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平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

またもやALWAYS 駅前三丁目の夕陽・・・「女が泣いてちゃ、ご飯は出来ないよ!」

2005年12月10日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

「女が泣いてちゃ、ご飯はできないよ!」
昔、NHKで、小林薫主演、「イキのいい奴」というドラマが放送されてましたが、その中で、大女優、松尾嘉代扮する東京下町おかみさんが言うセリフですが、私にはどういうわけか、この一言が、大変、印象に残っております。
(当時、割と人気有ったみたいで「続・イキのいい奴」というのも作られましたから、確か、そちらの方で言われたセリフだったかと・・・。)

時代設定は、ALWAYS・・・まさしく、昭和27~28年頃の東京の下町を舞台にしたドラマでしたが、冒頭のセリフを言った松尾嘉代さんの役は、少し、年齢不詳気味でしたが、夫役の若山富三郎さんが、60前後といったところでしたから、50歳くらいだったでしょうか。

思えば、その時代、その年齢の人は、それまでに、死ぬほど涙を流してきてるんですね。
ちょうど、我々の祖母くらいの年代ですよね。
まさしく、今のイラクアフガンと一緒で、我が子を見、友人知己を聞き、を焼かれ、食べるものもなく・・・。
ドラマではそこまで言ってませんでしたが、言わないのが当たり前で、誰もが経験している当たり前のことなのですから、わざわざ、取り立てて言うようなことではなかったでしょう・・・。
一方で、主演の小林薫が演じた寿司屋親方にも、その時代の空気が感じられましたよ。
思えば、うちの祖父などがそうだったような気がします。
そう、いわゆる、「昔気質」ってやつですよ、御同輩!
「あっしにとっちゃあ、寿司屋ネクタイしてるってのが、どうにもいただけねぇんでさぁ。へい、サラリーマンでやす。給料分の仕事だけしまっせ!みてぇな。どっかにありやせんかね、昔ながらに着流しで寿司握ってる店・・・(笑)。」←影響受けやすい性格なもんで・・・。あいすいやせん。


(↑昭和40年頃の博多駅近辺です。雰囲気だけでも味わって頂ければと・・・(笑)。)


(↑参考までに、500mほど下がったところからの現代の博多駅前です。)

そう思えば、現代の女性には、望むべくもないことなのかもしれませんが、おそらく、今も昔も、こういう、いざ!となったときには、女性の方が遙かに強いのでしょう。
でも・・・、一方で、辛い目に遭っている今の世の女性方に、どこかで声を掛けてあげられるおばさんが居て欲しいですね。
「ほらほら、女が泣いてちゃ、ご飯が出来ないよ。」って。
コンビニ行けば・・・って言われますかね(泣)。

P.S ちなみに、まったく、余計なことですが、ワタクシ、実は、主演の小林薫さんに似ていると、いつも言われます。
でも、だったら、もう少し、モテてもいいんじゃないの~!というのが、私の正直な感想です(笑)。
マジですぜ、御同輩!

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若き日の矢沢永吉に思う草千里と川島雄三的我が身。

2005年12月06日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

この画像は、9月末頃の物ですが、阿蘇草千里です。
なぜ、唐突に・・・とお思いでしょうが、先日、たまたま、テレビ付けたら、BSで昭和36年の映画やってました。
木下恵介監督「永遠の人」という映画で、高峯秀子主演、佐田啓治(中井貴一の父)、仲代達也加藤嘉といった名優が脇を固めた物でした。

たまたま、自分が生まれた年だったのですが、まあ、見るともなしに見ていたら・・・、いきなり、峯秀子が我が子と待ち合わせする場所に草千里!ヾ(ーー )ォィ
まあ、当たり前と言えば当たり前ですが、全然、今のままの風景!
驚いたのは、昭和36年当時、すでにこんなところがアスファルト舗装がしてあり、バスが通っていたという・・・。

もうひとつ、日曜に、撮りダメしていた「矢沢永吉ヒストリー」を見たのですが、昭和53年のヒット曲「時間よ止まれ」を、当時、二十代後半の矢沢永吉が歌っているのを見て、思わず、涙が出そうになりました。
音楽そのものよりも、矢沢のギラついた若さに・・・。

で、これです。
 にんげんねもなくへたもない
 みちにさまようちりあくた
 ときのながれにみをまかすだけ
 しょせんこのみはつねならず
 うれしいときにはよろこんで
 ともだちあつめてのもうじゃないか
 わかいときはにどとはこない
 あさがいちにちにどないように
 いきてるうちがはなではないか
 さいげつひとをまたないぜ

〈陶淵明 作 川島雄三 意訳〉

以前も申し上げたかもしれませんが、20代というのは今の時代、滑走路だと思います。
今の成人という概念は、人間の寿命が50年だった時代の物です。
人間の寿命が80年に延び、ましてや徴兵制も無い現代、本当の成人は30歳だと思います。
20代には選挙権もいらないと思ってます。
ただ、それだけに、逆に言うと30歳になったときには、いつでも離陸できるような態勢になっておく必要があると思うのです。
となれば、今、別に焦らなくとも、30歳になったときに、飛び立てるようになっていればいいかと・・・。
少し説教くさいことを言うようですが、すべて、我が身を振り返ってのことです。
お聞き流し下さい。

つまり、
わかいときはにどとはこない
さいげつひとをまたないぜ

です。

ということで、今日も二日酔いですので、この辺で・・・。

P.S 鬼才、「川島雄三」は当然、ご存じですよね?御同輩。

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喪中葉書に見る、名僧 仙崖和尚と「太陽にほえろ」的考察。

2005年12月05日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

ちらほらと、喪中年賀欠礼の葉書が届く季節になって参りましたね。
いかがお過ごしでしょうか?
で、先日、そのうちのひとつに、私と同年配の方からのモノがあったのですが、よく見ると、「妹が亡くなった」ので・・・という旨が書いてありました。
ご病気だったのか、お子さんやご主人などいらっしゃったのか・・・。
詳細は存じ上げませんが、親ならまだしも、弟、妹や子供などに死なれるのは、ちょっと、やりきれないものがありますね・・・。

博多には、地元では、割に知られた人物として、「仙崖」という名僧がいます。 
寛延三年(1750年)、美濃(岐阜県)に生まれ、39歳の時に博多に来て、そのまま、天保八年(1837年)に88歳で亡くなっている人物ですが、この方は、一方で、大家としても存命中からすでに有名だったようで、(出光美術館のコレクションが有名です。)あるとき、知人から、「孫が出来たので、ひとつめでたい言葉を書いてくださらんか。」と言われたそうで、すると、和尚、さらりと、「祖死父死子死孫死」と。
つまり、「父死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ・・・」というわけです。
「これの、どこがめでたいとですか!」と色を為す知人に、仙崖さん、にっこりと微笑んで、「これが一番、めでたい。この逆こそが一番の不幸である!」と言ったといいます。

つまり、この順番順序正しく死んでいくことこそが一番の幸せであり、逆の順死んでいくことこそが不幸の極みだというわけです。
これは、ひどいようですが、この年になってくると、何となく、わかるような気がします。
親が死んだからと言って、別に悲しむ必要はないわけです。
それが物の順序なんですから。
でも、孫が先に死に、子が先に死に、それから自分では・・・。

仙崖さんは、博多では、「和尚」だとか、「住職」などというよりも、ただ、「仙崖さん」で親しまれております。
この方のエピソードは、また、いずれご紹介することもあるでしょうが、最後にもうひとつ、この方自身が亡くなるときのエピソードです。

いざ、亡くなられる!というときに、弟子たちが、 「何か一言、ご遺戒を頂戴したい!」と言ったのに対し、仙崖さん、一言、 「死にともない、死にともない」(死にたくない、死にたくない。)と言ったそうです。
弟子たち、皆、顔を見合わせ、「もう少し、何か良いことを仰って下さい。」と、再度、お願いしたところ、今度は、「ほんまに、ほんまに」と(笑)。
幕末の英雄、勝海舟は、死ぬときに、「これにておしまい!」と言ったといいますが、これに通じる物があるのでしょうか。

願わくば、我が末期もこうありたいと思っておりますが、その意味で、以前、「太陽にほえろ!」という番組が放送されていましたが、覚えておられますでしょうか。
あの中で、刑事役の人気俳優たちが次々と殉職という形で番組を去っていきましたが、未だに「懐かし・・・」番組で流されていますので、ご記憶にあるかと思います。
その中で、以前、私なら・・・と考えた展開があったのですが、「私なら」、番組の始め辺りで、何かちょっと腹が痛いと言っていたのが、そのうち、犯人を追いかけて、そして、激しい銃撃戦、もうだめだ!絶体絶命!が意外に、傷一つ無く片づき、ホッとしたところで、また、腹が痛くなってきて、入院
「盲腸です。すぐに手術を。」と言われ、担架で手術室に運ばれるときに、この猛者刑事が、「怖い怖い。行きたくないよ。」を連発。
それを見て、「あいつが・・・!」、「たかが、盲腸だぜ!」と言って、笑い転げるゴリさんたち仲間の刑事たち。
ところが、長引く手術。
で、一人、本署で待ち続けるボスのもとへ、「死す!」の報がもたらされる・・・。
「盲腸が腹膜炎を併発して・・・。」
ここで、茫然とする刑事たちのシーンのまま、「チャチャチャ~ン、チャチャチャチャ~ン、チャチャチャ~ン♪」のエンディングテーマへ!

私的には、これで行きたかったですね。
如何でしょうか、御同輩!

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女性の自立に見る王朝部族の成立の原点!

2005年12月02日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

以前見た、今流行りのテレビの判例モノのショートドラマで、結婚式の当日に新婦が逃げた・・・というのをやってましたが、見ていて強く違和感を覚えたことがあります。
新婦の失踪を知り、驚き慌てる両家の人々の中で、新婦の父が、新郎に向かい、「貴様!うちの娘に何をした!」と詰め寄るシーンがありました。
でも、それって、逆でしょ。
「うちの娘に何をした!」ではなく、「うちの娘が大変ご迷惑をお掛け致しました。私どもの育て方が間違っておりました。申し訳ありません。」というのが、本当なのではないでしょうか。
でもでも、こういう話って、往々にしてあるんですよね。
私も若いときに、全く仕事をしようとしない友人がいたのですが、そのオヤジから、「友達(つまり私!)が悪い。」と言われたことがあります(笑)。
どう考えても、私も含め、皆、普通に働いていたわけで、逆にそいつに付き合わされる分だけ睡眠時間を削らねばならず、結構、迷惑だったんですが・・・。
実際、他の友人全員も、「あそこの親はわかってない。」と言ってましたし、何より、その友人本人が、「うちの親だけは、本当に、わかってないもんなー。」と言ってましたから・・・。
明日は我が身かもしれず・・・、自分の子供のことしか見えない、こういう親にだけは成ってはいけないと思っておりますが・・・。

で、違和感と言えば、先日、聞いた話なのですが、ある人がツアーでの旅行中に、どこかの偉いエリート女性社長さんと、どこぞの田舎気位の高そうなおばさんと、たまたま相席になったそうです。
その折、他の誰かが、その女性社長さんに、家庭のことをお尋ねになったようで、そしたら、その方は「私は医者と結婚したのですが、私は私でこうやって職業を持っているのに、日曜などにどうして夫の仕事の関係に付き合って、『夫がいつもお世話になっております。』などと言わなければならないのか。それが疑問に思ったから、私は夫も子供も置いて、離婚しました。」と言われたそうです。
そしたら、今度は前にいた田舎のおばさんが「私の娘も医者なのに、どうして、娘が夫の知り合いにあったときなどに、頭を下げなければならないのか、私も我慢がなりません。」と言い出したそうで、それから、二人でウーマンリブ(死語?)大会だったそうです。

私はその場にいなくてよかったと思いますが、(夫を支えようとか、二人で力を合わせようとか・・・、夢もチボウもない!九州人のノスタルジーはもはや、紀元前の話なのでしょうか(泣)。)以来、私の美学が、浅はかな独りよがりの上に成り立っているのか、そういう女性たちの思考こそが愚かなのか、それなりにちょいと考えてみました。
で、つまるところ、日本平和なんだなと。
以前、ある農水省の偉い先生が言ってたのですが、「外敵に襲われなくなると雄と雌が同化してくる」と。
ライオンオスも、狩りはメス任せで、そのくせ、御馳走一番に食う。
メスも何も言わない。
でも、ライオン同士の争いや、自分たちより強い外敵にあったときには、一転、立ち向かっていくと言います。

日本侵略されて、大勢が殺されたら「旦那が横暴だ」とか言ってられないでしょう。
少しくらい横暴でも、自分たちを守ってくれる方がいいでしょうから。
私はこれがある意味、自然の姿であり、部族というモノが成立していく過程・・・、あるいは、その延長線上にある王朝というモノの原点のようにも思えます。

かつて、「男が男であった時代、女は女であった。」と言うマリリン・モンローのグラビアのコピーがありました。
私が好きなコピーですが、これって、男の独りよがりでしょうか・・・、御同輩。

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「男子三日見ざれば刮目せよ!」 現代版、成長の条件。

2005年11月26日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

先日、久々に、ある先輩と会食したのですが、その方は、何でも、最近ではボランティアで外務省の留学希望者審査・選考などもやっておられるとのことでした。
で、先日も、その面接があったそうで、その折、前もって用意された質問項目の中に、「最近、あなたが一番ショックだったことは何ですか?」というものがあったそうです。
すると、ある若い女性が、「あのー、こんなこと言ってもいいのでしょうか・・・。」と少し戸惑った様子で、前置きした後、「長いこと、付き合ってきた彼と別れたことです。」と言ったそうです。
その先輩は、それを聞いて、「『こんなんじゃダメだ!』と思った。」とのことでしたが、私は「そうでもないですよ。」と翻意をお願いしました。

かつて野村証券元会長であった奥村綱雄という人は、若い人を見つけては、「人間は、若いうちに、失恋とか落第とか、ときには投獄といった、どん底の経験を味わわないと、一人前にはならないぞ!」と言っていたといいます。
また、この人は、戦後、45歳の若さで大野村證券の社長に就任した人なのですが、このとき、就任挨拶として、老財界人、松永安左右衛門の元を颯爽と訪ねたところ、逆に、「きみぃ、いやしくも経営者たるもの、投獄・倒産・大病3つのうち、2つを経験して一人前だという。僕はこのうち、投獄と倒産を経験した。君はいくつ経験したのかね。」と言われ、悄然として帰ったという話を聞いたことがあります。

失恋、落第、大病、投獄、倒産・・・、どれも好きこのんで経験したいものではありませんが、これらの体験は、いやがうえにも人間を成長させるものではないでしょうか。
まさに、「女子、三月見らざれば嘆息するも、男子、三日見ざれば刮目せよ!」とはこういうことを言うのでしょう。
今の世の中、男女平等ですから(笑)、男子女子というとらえ方ではなく、要は体験の内容という風に捉えて頂ければいいかと・・・(嘆!)。
もっとも、失恋、落第というもののステータス(?)は現代では随分下がったようにも思えます。
この点で、この定義を現代風に当てはめるなら、「失恋」ではなく「離婚」でしょう・・・。その意味では、落第はむしろ「リストラ」かと・・・。
それでも、この女性のように、こういった面接の場で、それを口に出来るということは、周りの見解は別にして、本人的にはもの凄いショックだったのでしょうから、その意味では、素晴らしい体験であったでしょう。
人間、誰しも、痛み方は人それぞれですから。

それに何より、まだ、こういったうら若い女性に、「大病、投獄、倒産、離婚、リストラ」の経験を求めるのも酷ではないかと・・・(笑)。
ちなみに私は、このうち、ようやく、2つ半を経験致しました。
(詳細は聞かないでください(笑)。)
まだまだ、一人前にはほど遠いですね。
ところで、いくつお済みでしょうか、御同輩・・・。

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老後の本棚

2005年11月25日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

23日の祝日、たまたま、友人からチケットをもらったので、息子を連れて、サッカー、アビスパ福岡vs徳島ヴォルティスを見に行ってきました。
そしたら、これまた、たまたま、J1昇格が決定する試合だったそうで(サッカーファンの方、すみません。どうしても、世代的に野球の方が馴染みが深く・・・。)、で、結果、0-0の引き分けで遂に昇格決定となりました。
さすがに、満員でしたね!




ところで、私は物心付いた頃から、本が好きでしたので、今でもかなりの数の蔵書類を所有しておりますが(もっとも、玉石混淆!学術本からマンガ、**本まで・・・。)、ただ、家内などは、この点にはまるで理解がなく、私が死ねば、如何に貴重な蔵書類と言えども、間違いなく、「燃えるゴミ」行きとなるでしょう(泣)。

家内はこともなげに言います。
「一回読んだらもう読まないでしょ。だったら捨てれば置き場所取るのよねー。それに次から次に新しいの買うわけでしょ。増えるんなら減らしてよ。
・・・確かに家内の言い分にも一理あります。
一度読んだのを、また、引っ張り出して何度も読むかと言えば、「否」であり、とすれば、増えていく蔵書類・・・。
決して広いとは言えない我が家と、「収納という言葉が辞書にない家内」を考えたなら・・・。

でも、私は蔵書類を捨てません
なぜか。
それは、「老後」の為です。

以前、誰かのコラムで読んだのですが、(その方は間もなく、定年を迎えるような年配の作家か何かだったと思うのですが、)曰く、「私はまもなく老後になる。老後になれば、考えていることがある。それは、若いとき読んだ本をまた引っ張り出してきて、再び、それを読み返そうと思っていることだ。当時と今とでは、同じ本を読んでも違う感慨があるだろうし、その本に対する思い出もあるだろうから、『この本を読んだときは、あそこに通っているときだったなー。』、『この本を読んでいたときは、あんなことがあったんだよな・・・。』などといって当時の思い出もよみがえるかもしれない。そう思って、私はこれまで読んだ本を、捨てずに持ったままにしている。」という意味のことが書いてありました。

私も今は、残念ながら、昔の本を資料という意味以外で読み返すことはありません。
それは何より、一度得た知識を確認するという作業よりも、まだ、新しい知識、知らない知識といった未知の領域というものを自分が求めているからなのだろうと思います。
しかし、もう、新しい知識を得ることを必要としなくなったとき、私は昔読んだ本を本棚から取り出して、改めて読み返してみたいと思っています。
もう、そんなに遠い話でもないでしょうから・・・。
あるいは、かつての本だけが、私の老後の無聊を慰めてくれることになるかもしれませんし・・・。

「滑稽でしょ若い頃♪笑い話に涙が一杯♪涙の中に若さが一杯♪」
私も島倉千代子「人生色々」の歌詞が理解できるような年になりつつあるようです。

ということで、奥さん、あまり、私の蔵書類を邪険にしないでください・・・(泣)。

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中山素平翁の逝去に見る、ヒューザー小島社長の「男の顔は領収書」

2005年11月24日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

19日夕、元日本興業銀行頭取、中山素平さんが死去されましたね。
このニュースを私は驚きを持って迎えました。
元より、知り合いであるはずもなく、驚いたのは、「えー!この人、まだ生きてたの!」ってことでした。
先日、ドラッカー(世界的に著名な経営学者)が亡くなったときにも同様の驚きを隠せませんでしたが、ただ、ドラッカー氏に関しては、亡くなる少し前にも日経新聞に連載などを載せられてましたから、亡くなった時点での驚きはそれほどまではありませんでした。
でも、この中山素平という人物については、晩年はあまり、表に出て来られなかったこともあり、失礼ながら、とっくの昔に亡くなってるもんだとばかり思ってました・・・。
だって、この方が日興銀の頭取に就任されたのは、私が生まれた年ですから45年前(もうすぐ(笑)。)です。
その当時の頭取なんて、終身雇用ピラミッドがしっかりしている時代ですから、40代なんかで頭取になんかなれるわけがなく、仮に60歳だったとしても今、105歳・・・の計算ですよ!
まあ、実際に、享年99歳だったと言いますが、マジで結構、驚きました。

で、私がここまで驚くのには、もうひとつ、伏線があります。
それは、以前、平太郎独白録 「財界四天王の遺訓にみる五十年前の経営者の気概!」の中で親戚宅より三鬼陽之助という老財界記者の著書をもらってきたと申しましたが、その中の一冊にこの人のことが載っていたからです。
本の内容自体は、おそらく、戦前戦後から昭和30年代くらいまでの、様々な財界人、企業人のことが教訓として述べられたものでした。
(つまり、中山翁は本田宗一、松下幸之助、五島慶太、小林中・・・といった人たちと同列に取り上げられていた言うならば、歴史上の人物だったのです。)

で、同書の中でこの中山素平という人について覚えていることがあります。
戦局悪化著しい昭和20年3月。
遂に軍部より、「日興銀の中からも招集することとなった。ついては、最低限、銀行業務に必要な人間だけ除いて、招集していい者の名前を順に書いて差し出すように!」という命令が来たそうです。
そして、その招集者名簿作成を命じられたのが、当時、日興銀の人事部長であった中山素平その人であったとか。
突然の業務命令に中山部長は、大いに悩みます。
可愛い部下たちに、順番を付けて、明日をもしれぬ戦場に放り出さなければならない。
中山翁のような好人物にとっては、我が子の命に順番を付けるようなものだったでしょうか。
で、どうしても書けずに、遂に提出日の前日となります。
世が白々と明けてきた頃、中山人事部長、意を決して、ある人物の名前を第一行目に書き込んだところ、それからは、不思議とすらすらと書き上げることが出来、その足で招集者名簿を総裁に提出したそうです。
総裁は、中山部長の腫れた目と、その第一行目に書かれた人物の名前を見て、何も言わず、一言、「よかろう。」と言ったといいます。
その第一行目に書かれてあった名前・・・。
それは、「中山素平」だったそうです。

ここまで書いて、思うことがあります。
かつて、「男の顔は領収書」という本があったのを覚えておられますでしょうか?
別にこの本を読んだわけではないのですが、この年になってくると、何となく、言わんとすることが思い当たるようになりました。
人をだましたり陥れることばかり考えてきた人間は、年とってくると、そういう顔になっちゃうんですね。
同業者のおじさんたちにたくさん、いましたよ。
(私は同業者のおじさんたちを、心の中で、「一癖二癖・・・どころか無くて七癖おじさん」と呼んでいました。)
無論、すべてにそれが当てはまるわけではありませんが、昨日のテレビに出ていた耐震データ偽造問題ヒューザー小島社長の顔を見て、あまりの悪役顔に思わず笑ってしまいました・・・(笑)。
この方が実際に悪人だとは言いませんが、その点、逝去のニュースで見た、晩年の中山翁の映像は、実にいいお顔をされておられたようにお見受けしましたが如何でしょうか?御同輩。

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ALWAYS 駅前三丁目の夕陽・・・本田宗一郎に見る過ぎ去りし日々。

2005年11月18日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

最近、ALWAYS 三丁目の夕日という映画が封切られたそうですね。
東京タワー建築中昭和33年が舞台だとか。
確かに昭和36年生まれの私などは、あの時代には何とも言えないノスタルジーを感じます。
(たまたま、うちも三丁目でした・・・(笑)。駅前三丁目。)
それほど豊かではなかったけど、皆、明るく、誰の目にも希望があった・・・。
しかし、その時代を実際に生きた人たちにとっては、それほど良い時代だったとばかりは言えないのかもしれません。

人は、長い年月が経つと、人や時代の悪かった部分忘れてしまうようです。
実際には、どぶ川臭く、そのどぶ川は等の害虫を生み、夜は街中でも蚊帳(かや)を吊って寝なければならなかった・・・。
さらに、蚊は日本脳炎という病気を媒介し、年に何回も予防注射を打たないといけないし、台所にはゴキブリの代わりにナメクジがウヨウヨいました。
さらにさらに、今ほど、住宅の性能もよくありませんでしたから、夏には蚊やハエが入ってくるし、冬にはすきま風が吹き込む。
子供心に、まるでどこかへ連れ去られそうな、あのすきま風の何とも寂しい音色を覚えています。
そして、何より、皆、表情は明るかったものの、まだまだ、人々は貧しく、貧困は犯罪を生み、治安はこの!平成の世より悪かったと言います。
暴対法もありませんでしたからね・・・。)
つまり、貧困とは現代人が考えるほど生やさしい物ではなかったということでしょうか。
それが、今となっては、貧困さえも美しく思え、あの時代がユートピアのようにさえ、感じてしまう。
だが、果たして、私の祖父母などが聞いたなら、果たして、同じ感想をもつのか・・・?
「どっちがいい?」と聞いたなら、二つ返事(?)で「現代!」と言いそうな気もします(笑)。

ところで、私が企業人として敬愛している人物に、元本田技研工業副社長藤沢武夫という人がいます。
人がいます・・・などという言い方をしないといけないほど、最近では少々、歴史の中に埋没してしまった観がありますが、かつては、ソニー井深・盛田と並んで、ホンダの本田宗一郎藤沢武夫コンビと言えば有名な方でした。
「技術の本田・営業の藤沢」と言われ、本田宗一郎さんをして、「おいら、ホンダの印鑑が丸いのか四角いのか知らねえ。」と言わしめたほど、事実上のホンダの経営はすべて、この藤沢さんが取りしきっていたと言われ、ワンマンならぬツーマンとさえ称されたほどでした。
当然ながら、その経営手腕は今や伝説的でさえ有り、私は決して、松下幸之助にさえ劣るものでもなかったと思っています。
ではなぜ、それだけの人が、今や、本田、井深、盛田のように世に埋没してしまっているのか・・・と言えば、それは偏に、この方は社長にならなかったからなのです。

この辺のことは、また、いずれふれることがあると思いますが、軍司貞則著、「本田宗一郎の真実―神話になった男の知られざる生涯」という本があります。
思えば、今や本田宗一郎氏は松下幸之助などと同じように、伝説になる過程で、生身の人間としての独特の体臭が消え、万能の神のような無臭の人物のような扱いをされてしまったように思います。
しかし、やはり、その辺りは生きた生身の人間ですよ。
うんこもすれば、おしっこもするわけで、この本を読むと、それがよく合点がいきました。
(昨日は奇しくも本田宗一郎さんの誕生日だったそうですね。)
特に、晩年の本田さんは少しおかしかったようですね。
私の父の晩年も同じようなものでしたので、私にはかなりよく、この辺りの感覚がわかりました。
本田さんと言えば、天才技術者として有名ですが、よく見ていると得意な部分と不得意な部分があり、具体的に言うと、目に見える物はまさに天才の発想だそうですが、元素などの目に見えない物には、まるでだめだったそうです。
さらに、空冷vs水冷で技術陣と対立して、最後は折れた・・・という話は有名ですが、空冷にこだわるあまり、レーサー事故死させてしまったそうですが、それでもなお、空冷から離れられない。
妄執といった感がぴったりくるようです。
続きは明日と言うことで。ALWAYS・・・如何でしょうか。

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NHK放火記者にみる宗教のあり方

2005年11月12日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

最近、今日、時事ネタ(ていうか、この日に書かなくてはならない記事。)が多すぎて、書いたときにはすでに、爺ネタになっているという・・・。
ということで、フランスの暴動については、また、後日触れますが、まずは、先般、NHK記者放火犯として逮捕されたとのことで、ここ数日、マスコミを賑わせてましたよね。
なぜか何処も、他局のネタになると急に熱心になるようで・・・(笑)。

私が車のラジオ(そういえば、カーラジオって最近、言わないような。もしかして、死語?・・・で、敢えて、車のラジオと。)などで聞いた限りでは、かなり、心が病んでいたご様子。
また、それに対して、会社上司は、どの程度、介入し、どの程度、責任を負うべきかも論議されてましたが、まあ、これはNHKという公共放送の社員であったということが大きいのでしょうが、現実にはプライバシーの問題などもあり、すべての社員の行動をすべて把握し、万端遺漏なくケアする・・・などというのは、不可能なことだろうと思います。

そこで、私にはこの点で思い当たる話があります。
以前、触れたかもしれませんが(さすがに3月下旬から毎日書き続けていると、かなりの数に上り始めた為、本人でも最近では、書いたかどうかわからなくなってきました(笑)。)、タイでは、普通のサラリーマンでも、前もって届けを出しておけば、一定期間、頭をそって僧侶として、托鉢の修行に行けるのだそうです。
問題は、その後、帰ってきてからも、尊敬されこそすれ、勤務評定がマイナス査定されることはない・・・ということです。
つまり、戻ってきても、以前通りの勤務を続けることが出来るということで、「机が無くなっていた」などということはないわけです。
では、ひるがえって、これが日本だったらどうでしょうか。

心が病んだ者がいても、その人が「お遍路に出たい。」などとと言えば、まず、マイナス査定に働かないにしても、少なくとも尊敬されることはないでしょう。
下手したら、病気持ち扱いで白眼視さえされるかもしれません。
帰ってきても机がないということはないまでも、仕事はなくなってた・・・ということは、十分に考えられ、結局は冷たい視線の元に会社を去らなければならない・・・などということにも成りかねません。
しかし、当然、日本人だからといって心の病を抱え込まないわけでもなく、この点で、あまりにも我々、日本人は心の病と言うことに対して冷淡というか、無関心すぎるのではないでしょうか?
その意味で、タイのこの慣習は、非常に良くできたシステムだと思うのです。

以前、オウム真理教の事件があった頃、「お坊さん百人に聞きました。」という番組があってました。
この中で、ある僧侶曰く、「我々は、言うならば、父ちゃん母ちゃんがやっている町の商店で、オウムなどの新興宗教はコンビニなんだ。」と言っていました。
つまり、「我々のところには、心が病んだからと言って、突然、修行させてくれと言って押しかけてこられても、布団などの設備もなければ賽銭管理などの受け入れノウハウもない。それに対して、新興宗教は24時間、誰でも、今日からでも修行したいと言えば修行できる。」ということなのだそうです。
確かに、この方の言葉通り、オウムなどのカルト的でないまでも、新興宗教というものが、あれだけ異常なものだと言われ続けても、何だかんだ言って、未だに人々に受け容れられている素地・・・、つまりは、新興宗教という物が蔓延する背景がここにあるように思えます。

「宗教なんて既存の神社やお寺、教会などで充分だ。新興宗教なんて、無くしてしまえばいい。」という意見を口にされる方をよく耳にします。
でも、これ(新興宗教が行ってること)って、元々、宗教というものの本来の姿なのではないですか?
逆に言えば、如何に日本の既存の宗教が「怠慢」だったかを如実に表していることだと思います。
既存の権益の上にあぐらをかいて気位だけ高く、そのくせ、坊主丸儲け等という言葉があるように、お布施のことしか頭にない宗教人が多いのも、また、事実。
それが、既存宗教離れを生み、新興宗教が受け容れられる素地を醸し出すことに繋がっているのではないでしょうか・・・。
宗教人と名がつく人のうち、心ある人は、一度、己が足許をじっくりと見つめ直して欲しいと思いますが、如何でしょうか・・・。

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孤立!微熱!歩く摩擦熱!!

2005年11月08日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

「浮き世とは 憂きことばかり 多かりき 憂き世というも 道理なりけり」 平太郎

私のモットーとしては、「そもそも、十のうち七までは、どっちでもいいことが多いことから、これは相手に譲る。しかし、残りの三はどんな摩擦を起こしても譲らない!」というのがあります。
ところが、人は七まで押し切れたら、平気で残りの三の部分に踏み込んで来るようです。
それが、好まぬ摩擦が私に多い所以のようです・・・。

もうひとつ、私の勝手な持論ですが、「人はいつ老人になるのか?」というのがあります。
私は「人は年を取ったから老人になるのではなく、理想を無くしたときに老人になる。」と考えております。
しかし、理想は絶えず現実の前に破れるという性質があるため、絶えず上手に現実と妥協していく必要があると思います。
ただ、それでも、自分はどこへ行こうとしているのか、自分は、会社は、国は、一体どこへ行こうとしているのか・・・という理想は必要で、これがないのは、目的地のない航海に等しく、まさに「暗夜に海図なき航海を行く」に等しいものだと思いますが如何でしょうか?御同輩。

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未だ嘆息尽きず・・・。

2005年11月07日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

昨日、ヤフージャパン・ドーム(しかし・・・長い!福岡ドームでいいんじゃないの?)へ、福岡ソフトバンク・ホークス「ファン感謝の集い 2005」へ行ってきました。
全席自由などとしているもので、開場(開演ではなく)15分前に着いたら、すでに各ゲート前はこの状態・・・。
   


しかし、女性ファンが多いのには、改めて驚きましたね。
おばあちゃんから、少女まで・・・。
道理で男子トイレが半減されて、女子トイレが倍増されたという・・・。
おそらく、このドーム作ったときまでは、野球場に女性ファンが・・・、それも、若いコならまだしも、おばあちゃんやオバさんまでが詰めかけるとは、想像していなかったのでは。
まあ、平和台球場でリサーチすれば、そういうデータになったのでしょうが・・・。
平和台球場時代には繁栄を謳歌した品が悪いおっさんたちも、今や、女性パワーに押されて、絶滅危惧種・・・(笑)。
この日も、チャリティオークションなどに、女性に人気の川崎選手ムネリンと呼ばれています。)の登場には、女性ファンの中には涙ぐんでいる人や、失神するんじゃないかという人まで・・・。
まさしく、かつてのグループサウンズ状態(笑)。
(ということで、中に入れば入ったで、これまたこの状態・・・。)
   

人の熱気で、汗ビッショリ・・・。

ということで、何だか、堅いものを書く雰囲気ではなくなってしまいましたので、以前、おからかいになったのだろうとは思いますが、ある先輩より「人間、いつにても死ねる心意気になっておかねばなりませんね。どうやったら成れるんですか?」という問いを戴きましたが、それに対する私の答えでごまかしたいと思います。
以下、愚考。

これって、そう問われれば、答えは、ただ、「ははは」でしょう。
人間誰しも死ぬのが怖いから生きている。
死が恐ろしいから勇気という物に敬意を払う。
死ねないから自分が死ぬことを考えない。

私の人生観は単純明快です。
アフリカの草食動物は何故生きているのか?と問われれば死にたくないからと答えるでしょう。
洋の東西、民族の優越を越え、勇気という物を見下す文化は聞いたことがありません。
それほどに生命にとって、「死」とは究極のテーマなのだと思います。
だとすれば、人間、刹那刹那で自分がいつ死ぬかわからないと考えていれば、とても恐ろしくて生きていれないと思います。
私が中学生くらいの時に、「ノストラダムスの大予言」という本が流行りましたが、当時、それを読んで、恐ろしくなって自殺した女子大生がいたというふうに記憶しております。
これなぞはその典型ではないでしょうか?
どうせ死ぬなら、わざわざ今死なないでも・・・と思いますが、現代でも我々を取り巻く環境は考えればきりがないと思います。
核兵器、テロ、細菌兵器、天変地異、地球温暖化、巨大隕石etc。
戦場カメラマンレーサーは自分だけは死なないと思っていると言いますし、現に私も、以前から、指にトゲがささったような痛みがあり、医者に行ってレントゲン撮っても、トゲは発見されず、カッターナイフでどれだけ切り開こうとも見つけることはできず・・・これなど、皮膚ガンではないかと疑えば疑えるのですが、人間という物は、こういうものは、つい考えようとはしないもののようです。
人は死ぬときには死ぬ。
でも、自分は永遠に死なない。
そして、現実には、この葛藤の前に未だ嘆息尽きず・・・
これが結論です。

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理論と実践は車の両輪!

2005年10月28日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

以前、平太郎独白録 「好漢惜しむらくは兵法を識らず」の中で、「実践無き理論は空論に終わり、理論無き実践は悲劇に暮れる」と言ったのを覚えておられますでしょうか?
これに関して、「信念」と「頑固」の違いは何だと思われますか?
例によって、勝手な私見で言わせて頂くなら、それは「信念という物には裏付けがいる。それが理論である。理論的裏付けがない信念とはただの思いこみ頑迷固陋に過ぎない。信念頑固とは似て非なる物なのである。」だと思います。

「頑固というのは人の話を聞かないこと。信念というのは人の話を聞いても考えを変えない人のこと。」という話を聞いたことがあります。
頑固とは即ち、頑迷固陋のことですから、これはこれで間違ってないと思います。
一方で、その論で行くなら、信念とは、「人の言に耳を貸さないことではない。人の言に惑わされないことである。」ではないでしょうか?
聞いても考えを変えないというのでは、聞いたか聞かなかったかだけの違いで、頑固と大差はないようです。
即ち、信念とは考えを「変えない」のではなく「変わらない」、そして、その為には、考えが変わらない根拠がいるのです。
「直感」「閃き」なども然りでしょう。
しかし、それは一握りの天才にのみ許されることであり、凡人が真似をすることは危険極まりないと思います。
そこで、凡人にとっての根拠こそ、理論なのだろうと思います。
思想と言い換えてもいいかもしれません。
考えに理論的な背景があれば、人から説得されても、理論が変わらない限り考えを変えることもないし、逆に、変えなければならないときにも柔軟に対応できます。
ただの頑固な人とはここが違うのです。

理論実践というのは、どちらが欠けてもいけない車の両輪であると思います。
理論だけの人は「自分では何も出来ないくせに、口だけは・・・。」と言われ、実戦だけの人は「好漢惜しむらくは兵法を識らず」ということになってしまいます。
理論だけの人は侮りを受け、実践だけの人はいいところまでは行くけど、それ以上には成り得ない・・・。
とは言え、哀しいかなこれを両方持っている人はごく希で、決して多いとは言えません。
「名選手、名監督ならず」とはよく言われることです。
しかし、経営学者は皆、一流の経営者である必要は無いわけですし、実際に経営できないからと言って、経営学そのものが否定されるべきものでも無いわけです。
では、どうするのか?
努力して、欠けている分野を自分自身で埋めるというのも一つの方法でしょう。
また、お互いがお互いを必要とするのですから、自分に無い能力、欠けている部分は、それに秀でた人、それを持った人に任せるというのも一つの方法だと思います。

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志とは上を向くことに非ず、前を見ることと見つけたり!

2005年10月24日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

「能はざるに非ざるなり、為さざるのみなり 」 吉田松陰


この数日、秋田人を連れて、九州各地を廻っておりました。
さすがに、阿蘇山頂は寒かったですよ・・・。
で、その一環として、九州は大分県中津市にある青の洞門というところに行ってきました。
ここは、耶馬渓と呼ばれる中国の山水画を思わせる風光明媚なところに有ることもあり、実は、私の愛用の観光地で、老後は大分県山口県に住みたいと思っているほどです。

青ノ洞門とは、18世紀半ば、越後高田(新潟県)の僧、禅海なる者が同地を訪れた際、今では風光明媚なこの景観も、当時は山国川沿いに断崖が連なる交通の難所であり、このときも、禅海は、たまたま通行人が転落死する光景を見たそうです。
禅海は、これに心を痛め、通行人の難渋を取り除くべく、この断崖絶壁を、石ノミトンカチだけでコツコツとトンネルを掘り、遂に貫通させた・・・、それが、青ノ洞門です。
[#IMAGE|e0027240_15425847.jpg|200510/24/40/|mid|431|497#]参考:耶馬溪探訪

この話は、大正年間、菊池により、小説「恩讐の彼方に」で題材にされたこともあり、ご存じの方も少なくないと思います。
ただ、その内容は、相当にデフォルメされた物であったようで、禅海は極悪非道の過去を持つ人物として描かれていたようですが、実際にはそういった事実はなく、むしろ、突然、ろくな道具もなく、穴を掘り始めた彼の姿を近隣の住民は嘲り笑ったとか・・・。

しかし、驚くべきは、それに費やした年月です。
約342メートルも岩盤を掘り続けるのに要した年数は、何と30年!
(明かり取りの窓だけでも、そこを貫通させる為には、1mはくりぬかねばならないでしょう・・・。)
30年と一口に言っても、30歳が60歳、40歳は70歳になる数字です。
昔、伊丹十三監督、 「 マルサの女 」という映画が有りましたが、この中で、主人公の女性が刃物を持った強盗と対した際、「あんた、それで私を刺したら30年はくらいこむよ!あんた、出てきたとき、一体、幾つだい?考えるなら今だよ!」と言い放ち、強盗がしばらく考えて、刃物を落とす・・・いうシーンがありました。
(ミンボーの女・・・だったかも?)
逆に言えば、30年とは強盗が凶器を落とすほどの年月なのです。
まさしく、「奇人」でしょう。

まあ、目前で転落死した人を見て、仏門に在る者として、何か感じるところあったのでしょうが、これはある意味、当然の話で、むしろ、何故、他の仏門に在る者らは誰も旅人の難渋を取り除こうという考えを持たなかったのか?と思うくらいです。
考えを持たなかったのではなく、即ち、誰もこの奇岩を貫くことが可能だ・・・とは思わなかったということではないでしょう。
ここに穴を開けるというのは、言うならば、「太陽にある鉱物を素手で持ち帰る。」というのと同義語に思えるほど、現実離れした話だったのではないでしょうか?
しかし、穴を掘ることは出来た。30年という歳月の代償と共に・・・。
となれば、彼らが到底、不可能と思ったのは、342メートルの岩の固さではなく、30年という歳月だったのかもしれません・・・。

「志とは上を向くことに非ず、前を見ることなり。」
TBSフジテレビを傘下に収めようとすることばかりが、志ではないように思えますが、如何でしょうか?

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自動車王に見る酷い親父とカリスマの虚像・・・。

2005年10月20日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

自動車王、ヘンリー・フォード一世には、一人息子のエドセルがいたそうです。
エドセルは、なかなかに有能な人物だったようですが、フォードに入社した後、20歳にして専務に就任したものの、以来、どういうわけか会社では父に冷遇され続けたようで、エドセルとしては、何とか父に認めてもらおうと思い、あるとき、会社の技術陣の協力を得て、試作車を作ったそうです。
で、それを父に、「どうだい、父さん。」とお披露目したところ、父、フォード一世はにっこりと笑って、そのまま、そばにあったハンマーを手にするや、試作車を粉々に打ち砕いたと言います。
そして、「二度とこんなバカな真似をするな!」と言い捨てて、エドセルに協力した技術者たちをすべて解雇したそうで、自分に協力したばかりに会社を去らねばならなくなった技術者たちを見送るときのエドセルの胸中たるや如何・・・だったでしょう。
技術者たちは口々に、「エドセル、君は間違ってないよ。」と言ったといいます。

さらに、こういうことがあったからでしょうか、エドセルが社長になったとき、父との不仲は決定的なものとなっており、エドセルが技術偏重型のフォード社の欠点を是正する為、経理を充実させようとしたところ、フォード一世はエドセルに無断で、夜中のうちに経理課の机などをすべて搬出させたうえで、経理課全員を解雇したと言います。
フォード一世曰く、「うちの売り物はであって、経理の人間たちを売っているのではない。」と・・・。
これは平太郎独白録 「組織を支える三本の足」の中でも申し上げたことがありますが、技術屋特有の視野の狭さだと思います。

その後、エドセルは耐えかねて兵役に志願したところ、今度はフォード一世は裏から手を回して、彼を除隊させたとか。
で、エドセルは失意のうちに若くして世を去りますが、その夜、フォード一世が妻に言ったと言われる言葉があります。
「母さん、わしは少し、息子に厳しすぎたかな・・・。」
まさしく、大バカ野郎ですね!

しかし、エドセル亡き後、これでフォード一世の暴走に歯止めを掛ける者はいなくなり、老いたフォード一世の迷走はますます、激しくなっていきます。
ボクサー崩れのごろつきを頼りにし、彼を通さないと誰も決済を受けられない・・・。
当然、会社は食い物にされ、ごろつきは仲間を呼び入れ、彼らは腕力でフォードへの面会を拒否したと言います。
その後、エドセルの子、フォード二世が成長し、ごろつきたちの元へ乗り込み、これらを切り捨てて、ようやく、フォード社は立ち直ることができたと言います。
まさしく、「呆けた毛沢東ほど始末が悪いものはない」という好例でしょうか。
周囲は、かつての伝説を知っているから、虚像が一人歩きしてしまう。
側近くにいる者だけが、カリスマがかつての英雄ではないことを知ることになる・・・。

「そんなバカな・・・。」と言われる方もあるかもしれませんが、私は、こういったことは、実際に我々の周りでもありがちな話だと思います。
如何でしょうか?

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クォ・ワディス! その2 「関西電力社長 太田垣士郎」

2005年09月30日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

昨日に続いて、「クォ・ワディス!」第二弾です。
昭和43年公開の映画に「黒部の太陽」というものがあります。
あの石原裕次をして、「人生を振り返ってみれば、どれもこれも一生の思い出だけど、その中でも、 やっぱりあのときは・・・と、思うのは、やはり『黒部の太陽』だな。」と言わしめた作品です。
当時の大スター、三船敏郎と石原裕次郎の夢の共演ということもあり、当時としては記録的な盛況をはくした一大傑作映画だそうです。
私も一度、見てみたいと思っているのですが、何でも石原裕次のこの映画への思い入れは相当の物があったようで、一般にDVD化などはされていないと聞きました。
ただ、DVD化はされておりませんが、先般、NHKプロジェクトXでも取り上げられましたので、あらましはご存じかとも思いますが、これは、関西電力が、7年の歳月513億円の巨費171人の犠牲者を出して完成した、「黒部第四ダム」の完成までの物語です。

映画自体のことは一旦、さておくとして、この工事の最中、破砕帯にぶつかったことで、泥流が噴き出し、にわかに、工事の先行きに暗雲がたれ込めたそうです。
このとき、報せを聞いた関西電力社長太田垣士郎氏は、幹部らを伴い、現場に急行。
駆けつけた太田垣社長らが、そこで見た物は、押しつぶされた掘削機械の残骸などが無造作に転がり、辺り一帯からは、大量の泥流が噴出している・・・。
太田垣社長は、しばらく、それをじっと見つめていたが、おもむろに、傍らにいた現場監督に向かい、「では、見せてもらおうか。」と言葉をかけたそうです。
現場監督は慌てて、「いつ地崩れがあるかわかりませんし、ガスが発生しているところもあって大変危険です!おやめ下さい!」とこれを押しとどめる・・・。
それに対しての、太田垣社長の一言。
「その危険なところで作業させているのは、社長の僕なんだよ。」
そして、笑みを浮かべると、「さあ、案内してもらおうかね。」と言い、狭い坑道の中を一列になって入っていくと、泥流の中で悪戦苦闘している坑夫たちに、「ご苦労さん、ご苦労さん。」と、声をかけてまわったそうです。

太田垣氏の死後も、このとき同行した関西電力の幹部たちは、社長のこの一言が、いつまでも耳に残っていたと言います。

「クォ・ワディス!」です。御同輩。

参考:コラム de H!NT | 太田垣士郎資料館

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