョーンズが、ステージから手を伸ばして、〈きよちゃん〉を、
楽屋に攫っていった”
攫(さら)った、というのは穏やかではないが、
彼女を舞台にひっぱりあげて奥に連れて行ってしまった。
まだ、拍手が収まりきれない中の出来事に、同行した仲間は、
どうしてよいか、ただ唖然と。
1966年11月3日、東京・大手町サンケイホールで、
『ザ・センセーショナル・ドラム・バトル』初日公演があった。
ご存知ない方も多いと思うが、1960年代のジャズ・コンサートは、
サンケイホールと新宿五丁目の厚生年金会館大ホールに二分されていた。
厚生年金の方は、ステージと客席が常設のオーケストラボックスで隔てられていたが、
サンケイでは、人ひとり通れるすきの、目の前がステージになっていた。
だから最前列の〈きよちゃん〉をすぐ見つけられたのだろう。


『ザ・センセーショナル・ドラム・バトル』は、
数あるバトル物で、過去2回大当たりした『ドラム合戦』の公演である。
アート・ブレイキー(47歳)、エルビン・ジョーンズ(39歳)、トニー・ウイリアムス(21歳)の対決や!
いかに!
事前の期待では、1に実力エルビン、2に人気トニー、3が伝説ブレイキーの順だった。
ステージ下手(しもて=客席から見て左)エルビン
中央ブレイキー、上手(かみて=右)トニーが陣取った。
ピアノにマッコイが座り、ベン・タッカー(b)、フロントはジミー・オーエンス(tp)ウェイン・ショーター(ts)である。
ここでは、コンサート評が主ではないので、ブレイキーの圧勝とだけ、記しておく。

客席に残された仲間は、楽屋に入るすべがなく…気がかりを後に【響】に戻った。
とっさの出来事など話し合っていると、
〈きよちゃん〉が、エルビン・モデルのスティックを貰って帰ってきた。

実は、その前に、招聘元のJBCから電話があって、
「手分けしているのだが、羽田に行ってくれる人はいないだろうか?
来日ミュージシャンに花束を進呈する女性を紹介してくれないか」
で、【響】から常連の〈きよちゃん〉に行ってもらった。
〈きよちゃん〉が花束を差し上げた人こそ、
エルビンであった。
多分、エルビンにとって初めて出会った日本人女性は〈きよちゃん〉だったかもしれない。

   [エルビンと【響】の見えない糸(何色か?)は、こんな偶然から繋がった]

『ザ・センセーショナル・ドラム・バトル』公演は日程の3分の一ほど消化し、
札幌で、事件があった。
仄聞(そくぶん)で申し訳ないが…麻薬所持が発覚した。
Gメンが「このケースは誰のものか?」と一行のドラム・ケースを指差した。
エルビンが「自分のだ」と答える。
中から麻薬が出てきたというのである。
ケースは自分の物だが、中身は関係なかったようであった。
誰かが隠したかもしれなかったが、裁判沙汰になった。
新聞の追跡記事がないので、経過については判らないけれど、
エルビン一人だけ帰国できなかった。
何日か身柄を拘束され、その後、九段の千鳥ヶ淵のホテルに滞在を余儀なくされていた。
ホテルでの宿泊費・食費は、ずっと招聘元が負担していたようだった。
九段から、ちょっと、とはいえない距離だったが、

毎日、エルビンは神保町まで歩いてきてくれた…【響】一番の常連さんである。
新しい常連に、原常連が友達になった。
ある日、友達常連がエルビンを『人生劇場』に誘った。
『人生劇場』は映画館、芝居小屋じゃなくって、
パチンコ屋だけれど、学生の街・神保町には、うがったネーミングだ。

往時、大学生間で…『味一番』でラーメン食べて、『人劇』でパチンコして、
『響』でジャズを聴く…のが通(つう)の行動だったそうだ。

あ、忘れるところだ・。
エルビンは景品に煙草の〈いこい〉を取って来たんだっけ。
禁煙・分煙の世じゃ解らないかもしれないな~
〈いこい〉のデザインを見れば、

どうしてエルビンが〈それ〉を選んだか、納得できるだろうな~

12月に入ると、長崎から小柄な美人が頻繁に上京してきた。
【響】で、彼女を囲んでエルビン支援策が練られる日も、しばしば、であった。
年も押し詰まり、或るセッションがジャズ・シーンを熱くした。
エルビンを少しでも支えようと日本人ミュージシャンが、
ノー・ギャラで共演したクリスマス・セッションである。

彼女は、奥谷(おくや)けい子さんで、
セッション場所は、ちょうど1年前に新宿にオープンしたばかりの『ピットイン』である。
急な企画にもかかわらず、満席満員であった。
最前席には2ステージ分のチケットを持った大学生、川崎燎がいた。
クリスマス・セッションが終わった日、招聘側の亀川氏が、
エルビンからのお礼、と言って、サイン入りスネアドラムの皮を届けてくれた。


 [見えない糸が、少し太くなった]

71年3月だった。 
神田淡路町にある神田郵便局まで、航空便小包を受け取りに行った。
差出人は、思いがけない、エルビン・ジョーンズ夫妻であった。
奥谷さんは、67年2月エルビンを追いかけるように渡米して、
傷心の彼を支えるベターハーフになっていた。

エルビンは、帰国した翌年から、精力的にリーダー・アルバムを発表している。
『プッティン・イット・トゥゲザー』(1968.4.8録音)は、
名門ブルーノート・レコードで、エルビン・ジョーンズ名義の初めての盤だが、
妻けい子にプレゼント作曲した、
「ケイコズ・バースデイ・マーチ」という曲が入っている。
ただ、10年前に作曲された「オフ・トゥ・ザ・レイシス」(作曲ドナルド・バード)に、
主題が似ている。
さらにその8か月前、
エルビン、バードが参加したペッパー・アダムスのアルバムでは、
「ザ・ロング・ツゥ(two)/フォー(four)」とクレジットされている…が、
ひょっとして、エルビンのアイデアだったかもしれない…と、
岡崎正道氏は指摘している。

小包を開けると、
発売されたばかりのLPレコード『コーリション』(BST-84361)が入っていた。
『コーリション』は『プッテイン・イット・トゥゲザー』から5枚目のブルーノート・アルバムだが、
ブルーノートらしからぬ異色のジャケット・デザイン、エルビンとけい子のツーショット。
*偶然か何かの因縁か『コーリション』の録音日が、1970.7.17である。
 7月17日といえば、ジョン・コルトレーン、ビリー・ホリデイの命日である。
*前々作『ポリ・カレンツ』(BST-84331)のジャケット写真もエルビン夫妻。

 

これまでのブルーノート・セッションと同じくピアノレスで…
ドラマーがリーダーの面目躍如…いや、いつにも勝る気迫…
そうか、そうか…冒頭曲が…「SHINJITU」
あえて、アルファベット表記にしたけれど、漢字で書けば「真実」というものだ。
エルビンの1打、1打、真実はこうだ!真実は!
心音のように響く。
「SHINJITU」を聴いて、英語圏の人々が、どう感じたのだろう。
『コーリション』の英文ライナーノーツで、レナード・フェザー(ジャズ評論家)は、
Shinjitu はKeiko Jones によって作曲された。彼女は、
エルビンが結婚記念に作曲した Keiko's 
Wedding March の話題の人である”

と、紹介しているだけで、Shinjitu の意味には触れていない。
Keiko's Wedding March は、前述した Keiko's Birthday March の思い違い。

エルビンは、 「真実」を訴えたかったのだろう、
“To Hibiki マスター&ミナサンへ”
カタカナで書かれたサインが入っていた。

 [見えない糸は、また少し太くなった]

嵐とドラマーは、日米も一緒だ。
10年越しの亀川氏の執念が、エルビンの招聘を実現させた。

“78年4月6日から9日まで4連夜のコンサートが有楽町・読売ホールで開かれた。
初日の6日は夕方から強風の豪雨になった、
果たしてエルビンは入国が許可されたのだろうか、
天候も同調するように荒れて冷たかった”
           (『ジャズ・ジョイフル・ストリート/大木俊之助』より抜粋)

コルトレーンが、麻薬法違反で服役していたエルビンの出所を待って、
コルトレーン・カルテットを結成したのが1960年秋なので、
クリアーが認められるのに、10年以上かかった、ということかもしれない。
ホール入口付近は、着席せず一行を迎える人達で、いっぱい。
20メートルほど先にエルビンが…ずば抜けて高い…歩いてくる、直ぐわかった。
左手を挙げて「オオキサーン」と、エルビンが声をかけてくれた。
平均的な身長の日本人集団の中から、しかも、一回りも前に会った顔を、
先に見つけてくれたことに、正直、びっくりした。
4月19日、【響】で歓迎パーティを催した。
原常連総出でお迎えしたのは、言うまでもない。
エルビン・ジョーンズ、パット・ラバーベラ(reed)、ローランド・プリンス(g)、
アンディ・マクラウド(b)(フランク・フォスターだけ不在)、
ジャズ・マシーンを囲んだ、宴である。
         

                   WELCOME !
APRIL 19,1978    HIBIKI E.J.CLUB  JAPAN

横2メートル50、縦45センチの横断幕に、出席した約60人の記念サインを寄せ書きした。

         《強く生きる》

赤のマジックで書いたのが、ケイコ・ジョーンズだった 

   [またまた、見えない糸は太くなっていった] 

E.J.Club のE.J. は、エルビン・ジョーンズのイニシアルによるものだが、
クリスマスやお正月遊びパーティなど回を重ね、
エンジョイ・ジャズの意味合いが強くなった。

80年代には、エルビン夫妻がカウンターに座っていても、
特別な眼で見られることは、なかった。

エルビンは、アート・ブレイキーに次いで数多くのリーダー盤を残しているが、
1948年、21歳でビリー・ミッチェル・クインテットのレコーディングに参加してから100枚を超す実績がありながら、34歳になっての遅すぎる開花である。
もっとも、ブレーキーにしてアルバム・デビューのちょうど10年目のライブ録音が初リーダーだったのだから、ドラマーがリーダー・アルバムを出すのは容易じゃないかも。
付言すると、エルビンのミッチェル盤には次兄サドも加わっていた。

ディスコグラフィーは、最初に『トゥ・ゲザー』(アトランチック:1961.2.2録音)が載っている。
しかし、タイトルが示すようにフィリー・ジョー・ジョーンズ、エルビン・ジョーンズ 双頭リーダーの
共演盤なので、
実質は、同じ年の5か月後に録音された『エルビン!』(リバーサイド)が初リーダーではないだろうか。
ミュージシャンの名前だけのアルバム・タイトルは、かなり珍しい…
それも、ビックリマーク付きの。
〈!〉というのは、ほかでもない。
ハンク、サド、エルビンのジョーンズ3兄弟の協演(ここだけの造語)盤である。
有りそうで無かった、ジャズ界3兄弟が協演する…驚き。
提案したのは、エルビンだった。
しかし、長兄ハンク、次兄サドとスケジュール合わせが大変だった。
1年5か月かけ3回のチャンスを作って、完成。
2度目、3度目のセッションは、
3ジョーンズにフランク・フォスター(ts)、フランク・ウエス(fl)、アート・デイビス(b)のセクステット。
サドは、当時カウント・ベイシー楽団でソロイスト、アレンジャー、コンポーザーとして活躍中であり、
エルビンのために「レイ・エル」(RAY-EL)という曲を贈った。
やはりそうきたか…ドラム・ソロのイントロで、楽しいブルース。
因みに、エルビンの本名は、Elvin Ray Jones である。

〈有りそうで無かった〉は誤りで、迂闊(うかつ)だった、〈無さそうで有った〉のだ。
『エルビン!』をさかのぼる3年9か月前、
前代未聞(まさに4字熟語どおり)、奇想天外なLPが実在していた。
『キーピング・アップ・ウイズ・ザ・ジョーンゼズ』(メトロジャズ)が、それ。
思いだしてもらいたい…『トゥ・ゲザー』紹介の2行目で、
フィリーとエルビンのファミリーネームにアンダーラインを引いておいたことを。
そうなんですよ、演奏者全員=ジョーンズ姓の〈ザ・ジョーンズ・ブラザーズ〉という、珍盤。

日本では、佐藤、鈴木、高橋、渡辺、田中姓が多い順ベスト5(2010年現在)だそうだが、
ジャズメンに多い苗字は、ジョーンズ、ジョンソン、フリーマン、ミッチェル、パウエルだろう。
というのでレナード・フェザーが、プロデュースしたのかな?
サド・ジョーンズ(flh)ハンク・ジョーンズ(p,or)エディ・ジョーンズ(b)エルビン・ジョーンズ(ds)
どうだ!見たか!
収録7曲の作曲者も、サド=4、アイシャム・ジョーンズ=3、ジョーンズにこだわってる。
アイシャムの3曲はスタンダード・ナンバー、
「イット・ハド・トゥ・ビー・ユー」「オン・ジ・アラモ」「ゼア・イズ・ノー・グレイター・ラブ」である。
どうして気が付かなかった」のだろう…曲も演奏も。
兄弟セッションではかえって遠慮があるのか、
すこし窮屈なムードがジャズ喫茶受けしなかった、と反省。
このさいだから、エルビン絡みじゃないが、もう1枚。
『ザ・ジョーンズ・ボーイズ』(ピリオド)という同趣向のLPも聴いてみよう。
1957年録音だから、こっちが好事家向け企画の元祖かもしれない。
サド・ジョーンズ(tp)ルノー・ジョーンズ(tp、ロイ・エルドリッジの従兄弟)
クインシー・ジョーンズ(flh)ジミー・ジョーンズ(p)エディ・ジョーンズ(b)
ジョー・ジョーンズ(ds)の面々。
もちろん!製作はフェザーさ。
口惜しいけれど、カウント・ベイシー楽団の精鋭を揃えられては…
エルビン3兄弟の絆も負けてしまう。

 

話を『エルビン!』に戻す。
〈きよちゃん〉の偶然に続く、突然の〈慶び〉があった。
公演初日の前日11月2日に、
【響】で『ザ・センセーショナル・ドラム』の演奏者をお招きするパーティがあった。

“ブレイキーは《爛漫》が似合う。「私は(アメリカの)越後の縮緬問屋の隠居で…」と言いたいような、なめらかな肩の彼は4回目の来日で、水戸黄門そっくり。
初来日のエルビンやマッコイは固く身構え、助さん格さん。
深刻な表情のショーターと好対照なオーエンスとタッカーは、顔からも陽気な音楽が聞こえそうである。
エルビンが『エルビン!』にサインする。「これは俺も持ってないレコードだ」と言いながら”
       (『ジャズ・ジョイフル・ストリート/大木俊之助』から抜粋)

      [エルビンと【響】を結ぶ糸は、『エルビン!』のサインからだった]

            

                                   順風編:おわり