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A Diary

本と音楽についてのメモ

エッジウェア・ロード

2006-11-03 14:05:21 | 日々のこと
地下鉄ノーザンラインのコリンデイル駅から、10分くらい歩いたところに、オリエンタルシティーという名前の小さなショッピングセンターがある。もともとはヤオハンだったところで、僕が住んでいた頃でも、日本食や、中国・韓国などの「オリエンタル」な食材をいろいろ売っているところだった。日本のイトーヨーカドーとか、ジャスコとかの、面積の広い食品売り場みたいなところ(しかし照明は若干暗め)を想像してもらえればいいと思う。

きっと、どこに住んでも日本食が恋しくなるわけだが、別にわざわざゾーン4のコリンデイルまで行かなくても、ピカデリー界隈でいくらでも買うことができた。それに、僕の職場はピカデリー駅近くだったのだから。それでも、わざわざオリエンタルシティーに行ってみようと思ったのは、どんなところなのだろうという興味と、あと、僕が同じノーザンライン沿いに住んでいて、コリンデイル駅がそれほど遠くなかったせい。

オリエンタルシティーは、エッジウェア・ロードという大きな幹線道路沿いにある。エッジウェア・ロード?・・・どこかで聞いたことのある名前。そう、ロンドンの中心、地下鉄マーブル・アーチ駅のところから北西に伸びている道路と同じ名前だ。マーブル・アーチからこの道をしばらく行くと、その名もエッジウェア・ロード駅という地下鉄の駅にたどり着く。このロンドンの中心部にある道路と、ひなびた郊外にあるオリエンタルシティーのところの道路が同じ名前ということは、もしかするとつながっているのだろうか。・・・そう思って地図を見てみると、途中で何回も名前を変えてはいるが、まさしく同じ道だった。(「A4」という道路名がつけられている。)

日本でも、日光や水戸からは遠く離れているのに、都内に日光街道とか、水戸街道という道路がある。それと同じことなのだろう。エッジウェアというのは、ロンドンの北のはずれの地名。そこに向かう道路だから、エッジウェア・ロードと名付けられたのだろう。しかしそれにしても、この道、地図で見るとやたらにまっすぐだ。他の道路がうねうねと曲がりくねっているのに対して、ひときわ直線的。ロンドンの中心から、北西のはずれのスタンモアのほうに向かって、ピンと伸びている。

ということは、この道路を造ったのは、あの人たちだ。

「ローマ人のつくった道は、現在のローマ市内でも、『コルソ通り』や『リペッタ通り』、ポポロ街道から北に向かって走る『フラミニア街道』を見ればわかるように、地勢が許すかぎり一直線に走っている。アッピア街道に至っては、四十三キロもの距離が、自動車で走っていてもあきれ返るくらいの一直線でつづく」
(塩野七生『すべての道はローマに通ず ローマ人の物語X』より)

ローマ人にとっては、「道とは可能なかぎり早く目的地に着くためのもの」だったから、できるかぎり直線に敷設し、トンネルや橋を建設することで高低差によるロスも防ぐのだった。こういう合理的・実用的発想が古代ローマの人たちの魅力的なところ。

エッジウェア・ロードは、古来「ウォトリング・ストリート(Watling Street)」という名前の旧ローマ街道だった。元々は原住民のケルト人が使っていた道だったようだが、ローマ人がブリタニアを属州として以来、石畳の本格的なローマ街道として整備された。ロンドンの中心からエッジウェアのほうを経て、道はさらに続き、セント・オーバンス(St Albans)を抜け、さらに遠くウェールズのほうまで続いている。

逆に、ロンドンから南西にも街道は続いている。だいたい現在のA2という道路にあたっていて、ドーヴァーのほうに向かっている。「ウォトリング街道を通って行きました」とはどこにも書いてないけれども、チョーサーの『カンタベリー物語』の巡礼の旅は、ロンドンのテムズ川南岸のサザーク(Southwark)からカンタベリーまで、この道をにぎやかにおしゃべりしながら、ゆっくりたどっていったものと考えられている。

* * * * *

イーヴリン・ウォーの『大転落』(あるいは『ポール・ペニフェザーの冒険』)の中で、フィルブリックという学校の執事が、運動会の見物に来たお客さんたちと、なにやら怪しげな話をする場面がある。彼の友達が一人、エッジウェア・ロードで「シナ人」に「喉をグッサリ、耳から耳まで」切りつけられ、殺されたという話。それをたまたま耳にしてしまった子供たちについて、こんな描写が出てくる:

「子供たちはおとなしく走り去ったが、あとで男の子の方が、就寝前のお祈りをしている妹の耳もとで、『グッサリ、耳から耳まで』と囁いたものだから、のちのクラターバック嬢は、晩年になるまで、エッジウェア・ロードに向かうバスを目にすると、軽度のたちくらみを覚えるのであった」
(富山太佳夫訳、『大転落』岩波文庫 p.114)

ここは、ほんとうにウォーらしいユーモアがよく出ているところ。ちょっと極端な表現して笑いを誘うという感じ。ちなみに現在のエッジウェア・ロードは「シナ人」(文学上、そういう表現がしてあるので、このまま書く)が跋扈する恐ろしいところではなく、実はアラブ人街という風情の場所。中近東系のレストランがいっぱいあったりする。マルチレイシャルなロンドンを感じられる界隈。

そして一年が過ぎ

2006-10-18 00:21:36 | 日々のこと
このブログを始めて一年が経過した。当初は日常のことをあれこれ書いてみたのだけれども、次第にイギリス文学に特化していき、近頃は読んだ本についてばかり書くようになった。

これには理由がある。他の人のブログを見ているうちに気がついたのだけれども、生活のあれこれを漫然と書き綴るものよりも、テーマを明確にしたブログのほうがおもしろいと感じたから・・・。だって、生活全般のいろいろな出来事については、べつに僕が書かなくてもいいでしょう、って思う。これだけブログをやっている人がいれば、きっとどこかで誰かが書いてくれているのだから。

ときどき僕も、毎日食べているヨーグルトやミカン、および、納豆について、どのメーカーのどのタイプはおいしいとか、どの産地はあんまり良くないとか、ちょっとレビューしたい気持ちにかられたりもする。駅の乗換えで階段を駆け上がったりしているのを思い出すと、常磐線のダイヤはやっぱり良くないとか、文句を書きたい気持ちにもなる。でも・・・やっぱりそういうことは、僕はべつにいいや。他の方におまかせ、ということで。

ともあれ、こうやってブログの内容を特化すると、読んでくれる人もおのずと限られてしまう。でも、僕の目的はアクセス数を増やすことにはないので、これで結構。つまり、イギリスの小説とかの方面に多少とも関心のある方々のお目に留まればよしということ。どちらかといえば、最近の日本ではそんなに人気のあるとは思えない、20世紀のイギリス小説を中心に読書記録を残していきたいので、そういう少数派の嗜好の方々との交流のきっかけになれば、これは本当に幸いだと思う。

しかしこの方針は、目の肥えた方々相手に読んでいただくことを意味するわけなので、あんまりいい加減なことは書けないというプレッシャーもあったりする・・・はずなのだが、実はかなり適当に、思いつきで書いていることは、比較的頻繁に訪れている皆様には、もうすでにバレバレだろう。でもこれでいいのだ(と、また開きなおる僕がいる)。だって、楽しみで書いているのだから。アマチュア文学愛好者ならではのブログ。そういう感じでよしとしよう(と、勝手に決定)。

そもそも、僕が対象としているイギリス文学、というか、イギリス文化・社会には、アマチュアリズムの偉大な伝統がある。オリンピックとか、スポーツ世界で使われる狭義のアマチュアリズムではない。スポーツに限らずに世の中の全般のことで、「お金のためにやる」ことを軽蔑する姿勢。要するに、アマチュアとは、真剣に遊ぶことだ。だから僕も英文学で真剣に遊ぶのだ。イギリス文学やイギリス文化についての、僕はエリートにもプロにもならない。アマチュアとして、これからも続けていきたい・・・ふう、こんなふうに偉そうに語るのも、ちょっと疲れるな。

話は変わるが、アフィリエイトって、ご存知だろうか。勝手にIT用語辞典を引用してしまおう。

「Webサイトやメールマガジンに企業サイトへのリンクを張り、ユーザがそこを経由して商品を購入したりすると、サイトやメールマガジンの管理者に報酬が支払われるというシステム。『アソシエイト』などと呼ばれることもある」

よくあるのは、僕みたいに本についてあれこれ書くブログやウェブサイトに、アマゾンの広告を載せるというパターン。例えば、僕がこのブログである作家についてレビューを書き、下とか脇っちょに、その作家の本についてのアマゾンの広告を載せれば、その本が欲しくなった人や興味のある人は、その広告をきっとクリックするだろう。そんなふうに、その広告経由でアマゾンのサイトに入った回数や、購入回数・金額によって、ブログの持ち主にも報酬がアマゾンから支払われるというやりかた。

でも、僕は絶対にアフィリエイトをしない。そう決めている。だって、僕はアマチュアなのだから。それに、自分のブログを訪れてくれた方から金儲けをしようなんて、絶対嫌だな。わざわざ忙しいのに読んでいただきありがとうございますって、本来ならこちらがお礼をするべきところだし。(ところで、僕はアフィリエイトをしている方を非難しているわけではないので、勘違いしないように。ただ単に、僕自身はやりません、ということ。もちろん、こんなブログにアフィリエイトをしたいなんて言ってくる企業もいるまいが。)

ということで、これからも僕はこのブログで真剣に遊ぶ予定。もうちょっと頻繁に更新できればいいな。

塩の柱

2006-05-02 22:46:15 | 日々のこと
唐突だが、逃げるときは、どうして後ろを振り返ってはいけないのだろう。

ギリシア神話では、オルフェウスが愛する妻エウリディーチェを連れ戻す際、冥界の王ハデスから、冥界を抜け出すまでの間は後ろを振り返ってはいけない、と言い渡される。旧約聖書(「創世記」)でも、ソドムの街が滅ぼされるとき、逃げるロトの家族は後ろを振り返ってはいけない、と命じられる。そしてもちろん想像どおり、どちらの場合も振り返ってしまうのだ。オルフェウスはあと少しというところで後ろを見てしまい、エウリディーチェを連れて帰ることができない。創世記のエピソードでは、ロトの妻が振り返ってしまい、塩の柱に変えられてしまう。

でも「見るな」と言われたら見たくなってしまう、これってごく自然な人間の心情ではないだろうか。日本昔話の「鶴の恩返し」だってそうだ。浦島太郎だって、「開けてはいけない」と言われた玉手箱を開けてしまう。(だったら、最初から渡さなければいいのに、と思わなくもない。)これらのギリシア神話や聖書、さらには日本昔話のエピソードは、我慢することの大切さや、言われたことを守ることの大切さ、といった教訓を狙いとしているのかもしれない。でも、むしろ僕には、こういう彼らの失敗が、古今東西、誰もが持っている人間らしい好奇心の現れのような気がする。みんながみんな、英雄になれるわけではないのだから。

* * * * *

カート・ヴォネガットの小説『スローターハウス5』(1969)には、創世記のロトの妻のエピソードが出てくる。ソドムとゴモラの二つの街が滅ぼされたことについて、ヴォネガットは次のように語り始める:

「周知のとおり、この二つの町に住んでいたのは悪い人間ばかりである。彼らが消えたおかげで世界はいくらかマシになった。
 ロトの妻は、もちろん、町のほうをふりかえるなと命ぜられていた。だが彼女はふりかえってしまった。わたしはそのような彼女を愛する。それこそ人間的な行為だと思うからだ。
 彼女はそのために塩の柱にかえられた。そういうものだ」
(ハヤカワ文庫『スローターハウス5』第一章より)

僕はこの部分が昔からとくに印象に残っている。ヴォネガットの作品には、独特なSF的言辞があったり、使われている語り口調もかなりラフだったりして、そういう表面的な点だけ見ると、彼は単なるSFエンターテイメント作家と分類されがちだ。しかし、彼が一見冗談風に構成し、かつ、語っていくその言葉の積み重ねの先には、ものすごく真剣なテーマが隠れている。それを的確に表現するのは難しいけれど、「人間とはいったい何なのか」とか、そういう普遍的なテーマであることは間違いない。そしてさらに、上に引用した箇所に見られるような、ヴォネガット自身の人間に対する優しいまなざしに僕は魅了されてきた。

* * * * *

映画『千と千尋の神隠し』で、千尋が通常の人間の世界に戻っていくとき、ハクから「トンネルを抜けるまでは後ろを振り返ってはいけない」と言われる。千尋は一瞬振り返りそうになるけど、その約束を守ってちゃんとトンネルを抜けることができた。この場面は、ある種のサスペンス的な効果、「ちゃんと守れるかな」と観客をドキドキさせる効果のために設定されたのではないかと思う。最後まで緊張感を持って観てもらえるように。

でもあの場面で、もし彼女が振り返ってしまったらどうなっていただろう。個人的には、そういう弱い彼女こそ、人間として自然な、ましてや子供として自然な反応として、親近感を得ていたのではと時々思うことがある。

ヒバリのこころ

2006-04-24 23:24:02 | 日々のこと
僕は、歌謡曲というか、日本のポップミュージックというか(・・・うーん、あまりにも無知すぎて、この方面を説明する語彙さえ思いつかない)、とにかく、この手の音楽をほとんど聴かないし、聴くとしても、たまにテレビの歌番組を観るくらい。テレビを観ながら「いい歌だな」と思っても、それきりで忘れてしまう。そのくらいの興味しかなかったりする。

ふだん買ってくるCDも、ほとんどクラシック関係ばかり。わが部屋にはそれなりの枚数のCDがあるけど、それらも、バッハ、ブルックナー、マーラー、エルガー、ショスタコービッチ等々、好きな作曲家ばかりが集合を成している。とまあ、こういうかなり偏向傾向のみられる音楽嗜好ではあるのだけれども、歌謡曲の分野で唯一、以前からある程度好きだったのがスピッツ。カラオケに行って何かやむを得ず歌うとしたら(いわゆる「カラオケハラスメント」の場面で)、それはスピッツだった。別に熱愛しているわけでもないし、この程度の興味ではあったけど、今回ベスト版みたいなCD(「CYCLE HIT」)が発売されたので、どんなものか買ってみようかという気分になり、早速聴いてみた。

そしたら、その中に一曲、僕にとっては衝撃的にいい曲があった・・・「ヒバリのこころ」。一番最初に収められている。これって、もしかしたらデビュー曲じゃないだろうか。生まれて初めて聴いたけど、この曲はとても好きかもしれない。僕は詳しくわからないから、なんともうまく説明できないのだけれども、「斬新」という言葉がふさわしい。デビュー曲だから若々しいとか、初々しいのかと想像するけど、そういう感じではないと思う。むしろなんだか、音楽も歌詞もすごくシャープで、さらに陰影が鮮やかで、とても惹きつけられてしまう。

「遠くでないてる 僕らには聞こえる
魔力の香りがする緑色のうた声」

例えば、変な箇所ではあるけど、この歌詞の「緑色」というところが僕はとても気になる。おそらくこの「うた声」とは、ヒバリの鳴声のことなんだろうと僕は解釈する。ここまではいい。気になるのは、ここでその鳴声が「緑」にカラーリングされているところだ。きっとこれは一般的には、草花や森といった「自然のイメージ」のことなのだろうと想像する。でも僕にはなぜか違う印象が生じてしまう。歌詞のこの部分の前に「魔力の香りがする」とあるせいで、この緑色がどういうわけか「異形の色」みたいな感じの、ちょっと怪しげなイメージがわいてくるのだ。

緑色って、そういう不可解な、魔術的あるいは超自然的なイメージを喚起させると思うのだけど・・・なんて、そんなふうに思うのは僕だけだろうか。試しに「どこからか、緑色の声がした」というフレーズを想像してみてほしい。どうだろう。どんな声だか想像がつくだろうか。どういう声が聞こえてくるのだか、いまいちピンとこないと思うのだが。そしてこの不可解さこそ、その「緑色の声」が、不可思議な、そして一歩進んで魔力的なイメージを帯び始める原因だと思われる。・・・とまあ、とりあえずこういうふうに説明をつけてはみたものの、実際のところ、僕にとって「緑色」がなぜこういうイメージを持ってしまっているのかは、自分自身、もうちょっと分析が必要かもしれない。きっと何か本を読んで、その影響を受けたせいだと思うけど。

スピッツの歌詞は多かれ少なかれ、わざとこんなふうに惑わすような、あえて意外性を狙ったような比喩や形容が多いので、これを真に受けてあれこれ考える意味はないのかも、と思わなくもない。でも、その不思議な歌詞こそ、間違いなく彼らの音楽の魅力のひとつなのだ。今回とても好きになった「ヒバリのこころ」だが、その後の曲は、どれも聴いてて悪いわけじゃないし好きだけど、僕にとっては少々おとなしくなっていくと感じた。・・・なんて、わかったようなことを書いてしまったけど、とてもあれこれ言えるほど知識はないので、このくらいで。僕はただ純粋に、聴いて楽しみたい。

無用の知識をあなたに

2006-04-16 14:58:07 | 日々のこと
今シーズンの温州みかんを振り返ると、比較的甘くてみずみずしく、おいしいものが多かったものの、外見的には病害か低温か何かのせいで、ちょっと良くないものが目立ち、価格も若干高めで推移した。ともあれ、今期のみかんシーズンは無事終了し、僕も所属する全国柑橘類愛好者連盟(本部:愛媛県・・・注1)としては、今月はグレープフルーツ、および、ミネオラオレンジに取り組むよう指示が出ている。

連盟の千葉県東葛支部を自負する僕としても、この意向に基づき、連日、スーパー「マルエツ」ないしは「ハローマート」にてグレープフルーツ及びミネオラオレンジの購入にいそしみ、レジ袋いっぱいのグレープフルーツやらオレンジを、その重さにうんうん言いながら家まで持ち帰っている。これまでのところ、連盟本部の指導どおり、グレープフルーツ0.75個/日、また、ミネオラオレンジ3.85個/週のノルマは順調にクリアしており、東葛支部では今月、前年比+23%、目標比+11%の高消化率(注2)が見込まれている。ビタミンC万歳!

* * * * *

さて、輸入の柑橘類は、その輸送中にカビが生えて傷んでしまわないよう、全面に防カビ剤が塗られている。みかんをダンボール箱で買ってきて食べていると、その中のいくつかは自然にかびてしまうが、ああいうふうにならないようにするためだ。輸入するものは国産品よりも運送時間がかかるので、その間にカビが生えて商品価値がなくなってしまわないように、防カビ剤を塗布するのだ。このように、純粋な経済上の理由で使用されている。間違っても、僕たちにおいしく食べてもらうためではない。

これらの防カビ剤だが、ふつう、OPP(オルトフェニルフェノール)、TBZ(チアベンダゾール)、イマザリルの三種類が使われている。スーパーで販売されている輸入のオレンジやグレープフルーツの表示をよく見ると書いてある。もし明示していなかったら、これは法律違反。「書いてないから、使ってないんじゃないの?」なんて考える必要はない。輸入の柑橘類には絶対使われている。カビないように。

今から遡るころ約三十年前の1977年、それ以前はこれらの薬品は使用禁止だった。発がん性が確認されていたので。でも現在では、このように輸入柑橘類(みかんを除く)にはふつうに使用されている。もちろん、この三十年間で発がん性が除去されたわけではない。毒性は何年経っても変化しないのだから。この防カビ剤の塗布された柑橘類が輸入OKになった経緯は興味深い。

古来より、気に食わない輸入品があったりすると、人々はその場所、つまり港でその品物を棄ててしまう。海洋投棄、というやつだ。その昔、アメリカではボストン茶会事件なんていうことがあった。海は紅茶になったのだろうか・・・それはわからない。中国でもかつて林則徐なる人物がアヘンを海に棄てさせた。魚たちは不思議な気分になったのだろうか・・・もはや調べるすべがない。そして1975年、アメリカから輸入された柑橘類から当時は使用禁止だったOPP(オルトフェニルフェノール・・・何回も書くと名前を覚える)が検出されたとき、厚生省は港の倉庫にあったその柑橘類を海に棄てさせた。これに対し、アメリカ側は「日本は太平洋をトム・コリンズ(レモン入りのカクテル)にする気か!」と激怒したという話。本当にこのように言ったのかどうかは、僕にはよくわからないが。

その後は毎度のパターンである。政治的な圧力がぐぐぐっとかかり、輸入は許可される。今回の牛肉と同じような経緯だ。なかば形式的にではあるが、一応安全性を審査し、条件をクリアすればOKになる。なお、これとは別件で、ニュージーランド政府はニュージーランド産の「みかん」についても、防カビ剤イマザリルの使用許可を求めているが、現在のところOKは出されていない。その理由を厚生省は次のように述べる:

「イマザリルを収穫後にみかんに使用する場合には、食品添加物の使用基準の改正が必要となる。しかしながら、日本人のみかんの摂取量は諸外国と比べ多く、現在の使用基準を拡大し、みかんに対するイマザリルの最大残留値を、コーデックス委員会(注3)の基準に基づき5ppmと定め、理論最大一日摂取量を推定した場合、ADI(注4)を超えることが明らかとなっている。このような使用基準改正を行うことは、我が国国民の食生活において安全性を確保する上で問題があり、科学的にも適切であるとはいえない。」(注5)

要するに、日本人はみかんをたくさん食べるから、安全基準を超えてしまう可能性があるので、イマザリルの使用は許可できない、という理屈だ。では・・・僕のように、輸入柑橘類を好んで大量に摂取している人は、いったいどうなるのだろう。とりあえず、こういう情報は知らなかったことにしよう。世の中には余計な情報が多いものだ。

* * * * *

「オレンジやグレープフルーツなんて食べないもん!」という、僕から見ると信じがたい嗜好のあなたには、一応、以下の情報も併せてお知らせしておく。①これらの薬品はバナナにも使用されているということ。また、②オレンジジュースは製造される際、外皮ごと丸々使われているということ(十分洗浄されていると僕は信じたい)。どうですか。知らぬが仏。知らぬが花。秘すれば花(??)。世の中、無用の知識ばかり。


注1:実際にはこのような組織は存在しないので、本気になってグーグルで検索しないように。時間の無駄である。
注2:どのくらい食べているかなんて、当然数えてもいないので、数字はフィクションである。
注3:消費者の健康の保護、食品の公正な貿易の確保等を目的として、1962年にFAO及びWHOにより設置された国際的な政府間機関。国際食品規格(コーデックス規格)の作成等を行う。
注4:Acceptable Daily Intake。つまり「一日許容摂取量」のこと。
注5:「市場開放問題苦情処理推進会議第6回報告書」(平成12年3月16日) より引用。僕がいくらメタフィクションを愛好しているからといって、これは偽物ではない。日本政府の公式文書。

地球を七回半まわれ

2006-04-12 12:26:34 | 日々のこと
テレビをつけたまま新聞を読んでいたら、突然画面が白黒に変わって、なんとも衝撃的で、味わいのある歌が放送され始めた。音楽が終わるまでのあいだ、僕はそのあまりの新鮮さに、ずっと画面から目が離せなかった。その番組は「NHKみんなのうた」で、その曲のタイトルは「地球を七回半まわれ」。

車がくる 車がくる くるくるくるっと
高速道路 だれの自動車か知らないけれど
虹の光にのっかって
地球をまわれ 七回半まわれ  

車はカー スポーツカー カーカーカーブだ
ランプウェイだ どんな自動車もきらきら光る
進路西にまっしぐら
地球をまわれ 七回半まわれ

車はゴー 車はゴー ごうごうごうっと
たかなるエンジン ぼくの自動車さあしたの夢さ
ここは赤道高速路
地球をまわれ 七回半まわれ
(作詞:阪田寛夫  作曲:越部信義)

こうやって再放送されるくらいだから、当時はかなり流行したのだと思う(僕には確かめるすべがない)。とくに子供に・・・なんと言っても「車はカー」という、印象的な歌詞だから。とりあえず、機会があれば試しに曲を聴いてみて、と言いたい(お金を出すまでのことはない・・・何かのついでの時とかに)。少年合唱が歌い、途中、男声と女声のソロが挟まれる。この歌い方が味わい深いというか、要するに古風なのだ。今時のこういうテレビ歌謡で、こんなふうにオペラ歌手風に独唱する人たちはいまい。

この曲が「みんなのうた」で最初に放送されたのは1965年10月とのこと。(もちろん僕は生まれてもいない・・・誤解のないように。)東京オリンピックの翌年。高度成長のまっ只中。新幹線は開業し、高速道路が整備されて、高度成長期の明るい未来が感じられていた(のだろう)、その時代。そういう雰囲気をこの歌は伝えてくれる。「虹の光」「きらきら光る」「あしたの夢」・・・歌詞にもこういう言葉があふれ出ている。画面にはオープンカーに乗って、陽気にドライブを楽しむ人々が登場する。首都高速をその画面の車は走っていくが、そこに走っている車の少ないこと!また、高速道路の周囲も、現在のようにビルが林立していたりはしない。渋滞も交通事故も、騒音も排気ガスも、何もかもに未経験であった、今から四十数年前の日本。

* * * * *

話題が変わるが、僕はかつて日本橋の近くで仕事をしていた。だから、まさにその「日本橋」を実際に渡る機会はふつうに何回もあった。この橋の真ん中には「日本国道路元標」というものがあり、よく「東京まで××キロメートル」という標識が出ていたりするが、これはこの「道路元標」を基準に計算されている。かつて江戸時代の五街道の基点だった名残りなのだろう。(ちなみにこの道路元標は言葉のとおり橋の「真ん中」、つまり、川の上の道路の中央分離帯のところにあって、車が行き交う中の危険な位置にある。これではなかなか見られないので、観光用の複製が橋のたもとに設置されている)

「お江戸日本橋」として由緒正しいこの橋だが、現在その頭上には、高速道路の高架が大きく走っている。だから橋の下は、空がほとんど見えなくて日も差さず、ちょっと暗い。景観という観点からは、どう考えてみてもこの高速道路は見苦しい。日本橋がかかっている川は、どうということもない、お世辞にもきれいとは言えない川だが、それでもこういうふうに上を高速道路がおおいかぶさっているのは、明らかにあまりよろしくないと思う。せっかく歴史のある橋なのだから(一応、重文である)。ということで、新聞などでも報じられているが、この高速道路の高架を無くそうという運動は以前から行われている。実際、高速道路を移設する計画はいくつか挙げられているが、経済的な問題と、物理的な問題両面で困難は多いらしい。

ではなぜ、首都高速が建設されていた頃に、この景観の問題を思いつかなかったのだろうか。どうやら東京オリンピック直前に大至急で計画・建設されたため、それどころではなかったらしい。建設用地も限られてしまっていたから、お堀を埋めたり、こんなふうに川の上を走らせたりして急場をしのいだようだ。まずは、国策であるオリンピックの成功が第一で、景観なんて誰も思いつかなかった。そして現在にいたって、この橋は高度成長時代のひずみの代表例の一つとして有名になってしまった。

僕は想像するのだが、ああいうふうに高架でもって大胆に高速道路を走らせることが、「かっこいい」と感じられる時代だったのではないだろうか。人々は「こうやって、東京も未来型の都市になっていく」と想像したのではないだろうか。時速200キロを超えるスピードで鉄道を走らせることに、新しい時代の到来を感じたのと同じ印象として。タルコフスキーの映画『惑星ソラリス』では、この首都高速を走る車から撮影された光景が延々と流される場面がある(ちょうど観ていて眠くなるあたり・・・あまりにもゆっくりで、静かな映画なので)。彼は、東京のこの高速道路を、未来都市のイメージとして活用したのだった。

僕は、あの日本橋の上に大きくのしかかっている高速道路が、今から40年以上前、そういう「夢」を感じていた時代の遺産のような気がする。未来の到来を体感した人たちの想い。「地球を七回半まわれ」で歌われていたような、楽観的で明るい未来がそこにはあったのだろう。

せっかちな日本の私

2006-04-10 00:05:05 | 日々のこと
先月から常磐線のダイヤは変更になり、なんと驚くべきことだが、一番電車が混む時間(7:45-8:30)に通勤用の電車が減らされてしまった。それはちょうど僕がよく乗る時間の電車だったから、個人的にはほとんど嫌がらせに近い印象。その減らしたダイヤの間隙には、通勤電車に代わって特急が走ることになった。JRは言う:

<特急「フレッシュひたち」を増発・延長します>
・・・「スーパーひたち10号」(現行8号、上野着8:55)は運転時間を15分ほど繰り上げて、いわき発5:59・上野着8:43とご利用しやすくします。・・・(以下、特急をたくさん増やすぞ、と主張を並べ、最後にずっと下のほうに)・・・
◆朝夕通勤時間帯 
ご利用状況及び特急「フレッシュひたち」増発に伴い、「常磐線快速」を一部削減します。

僕も使う通勤電車、「常磐線快速」に乗る人たちにとっては、今回はダイヤ「改悪」に違いない。僕の使う駅では、特急は通過する。僕が一番問題に感じている今回の事例でいうと、新たに走ってくる特急をはさんで、電車は六分間来ない。たった六分だ。大したことないではないか・・・ところが違う。この六分の間にホームの端から端まで人がいっぱいになる。朝の通勤時間帯とは、そういう時間なのだ。本来三~四分間隔で走らせるべき時間なのだから。満杯になったホームに電車は到着するが、こんなに人が待っていると、その電車にはその全員は乗れない。乗り切れない人が発生してしまう。そして無理やりがんばって乗ったとしても、その電車は当然死ぬほどぎゅうぎゅう詰め。これでサービスが改善したといえるのか。

これは「常磐線快速」を使う僕のような立場の主張。ところが、特急「フレッシュひたち」や「スーパーひたち」の利用者にとっては、このダイヤ変更は大歓迎なのだろう。便利な時間に走るようになって、かつ、本数も増えたのだから。(もちろん、JRにとっても大歓迎のダイヤ変更だ。なんといっても、特急料金ががっぽりかせげる。)こんな具合で、誰かの利便性を向上させると、他の誰かが犠牲にならなくてはならない。たとえば仮に、逆に「常磐線快速」を増発すると、特急がとばっちりを食らうことになって、特急利用者たちが激怒することになるのだろう。みんな自分の都合だけ主張したって仕方がないということは、僕もわかっている。わかっているのだけれども、だけど・・・。

「そんなにむきにならなくたって、いいじゃないですか。その混む電車に乗るんじゃなくて、ちょっと早く家を出て、それより一本早い電車に乗れば済むだけの話でしょう?でなければ、その混雑する電車に乗るのを避けて、もう一本あとに来る電車を待てばいいじゃないですか。すぐ三分後に到着するんだから」

一刻でも早く乗りたい。待ちたくない。こういうせっかちさが僕にはある。いや、僕だけではなくて、日本自体がそういう流れにあるのだろうか。先日駅に行くと、電車が十分来ないことがわかった(定刻どおりでも)。これだけで僕はがっくりする。早く目的地に行きたいのに、十分間も時間をロスしてしまう。さらにそのとき、どこかを走っている電車が異常音を感知したとか、そういう影響で、その電車は定刻より十分遅れて到着した。結局僕は駅で二十分も待った。これだけで、かなりうんざりしてしまった。そのときは本を読んで時間をつぶすことができたが、もし二十分間も何もすることがなかったら(さらに、座って待つことができなかったりしたら)、本当にうんざりしていただろう。たった二十分なのに。僕は何かしていないといけない性格らしい。

ところで、昨今の「格差拡大」の潮流を商売の好機到来と捉えたのだろうか、JRは来年から常磐線にもグリーン車を連結することを発表した。十五両編成で走っている電車のうち二両をグリーン車にする計画。これはつまり、二両分、通勤用に人が乗るスペース(普通車のスペース)が少なくなるということ。これ以上電車を混雑させてどうしたいのだろう、と僕は疑問に思ってしまう。もちろん、都内から離れて遠くに住んでいる人は、こういう居心地の良い車輌ができればお金を払ってでも乗りたいと思うのだろうが、僕の乗る距離ではグリーン料金がもったいない。特急を増やすことともあわせて、どうやら常磐線は、上野からの通勤距離が長い人ほど優遇されるらしい。こういうお客さんは、運賃も高いし、さらにその運賃に加えて、特急料金やグリーン料金も気前よく支払うという「カモ」だから、優遇されるのも当然か。

* * * * *

常磐線の告知を読んだとき、ジョージ・オーウェルの『1984』年のある箇所を思い出してしまった。上に書いたとおり、運転本数を減らすというようなマイナス要素は、一番下に小さく書くのだ。最初に、増発とか延長とか、景気のいいことを大文字ででかでかと、人目を惹くように書いてから、最後にちょっと目立たぬように。良い事柄の印象が残っているうちに、それにまぎれて、ネガティブな発表も済ませてしまうという方法。

「その後から悪いニュースが続くぞとウィンストンは思った。やはりユーラシア軍に殲滅的な打撃を与え、途方もない数の戦死者と捕虜が出たという血なまぐさい報道に続いて、来週からはチョコレートの配給が三十グラムから二十グラムに削減されるだろうという発表があった」(ジョージ・オーウェル『一九八四年』第二章より)

世の中こういうものらしい。

四月病

2006-04-03 00:28:42 | 日々のこと
四月病 (しがつ・びょう)<名詞>

① 大学の新学期が始まり、新しい時間割表やシラバス(→別項参照)が配布されるので、それを読んだ結果、俄然いろいろな授業が面白そうに思えてきて、にわかに勉強のやる気が出てしまうこと。

② 前学期での取得単位数をふまえ、新しい学期の時間割で、最大限可能な習得単位数を計算してしまうこと。また、これだけ単位を取ったら、来学期以降は超楽勝だなあと妄想に走ること。

③ ①や②の結果、自分の能力を超えるほど授業を取ってしまうこと。

〔用例〕(ゴールデンウィーク明け頃に)「あいつ、今学期は朝一限から五限までびっちり授業を入れてたけど、自主休講ばっかりだね」「だって、何を思ったか、古代ギリシア語まで履修申告したらしいよ」「というか、もう全部切ったらしいし」「典型的な四月病だったね」


自主休講 (じしゅ・きゅうこう)<名詞>

授業内容の程度が低い、内容に乏しい、既に知っていることなので勉強する意味がない、などの不満から、その授業に参加しないボイコットという形で無言のアピールをすること。その空いた時間を他のもっと有意義な活動、例えば、サークル、バイト、満喫、図書館での睡眠などに充てることができる。


指定教科書 (してい・きょうかしょ)<名詞>

大学の授業などで用いられるテキストのこと。授業担当者の自著であることが多い。春先の大学生協でしか流通していないという稀覗本。価格は市場競争原理を超越した強気の設定となっている。場合によっては、本屋さんが教室まで販売しに来ることもあるが、先生へのキックバックが一体いくらなのか気になる。

〔類語〕指定参考書(してい・さんこうしょ)


シラバス (しらばす【英syllabus】)<名詞>

① 授業概要を説明した文書。講義の目的や毎回の授業内容が詳しく説明される。場合によっては、講義開始前までに準備すべきことなど、授業が始まる前から課題を出してくれるという、なんとも懇切丁寧なものも散見される。あわせて、指定教科書(→別項参照)やその購入方法も明確に指示され、その機会を逃すとこれらの書籍は購入が困難になる。

② 先生の四月病(→別項参照)。ただし印刷の都合上、学生よりもやや早く(二月や三月頃)発症する。

ホワイトゴールドとプラチナの違い

2006-04-02 20:42:37 | 日々のこと
「プラチナとホワイトゴールド、どっちがいいの?」
今日は、福岡県にお住まいのFさんからのこの質問に答えてみたい。

まず、ご存知だとは思うけど、紛らわしくてよく混同される点を整理しておくと、「ホワイトゴールド」は金属元素の「金」(Au)からできている。一方、「プラチナ」は「プラチナ」(Pt)という金属元素からできている。問題はプラチナの和名が「白金」であることで、これが「ホワイトゴールド」と混同されやすい。あくまでもホワイトゴールドは「金」でできている。

では、なぜホワイトゴールドは「金」という金属なのに銀色(白色)をしているのか。本来、純金はその名の通り金色(黄色)をしている。ポイントは、ジュエリーなどで使われる金が純金ではないことだ。よく使用されている「18金」についていえば、純度は75パーセント。残りの25パーセントには他の金属が「割金(わりがね)」として混ぜられている。この割金に、銀やニッケル、パラジウムなどの白色系の金属を使うと、白っぽい金ができあがる。これがホワイトゴールド。

でも実は、割金でこんなふうに白色に近づけたゴールドも、まだかなり黄色味が残ってしまっている。そこで表面に、ロジウムという銀色の金属で表面加工(要するに、めっき)を施している。こうやって銀色で光沢感のある「ホワイトゴールド」が完成する。「ホワイトゴールド」の名称で販売されている世界中のほとんどの宝飾品は、だいたいロジウムめっきの加工がされていると思う。

割金は、本来金属の強度や耐久性を増すために使われている。純金や純プラチナは硬度が低すぎて、ジュエリーとしては不向きになってしまう。そこで、このように他の金属を混ぜている。ホワイトゴールドについては説明したとおりだが、18金の残り25パーセントの金属に、銅などの赤みのある金属を用いると「ピンクゴールド」になる。一方、プラチナの純度は90パーセントか、95パーセント。割金はパラジウムであることが多い。

* * * * *

さて、どちらが良いか。

■希少性■
まず希少価値で言えば、金よりもプラチナのほうが価値がある。すなわち、値段が高いということだ。現在、国内の小売価格で、金は1グラム約2300円くらい、プラチナは4300円くらいする。(ちなみに、銀は1グラム50円くらい。)プラチナのほうが倍くらい高い。金は有史以来約14万8700トン採取されたが、プラチナは約4000トンしか採取されていない。こういう希少性に違いがある。

■加工のしやすさ■
また、金よりもプラチナのほうが加工に手間もかかる。まず、金が1トンの原鉱石から約6.7グラム取れるのに対し、プラチナは3グラムしか採取できない。さらに、金は融点が1064℃であるのに対して、プラチナは1768℃。精錬にかかる時間も、金が約一週間であるのに、プラチナは約八週間もかかる。こういうわけもあって、プラチナのほうが値段が高い。

■比重■
また、金とプラチナでは比重が違うので(金19.3、プラチナ21.4)、それぞれの金属で同じ大きさの延べ板を作ると、プラチナのほうがずっしり重くなる。つまり、使われるプラチナの重量が多くなる。従って金額も高価になる。だから、仮に同じ大きさの指輪を、金とプラチナのそれぞれで作ると、外見は一緒でもプラチナのほうが重くなって、値段も高くなる。

■良し悪しについて①■
実用的な問題で考えると、まず、プラチナと金では、プラチナのほうが柔らかい。たとえば、プラチナの指輪をしながら重いものを持ったりすると、指輪は変形してしまう。(僕が知っている例だと、重いスーツケースを持ったら変形したとか、電車のつり革を握っていて、急ブレーキか何かで手に力がかかったときに曲がってしまったとか。)一方、18金はこれよりもずっと硬い。だから、強度という点ではホワイトゴールドのほうが勝っている。また、プラチナは重くて高価である点も問題だろう。見た目は微妙に違うが(プラチナのほうが黒っぽい銀色)、同じような形状のものを安く買うことができるのだから、ホワイトゴールドも悪くない。

■良し悪しについて②■
ホワイトゴールドの最大の欠点は、変色してしまうところ。上に書いたように、すべてのホワイトゴールド製品は、表面にロジウムめっきを施してある。ということはつまり、使っているうちに、ぶつかったり傷ついたりして、だんだんその表面のロジウムがはがれてしまう。そして、若干黄色味を帯びた地金の色が表面に現れた状態になってしまう。これを元通りにするには、もう一回ロジウムめっきをするしかない。一方のプラチナは、ピカピカの銀色の光沢感が失われてしまっても(白っぽいふつうの銀色になる)、研磨すれば、つまり磨けば、また元通り光沢が再現できる。

ということで、どうだろう。同じ形の品物だったら、ホワイトゴールドでできているものを選ぶか。あるいはプラチナ製を選ぶか。僕は、「特別な買い物ならばプラチナを選んだらどうかな」とお勧めする。気軽に使うものや、ファッション的なものならホワイトゴールドのほうがいい。同じ風合いでも安くて丈夫で軽いのだから。でも、特別な気持ちで買うものならば(たとえば結婚指輪とか)、プラチナのほうがいいのでは。ということで、いかがでしょう、Fさん。

* * * * *

ここからは余計な話。

金やプラチナはどうやってできるのか。「そんなの当たり前じゃん、鉱山から掘り出して精錬してでき上がるんだよ」・・・じゃあ、その鉱山にある金鉱石やプラチナ鉱石はどうやってできたのか・・・。間違っても、ダイヤモンドみたいに地球の内部の圧力とかでできたものではない。たしかに、金という元素もプラチナという元素も、高温・高圧下で生成されるという点は間違っていない。しかし、仮に太陽の中心のような超高温高圧下でも、金やプラチナの元素を生み出すことはできない。

太陽をはじめとする恒星は一種の核融合炉で、水素をヘリウムに変化させる核融合反応を行いながら、莫大なエネルギーを放出している。水素の原子核(陽子)は、プラスの電気を帯びているので、二つの原子核をくっつけると言っても、実際にはプラス同士の電気力が反発してしまい通常の状態では融合できない。だから、恒星の内部のような高温高圧状態ではないとこの核融合反応は始まらない。

その昔、メンデレーエフの周期律というものを勉強したが、あの一覧表を思い出してほしい。水素は一番目、ヘリウムは二番目の元素だ。ヘリウムより重い元素はまだまだたくさんある。現在の太陽では、ヘリウムより重いこれらの元素は作りだされていない。温度が低すぎるのだ。プラチナ(原子番号78)や金(原子番号79)といった重い元素は、もっともっと超高温、超高圧の環境下ではないと生み出されない。

実際のところ、こういった重い元素がどのように作られたかについて、決定的な説明はまだない。一般的に考えられているのは、非常に巨大な恒星が超新星爆発を起こした際、その猛烈な爆風(ジェット)の中に大量の中性子が含まれているので、それが金や銀、プラチナやウランなどを作るという説。あるいは、二つの中性子星(かつて巨大な恒星が爆発した残骸)が衝突した際に、その衝撃でこうした重い元素が生成されるという説もある。

いずれの考え方にしても、こうした元素は、太陽よりもずっと巨大な恒星がその生涯を終えて、その結果生成されたものであるという点では一致している。どこかのはるか遠い宇宙空間で、数十億年以上のはるか昔に、想像を絶する環境の下、これらの金や銀やプラチナは生み出された。僕たちはこういうものを身につけている。

ロンドンで本を買う

2006-03-23 13:52:10 | 日々のこと
本好きは本屋に集う。本屋を見かけると中に入ってみたくなる。東京だろうとニューヨークだろうと、それはどこでも同じ。最近は書店も(というか、出版業界が)売上至上主義になっているので、小さな本屋さんではベストセラーばかりしかなく、満足できるような本を見つけたいと思ったら、ちょっと大きい本屋さんに出向く必要がある。たとえば、池袋のジュンク堂書店とか。ちなみに、ここで手に入らない本は(中古を除く)、基本的に日本ではもう手に入らないと考えていい、というくらい充実した在庫だったりする。

小さな書店だと「売れ筋」しか扱っていないのは、イギリスでも同じ。もうとっくに書籍の再販制度は廃止されている。また、日本で紀伊国屋書店とか、丸善とか、そういう有名な本屋さんが全国チェーンになっているように、イギリスでも同じく「WHスミス」とか、「ウォーターストーンズ」とか、そういう全国展開の書店チェーンが目立っている。だからロンドンに行って、ちょっと興味ある分野の本を探そうと思っても、街角のWHスミスの小さな本屋さんなんかに入ったところで、お目当てのものには出くわさない。では、僕ならどこに行くか。

もし勝手にお勧め順位をつけるなら、第一位は「ブラックウェルズ」(Blackwell's)だろう。場所はチャリングクロス・ロードにある。この通りはトラファルガー・スクエアからオクスフォード・ストリートを結んでいて、飲食店や映画館、ミュージカル劇場などが立ち並び、ロンドンで一番賑やかな一角のひとつ。でも、この通りは昔ながらの書店街でもある。東京でたとえるなら神田神保町のようなところだ(ただし、あんなふうに本屋がたくさんあるわけではない)。その中にブラックウェルズもあるのだが、この書店の中は、なかなか広くて大きい。もともとオクスフォード発祥の書店チェーンで、大学都市出身であるせいか、若干アカデミックな感じの方面の書籍がとても充実している。極端に専門書ばかり集めるのではなく普通の本もたくさんあるが、こういう知的な品揃えの方向性がとても好感を持てる本屋さん。いいお店だと思う。ただし、ちょっと地味な感じかな。

第二位は「ウォーターストーンズ」(Waterstone's)のピカデリー店。ウォーターストーンズは全国のあちこちに店を構えるチェーン店で、そういう意味ではなんとなく期待のできない感じがしてしまうのだが、このピカデリー店は絶対に訪れるべきだろう。(というか、ウォーターストーンズはここだけ行けばいい。)これまたロンドンの「へそ」とでも言うべき中心地ピカデリー・サーカスからすぐのところに、この店はある。そして何といっても特色は広いこと。日本の大書店を見慣れてしまうと大したことがないようにも思えなくもないが、全部で六フロアーもあって、イギリスにはこんな大きな本屋さん、他にはない。もともとはシンプソンズという名前のデパートだった由緒ある建物で、内装も大変上品。なんとも優雅な大理石の階段が中にあるのだが、永年の使用で美しくすり減っているという、そんな味わいのある場所でもある。地下には「レッド・ルーム」という名前のレストラン(その名のとおり、赤色のインテリアだった)まであって、僕も確か一度食べに行ったが、おいしかった。本の品揃えについては、たくさんあるフロアーを埋めるくらいだから、満足できるレベル。僕の職場がすぐ近くだったせいもあるが、買い物した回数で言えば、僕はこの書店が一番多かったと思う。

本屋に行くとき、必ずしも一人で行くわけではない。自分だけ本をずっと探してて、連れはほたっらかし、というわけにもいかない。そういうときには、「ボーダーズ」(Borders)がいいかもしれない。言わずと知れたアメリカ有名ブックチェーンだが、店内が明るくてきれいで、CDなんかも売っていたりして、本屋さんであれこれ見て楽しく過ごす、なんていうときにはいいと思う。僕はチャリングクロス・ロードのボーダーズにときどき立ち寄った(オクスフォード・ストリートにもある)。それなりに大きくて、チャリングクロス・ロードでも一際目立っているお店だけれども、品揃えは普通。あまり専門的なものは無さそう。

ロンドンの本屋さんを紹介するとき、きっと「フォイルズ」と「ハッチャーズ」は忘れてはいけないのだろう。でも実際に買い物をするかというと、ちょっと微妙なのだ。どちらかというと、観光気分でこの二店は見に行けばいいと思う。

まず、フォイルズ(Foyle's)だが、この店もまたチャリングクロス・ロードにある。支店を持たずに、頑固にここだけで商売をしている書店。ウォーターズトーンズのピカデリー店ができる前は、ここが一番面積の広い本屋さんだった。在庫のタイトル数もかなり多い。実際、ロンドンの名物書店で、昔ながらの感じがするお店。でも、なぜお勧めの一位になれないのか。まず、店内がなんだかちょっとごちゃごちゃしている。迷路みたいで、慣れないとあの店内で本を探すのは難しそうだ。また、なんとなく暗くてきれいじゃない感じも良くない。近くにある「ボーダーズ」と比較すればわかるが、やっぱりお店はきれいで明るいほうがいいと思う。本屋さんにこういう清潔感は別に求められないかもしれないが、古本屋さんじゃないのだから、多少はこういう方面での配慮も必要かと。でもまあ、一見の価値はある本屋さんであるのは確か。ちなみに、英語学習書関係の充実は有名らしく、この日記ブログの1月11日に紹介した参考書は、だいたいすべてフォイルズで買ったもの。

ハッチャーズ(Hatchards)は、1797年創業という、おそらく一番由緒正しい本屋さん。大通りのピカデリーに面していて、フォートナム・アンド・メイソンの隣にある。古風な店構えには、看板に王室御用達のマーク(Royal Warrantと呼ぶ)が掲げてられていて、その格式の高さを裏付けている。こんな店だが、勤務先の近くにあったにもかかわらず、一度も入ったことがない。理由は簡単。同じピカデリーにあるウォーターストーンズのほうに行ってしまうから。どちらが使いやすいかといえば、誰もがウォーターストーンズのほうを挙げるのではないだろうか。

最後にちょっと変わったお店として、地図専門の書店「スタンフォーズ」(Stanfords)を紹介しておきたい。チャリングクロス・ロードのレスター・スクエア駅とコヴェント・ガーデンとを結んでいる「ロング・エイカー」という、これまた賑やかな通りにある(「Long Acre」と綴る・・・最初はなんと発音するんだろうと思った)。個人的には地図を眺めるが好きなので、この店にも何度も足を運んだ。今、家にある大きく広げて見るタイプのイギリスの地図はここで買ったもの。地図だけではなく、地球儀とか旅行ガイドもたくさん売っていて、中を見て回るだけでも面白いお店。

思い出しながらこんなふうに書いていると、なんだかロンドンに行きたくなってきた。以下は各書店のサイト:

■ブラックウェルズ:www.bookshop.blackwell.co.uk

■フォイルズ:www.foyles.co.uk

■ハッチャーズ:www.hatchards.co.uk

■スタンフォーズ:www.stanfords.co.uk

以下の書店のサイトはアマゾンと共同になっている。恐るべきアマゾンの攻勢。というかちょっと目障り。

■ボーダーズ:www.borders.co.uk

■ウォーターストーンズ:www.waterstones.co.uk

今、こんなふうに各書店のサイトを見比べてわかったのだが、カズオ・イシグロの小説『Never Let Me Go』(ペイパーバック版)が売れ行きランキングの上位に入っている(本日現在)。ウォーターストーンズだと1位。ブラックウェルズだと4位。フォイルズだと6位。きっとおもしろいに違いない。あと、ブラックウェルズで1位になっているロジャー・ペンローズの本には興味を引かれる(ただし、英語で読むのは僕には難儀そうだが)。というか、この人の本が1位になるとは・・・。ブラックウェルズの顧客層がわかるというもの。

デイヴィッド・ホックニー

2006-03-19 13:27:46 | 日々のこと
ロンドンの中心、コヴェント・ガーデン広場には、主に観光客相手のマーケットがあって、週末はもちろん、平日でもけっこう賑わっている。いろいろお店が出ていて、ぐるっと見て回るだけでもなかなか楽しい。

その広場の片隅に、イギリスで一番敷居の高い(と、僕は感じる)オペラ劇場、ロイヤルオペラハウスの入り口がある。1999年にリニューアルオープンしたばかりなので、この手の建物としてはとても新しく美しい。入ってみればわかるが、そのチケット代金にふさわしく(・・・とは言っても、東京の法外なチケット料金に比べればリーズナブル)、かなり高級で洗練された劇場だ。ロンドンはいろいろな側面を持つ都市だけれども、上品で、文化的で、ちょっとスノッブな雰囲気を味わいたいのならば、このロイヤルオペラハウスに出向いてオペラやバレーの公演を楽しむのも一つの方法だろう。

こういうニュアンスでご理解いただけると思うが、この劇場は、どちらかというとエスタブリッシュたちが集う保守的な場所だ。1999年という、ごく最近に全面改装されたにもかかわらず、外観、内装にはほとんど前衛的なところがなく、奇をてらったようなところがない。シンプルにクラシックに美しく仕上がっている。でも、こういうコンサバティブな場所で、僕はデイヴィッド・ホックニー(David Hockney)の絵を見つけた。

それはたしか、上のほうの階のホワイエだったと思う。幕間の休憩時間に、座って疲れた足を伸ばしたり、軽く飲んだり食べたりする場所。演技がどうだったとか、なんだかんだおしゃべりする場所でもある。そのホワイエの壁に、ホックニーの油絵がさりげなく飾られていた。オペラ劇場という、こういう保守的な場所には、ターナーとかコンスタブルとか、いかにもクラシックな作品を飾るのが一番似合うような感じがするものだ。でもそこには、ホックニーという現代アーティストの作品が選ばれていて、実際とても雰囲気にマッチしていた。

僕はホックニーの絵に出合うたびに、いつもいいなあと思う。好きな作家の一人だから。色鮮やかな画風もあって、ちょっとポップで軽薄なアーティストだと思われがちだが、それはそれで彼らしくていい。僕の好みは1960年代初めのころの暗くて、ちょっと殺伐としているような、とんがっている頃の作品で、これらには特別に惹かれるものがある。その後ロサンゼルスに移住してから、画風が明るくシンプルに変化するが(1970年代半ばくらいまでの作品)、これもまたとてもいい。ロイヤルオペラハウスに飾られていたのも、この頃の作品だと思う。

イングランド北部ブラッドフォード出身の彼も、今や誰もが認める世界的巨匠の一人。そういう意味では、ホックニーは十分エスタブリッシュだし、彼の作品がイギリス最高級の劇場で、ホワイエの壁面に掲げられるのは、もはや違和感ないとも言える。実際、ホックニーが舞台美術を手がけたことも過去に何回かあるので、そういうつながりもあるのだろう。ただこのように、古くて伝統のあるものと、新しくて良いものを、さりげなく融合させるのがイギリス人はなかなか上手い。古くなった発電所の建物をそのまま生かして、現代芸術の美術館にしたり(テイト・モダン美術館)、19世紀につくられた国会議事堂(House of Parliament・・・「House」は日本語の「ハウス」の語感とはちょっと違う)の向かいに、でっかい観覧車を作ってみたり(ロンドン・アイ)。オペラハウスの中のホックニーの作品も、そんな一例に思える。

ホックニーは1937年生まれ。僕が「いいなあ」と感じる彼の作品は、主に1960年代初頭から70年代半ばにかけて制作されたもの。ということは、彼が20歳代前半から40歳くらいまでの間に作られたものということだ。これはつまり、ちょうど現在の自分と同じ年齢の頃ということ。僕は自分自身をホックニーのような天才と同一視するつもりは、もちろん、毛頭無い。でも感じてしまうことがある。それは、自分がささいなことであれ何をするにせよ、今この現在という時間が、感性的にはかけがえのない貴重なものだということ。

■テイト・モダン美術館(ホックニーの作品を鑑賞できるところ):
http://www.tate.org.uk/modern/

■東京都現代美術館(日本でホックニーを鑑賞するなら):
http://www.mot-art-museum.jp/

■ロイヤルオペラハウス
http://www.royalopera.org/

突然放たれた鳥のように

2006-03-17 01:32:13 | 日々のこと
せっかくこのブログに来ていただいた奇特な方には申し訳ないのだけれども、今晩はもうあまり元気もない。深夜一時。明日もまた普通に早起き(朝六時半←そんなに早くはないか・・・)。ただ、あまりブログを放置してしまってもなあと思うので、最近の心境を少しばかり。

朝八時には家を出て、夜十時半くらいに帰宅するのが僕の一般的な一日。サラリーマンとしては、まあ、普通だろう。この十四時間半は、通勤時間も含まれてはいるが、仕事に振り充てられた時間ということになる。一日の半分以上を割いているのだから、何か書こうとしても考えつく話題は、おのずと仕事の話になってしまう傾向がある。

上司が新しく変わったことはどこかで書いた。以前の上司は「あれをしてください」「これをしてください」などなど、指令の数がものすごく多くて大変だった。それをひとつひとつ実行していくのが僕の役割で、もちろん全てを僕自身でこなせるわけはないから、後輩たちにも仕事を分担させていく。といっても、その分担も、僕はちゃんと上司にお伺いを立てて、了承を得てから進めていた。

ところが新しい上司は、ご自分自身の仕事のことで忙殺されており(成果主義なので、とりあえず個人プレーで結果を出してみたいらしい)、僕たちの所属する部署の瑣末な事象にはまったく関与してこない。というか、職場の滞在時間がものすごく短いのだ(成果主義なので、結果が出せれば別に職場に出勤しなくても、まあ良いのだろう)。上司は不在がち・・・その結果、僕は突然、あれやこれやの物事を判断する立場になってしまった。

以前だったら絶対自分では決めなかったような事柄を、つまり、必ず上司の意向を確認していたことを、僕自身で決める必要に迫られている。たとえば仕事の分担のこと。どんなに公平にとは思っても、実際には完全に仕事量を平等にはできない。でも、これを決めなくては仕事は動かない。上司に決めてもらいたくても上司は不在。次席の責任者は僕。しょうがないから、もう僕自身でみんな決めてしまうことにした。

こういう立場になってみて初めてわかったのだけれども、ある意味どうでもいいような瑣末なことも、誰かが決めていかなくてはならないことが多い。みんな「どうしましょうか」と尋ねてくる。僕はそれに答えなくてならない。「所属長の認印が必要」と書いてある社内書類も、差し支えなさそうなものは、上司の到着を待っていられないから、僕が自分のはんこを代理として押してしまう。全社的な告知事項も、本来なら責任者から説明・発表をお願いしたいのだが、朝礼・夕礼時にご不在なので、面倒だけれども僕が説明してしまう。

クレームが発生しても僕自身で解決の方策を決めてしまう。クレームなのだ、「責任者に確認してから・・・」などと悠長なことは言ってられない。上司には後で話せるタイミングがあるときに内容を報告するくらい。

こんな日々が始まって気がついた。人から指示されるというのは、なんと簡単なことだったのだろう、ということを。上司の意向を伺うというのは、結局、僕の責任逃れだったのだ。「私は指示されたとおりに仕事をしただけですから」という言い訳ができたのだから。「どうしますか」と意向を尋ね、「こうして」と言われたことを、言われたとおりにこなしていく、僕はそういう仕事をしていた。もちろん、こんな極端に機械的なやりかたではなかったが、突き詰めればそういうことだった。言われたとおりにするのは楽なのだ。

そして今、判断を下し、決定する人がいなくなった。確かに僕は最終的な責任者ではないけれども、実際のところ、いろいろな責任が僕に生じている・・・この組織がうまくいくかどうか、仕事分担はうまく回るかどうか、僕の押したはんこが、ちゃんと通用するかどうか。今までは、オリの中で言われたとおりにして、おとなしくいい子にしていればよかった。飼われた鳥のように。ところがオリの扉は突然開け放たれて、僕は自力で飛ばなくてはならなくなった。どこに向かって飛べばいいのか・・・そう、どこでもいいのだ、良いと思う方角を自分で定めながら。

話題の人

2006-03-11 11:01:09 | 日々のこと
別にこんなところで書くまでもないことだが、最近話題の人を実際に見かける機会があったので。

これはつまり、あの荒川静香さんで、テレビで拝見する風貌同様にきれいな感じの人だった。よく有名人には、テレビで見る印象と実物とが違うなんてことが結構あるものだが、今回はそんなことはなかった。あのままの印象と思っていただいて正しい。誰もが口をそろえて「きれいだね」と言っていた。

僕がとくに気になったことがあったのだが、それは彼女が人前ではずっと微笑んでいるという点。彼女はそれなりの時間その場に滞在していたが、けっして笑みを絶やさなかった。これだけあれこれ騒がれて、ストレスがたまることも多いだろうと想像するが、果たして微笑んでばかりで大丈夫なのかなと思ってしまう(余計なお世話だとは思うが)。こういうふうに機会のあるたびに大勢の人の前に現れること自体が、今や彼女の仕事のひとつになっているのだろう。荒川選手の存在自体でみんなが喜ぶ。だから、皇室の人々同様、彼女にとっても笑顔が重要な商売道具であるのは確かだ。

僕も接客の仕事をするので、笑顔が重要な商売道具ではあるが、あれをずっと続けるのは大変だ。みなさんも試しにやってみるといいと思う。だんだん顔がひきつって、無理して笑顔を作っている状態になっていく。僕も無理してることを自覚しながらお客さんと話していることが、往々にしてある。そんなときは口元は笑顔でも、目が笑っていないはずだ。もちろんこれではよろしくないので、そういうときは休憩するとか、気分転換をして、心から気分良く話ができるようにしないといけない。

なんといっても、オリンピックの金メダリストなのだ。みんな好意的に彼女を見ているし、そして彼女ほうもそれに応える必要、つまり、みんなから好かれるように振舞う必要がある。だから、あんなふうに笑顔を絶やさずにいるのだろう。でも、万人から好かれるなんて無理なことだ。そして、荒川選手にだって好き嫌いがある。何にでも笑顔というわけにはいくまい。心から笑える楽しいこともあれば、うんざりしてしまうこともあるはず。そういう心境の表出も、たまにはあってもいいかもしれないと思うのだが。

『日々の非常口』

2006-03-09 23:19:43 | 日々のこと
朝日新聞の木曜日の夕刊には、アメリカ出身の詩人、アーサー・ビナードさんによるコラム『日々の非常口』が掲載されている。朝日新聞には、朝刊も含めると他にもいろいろなコラムがあって、たとえば丸谷才一のもの(月に一回)とか、三谷幸喜のもの(週一回)とかもおもしろいけど、個人的にはこの『日々の非常口』が一番すぐれていると思う。

何がすぐれている点なのか。平たく言えば、「おもしろくて、ためになる」というところか。そして時事問題への言及も頻繁にあって、そういうところはなかなか鋭い指摘もする。また、ご本人が詩人だけに「ことば」へのこだわりが随所に出てきて、そのあたりも興味深い。たとえば、今日の夕刊に載ったコラムだと、「満載喫水線」という言葉からストーリーは始まる。この言葉、英語だと「Plimsoll line」となるが、この「Plimsoll」って一体何だろう、ということを紹介してくれるのだ。それもただ紹介するだけだと、普通の英語コラムになってしまうけど、ちゃんと時事問題に話を収斂させている。いつも思うのだが、ぜんぜん関係のない英単語の話がちゃんと時事問題への言及にまとまってしまう、このビナードさんのテクニックはなかなかのものだ。

いつだったか、しばらく前のことだけど、英語の「数」の単語には普通に一、二、三、と数えていくものだけではなく、日本語には見られない特殊なものがあることを紹介している回があった。特殊な数の単語と言われて思いつくのは、十二を表す「dozen(ダース)」とか、二週間を表す「fortnight」とかだけれども、このとき紹介されていたのは「score」。今ではあまり使う人はいないが、これは二十という数を意味している。(もちろん、「得点」という意味のほうでは今でも普通に使われる。)リンカーンのあまりにも有名な演説「ゲティスバーグ演説」は、「87年前、われわれの祖先はこの大陸に渡り・・・」というふうに始まるが、この冒頭の「87年前」は原文だと、「Four score and seven years ago」なのだ。間違っても「Eighty-seven years ago」ではない。

この「score」が、どのように時事ネタと結びつくのか、わかるだろうか。そう、「フランス語ではまともに数を勘定できないから国際語として失格」と語った、あの東京都知事の話にからんでくる。都知事が言うには、フランス語では91を「4つの20と11(4x20+11)」というふうに表現するが、こういうのは「やっぱり困るんじゃないの」という考え方だったのだ。でも、国際語の英語にだって、歴史的には20を一つのまとまりとして数える方法もあるのだ。ビナードさんが指摘していたのは、だいたいこんなところ。

さて、今日の夕刊の「Plimsoll」だけど、これは19世紀のイギリス人、サミュエル・プリムソルに由来する、とのこと。彼は当時の貨物船に横行していた過積載を止めさせるため、国会議員になり、そのための法律「商船法」を成立させた。当時、利益の追求ばかりを狙った貨物の積み過ぎは、往々にして海難事故の原因ともなり、多くの船員たちの命が失われた。満載喫水線「プリムソル・ライン」は、こうした人命軽視の態度を見るに見かねて命がけで規制強化の活動した彼の名前にちなむ。

で、この話がどのように時事問題の話題とつながっていくのか。ビナードさんは続ける:
「『規制緩和』という日本語は、なんとなく優しく響く。まるでその先に、いろいろいいことが待っているみたいな明るい雰囲気だ。しかし、規制が緩められた社会では、一般市民が危険にさらされ、犠牲になる実態もある。プリムソル氏の規制強化で、どれほどの人命が救われたことか」

この意見に賛成か反対かという点については、読者それぞれに意見があっていいと思う。僕がいつも感心してしまうのは、このように広い知識に裏付けられた、ビナードさんの優雅な主張の展開のしかたにある。知的興味で引き寄せながら読ませる書きかたで、うまいなあ、と毎回感じている。

スーパーチラシの美的検証

2006-03-08 12:03:28 | 日々のこと
我が家の周辺はスーパー激戦区なのだろうか。毎朝の新聞にはスーパーのチラシ広告がいくつも挟まれている。比較的郊外で自動車を持っている人も多いせいか、電車ではわざわざ行かないようなところのもある。いくつ入ってくるだろう・・・マルエツ、ハローマート、ベルクス、サミット、ダイエー、イトーヨーカドー、Dマート、いなげや・・・すぐに思いつくだけでも八つはある。どこに住んでも、このくらいは普通なのだろうか。ちなみに、僕が普段買い物で使うのは、このうち、最初の二つだけだ。

比較的自分で料理をするのでスーパー利用頻度は高いのだが、このたくさんのチラシをじっくり比較検討して、どこが最安値か情報収集に努める・・・なんてことはしない。毎日これだけの商品情報が提供されて、研究材料は十分すぎるくらい揃っているのだが、あいにく、そういうプロ主婦レベルには達していない。修行が足りないのか、そんなヒマはないのか。むしろ僕が楽しむのは、その広告のデザインのほうだ。

いつも割合こぎれいなチラシ紙面を作ってくるのはイトーヨーカドー。ちなみに、僕がきれいと感じるポイントは、①上品な色使い、②余白が多いこと、③金額の数字が小さいこと、の三点。これら三つの要素を完全に遂行すると、一ランク上がって、デパートのチラシになる。イトーヨーカドーのチラシは、この三点の達成度が他社に比べ高い。かなり美しく見える。こういう上質なイメージを企業イメージにしたいと考えているのだろう。反面、安い!とか、お買い得!というインパクトに欠けてしまうのも確か。上品に構えていて、元気がないように思えなくもない。

イトーヨーカドーのチラシの美的検証として、ぜひ取り上げなくてはならないのは、あの大変なじみある鳥マークから、セブンイレブンみたいな、奇妙な7とIのロゴマークが、最近幅を利かせてチラシ前面に出ていること。これはよろしくないと思う。大減点だ。なぜか。まず、見た目が美しくない。衣類も扱っているのだから、ああいうセンスの無いマークを使う会社は、その商品もセンスレスに思えていしまう。さらに僕は、いいですか、とイトーヨーカドーに言いたい。みなさんは生活の支える上質なスーパーであって、コンビニエンスストアとは違うんですよ。それなのに、あんなコンビニじみた軽薄なロゴマークを使っていいんですか、と。

会社のマークが変わったといえば、ダイエー。去年から「ごはんがおいしくなるスーパー」と銘打って、新しいロゴになった。それに伴い、チラシのデザインも一新。それまでのコテコテのスーパーチラシから、イトーヨーカドーのような上品路線になった。ダイエーらしくないなあ、というくらい。しかし、今朝の朝刊の経済面にも載っていたが、今期のダイエーの収支は赤字転落とのこと。外見を目新しくしても、その効果は長続きしないといういい例だ。(スーパーに限らず、よく、リニューアルオープン、とか、店内新装記念、とか、そういう売り出しがなされるが、その「改装効果」は昨今ものすごく短命だ。せいぜい1、2ヶ月しか売上への効果がない、という話を聞いたことがある。)新聞でも指摘されていたが、ダイエーはさらに800人の従業員を出向させる計画だそうだが、こういう話は働く人のやる気をなくさせるだろうな、とも思う。

ぜんぜん買い物で使ったこともないのに(自宅からはちょっと離れたところにあるので)、毎回必ずチェックしてしまうのが、サミットのチラシ。理由は簡単、四コママンガが載っているのだ。それも素人のいい加減なマンガではない。プロ漫画家みつはしちかこさんによる『週刊アララさん』。朝日新聞を購読していた人なら、みんな日曜版に載っていた(1980年から2002年まで続いていた)、みつはしさんの『ハーイあっこです』を読んでいたはずだから、彼女の絵にはなじみがある。

サミットは大したものだなあと思うのだけど、まず第一に、貴重な紙面の一部を商品の宣伝ではなく、売上には直接繋がらないマンガに割いていること。もしマンガの部分がなければ、もっと商品を紹介できるはずなのだ。これは、利益のみ追求する態度ではできない立派なところ。もうひとつはもちろん、ちゃんとしたマンガ家の作品を載せていること。作品への報酬だってばかにならないはずだ。でも、こうした利益至上主義ではできない余裕ある方針のおかげで、僕のようなサミットで買い物をしない人まで、サミットのチラシを楽しみにしている。直接の儲けには繋がらなくても、会社の知名度を上げる効果は抜群に高い。

というわけで、毎週『アララさん』を楽しみに読んでいるのだが(普段マンガはぜんぜん読まないので、これと新聞の四コママンガだけが僕の楽しみ)、作家みつはしさんが、内容に苦慮している様子が伺えるのもおもしろい。つまり、スーパーの宣伝の内容といっしょだと、なんかグルになって宣伝しているみたいで、サミットのまわし者みたいになってしまう。かと言って、ぜんぜん関係ないことを書くのもおかしいし、ましてや、チラシの内容と矛盾することも書けない。たとえば、チラシ本体で「ファミリーパーティーの素材特集」をやっているのに、マンガでは、「ファミリーパーティーは退屈だ」みたいないことを書くわけにもいくまい。そのあたりの匙加減が、傍で見ていておもしろい。

いまどきのスーパーのチラシは、みんなインターネットで見られる。だから新聞を取っていなかったり、チラシを読まないで片付けてしまっても、後からチェックできるようになっている。ヒマな人は、こちらをどうぞ。イトーヨーカドー:http://www.itoyokado.co.jp/ ダイエー:http://www.daiei.co.jp/  サミット:http://www.summitstore.co.jp/←マンガも読めます。