平太郎独白録

国際問題からスポーツまで、世の出来事に対し、独自の歴史観で語ります。

NHK放火記者にみる宗教のあり方

2005年11月12日 | 思想・哲学
親愛なるアッティクスへ

最近、今日、時事ネタ(ていうか、この日に書かなくてはならない記事。)が多すぎて、書いたときにはすでに、爺ネタになっているという・・・。
ということで、フランスの暴動については、また、後日触れますが、まずは、先般、NHK記者放火犯として逮捕されたとのことで、ここ数日、マスコミを賑わせてましたよね。
なぜか何処も、他局のネタになると急に熱心になるようで・・・(笑)。

私が車のラジオ(そういえば、カーラジオって最近、言わないような。もしかして、死語?・・・で、敢えて、車のラジオと。)などで聞いた限りでは、かなり、心が病んでいたご様子。
また、それに対して、会社上司は、どの程度、介入し、どの程度、責任を負うべきかも論議されてましたが、まあ、これはNHKという公共放送の社員であったということが大きいのでしょうが、現実にはプライバシーの問題などもあり、すべての社員の行動をすべて把握し、万端遺漏なくケアする・・・などというのは、不可能なことだろうと思います。

そこで、私にはこの点で思い当たる話があります。
以前、触れたかもしれませんが(さすがに3月下旬から毎日書き続けていると、かなりの数に上り始めた為、本人でも最近では、書いたかどうかわからなくなってきました(笑)。)、タイでは、普通のサラリーマンでも、前もって届けを出しておけば、一定期間、頭をそって僧侶として、托鉢の修行に行けるのだそうです。
問題は、その後、帰ってきてからも、尊敬されこそすれ、勤務評定がマイナス査定されることはない・・・ということです。
つまり、戻ってきても、以前通りの勤務を続けることが出来るということで、「机が無くなっていた」などということはないわけです。
では、ひるがえって、これが日本だったらどうでしょうか。

心が病んだ者がいても、その人が「お遍路に出たい。」などとと言えば、まず、マイナス査定に働かないにしても、少なくとも尊敬されることはないでしょう。
下手したら、病気持ち扱いで白眼視さえされるかもしれません。
帰ってきても机がないということはないまでも、仕事はなくなってた・・・ということは、十分に考えられ、結局は冷たい視線の元に会社を去らなければならない・・・などということにも成りかねません。
しかし、当然、日本人だからといって心の病を抱え込まないわけでもなく、この点で、あまりにも我々、日本人は心の病と言うことに対して冷淡というか、無関心すぎるのではないでしょうか?
その意味で、タイのこの慣習は、非常に良くできたシステムだと思うのです。

以前、オウム真理教の事件があった頃、「お坊さん百人に聞きました。」という番組があってました。
この中で、ある僧侶曰く、「我々は、言うならば、父ちゃん母ちゃんがやっている町の商店で、オウムなどの新興宗教はコンビニなんだ。」と言っていました。
つまり、「我々のところには、心が病んだからと言って、突然、修行させてくれと言って押しかけてこられても、布団などの設備もなければ賽銭管理などの受け入れノウハウもない。それに対して、新興宗教は24時間、誰でも、今日からでも修行したいと言えば修行できる。」ということなのだそうです。
確かに、この方の言葉通り、オウムなどのカルト的でないまでも、新興宗教というものが、あれだけ異常なものだと言われ続けても、何だかんだ言って、未だに人々に受け容れられている素地・・・、つまりは、新興宗教という物が蔓延する背景がここにあるように思えます。

「宗教なんて既存の神社やお寺、教会などで充分だ。新興宗教なんて、無くしてしまえばいい。」という意見を口にされる方をよく耳にします。
でも、これ(新興宗教が行ってること)って、元々、宗教というものの本来の姿なのではないですか?
逆に言えば、如何に日本の既存の宗教が「怠慢」だったかを如実に表していることだと思います。
既存の権益の上にあぐらをかいて気位だけ高く、そのくせ、坊主丸儲け等という言葉があるように、お布施のことしか頭にない宗教人が多いのも、また、事実。
それが、既存宗教離れを生み、新興宗教が受け容れられる素地を醸し出すことに繋がっているのではないでしょうか・・・。
宗教人と名がつく人のうち、心ある人は、一度、己が足許をじっくりと見つめ直して欲しいと思いますが、如何でしょうか・・・。

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