青空世界

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巨星呉清源

2014年12月01日 | Weblog
呉清源が、囲碁の神様になられてしまいました。

東洋の巨星は、四角い天の、どこに上がっていらっしゃるのでしょうか。

きっと、大きな、穏やかな、優しい、東洋のジャントルマンの星なのでしょうね。

これからは本物の宇宙で、また「神の一手」を極めていかれるのでしょうね。

熱海の起雲閣で出あった生前の写真が、もっと貴重なものになってしまいました。

その時の棋譜は、どんなものだったのでしょうか・・・・・「呉の碁」の棋譜は・・・・・

                    呉 清源  清らかな源

詰碁道場は、静流の章、激流の章のふたつの章。

なんと美しい、詩のような言葉なのでしょう。

人生の激流を乗り越えられた、巨星の残した美しい言葉です。

これは、競技ではなく、文化の香り高い、芸術です。


http://www.yomiuri.co.jp/culture/20141201-OYT1T50012.html?from=ytop_main2
歴史の波に翻弄、呉清源さん「盤上こそ祖国」(以下転載)
2014年12月01日 09時53分

呉九段(左)と盟友・木谷実九段はたびたび対局し、囲碁界の覇を競った(1958年5月)
 昭和最強の囲碁棋士、呉清源さんが30日、100歳で逝った。

 日中間の歴史の波に翻弄されながらも、囲碁に生涯をささげ、「盤上こそ祖国」の人生だった。

 晩年の呉さんは神奈川県小田原市内の老人ホームで暮らし、今年6月、近親者で催された100歳の誕生会では、「ハッピーバースデー」の歌に笑顔で聞き入っていた。11月29日の夕食も普段通りに済ませてベッドに入ったが、未明に職員が見回った際に容体が急変しているのに気づき、病院に搬送されたが、そのまま息を引き取った。

 呉さんは、日本に留学したこともある父親から碁を習った。日本の棋譜を独学し、中国ではかなう人がいないほど力をつけ、14歳で来日した。

 1933年、木谷実五段(当時)と発表した「新布石」は、信州・地獄谷温泉にこもって編み出した。2人はそれまでも隅の締まりを省略して、三々や星に打つ足の速い碁を打っており、新布石はその集大成ともいえるものだった。同年、全棋士が参加する大手合で1等(呉)、2等(木谷)を独占し、新布石は囲碁界の新潮流となった。

2014年12月01日 09時53分 Copyright © The Yomiuri Shimbun


http://www.asahi.com/articles/ASGD13Q6DGD1UHBI00F.html
呉清源さん死去、中国でも報道 「日中の交流に尽力」
北京=倉重奈苗2014年12月1日12時14分

 日中の囲碁界に多大な影響を与えた呉清源さんの死去は、中国国内でも関心をもって伝えられた。国営中央テレビは1日朝、呉さんが1914年に中国・福建省で生まれ、7歳から囲碁を始めた経歴を紹介。「1939~56年の17年間は全日本で最強7人に勝ち、『昭和の棋聖』と呼ばれた。現代の囲碁界に革命的貢献をし、中日の文化交流に力を尽くした」と悼んだ。

 共産党機関紙・人民日報系の国際情報紙「環球時報」などによると、11月には呉氏の100歳を祝う会が北京市内であり、王汝南・中国囲碁協会主席氏のほか、中国の物理学者や京劇役者ら数百人が祝いに駆けつけた。また、中国人民対外友好協会は8月、呉氏に「平和発展貢献賞」を授与。呉氏を囲碁の国際化と中国囲碁界の発展を促したとたたえた。(北京=倉重奈苗)


http://www.asahi.com/articles/ASGD12PZXGD1UCLV002.html?iref=reca
「昭和の碁聖」呉清源さん死去 世界の囲碁界に革新
伊藤衆生2014年12月1日08時34分

 「昭和の碁聖」とたたえられ、当代一の実力を誇るとともに、革新的な序盤構想で世界の囲碁界に多大な影響を与えた棋士の呉清源(ご・せいげん)さんが11月30日、老衰のため神奈川県小田原市で死去した。100歳だった。葬儀は近親者で営み、後日、お別れの会を開く予定。喪主は次男昌樹さん。

 中国福建省で生まれ、北京で育った。少年期から囲碁の才能を認められ、1928年、14歳で来日し、29年、日本棋院所属の三段の棋士としてデビューする。50年に最高段位である九段に昇った。

 33年、五段のときに木谷実九段(当時五段)とともに従来にはなかった序盤構想である「新布石」を打ち出して囲碁界に革新をもたらした。「新布石」は近代囲碁界の最大の功績の一つともいわれる。戦前から戦後にかけて読売新聞社が主催した「打ち込み十番碁」で、橋本宇太郎、坂田栄男ら一流棋士たちをことごとく倒し、第一人者として君臨した。

 84年、古希を機に現役を退いたが、その後も、研究会を主宰して後進の指導にあたった。90歳を過ぎても囲碁雑誌に解説を寄せ続けるなど、囲碁への情熱は衰えることがなかった。長く東京都新宿区に住んでいたが、10年ほど前に小田原市の旧宅へ転居。同市内の老人ホームで静養を続けていた。

 日本棋院名誉客員棋士。門下に元名人の林海峰名誉天元らがいる。87年、勲三等旭日中綬章。(伊藤衆生)