写真は永平寺です、
大本山永平寺開山 道元
鎌倉時代の初め頃、道元は内大臣を父、摂政関白の娘を母として、名門の家に生まれた。
十三歳で比叡山に入り、天台宗の教えを受けますが、悟りに疑問を持ち下山、より深く
禅を学ぶために宋へ渡り、中国曹洞宗の天童山の如浄(にょじょう)に師事。
印可を受けて帰国。
印可=師が自分の教えを弟子に授け、その悟りの状態を見極め、
悟りを開いたことを証明すること。その証明書が印可状。
京都に曹洞宗最初の寺 興聖寺(こうしょうじ)を開き「正法眼蔵」を著して
教えを説きましたが、比叡山(天台宗)からの弾圧を受けて越前に移住し
大本山永平寺開山する。
道元の教えの中心は「只管打座」(しかんたざ)
座禅自体が修行であり、悟りであると説き、日常生活すべてが修行とした。
道元は読経、念仏、焼香、礼拝などの座禅以外の一切の修行は必要ないと説き
無条件に座禅に打ち込む「只管打座」を貫いた。
その理由は座禅こそが正しい仏法だという信念を持つ、座禅による悟りを生活の
なかで確かめるために、日常生活のすべての作法まで細かく教え、現在の
日本の生活文化はこの作法から大きな影響を受けている。
臨済宗が武家や公家に受け入れられたのに対して曹洞宗は地方の大衆に広まって行った。
臨済宗開祖 栄西(狗留孫山修禅寺中興の祖)
比叡山において天台の教えを学んだが27歳で宋へ留学し天台密教を深め帰国
47歳の時再び宋へ渡り、臨済宗の禅僧と巡り合い、天童山景徳寺でも禅の修行
をして印可を受ける、帰国後は九州で活動した後、京都へ、しかし比叡山からの
激しい弾圧で九州へ戻らなければなりませんでした。
弾圧に応えるために禅の正当性を主張した「興禅護国論」を著し、幕府の支援で
京都に建仁寺を建立、比叡山に配慮して、純粋な禅でなく 天台・真言・禅の
三宗を兼ねる寺とした。
栄西は天台僧の立場を隠れ蓑にしながら、禅の発展に努めた。
「公案」と呼ばれる禅問答が悟りへの道。
狗留孫山修禅寺では中興の祖と仰いでお祀りされています。