響庵通信:JAZZとサムシング

大きな好奇心と、わずかな観察力から、楽しいジャズを紹介します

ストレート・ノー・クレイジー

2012-09-15 | 音楽

聖者が響にやって来た。
「今夜、モンクさんを連れて行くからね」とJBCの本多徳太郎氏から、
突然の電話があった。
一瞬も二瞬も耳を疑った…1年前に、神田神保町でジャズ喫茶を開いたばかりの、云ってみれば新参者の【響】なのに、なぜ?
 *JBCは1963年に設立されたジャパン・ブッキング・コーポレーションの略称で、
 ジャズを招聘するプロモーターである。
 この年からジャズの来日公演が激増し、空前のモダン・ジャズ黄金期を迎えるのだが、
  翌64年7月、特筆されるべき[ザ・ワールド・ジャズ・フェスティバル]を本多が開催した。
 東京オリンピックを念頭に置く、前代未聞のスケールだった。
どう間違ってもありえないジャズ・ミュージシャンを、しかも、高僧と畏敬されているセロニアス・モンクを接待させてもらえるなんて、晴天の霹靂(へきれき)…こんな四字熟語はワードの変換機能でないと書けない。
1966年5月6日夜の感懐は、拙著『ジャズ・ジョイフル・ストリート/JICC出版局』の記述に尽きる。
(現在廃刊のため引用)
…長身で大柄なあの御方が《響》にいる。
チャーリー・ラウズ、ラリー・ゲイルズ、ベン・ライリーの4人が席をとる。
モンクは中央の椅子に、まるで毎日自分が使っているように、自然に座って、周りのザワザワした空気などまったく気に障らず超然としている。
軽く眼を閉じた姿は、広隆寺の弥勒菩薩にたとえても不見識ではないような気がする。
つぶった眼と合ったばかりで、背筋の寒くなる思いをしたのは、この時が生まれて初めてのこと。
二度とできない体感であった。
猛禽類に射すくめられて、ゾッとする冷たさではない。
清明な眼と端正な顔、身じろがない全身から放たれる畏怖に打たれてしまったのである。
それは尊厳といっていいのか、慈愛といっていいのか、
その両方を備えた国宝級の仏像を観たときの、あったかさのある震えである…

 

 

 

 

*折角ポーズをとってくれたのに
 手が震え、ピンボケになって
 申し訳なかった。  (筆者写す)

『ミステリオーソ』というモンクの代表的なアルバムがある。
日本語に訳すと『ミステリー多そう』…ンな訳ないか…神秘的な奇行の人の印象が強い。
実際は、真面目で冗談っぽく(モンクに限って矛盾していない)、
気ままな⇔優しい天衣無縫人、ユーモアがあり巧みな反語。
一度会ったら、彼の音楽はもちろん人柄に熱中させられるだろう。
1982年を過ぎた今となっては(2月17日、64歳で天寿)、
『ストレート・ノー・チェイサー』という映画を観ていただくのが、
よろしいかと。

                                                                                                             

 

 

 

     1988年作品
    製作総指揮:クリント・イーストウッド
    監督:シャロット・ズゥエリン
    日本語字幕:石田泰子




映画は、生い立ちと経歴をパーソネル・マネージャーのハリー・コロンビー、
音楽的考察をチャーリー・ラウズ(モンク・クァルテットのテナー・サックス奏者)、
ツァー中のエピソードを語るロード・マネジャーのボブ・ジョーンズ、
父と母を話すモンク・ジュニア、ニカ男爵夫人の秘話を挟んで、
全26曲のモンクス・ミュージックが見どころ聴きどころ。
ドキュメンタリー・タッチなのでストーリーを追うより、散見する同様のシーンを【コラム】風にまとめて紹介したい。
なお、
*付きは、映像に係わる筆者の感想等で、目障りの節は飛ばして下さい。

【モンクス・ウォーク】
冒頭の映像が、奇行の一つに挙げられる演奏中にピアノから離れて、ぐるぐる回りだす行動。
で、4小節で1回転しているから、いってみれば円奏中ってことかもしれない。
 *筆者の見た(あえて見たと記す)2回目の来日公演では、1っか所ではなくって、
  ピアノの周りを回るバージョンアップの大円奏だった。
  チャーリー・ラウズは当たり前のように延々と吹き続けていた
演奏している
 時ばかりではなく、別バージョンのモンクス・ウォーク…楽屋かどこか通路では、
片方の肩をゴクンと下げ躓くように回る…モンクの〈つぶやき〉が面白い。
「外で回ってみたい、(すこしおいて)病院行きだな、(少し置いて)
“モンクは狂っているぜ”だ」
…拍手が起こる…「ありがとう何でも拍手が来る」
完全な外ではないが、広い空港ロビーでネリー(妻)が戻ってくるあいだ、唯我独尊の回るモンクが写っている。2メートル近い長身だから普通の男の頭一つ抜け出て、
まあ、目立つこと。

【モンクス・ミュージック】
「エヴィデンス」:よくピアノは弾くと表現されるが、打楽器のように叩くと書くいた方がジャズっぽく聴こえる。モンクは叩くなんてもんじゃない、指で突く。
くわえ煙草の「ラウンド・ミッドナイト」、「ブライト・ミシッシピ」ではエルボウ打ち、
「ジャスト・ア・ジゴロ」:逃がしてなるものか、長い指で〈音〉を鍵盤に封じ込める、右足は床を擦る・叩く・擦る。
5+アルファ(主に右手5本指+左手時々)の格闘技である。
 *響でも煙草は放さなかった、なぜか〈ハイライト〉だった。

【ベイシーの視戦】
7曲目「ブルー・モンク」で意外なことが解った。
もともとこの映像は、1957年12月、アメリカCBS.TVが放映した『サウンド・オブ・ジャズ』という番組のなかのカットであり、映画『ストレート・ノー・チェイサー』が世に出る前に観たときは、モンクの演奏を、同業のよしみでカウント・ベイシーが聴いているようだった。
ところが□▽※?である。
コロンビー・マネージャーはこう語っている。
「彼(注:モンク)は 腹を立てていた ベイシーにだ あれは確か…演奏の最中 ベイシーがずっと彼を見ていたからだ ピアノのところでだ それが気に障った
“今度は おれが邪魔してやるぞ”と」
演奏するモンクのグランド・ピアノの前右端に、肘をかけ葉巻をくわえてニコニコしているベイシーがいる。
モンクにはニコニコが、微笑じゃなく冷笑に感じたに違いない。
 *このときのモンク・トリオのメンバーは、
 アーメッド・アブダル・マリク(b)オシー・ジョンソン(ds)である。

 『サウンド・オブ・ジャズ』(東映ビデオ)は、現在入手困難な一枚かもしれないが、
 ビリー・ホリデイとマル・ウォルドロン・オール・スターズの映像だけでも、
 何とかならないものかと思う。
 ストールに腰かけたレディ・デイ(1.4.7.11)を囲むように半円形に並んだ一等星たち。
 左からレスター・ヤング(3)、コールマン・ホーキンス(9)、ジェリー・マリガン(6)、
 ベン・ウェブスター(2)、ビッグ・ディッケンソン(5)、ロイ・エルドリッジ(10)、
 ダグ・チーサム(8 tp)…(カッコ内の数字はソロ順)
 それぞれのアップとビリーの〈うっとり にっこり〉の楽しそうな横顔が、若い。
 

【まさかのモンク】
コロンビーの証言…(以下、句読点を付けてない文章)
NYで仕事するにはキャバレー・カードが必要だ
ミュージシャンは警察へ行き 指紋を押してカードをもらう
カードは自分の物だが一度犯罪を犯すと 没収されてしまう
友人のバド・パウエルが旅にでかける時 彼は空港まで車で送ってくれと頼んだ
途中 パウエルは車を降りると麻薬を持って帰ってきた
警察に止められて 彼らは窓から麻薬を捨てた
警察は彼(モンク)を犯人に 彼は逮捕され刑務所に送られた
90日間だ だが彼は麻薬を使っていなかった
当時 つまり50年代の警察の標的は ジャズ・ミュージシャンだった
 *英字版モンクのバイオグラフィーによると、[1951年8月、ニューヨーク市警が
 モンクとパウエルの車を捜査し麻薬をみつけた。
 パウエルのものと推定したが、モンクは証言を拒否した。
 それで、警察はキャバレー・カードを没収した]とある。

 また、マイルスの自叙伝には、
 [モンクは、実に真面目なミュージシャンだった。初めて会った頃、
 クスリですっかりイッてしまったって噂だったが、オレが知っているのは、
 ハイになっていないモンクだった]の記述があるのだけれど、
 その噂とは、この事件をいうのかもしれない。

 筆者の持つ資料では、モンクに黒い影は見当たらない。

【モンクのもんく】 
真面目モンクの一面。
「アグリー・ビューティー]の録音現場…CBSスタジオで、コロンビア・レコードのプロデューサー:テオ・マセロがみんな揃ったか、と気を使っている。
M(以下、モンクの発言):みんなそろってる  
T(以下、テオの発言):たった30分の遅れだ
M:時間は守ろう 賭けたんだ
このあと、TとMの会話が微妙。
T:今日はフリーで行こう  M:フリーか つまり…ディキシーランドか
T:いいや もっと違う感じだ (テオがフリーっぽくピアノを弾く)
M:楽しく気楽にやりたい そしたらいいものができる おれの曲はみんなそうだ
そして「アグリー・ビューティー」のリハーサルになったが
途中で「本番に行こう」というテオ。
M:練習しているのになぜ止める ソフトな曲だったのに
(機嫌を直してリハを続けた)
M:録ったか  T:何だ  M:今の音を聴かせてくれ
T:録ってからだ  M:なぜ聴かせてくれない?
T:録ってないんだ  M:録るといったぞ
T:録るといったら おまえが練習すると言ったんだ
M:まさか おれは何も言ってない 聴かせてくれ
T:録ってない

レコーディングは…と、チャーリー・ラウズが次のような証言をしている。
1度か2度目の演奏をした。3度目はない。
彼(モンク)はこう言った。
“1度目が……”“感情も何もかも最高だ 後は下り坂になる”
だから、れこーディングはまさに挑戦だった。

   「アグリー・ビューティー」は『アンダーグラウンド』に収録されている。
          モンクのオリジナルだが、珍しいことに
          このアルバムにしか演奏されていない。
          自動小銃を背負って憮然としてこっちを向き…
          何か言いたそう。 

【愚問妙答】
洋の東西を問わずインタビューアーは、もうちょっと考えてから、
するべきじゃないかと。
その1
記者(以下、記と略す):演奏と作曲のどちらが大切ですか
M:両方やる
 *モンクはミュージシャンズ・コンポーザーとして、2000曲とも云われている
  デューク・エリントンに次いで約70曲の作品が残されていて、
  スタンダード1001に23曲も入っている。
  
その半分近くがデビューしたての20代後半から30歳頃の作曲である。
  アルバムも100枚ほどある。
その2
記:公演ではいつも帽子が違いますが 演奏に影響は?
M:(笑って) 分からない

 *モンクの初リーダー・アルバムは名門レーベル、ブルー・ノートの
 『ジーニアス・オブ・モダン・ミュージック・セロニアス・モンク』、CDでは3枚連作で、
 ジャケット写真は、当然(?)のように帽子(野球帽か)を被っている。
 
以来、チャイナ帽、ポークパイ・ハット、ビロード防寒帽、チロリアン・ハット、ソフト・ハット、
 中折れ帽、ハンチングなどなど。
 しかし、『アンダーグラウンド』のジャケット写真や響の歓迎会にみれれるとおり、
 てっぺんに赤い棗(なつめ)の実をのせた黒のチャイナ帽が、気に入っていたようだ。
その3:とどめの一言
ロード・マネージャー・ジョーンズ
 の裏話
私たちが楽屋にいると 記者がきて好きな音楽を尋ねた
彼は“どんな音楽でも好きだ”模範的な答えだ
“カントリーはいかがですか?”
彼は答えず黙っていた 記者がもう一度
“カントリーは好きですか”
彼はわたしをみて
“この男は難聴らしい”

【男爵夫人ニカとの漫才】
N(ニカ):プレゼントよ  M(モンク):100万ドルか
N:(笑って)これよ これは…マーカーなの サインに使って
M:サイン用か ペンは持ち歩かない
N:でもそれは気に入るわ 今までのと違うのよ
M:これは偽物か本物か シルヴァーか
N:そうよ とにかく書いてみて
(ナフキンペーパーに、ぐじゃぐじゃと書きなぐる…紙はくしゃくしゃ)
N:適当な紙を  M:適当な紙?
(たたんであった別の紙に てきとうに書く)
M:読めるか  N:すてきよ
M:読める奴がいたら 意味を聞いてくれ きっと困る
  頭が変になる 狂っちまうよ
 (N:笑う M:笑う 笑う)
映画では、空港で二人の女性から「シグネチャー・プリーズ」とサインを求められて、
かがみこんで[オールウエイズ…セロニアス・モンク]と、
すると、女性が「書ける?」係り員がのぞきこむ。
女性は「ファンなの」というシーンがある。
 *だめだしするつもりはないけれど、シグネチャー(signqature)は署名という場合で、
 有名人にはオートグラフ(autograph)がいいのでは?
 
オールウエイズ…(Always Thelonious Monk)と書きかけているのに、
 「書ける?」はないんじゃないの!

何事も真剣なモンクの、書かれるもののスペースを考えたオートグラフをお見せしよう。

 

これは、おそらく写真付きのディスコグラフィーには載っていないと思う…アッ…幻の?
と色めき立たれては困る。
上部が切れてしまって判読出来ないかもしれないけれど、
REMASTERD FOR STEREOと印刷されている。
いわゆる[疑似ステ]と云われるレコードのことである。
そもそも(というほど偉くない)、ステレオ・レコードが出現したのは1957年頃で、それまでレコードといえばモノラル盤しか無かった。
話は古く昭和29,30年(1954,55年)だったか、NHKラジオが第一、第二の周波数を使って立体放送(昭和の香り豊かな表現でしょ)を試みた。
いわく、2台の受信機を約2メートル離し、それを底辺とした三角形の頂点の位置でお聞き下さい。
まだ携帯ラジオ(ここにも昭和の香りあり)も登場する前だから、そうそう一家に複数のラジオがあるわけない。
やっと、戦時中(お断わりしますが第二次世界大戦)から役に立ってきた[高周波一段ラジオ]とポータブル・ラジオを並べ、なるべくボリュームを同じくらいにセット、畳に這いつくばって、オッ!左・右に分離された音(音楽を鑑賞するレベルではない)に驚いた。
因みに、番組は毎日放送されないので、興味はそのとき限りだったようだ。
後に、民放でも文化放送とニッポン放送が連携し同じソースを2社で放送した番組もあった。
話は戻って、アメリカ盤のLPは、モノ&ステの過渡期には、ジャケットを2種類印刷するほど量的には至らなかったのか、モノラル用ジャケットにSTEREOという金シールを貼った…いまでは貴重盤かもしれない…レコードが散見された。
一方で、ユーザーはステレオ・アンプや2台のスピーカーを揃える余裕と時間が追い付かず、暫くは、レコード会社は、2種類同時発売を続けてきた。
横道にそれるけれど、10インチLP(25cm)を収集されている知人に招かれたことがあった。
もう世の中はステレオ時代に入っていたにも拘らず「私はモノラル盤が趣味だから、スピーカーは1台あればいいのです」と、おっしゃっておられた。
そこうしているうちに、モノラルで録音してあったアルバムを電気的にリマスターした疑似ステレオ…〈にせステ〉ともいう…が結構出回った。
『We See Thlonious Monk』は、1953,54年録音のプレスティッジ7053『Monk』を再発売した盤ということになる。

ここからが、この盤の隠れた秘密で、英字版セロニアス・モンク・ディスコグラフィー、プレスティッジ・レコード・カタログ7000番台シリーズ、そのほか曲名の資料では、
We → Wee になっている。
Weeを辞書では、俗語または方言で〈小さい すこし〉と訳している。
ただし、うっかりウェブの翻訳機能を使うと、とんでもない語になる(気になる方はお試しあれ)ので、再発の際 We としたのだろう。

モンクは、チャーリー・ラウズ、ハリー・コロンビーの証言にあるように、
長い間の健康不順と音楽活動意欲が、深刻だった。

ニカ夫人の回顧:1972年、彼は唐突に言った“僕は重い病気だ”
後にも先にも彼が病気の話をしたのは、その時だけだった。

モンク・ジュニア:父は1982年2月17日にこの世を去った
脳溢血で倒れ12日間の昏睡の後
眠りの中で静かに息を引き取った
みとったのは母だった

          セロニアス・スフェア・モンク
          October 10,1917-February 17,1982

            おわり

        

 【付録】 
  10月10日生のジャズ・ミュージシャン

  Harry(Sweet)Edison(tp)  Junior Mance(p)
    Monk Montgomery(b)
    Julius Watkins(frh)…『We See Thelonious Monk』のメンバー
  2月17日没のジャズ・ミュージシャン
  Ray Barretto(per)