親愛なるアッティクスへ
以前、20年くらい前でしょうか、西武VS東急戦国史という本を読んだことがあります。
なかなか、あの!西武と東急が成立していく過程を講談本的に描いた、なかなか、面白い本だったのですが、その中で、20年近く経った今でも、大変、印象に残っていることがあります。
先日、平太郎独白録 「総理大臣になれなかった自民党総裁が見たエライ親父!」の中でも申し上げましたように、河野一郎元農水大臣同様、西武の創業者にして先代であるピストル堤こと、堤康次氏や、東急の創業者、強盗慶太こと五島慶太氏もまた然りで、あの時代の、いわゆる明治生まれの大物というのは、まあ、時代的な背景もあったのでしょうが、現代のホリエモンこと堀江氏や楽天の三木谷氏のように、決してスマートではない・・・、むしろ、そういったきれい事に身を包むという必要もなかったのでしょうが、本音という核の部分がむき出しの家長的雰囲気を持っていた人が多かったように思えます。
(「ピストル堤」は、右翼に銃で威嚇射撃されても、まるでひるまなかったというエピソードから・・・、「強盗慶太」といのは、余りにも強引な企業合併・・・つまり、乗っ取りを次々としかけることからそう呼ばれたのだと。)
で、私が印象に残っている部分というのは、堤康次と西武がその拠点である、東京池袋に対する姿勢です。
昭和22年、公職追放中の身であった堤康次は、東京池袋東口の土地、一万六千坪のうちの一万坪を「地元復興のためぜひ売っていただきたい」と懇願された際、本来、ヒューマニズムなどというものとは、まったく縁遠いはずの彼が、なぜか、それに応じて、放出しようとしたそうです。
折から、坪千円だった地価が三千円に高騰していたことで、重役や株主の中には、「近い将来、武蔵野百貨店の焼跡に西武百貨店を建設しなければなりません。三倍に値上りしたのだから、一万坪では三千万円になりますが、しかしその土地にたくさんの商店が開店されるのは西武百貨店のためにはなりますまい。あくまでも独占しておくべきです」と、反対する者もいたと言います。
一見、至極もっともな意見に聞こえますが、これに対する堤康次の答えこそが、まさしく卓見だったと思います。
「それでは発想が逆だ。西武百貨店のためになるからこそ売るんだ。喬木は風に弱し、というではないか。たくさんの商店や飲食店ができれば、それも発展するだけ群衆が多く集まる。ひとりでに街になる。そうさせておいてそのまん中に、わが西武百貨店をでーんと建てれば、なお効果的になるではないか」
一本でぽつんと立っている木は風に弱い・・・。
思わず、卓見だと思いました。
周辺にさまざまな雑木が繁っていてこそ、それらが防風林の役割を果してくれる。
一店だけで独占していると地域に広がりが出ないと言う意味もあるでしょうが、それだけでなく、一店だけでやっていると、一見、独占収入のようにも見えますが、何かあった場合、一店だけで陳情などの活動をするのと、業界団体として活動するのとでは重みが違ってくるのではないでしょうか?
また、西武百貨店が、東急の地元、渋谷に店を出したときに様々な妨害にあったのに対し、東急が西武の地元、池袋にデパートを出そうとしたとき、当然、反対すべきだという社内の意見を抑え、堤康次はこれを容認したと言います。
そのときの、堤康次の発想こそ、まさしく、「桿木(喬木)風に弱し!」でしょう。
堤康次という人物は、衆議院議長を務める一方で、ピストル堤と呼ばれたような、あくの強い経営者で、「社員は皆、明智光秀だから、信用するな!」などと言ったという、その意味では、今の西武の凋落ぶりの根本を作ったという点で、功罪半ばする人だったのかもしれませんが、この「桿木風に弱し!」という一点に於いては、経営者として、素晴らしい資質を持っていた人だと思わざるを得ないように思います。
ちなみに、表題の「桿木」と文中の「喬木」ですが、同書の中では「喬木」と表示されていますが、私は同書の中に、なぜか、「桿木」とわざわざ、走り書きを入れております。
もう、20年も前のことで、なぜ、そういう書き込みを入れたのかは覚えておりませんが、(あるいは、別の本などでそう表示されていたのかも。)わざわざ、入れているということで、当時の私を尊重し(笑)、表題のみは敢えて、この表示にしました。
誤り等、有りましたら、どうぞ、遠慮無くご指摘下さい。
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以前、20年くらい前でしょうか、西武VS東急戦国史という本を読んだことがあります。
なかなか、あの!西武と東急が成立していく過程を講談本的に描いた、なかなか、面白い本だったのですが、その中で、20年近く経った今でも、大変、印象に残っていることがあります。
先日、平太郎独白録 「総理大臣になれなかった自民党総裁が見たエライ親父!」の中でも申し上げましたように、河野一郎元農水大臣同様、西武の創業者にして先代であるピストル堤こと、堤康次氏や、東急の創業者、強盗慶太こと五島慶太氏もまた然りで、あの時代の、いわゆる明治生まれの大物というのは、まあ、時代的な背景もあったのでしょうが、現代のホリエモンこと堀江氏や楽天の三木谷氏のように、決してスマートではない・・・、むしろ、そういったきれい事に身を包むという必要もなかったのでしょうが、本音という核の部分がむき出しの家長的雰囲気を持っていた人が多かったように思えます。
(「ピストル堤」は、右翼に銃で威嚇射撃されても、まるでひるまなかったというエピソードから・・・、「強盗慶太」といのは、余りにも強引な企業合併・・・つまり、乗っ取りを次々としかけることからそう呼ばれたのだと。)
で、私が印象に残っている部分というのは、堤康次と西武がその拠点である、東京池袋に対する姿勢です。
昭和22年、公職追放中の身であった堤康次は、東京池袋東口の土地、一万六千坪のうちの一万坪を「地元復興のためぜひ売っていただきたい」と懇願された際、本来、ヒューマニズムなどというものとは、まったく縁遠いはずの彼が、なぜか、それに応じて、放出しようとしたそうです。
折から、坪千円だった地価が三千円に高騰していたことで、重役や株主の中には、「近い将来、武蔵野百貨店の焼跡に西武百貨店を建設しなければなりません。三倍に値上りしたのだから、一万坪では三千万円になりますが、しかしその土地にたくさんの商店が開店されるのは西武百貨店のためにはなりますまい。あくまでも独占しておくべきです」と、反対する者もいたと言います。
一見、至極もっともな意見に聞こえますが、これに対する堤康次の答えこそが、まさしく卓見だったと思います。
「それでは発想が逆だ。西武百貨店のためになるからこそ売るんだ。喬木は風に弱し、というではないか。たくさんの商店や飲食店ができれば、それも発展するだけ群衆が多く集まる。ひとりでに街になる。そうさせておいてそのまん中に、わが西武百貨店をでーんと建てれば、なお効果的になるではないか」
一本でぽつんと立っている木は風に弱い・・・。
思わず、卓見だと思いました。
周辺にさまざまな雑木が繁っていてこそ、それらが防風林の役割を果してくれる。
一店だけで独占していると地域に広がりが出ないと言う意味もあるでしょうが、それだけでなく、一店だけでやっていると、一見、独占収入のようにも見えますが、何かあった場合、一店だけで陳情などの活動をするのと、業界団体として活動するのとでは重みが違ってくるのではないでしょうか?
また、西武百貨店が、東急の地元、渋谷に店を出したときに様々な妨害にあったのに対し、東急が西武の地元、池袋にデパートを出そうとしたとき、当然、反対すべきだという社内の意見を抑え、堤康次はこれを容認したと言います。
そのときの、堤康次の発想こそ、まさしく、「桿木(喬木)風に弱し!」でしょう。
堤康次という人物は、衆議院議長を務める一方で、ピストル堤と呼ばれたような、あくの強い経営者で、「社員は皆、明智光秀だから、信用するな!」などと言ったという、その意味では、今の西武の凋落ぶりの根本を作ったという点で、功罪半ばする人だったのかもしれませんが、この「桿木風に弱し!」という一点に於いては、経営者として、素晴らしい資質を持っていた人だと思わざるを得ないように思います。
ちなみに、表題の「桿木」と文中の「喬木」ですが、同書の中では「喬木」と表示されていますが、私は同書の中に、なぜか、「桿木」とわざわざ、走り書きを入れております。
もう、20年も前のことで、なぜ、そういう書き込みを入れたのかは覚えておりませんが、(あるいは、別の本などでそう表示されていたのかも。)わざわざ、入れているということで、当時の私を尊重し(笑)、表題のみは敢えて、この表示にしました。
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