昨日、伊丹にオペラを見に行きました。
ただただ行くのも面白くないので、阪急の悠遊一日紀行のコースに沿って歩いてみました。
スタートは、新伊丹駅です。こちらは、伊丹行きです。
踏切を越えて、塚口方面です。
駅前の花壇と、花時計。
地図に従って東に歩きました。交番を北に行きました。伊丹四丁目の交差点を左折。
墨染寺です。
「伊丹周辺は、元禄時代の俳人・上島鬼貫ゆかりの地。ここ墨染寺には鬼貫親子の墓があり、「秋は物の月夜烏はいつも鳴」の句碑が建っています。また、この寺には『女郎塚』と刻まれた慰霊碑もあります。」と、伊丹市の案内に有りますが、見つけられませんでした。宿題としてこのします。
この道路を北に行くと川西市に出るのですね。テレビでよく見るお店。
上田南嶺さんの古城庵跡です。
地蔵盆の用意ですね。
JR駅前まで来ました。こんもりした木々が、「有岡城跡」です。
正面奧に、有岡城石垣が残っています。
「戦国時代末期の天正2年(1574年)、武将・荒木村重が伊丹氏に替わって伊丹城の領主となり、大改築を施したのが有岡城。侍屋敷、町屋を堀と土塁で囲んだ惣構え(そうがまえ)の城(東西0.8キロ、南北1.7キロ)で、難攻不落の名城とうたわれました。しかし、村重が主君の織田信長に背き大軍に攻められて、天正7年(1579年)に落城、その後、廃城となりました。昭和54年に国指定史跡となり、(同63年に追加指定)、公園として整備されています。」伊丹市資料から
大河ドラマ「軍師官兵衛」で、旧友の荒木村重および主君小寺の裏切りにより村重の居城有岡城で
一年におよぶ幽閉生活を余儀なくされる。一年後に生きて救出された官兵衛だったが、
五体は満足に動くことができなくなるという代償を背負うことになりましたね。その城ですね。
JR伊丹駅です。右は、官兵衛ゆかりの藤です。
「有岡城に一年にわたって幽閉された官兵衛 の心を慰め励ましたのが、牢屋から見える 藤の花であったと言われ。生きる力を与え てくれた藤の花を徳として、以後、自らの 紋として用いるようになったとも言われて います。」
西に向かって歩きました。奄美の居酒屋さんです。日曜日お休みでした。
横断歩道を渡ると、白雪ブルワリービレッジ長寿庵というレストランがあります。
大きな道に沿って川西方面に行くとすぐ伝統的建築物があります。
造り酒屋です。
もう一つの造譲元「老松」さんは、名水を提供されています。
『かつては江戸積酒造の銘醸地として栄華を極めました。将軍家の御膳酒になるなど、旨い酒といえば伊丹、という時代があったのです。
正徳5年(1715年)には72軒の造り酒屋が立ち並び、その財力も相当なものでした。しかし江戸末期から明治にかけて造り酒屋はにわかに激減しました。
酒造会社は2軒を残すのみとなりました(老松酒造・小西酒造)が、現在も往時の芳醇な味わいを受け継いで、人々を楽しませています。
黒瓦と白壁の酒蔵や、いにしえの面影をそのまま残す町並を歩けば、摂州伊丹郷のかつての繁栄が偲ばれます。』
オペラを見たアイフォニックホールです。
金剛院です。
猪名野神社です。
本殿です。
鬼貫(おにつら)句碑
『本殿の西側に立つ自然石の句碑で,上島鬼貫の代表句のひとつ「鳥は未(まだ)」が刻まれています。
本殿の西側に立つ自然石の句碑で,高さは136センチです。かなり剥落していますが,表には伊丹の生んだ有名な俳人上島鬼貫(うえしま おにつら)の「鳥ハ未(まだ) 口もほとけす(ほどけず) 初桜」の句が刻まれています。宝永4年(1707年)鬼貫47歳のときの作で,原本は柿衞(かきもり)文庫にあります。碑の裏にはこの句碑が嘉永7年(1854)に伊丹の俳人,山口太乙(たいおつ)・岡田糠人(ぬかんど)・梶曲阜(きょくふ)によって建てられたことが記されています。
なお,句碑の後ろには有岡城跡岸の砦跡(とりであと)の土塁(どるい)が残っています。』
毎週日曜日に稽古をしているそうです。
最後の法巌寺の大クスです。この三つの石像の所を南に、すぐ見えてきます。
最終は、伊丹駅です。
09:15に歩き出して、伊丹駅が10:55頃でした。
この後オペラでした。約束まで一時間。喉も渇いています。
JR伊丹の向こうに、イオンモールが有りました。私の得意技、缶チュウハイといなり寿司を買いました。
有岡城址に行き、木陰でいただきました。
オペラが終わったのが、16:15。仕上げの一杯です。
どこもあいていません。捜しながら阪急駅前に行くと、立ち飲み屋さんは幾つかあり、座れる店がありました。
⑥おはな(OHANA)で吞みました。
なかなか上手かったですよ。2000円で満足しました。
家まで戻ると、地蔵盆きれいでした。
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