死んだ子の歳を数えるのは無意味だが人情だ。死期が近づくと古今東西の有名人の享年を調べてみたくなる。自分の歳と比べて結構生きたな、とか短すぎるな、とか慰みにするのだ。神々の愛でにし者は夭逝する、と。
神が全能なら自殺もできる筈である。しかし、神が自殺したという話は聞いたことがない。ひょっとして、神は死ねないのではないか?だとすると、全能ではないことになる。この矛盾を解決する唯一の方法は、抑、神は存在しない、とすることだ。
さて、神がどのように自分を殺すかはわかった。次なる興味は幽体離脱が起きるかどうか、あの世とやらがあるかどうかである。臨死体験を突き抜けて、死の世界へ。
長い遍歴の果て、漸く三途の川の渡し場までやって来ると、順番待ちだった。渡し賃のない者に六文銭を貸す高利貸しまで居て、致せり尽くせりであるが、もう少し生きてみないかと延命を勧める者の誘惑には閉口した。不治の病に幾ばくかの延命にさしたる意味があるのだろうか。
抑、20万年前にホモ・サピエンスが誕生した時、その原因は何であったかを問うても、突然変異が偶然起こったのだ、としか答えようがないだろう。況してや、地球が何故、ハビタブルゾーンにあるのか?に何の必然性もない。
確かに、この世は天国には見えない。ホモ・サピエンスの棲みかは地球である。金星や火星は人類が住めないと意味で地獄である。