信州塩尻発 田舎暮らし日記

生まれも育ちも埼玉県飯能市。現在は移住して長野県塩尻市民です。 田舎暮らしや趣味の事、居合道の事等々を書いております。

埼玉県の誇り。そして国士舘の恩人「渋沢栄一」

2019年04月10日 | 歴史



次期の一万円紙幣の肖像は渋沢栄一になったそうですね。

今まで一人も総理大臣を輩出したことが無い埼玉県ですが、渋沢栄一を輩出したことは、総理大臣を数十人輩出したことに匹敵する偉勲ではないかと思っております。

それ程に富国強兵や殖産興業を掲げて欧米諸国に追い付き追い越そうとした近代日本を築き上げるうえで、欠かすことが出来ない人物であったと思います。

また、自分の母校国士舘の創立や運営に御尽力下さった恩人でもあり、これらを含めて今回、紙幣の肖像に渋沢栄一が選ばれた事を、大変喜ばしく思います。


ちなみに、メジャーな歴史よりもあまり知られていない歴史が好きな自分のネタになってしまいますが…

渋沢栄一の仮養子、義弟だった渋沢平九郎という人物がおります。




なかなか凛とした顔立ちで眼光が鋭く、格好良いですね。

今の言葉で表現すれば「超イケメン」ですね。


薩長を中心とする新政府軍と、幕府軍との間で起きた戊辰戦争により、江戸城は無血開城しますが、それに反発した幕臣達が江戸城を抜け出し、上野山に立て篭ります。

この勢力は渋沢成一郎(渋沢栄一の従兄弟)が率いて彰義隊となりますが、その中の強硬派に反発した一派が新政府軍との衝突直前に分裂して上野山から去ります。

この去った人達は振武軍を結成し、この中には当初彰義隊を率いていた渋沢成一郎や尾高新五郎(渋沢栄一の義兄)、渋沢平九郎(実は尾高新五郎の弟)がおりました。

上野山戦争で新政府軍に敗れた彰義隊の残党は振武軍と合流した後、一橋家の領地だった飯能へ向かい、天覧山の麓に鎮座する能仁寺へ本陣を張ります。

そして5月下旬に新政府軍との戦い「飯能戦争」が行われますが、新政府軍が持つ西洋の最新式の武器の前に彰義隊、振武軍が勝てるわけもなく、敗走します。

渋沢成一郎と尾高新五郎は現在の群馬県伊香保に逃げた後、再び江戸に戻って榎本武揚率いる艦隊と合流し、函館まで転戦します。

一方の渋沢平九郎は、私の故郷飯能市吾野と、お隣り越生町の間にある顔振峠(こうぶりとうげ)まで変装して逃げます。

顔振峠の名称の由来は、かつて源義経と弁慶が奥州平泉へ逃げる際、あまりの景色の美しさに何度も振り返って見たからとも、峠道でも軽快な義経の走りにバテた弁慶が顔を振りながらついて行ったからとも言い伝えがある古い峠道ですが、この峠のずっと先に渋沢平九郎の故郷、下手計村…現:深谷市があり、何とか生家まで逃げ延びようと思ったのでしょうか?

現在でも顔振峠には茶屋(平九郎茶屋)がありますが、茶屋で一服した後に黒山村に向けて峠を下ります。

この時不幸にも、敗残兵の掃討をしていた新政府軍の斥候数名に見つかり、平九郎は小刀で敵兵の腕を切り落とす等必死に応戦しますが、腿などを銃撃されてしまいました。

その後、何とか敵兵を蹴散らす事に成功しますが、歩くこともままならず、最早これまでと悟ったのか岩の上で自刃し、僅か22年の生涯を閉じます。

これぞ坂東武者の最期の生き様を体現したような美しい人物であると感じるところです。


首は越生の高札場に晒された後、報恩寺僧侶によって葬られ、胴は全洞院に村人達の手で手厚く葬られたうえ、首から下の健康の神様として後の代まで丁重に扱われていたそうです。

やはり渋沢栄一も、このお寺には足を運んだとか。

今もなお(と言っても、自分が高校生くらいの頃の話であって、今はどうなっているのか分かりませんが)越生町では渋沢平九郎縁の史跡がしっかり管理されており、感銘を受けました。

今ではマイナーな歴史上の人物の一人でありますが、明治時代から地元の人々は「名も知らぬ江戸の人」として崇めている所に明治の人間の気風を感じます。

何せ西南の役で明治政府と干戈を交えた西郷隆盛を讃える歌、陸軍分列行進曲「抜刀隊」を作り、帝国陸軍、陸上自衛隊の分列行進で使われているのですから、敵であっても心底憎むのではなく、良い所は称賛する精神が、まさに武士道ですね。


渋沢栄一本人の話とは相当脱線しましたが、少し関連する人物のストーリーを辿ってみました。