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への次郎が行く

カメラと地図を片手に気ままに出かけます。

芸備線・姫新線の旅 (1978年) ②

2024年01月07日 | 古い写真

翌朝、新見駅に向かっていたら、郵便・荷物車を先頭に、

気動車が鉄橋を渡って来ました。時刻表を見ると、7時19分新見着の姫新線列車でした。

 

 

新見駅

新見駅です。にわか雨でも降ったんでしょうか、一面、濡れています。

新見駅は芸備線・姫新線それに伯備線の列車が入ってくる交通の要衝です。

 

ホームに入ると、2番線に気動車が入っていて、

これに乗って新見駅を出発しました(7:30始発)。

 

 

新見-中国勝山間

新見駅を出て、しばらく走ったところです。芸備線から姫新線に変わっても、

沿線風景に大きな違いは、なかったんですね。

 

 

中国勝山駅

中国勝山駅に着きました(8:24)。駅舎を出て、駅前をパチリ。

グーグルマップを見ると、前方の丁字路、現在は道が抜けて十字路になっていました。

 

駅前から少し行くと、古い町並みが残っていました。ここは出雲街道の宿場町

現在は「町並み保存地区」に指定されています。

見てください、前方のトラック後方に立つ男性、いかにも70年代の格好ですよ。

 

古い街並みを散策したあと、駅に戻ってきました。

軒下に「スト権を返せ」の文字。あの頃はよく見かけました。

 

1番線に入っていた気動車に乗って出発(9:45始発)。

 

 

中国勝山-津山間

院庄(いんのしょう)に到着。向かいに、ちょうど下りの気動車が入ってきたようです。

懐かしいものが写っていましたよ。ほら、ホームのタブレット授け器に、タブレットがついています。時刻表を見るとこの気動車、津山発広島行きの急行やまのゆ。院庄駅は通過駅。おそらくタブレットを受け取り、走り去ったのでしょう。当時の単線特有の光景です。

 

 

津山駅

津山駅に着きました(10:41)。駅前に出ると、

三次や新見よりも、大きな町だったのを覚えています。

 

このあと、津山城に歩いて行って、城内から城下をパチリ。

写真を見ると、確かに沿線随一の都市ですね。

 

津山駅に戻ってきました。暑い日だったのか、おばさんが顔をぬぐっています。

時間的に、津山で昼ご飯を食べたと思いますが、記憶はありません。

 

ホームに入ると2番線ホームに、ここ始発の気動車が止まっていて、

これに乗って津山を離れました(13:09始発)。

 

 

津山-姫路間

津山を出ても、山の中を走ったようですね。

地図を見ると、兵庫県の龍野を出て、姫路駅が近づいたあたりでやっと平野に出てきます。ですから姫新線も、ほんど山間を走っていることになります。

 

 

姫路駅

芸備線と姫新線を乗り継いで、やっと姫路駅に到着しました(15:47)。

 

このあと、せっかくだから、ということで、姫路城に歩いて向かいましたが、

この場所まで来て、時間的に見学は無理と考え、駅に引き返しました。

 

姫路駅11番ホームです。入ってきたこの顔、懐かしいですよね。

最後は新幹線に乗って、旅を締めくくりました。

 

 

当時の姫新線上りの時刻表です。色線がついている列車に乗って旅をしました。

 

 

古いネガが出てきたのをきっかけに、45年前の一泊二日の旅がよみがえってきました。

芸備線と姫新線、合計で 350キロを超える単線非電化区間。この区間を芸備線・姫新線とも3本、計6本の列車に乗りました。それもすべてが形式の異なる列車。

鉄道マニアにはたまらない路線でしょうが、途中で彼らに出会った記憶はありません。もしかしたら、当時のローカル線、これが普通の光景だったのかもしれませんね。

当時の運転本数は現在より多く、途中下車しながらの旅もしやすい時代でした。本数が減った現在では、とてもできない旅ではないでしょうか。

 

ほんとに、いい時代だったよなぁ

                                       


芸備線・姫新線の旅 (1978年) ①

2024年01月04日 | 古い写真

物置から出てきた古い写真、整理していたらネガがありました。写真はなく、二袋のネガ。ネガの隅には、1978年8月17日、18日の文字。

 

なんとなく旅の記録のような感じがし、写真屋さんでCDに入れてもらいました。

できあがったCDを開いたら、記憶がよみがえってきました。それは    

 

広島県福山市に帰省したときの帰り道、広島から芸備線姫新線を乗り継いで姫路に出て、そこから新幹線で東京に帰ったときの写真でした。

当時の時刻表を参考に、この旅を再現しました。

 

 

広島駅

広島駅です。左は新幹線の高架。当時の時刻表を見ると、8番線は芸備線のホームでした。

そこに止まっていた二両編成の気動車、これに乗って出発。時刻は7時ちょうど。

 

広島駅を出て、しばらく新幹線の高架横を走って行きました。

空はどんより。この日は天気が悪かったんですね。

 

 

広島-三次間

向かいのホームに、エンジ色の客車が入っていました。

時刻表を見たら、下深川(しもふかわ)駅。今も広島までは、通勤圏です。

 

芸備線は広島県の県北を走る山間の路線、

気動車は山すそを縫うように走って行きました。

 

 

三次駅

三次駅に着きました(9:26)。

ここで駅弁を食べた記憶があります。買ったのは鮎すし。調べたら、有限会社環翠の鮎すし(500円)でした。

 

お腹を満たしたあと、構内を散策。跨線橋から見た備後落合方向です。

左が1番線、右が2・3番線。右側に気動車が多数止まっていて、奥に扇形庫がありました。

 

2・3番線から、1番線方向を撮影したものです。1番線の端は、切欠の0番線になっていて、

三江線のホームでした。この気動車、時刻表によると10時30分発の口羽行きの臨時です。

 

やがて1番線に、ディーゼル機関車に引かれた旧型客車が入ってきました。

撮影したあと、急いでこの列車に乗って、三次駅を離れました(10:40)。

 

 

三次-備後落合間

塩町駅を出て、(たか)に着くまでの風景。列車はノークーラー、窓全開です。

写真から、どんどん山が迫ってきていたことが分かります。

 

 

備後落合駅

山間の駅、備後落合駅に着きました(12:07)。

写真を見ると、到着後、駅から外に出て、付近を散策したようです。

 

勢いをつけ、右方向から走ってきた気動車。鉄橋通過音が聞こえてきそうです。

この鉄橋、グーグルマップで調べたら、備後落合から少し西に行ったところにありました。木次線小鳥原川橋梁です。

この気動車、時刻表によると14時09分備後落合発の松江行きでした。

 

芸備線のホームに戻ってきました。右奥には木次線のホームもあります。

時刻表を見ると、左の気動車は三次行き(15:48始発)、右は新見行き(15:29発)です。ホームの人たち、盆に帰省した人とその見送りでしょうか。

 

 

備後落合-新見間

備後落合を出た気動車、山の中を走ったあと、急に視界が開ける場所がありました。

調べたら小鳥原川第一橋梁。高さ30㍍、長さ146㍍、中国地方一高い鉄橋だそうです。

 

 

新見駅

芸備線159.1キロ、伯備線6.4キロを乗り継いで、岡山県の新見駅に到着(16:58)。

乗ってきたこの気動車の後方、よく見ると、ラッセル車が写っていました。

 

夕方の新見駅近くの風景です。

グーグルマップで見ると、高梁川の南岸堤防道路から北岸を撮ったものでした。このあと、近くのホテルか旅館に泊まったと思いますが、写真も記憶も残っていません。

 

 

当時の芸備線上りの時刻表です。色線がついている列車に乗って旅をしました。

 

                                   つづく

                                            


福塩線 二度と見られない景色 

2023年11月08日 | 古い写真

物置からたくさんの古い写真が出てきて、少しずつ整理を進めています。

 

これは、セットでした

カラー写真が10枚、白黒写真が4枚。カラー写真のネガが1つ。

 

どうも、白黒写真を使い切ったあと、カラーを装填して撮り続けたようですね。

写っていたのは、

白黒写真は、長い鉄橋を渡って行くディーゼル機関車

 

カラー写真は、右の山影から出てきた3両編成の気動車

 

長い鉄橋を走る2両編成の気動車。

 

それに、河原に降りて鉄橋を渡る気動車を撮っている写真が数枚。

 

おぼろげな記憶では、場所は広島県府中市の北部、河佐峡の近くの国鉄福塩線。時期は、高2の修学旅行の際に一眼レフを買ったので、その次の年(1973年)の新緑のころではないでしょうか。

 

 

正確な場所を知るために、福塩線の前面展望の動画を見てみました。

が、長い鉄橋はありませんでした。

おかしいなぁ

 

そこでネットで調べていたら、

えっ!!

撮影場所は、芦田川上流の八田原ダム建設に伴って廃線になっていました。ただ廃線跡は遊歩道になっていて、長い鉄橋も残っているそうです。

 

そこでグーグルマップで検索すると、廃線跡が出てきました。

赤い線が廃線、黒が長い鉄橋、オレンジの点が撮影場所。やはり河佐峡の近くでしたね。

 

ストリートビューで見てみたら、芦田川沿いの道の向こうに長い鉄橋があって、

撮影場所は山の中腹あたり。水路があって、そこで撮ったんですね、思い出しました。

 

 

半世紀前の写真について、いろいろ調べていたら、思いもよらない結果になりました。

新緑の渓谷を走る列車、もう二度と見られなかったんだなぁ

                                            


山間の駅、備後落合の思い出

2023年09月04日 | 古い写真

ヤフーオークションで雑誌を一冊、競り落としました。競り落としたといっても、競合者はいませんでしたが(1000円。送料無料)。

 

手に入れた雑誌はこれ、『』(昭和30年4月号)。

昭和30年かぁ、生まれた年だなぁ

 

実はこの雑誌、興味深い一文が載っているんですね。めくってみると、

日焼けして薄茶っぽくなった紙面に、松本清張ひとり旅』の文字。

 

興味深い一文とは、これでした。

 

松本清張は戦後、朝日新聞西部支社に復職しますが生活が苦しく、(ほうき)売りのアルバイトを始め、北九州から中国地方、関西方面に売り歩きました。その時の一コマが『ひとり旅』に描かれています。

それによると、

 

その日清張は、昼過ぎに広島芸備線で出発、父の出身地鳥取へ行く途中、山の中にある備後落合駅で下車し、駅前の宿で一夜を過ごすことになります。

(『読売新聞』)

 

備後落合という所に泊まった。汽車はここまでだった。小さな宿屋で谷の底のような場所である。一部屋に案内されたのではなく、八畳ばかりの間の真中に掘りごたつがあり、七八人の客が四方から足を突っ込んで寝るのだ。夫婦者もいれば見知らぬ娘も交る雑魚寝であった。朝の一番で木次線で行くという五十才ばかりの夫婦が寝もやらずに話し合っている。出雲の言葉は東北弁を聞いているようだった。その話声に聞き入っては眠りまた話し声に目が覚めた。(『ひとり旅』)

「出雲で東北弁」。この備後落合での経験が、のちの名作『砂の器』につながります。

 

この備後落合駅、への次郎も思い出があります。

 

中学校2年生(昭和44年)の夏、学校行事の一環として道後山キャンプに行きました。最寄りの駅から福塩線に乗って北上、塩町駅芸備線に乗り換え、道後山駅に向かいました。                                   道後山駅の一つ手前が備後落合駅。ここは芸備線に木次(きすき)が交わる中国山地の要衝、しかも単線によるすれ違いのために列車はしばし停車します。ホームには降りられませんでしたが、山の中にしては大きな駅構内を車内から見回した記憶があります。

 

 

その2年後の高校1年生(昭和46年)の夏、中学校の同級生数人と、同じところにキャンプに行きました。この時は備後落合駅のホームに降り、列車が出発するまでのわずかな時間、構内を見て歩きました。その時の写真がこれです(撮影場所)。

写真左端の建物は駐泊所?、右は機関車車庫、中央はディーゼル機関車DE10。写っていませんがDE10の背後には、転車台もありました。当時、ホームには立ち食いそばの店もあったんですよ。

 

キャンプからの帰りの写真もありました(撮影場所)。芸備線のホームに入ろうとしている列車から撮ったものです。

前方はすれ違いのために芸備線のホームに入っている貨物列車です。写っていませんが、貨物列車の右奥に木次線のホームがあります。

 

この写真、よく調べたら松本清張が一夜をとったあの旅館が写っていました。どれかというと、右端の大きな屋根の建物です。ここで清張は、『砂の器』のヒントを得たんですね。

 

大学生の夏休み、実家から東京に戻る際、福塩線から芸備線・姫新線を乗り継いで、姫路から新幹線に乗りました。その時も備後落合駅のホームに降りましたが、それからもう、半世紀近くになります。

 

高校2年生の時にキャンプに行った友達の写真を見ながら思いました。

備後落合、どうなっているかなぁ。友達はどうしているのか…