A Diary

本と音楽についてのメモ

棄ててきた女

2007-03-30 23:43:15 | イギリスの小説
■若島正編 『棄ててきた女 アンソロジー/イギリス編』(異色作家短編集19 早川書房2007)

僕は持っていないのでわからないけど、「iPod」っていうのはきっと、どこかしらからかダウンロードした音楽を貯めこんで、持ち歩いて聴けるようにする機械なのだと思う。そして自分が好きだ、聴きたいと思った音楽だけを取り込めるのだから、自分専用の「ベスト・アルバム」が作れるということなのだろう。これって、考えてみたら、中学生のときなんかに、カセットテープに自分の好きな音楽だけを録音して集めたのと原理は一緒だ。

これを自分の好きな音楽ではなく、自分の好きな小説や詩を集めて一冊にまとめれば「アンソロジー」ということになる。もし商業的側面を度外視して(つまり、売れるとか儲かるとかを考慮せずに)、自分の好きな小説を集めてアンソロジーを作っていいよと言われたとしたら、あなたはどういうものを編集するだろうか。考えてみるとおもしろいかもしない。選ばれた作品を通して、編者という人間が浮かび上がってくる。集められた作品に選び出す側の興味関心が表れるのは当然として、人柄やいろいろな嗜好、さらには野心の有無とか、他人からどのように見られたいと思っているか、なんてことまでわかるような気がする。

たとえば極端な場合だけれども、「傑作」と賞賛されるような作品ばかりで構成されたアンソロジーがあったとしたら、それをよしとして選んだ編者もまた「傑作がわかる立派な人間」として認められたいという、意識的あるいは無意識的な意図があると想像する。とくに本の場合は音楽と異なり、iPodのように何千という、桁違いに大量の作品を取り込めるわけではない。好きなものを手当たり次第アンソロジーに組み入れるというわけにはいかない。だから選ばれて作品集として残ったものには、ただ「好きだ」以上の理由があると思われるわけで、アンソロジーを読むときは、このあたりの編者の取捨選択が興味深く感じられる。

さらに、選ばれた作品がどういう順番に並んでいるのかにも興味が沸く。年代順とかアルファベット順なら、面倒な類推はいらない。でもこの『棄ててきた女』みたいに、一見ランダムに配列されていると、うーん、と考え始めてしまう。これはコース料理がどのように出てくるかに似ている。前菜、メイン、デザート…勉強不足で三つしか思い浮かばないので、日本の会席料理のような、たくさんある名称のほうがいいかも…前菜、お吸物、刺身、煮物、焼き物、揚げ物、蒸し物、酢の物、ご飯、止め椀、香の物、水菓子…。じゃあ、冒頭のジョン・ウィンダムの「時間の縫い目」は前菜で、次のジェラルド・カーシュの「水よりも濃し」はお吸物なのかと言われると、なんだかよくわかならなくなってくるが、まあいい。

でも、食べ物との比喩はなかなか悪くない。仮にお弁当を食べているとして、あなたはおいしいものや好物を(僕だったらエビフライを)最後に食べるほうだろうか、それとも最初に食べてしまうほうだろうか。あるいは、頃合を見計らって、真ん中くらいに食べるのだろうか。つまり、『棄ててきた女』には十三編の作品が収録されているのだが、これらがみな同じように良い作品とは言えないだろう。編者にとっても、甲乙がきっとあるはず。そして、ベスト(つまりメインディッシュ)はどこにあるのか、一番最初だろうか。それとも一番最後? あるいは、真ん中くらいにさりげなく隠してあるのかもしれない。

アンソロジーのタイトルとなっている「棄ててきた女」は、十番目に登場するミュリエル・スパークの同名の短編から採られている。タイトルになっているのだから、これがベストなのだろうという見方もある。十番目という位置は、中間より後ろで、それでいてデザートになってしまうような順番でもなく、なかなかメインディッシュにふさわしい好位置であるとは思う。でも、世の中には先鋒、次鋒、中堅、副将、大将なんていう順番の決め方もあったりする。編者はもしかすると、柔道や剣道の団体戦のように、読者をコテンパンにやっつけてしまおうという意図かもしれないから、先鋒や次鋒あたりで討ち死にしないよう、心して読書するとよい。

* * * * *

実際のところ、僕にとっての「大将」レベルの作品は、後ろのほうになって登場してくる。十番目のミュリエル・スパーク、十一番目のウィリアム・トレヴァー、十二番目のアントニー・バージェス、この三人が僕はとくに好きだし、短編もなかなかおもしろかった。しかしこれはかなり個人的な色眼鏡を通しての判断であるのは間違いない。つまり、いわゆる「純文学」系の作家を「良いもの」とみなすように教育された(した)結果が反映してしまっている。このアンソロジー自体は、前菜、あるいは先鋒としてジョン・ウィンダムが据えられていることに象徴されるように、19世紀末から20世紀前半に生まれた作家による、娯楽文学と純文学の折衷のような体裁になっている。SFチックなものや、恐怖小説めいたものが好きな人なら、メインディッシュ、あるいは大将の位置づけは、僕とは大きく異なってくるだろう。 

あと、L.P.ハートリー(L.P.ハートレーとされることもある)の短編が含まれていることも注目したい。彼の作品が新たに日本語の活字になったのは、久しぶりではないかと思う(十年前後ぶりくらいか)。それにしても、ハートリーの短編はいつも「世界怪奇小説集」とか「幻想小説集」といったアンソロジーの一編として登場する。今回の「顔」という作品を含めると、少なくとも十編の彼の短編がこれまで翻訳されてきたわけで、これらを全部まとめれば十分に一冊の短編集として仕上がる。ハートリーのこんなアンソロジーを作ってくれる出版社はどこかにないのだろうか。確かにあんまり売れないとは思うけど。

ところで、今回の「異色作家短編集」には同じ編者による第18集として『狼の一族 アンソロジー/アメリカ編』というのと、第20集に『エソルド座の怪人 アンソロジー/世界編』がある。どちらもおもしろそうだけど、とくに第20集の世界編をそのうちに読んでみたい(編者若島氏のお気に入りらしいカブレラ=インファンテもちゃんと収録されている)。最近時々感じるのだけれども、英米の小説ばかり読んでいると、どうも視野が狭くなってしまうような気がする。単に飽きてきたせいか。ともかく、欧米の価値観が、全世界で諸手を挙げて賛成されるような、普遍的なものであるとは必ずしもみなされなくなっている現代、いろいろな地域のいろいろな人の小説を読むことには、それなりの意義があるだろう。

さらについでに言えば、「異色作家短編集」を刊行している早川書房は、今年から「ハヤカワepi〈ブック・プラネット〉」というシリーズを立ち上げていて、アルジェリア出身の作家ヤスミナ・カドラ(Yasmina Khadra)と、タイ系アメリカ人のラッタウット・ラープチャルーンサップ(Rattawut Lapcharoensap)の作品がこれまでに刊行された。「翻訳文学=欧米もの」という発想にとらわれない企画は素晴らしいと思う。ただし、両作家とも欧米で売れた実績のある人たちなので(ヤスミナ・カドラは国際的に評価されている作家、ラープチャルーンサップはまだ新人らしい)、今後どういう作家と作品が取り上げられていくのか、興味が尽きないところ。

人生いろいろ読み方いろいろ

2007-03-23 14:13:21 | その他の読書
■富山太佳夫『文化と精読 新しい文学入門』(名古屋大学出版会2003)

先日の新聞に、こんな記事が載っていた:


「人生ゲーム」も「脱お金」 米製造元、新版発売へ

 日本でも人気の「人生ゲーム」をつくる米ハズブロ社は、紙幣にかわっておもちゃのVISAカードで支払い、大金持ちになるかどうかではなく、人生の様々な達成感をポイントに変換して勝敗を決める「人生ゲーム 紆余曲折(うよきょくせつ)」を8月に発売すると発表した。「人生、山あり谷あり」から「人生いろいろ」への転回になりそうだ。
 ゲームは、カード支払いを読み取り、人生ポイントを蓄積して、サイコロの役も果たす機械「ライフポッド」を中心に展開する。おなじみのルーレット方式も変わることになる。参加者は「生きる=冒険」「愛する=家族」「学ぶ=大学」「稼ぐ=キャリア」の四つのコースに分かれて人生航路にこぎ出す。旅行に出かけることも冒険も、稼いだお金も人生ポイントに変換され、ポイントの多さで勝者が決まる。
 ハズブロ社のゲーム広報担当は「人生ゲームは実社会に合わせて変化してきた。今日のライフスタイルに合わせて支払いをカードにし、成功が必ずしもお金では測れないという価値観の多様化も考慮した」と話す。(朝日新聞3月21日)


価値観の多様化…もうかれこれ30年くらい前から唱えられているキーワードだと思うのだが、ついに「人生ゲーム」のルールまでもを変化させるに至った。もちろん実社会はもっと進んでいる。人生が成功と失敗という単純な二項対立で色分けできるなんて考える人は、もはや現代的なデリカシーに欠けていると思う。また「人生ポイント」を貯めるという点、つまり、何かしらの数量の多寡で優劣を競うという点も時代遅れだろう。エコロジーの概念が浸透した現在、嵩が少ないほど良いとされるものはたくさんある。力んで「人生航路にこぎ出す」のではなく、家でじっとしていたほうが、交通機関のCO2排出量を減らせるので地球環境保護には良いかもしれない。ただまあ、「人生ゲーム」はゲームだから勝者敗者を決める必要があるわけで、こういう現代的な価値観をそのまま直截的に反映させた「人生ゲーム」では、ゲームにならなくなってしまうのだろう。(そもそも「人生」はゲームなのか、ゲームたる対象としてふさわしいのか、という疑問につきあたる。)

社会がこんな具合なのだから、ある一冊の本があったとき、それを読む人の反応も多様化して当然なわけだ。「この本はこのように解釈しなければならない」とか、「この表現はこのように理解しなければならない」というような教条的・画一的な価値判断は存在しなくなっている。にもかかわらず、国語のテストで「傍線部Aについて、このときの主人公の気持ちをもっともよく表しているのは、次の①~④のうちのどれか」などという問題がいまだに出題されているのだろうと思うと不思議な感じがする。こうした問いでは、解答者は、作題者が解釈した「主人公の気持ち」を推測しなければならない。つまり厳密に言えば、作題者が誰で、どんな観点からテクスト解釈をする人なのか知らなければこの問いには答えられないはずだ。解答者はこうやって、知らず知らずのうちに、出題者の権威とイデオロギーに従わされていく。そして学校では「出題者」とは一体何者で、そしてそれがなぜ権威を持っているのか、説明してくれる先生など、どこにもいない。

「傍線部Aについて、このときの主人公の気持ちをもっともよく表しているのは、次のうちのどれか」という問題で、「作者の考える」この主人公の気持ち、というように「作者」に偽りの権威を背負い込ませて、それで問題を解かせようという場合もある。でも、作者が読者にテクストの読み方を縛る権限はどこにもない。これはもう何十年も前に、ロラン・バルト(「作者の死」)やミシェル・フーコー(「作者とは何か」)が提唱していることだったような気がする。

いずれにせよ、あるテクストを「こう読め」と読み方を強制してくることは、読者を権威やイデオロギーに盲目的に従わせてしまうことにつながる。多様な価値観を許容する現代にはふさわしくないだろう。読み方の強制は、国語のテストに限らず、テクストと相対する場所ではどこでも起こる事情のようで、今回読んだ『文化と精読』によれば、日本の英米文学研究にもこのあたりの事例はあるらしい:


わが国の英米文学研究の場で繰り返し言われてきたのは、理論や方法では文学はわからないということであった。理論で文学作品を切ってはならないという、少し考えてみれば意味不明の隠喩があたかも適切なアドヴァイスであるかのように通用してきたのである。それでは何が推奨されるのかと言えば、辞書を片手にして一語ずつ丹念に読むということであった。その結果として、一年かけてひとつの作品を読むという教育法が今でも各大学の英文科に堂々と生きのびていることは周知の事実であろう。私はこれが有効な読み方のひとつであることを否定するつもりはないが、あくまでもそれはひとつの読み方以上のものではない。問題はこのひとつの読み方にすぎないものを唯一至上の方法として強制するときに生ずる。それが外国語の作品を読む有効な方法のひとつであることは間違いないが、同時にそれは教える側の経験からくる優位性を保障するためのシステムともなってしまうのである。この最も確実にみえる読みの場は動きの取れない権力の場にもなってしまう。理論では文学がわからないという言い方は、文学を哲学や社会学や心理学から切り離してしまうだけではなくて、読みの場における権力の関係を固定するものとしても機能しているのだ。(pp.30-1)


教師対生徒という権力構造が発生やすい環境下で文学を勉強するのではなく、ただ気楽に気分転換として本を読む分には、別に何の理論も知らなくていいだろう。ところが、実際のところ、世の中はさまざまな情報に溢れている。小説を読むだけでなく、ノンフィクションの本を読み、新聞・雑誌を読み、メールを読む。テレビ・ラジオ・映画・インターネット…。それぞれが情報を伝達するテクストであって、もしかすると、画一的な権威・権力を情報受信者に暗に振りかざそうとしているかもしれない。そのとき、現代の批評理論の動向を感じ取り、多様な読み方と価値観の存在を知っておくことは、決して損にはならないと思う。そして、イギリス文学に興味がある人なら、この『文化と精読』は、本来文学の学生向けの本だけれども、この目的にはとても良さそうだ。少なくても僕にとってはとてもおもしろかった。

* * * * *

ただ単に「おもしろかった」では無責任かもしれないので(いつも無責任だけど)、とくに「なるほど」と思った箇所を簡単に書いてみたい。話は変わるけれども、<イギリス文学史>と言ったら、どういう内容が頭に浮かぶだろうか。古英語時代の『ベオウルフ』から始まり、チョーサーの『カンタベリー物語』を経てシェイクスピアの時代が来て…という、連綿とつらなる作品や思想の歴史が思い浮かぶと思う。でも、<イギリス文学史>という言葉をもう一度よく見てほしい。この単語は「イギリス文学という学問の歴史」という意味にもとれる。イギリス文学という学問は、いつ、どこから始まり、どのように発展してきたのか。実際のところ、学問としてのイギリス文学の歴史は短く、本格的に始まったのは、20世紀に入ってからだ。こういうふうに考えてみたとき、最初の意味での<イギリス文学史>はイギリス文学という学問の一分野であるから、二番目の意味の<イギリス文学史>はメタ・レベルでの歴史ということになる。

では、<イギリス小説成立史>だったらどうだろう。まずは、どの作品から小説というジャンルが成立したのか。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)からか。あるいはリチャードソンの『パメラ』(1740)から?…普通だったら、こういう作品を軸に、当時の社会的状況を踏まえながら考察していく。ところが、『文化と精読』の「最初は女」というエッセイに、ホーマー・オウベド・ブラウンという学者のユニークな見解が紹介されている。彼は小説の成立という事柄を追求すること自体をメタ・レベルから捉えなおす:


彼(ブラウン)が問おうとするのは、イギリスにおいて小説はいつ、どのようなかたちで成立したかということではなく、そのような問い自体がいつから可能になったかということである。小説の成立史を問うメタ・レベルの<理論的な>問い自体が歴史の中の特定の状況によって規定されるものだという認識が、そこにはある。……そもそも小説というジャンルの成立時点では、その枠組みが分節化されていない以上、小説というジャンルの内も外も区別できなかったはずであるのに、小説の成立史はのちに成立したジャンルによって選択された作品間の差異を論ずることによって、あたかも小説というジャンルの成立を論じたかのように錯覚してしまうことになる。(pp.165-6)


だからブラウンによれば、リチャードソンとかの18世紀半ばの散文物語は「このジャンルがみずからの制度としての歴史をあとから正当化しようとしたときにその先駆形態となる、より現代に近い文化の制度、文学の制度によって小説と名づけられることになる」(p.167)ということだ。つまり富山氏の言葉で要約すれば、「小説の成立、小説の起源とは……小説というジャンルが事後的に要求する神話」(p.166)なのだ。このように、小説とはどのように成立したのかという問いかけに対して、一歩下がり、その問いかけ自体の性質を考える発想、僕にとってはとてもおもしろいと思うのだけれども、どうだろう。つまらない?それに、こういうものの見方は何かと応用も利くはず。

赤い帽子をめぐって

2007-03-16 14:12:52 | イギリスの小説
■ジョン・ベイリー 『赤い帽子』 (高津昌宏訳、南雲堂フェニックス2007)
〔John Bayley The Red Hat 1997〕

フェルメールの絵を実際に観たことがあるだろうか。かつてロンドンで行われた「フェルメールとデルフト派展」に行き、僕は初めて彼の作品に遭遇したのだが、そのときの第一印象は、なんといっても「絵が小さい」ということ。一メートル四方くらいのキャンバスに描かれているものもあったが、例えばあの有名な『牛乳を注ぐ女』なんて、50センチメートル四方もない。どの作品も、こんな小さなキャンバスに細かく精密に描かれている。そして会場ではそれをじっくり鑑賞しようと、狭いスペースに人が多く群がり、人口密度が異様に高まってしまう。混んでいるところに巻き込まれるのは常に遠慮したい僕としては、せっかくのフェルメール鑑賞も、なかなかの難行苦行となってしまった。世界に三十数点しか残っていない作品のうち、十三点も集めた記念すべき展覧会だったそうだが、五年以上経過した現在、もはや鑑賞した記憶もかなり薄らいできている。

この「フェルメールとデルフト派展」の会場には、『赤い帽子の女』という絵もあったはずだ…といっても、僕ははっきり覚えていないのだが、記録を調べるとそういうことになっている。大きさは22.8x18センチメートルというとても小さな肖像画。フェルメールの真筆かどうか疑問の声も多いらしく、そういうことを知っていれば、もっと僕もしげしげと、人ごみに負けずに鑑賞しただろう。そして、この一枚の小さな絵から、ジョン・ベイリーはひとつの中篇小説を作り上げた。これが『赤い帽子』という作品。(ただし、ジョン・ベイリーのこの小説の発表は1997年。ロンドンのナショナル・ギャラリーでのフェルメール展は2001年。)

作者のジョン・ベイリーだが、僕にとっては(そして多くの人にとってもそうだと思うけれど)なんといっても、あのアイリス・マードックのご主人ということで名高い。彼女との結婚生活と、彼女が侵されたアルツハイマー病の経緯を描いた回想記は有名だし(邦訳あり)、その映画版である『アイリス』はもっと有名。ジム・ブロードベントが演じた、あの優しいけれど、かなり無器用そうなジョン・ベイリー像が印象に残っている。こんな具合で、マードックのご主人というイメージばかりが先行するが、彼は長らくオクスフォードで英文学の先生をしていた文芸批評家。最近の批評の本などではあまり登場してこないけど、一昔前、たとえば、バーナード・バーゴンジーの戦後英文学についての名著『The Situation of the Novel』(1970)を読むと、ベイリーの名がたくさん言及されている。

文芸評論家としても名高い大学の先生が、小説も書くというパターン…ぱっと思いつくだけでも、マルカム・ブラドベリとか、デイヴィッド・ロッジがいる。この二人の小説はなかなか面白いし、そして立場上、作品も創作技法にかなり意識的だ。ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』なんて、明らかに大学の先生が面白おかしく作った(ただし真面目な顔つきを装っている)という感じだし、ロッジの本も、とくに以前の作品には、文学を研究している人々がよく登場する。では、ジョン・ベイリーの『赤い帽子』は果たしてどんな小説なのか。

* * * * *

この本は第一部と第二部からなり、第一部ではナンシーという主人公が友人たちと一緒にオランダのハーグを訪れ、フェルメールの絵を観に出かけた顛末が語られる。第二部では、ナンシーによるハーグでの奇妙な体験談に興味を持ったローランドという男性が、ナンシーを南仏の小さな村まで追いかけ、そこでまた不思議な事件が発生するというストーリー。第一部はナンシーによって、第二部はローランドによって語られ、どうやら、彼らは必ずしも真実を述べていないようだが(彼ら自身が真実を把握していないようでもある)、読者は彼らの言葉からしか物語を知ることができない。いわゆる「信用できない語り手」というパターン。

とくに第一部でのナンシーの語りがとても不思議に感じられる。ナンシーはハーグで「浅黒く、ハンサムな男」(名前はわからない)に夢中になってしまい、その男が勝手にホテルの自室に入ってきても騒がないし、なんと彼に首を絞められ殺されそうになっても、このような感じだったりする:

「彼が実際やっていたことは、わたしの首を愛撫し、まさに快感が得られるように適切な箇所を締め上げることだった。わたしは気を失いつつも、天にも昇る気持ちだった。彼にもそれがわかっていたに違いない。おそらく十分な経験があったのだろう。わたしは極めて自然に呼吸し、呼吸しながら体に当たっている彼の厚い胸を感じ、まさに眠りに落ちるときの気分だった。真の『愛=死』だった」(p132)

首を絞められて快感というのは、いったいどういうことなんだろう、苦しくなるはずなのに…こういうふうに疑問を感じるのが普通の読み方だと思う。つまり、首を絞められて快感を得ているナンシーが、普通の人とはちょっと違って異常な状態にあるということだ。だから、彼女の言うことがあんまり信用できなくなる。また、この引用でも「に違いない」とか「おそらく…だろう」という言葉が使われているとおり、ナンシー以外の事柄でも、彼女自身の類推・観察でのみ表現されているわけで、作者ベイリーが読者に与える情報はかなり限られている。

『赤い帽子』を最後まで読んでも「それで、本当のところはどういうこと?」という疑問には、結局ベイリーは答えてくれていない。ナンシーと謎の男の関係はわからずじまい。むしろ、それまでオランダとフランスを舞台としていたところに、今度はナンシーがロンドンに現れるらしいぞ、という新たな展開を予感させるところで物語が終わる。日本で読書しているとわかりづらいが、これはイギリス本国の読者にとっては、ナンシーと謎の男のミステリーがイギリスにも忍び込んでくるぞ、と突然現実味を帯びさせている終わらせかた。幽霊小説とかで「この霊は、じつはあなたの身の回りにも今度現れるかもしれません」というふうに終わらせているのと一緒の技法だろう。

いずれにしても、謎を多く残したまま物語は終わる。そういえば、フェルメールの『赤い帽子の女』も、本当にフェルメールの手によるものなのか、謎が残っている。また、この絵に描かれた人物像が、果たして女性なのか、それとも女装した少年なのか、これも判然としない。さらに、研究者がこの絵にX線を照射して観察してみると、上下さかさまになった男性の肖像画が現れてきたそうだ。

* * * * *

「愛=死」なんて書いてある部分を引用したので、『赤い帽子』がなんとも奥深い文学であることを想像されたかたもいるかもしれないが、この本は実際のところかなり気軽に読める。同じ「愛と死」でもワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』みたいな、深遠な世界を連想してはいけない。一気に読めばそれほど時間もかからない、かなり軽めの本。なので、正直言うと、ちょっと価格が高いかもしれないと感じてしまった(2,940円)。ジョン・ベイリーのファンにとっては、この値段でも読む価値があるのだろうけれど、果たしてそういうマニアックな人は日本にどのくらいいるのだろう。

B.S.ジョンソンを朗読する

2007-03-02 14:31:15 | イギリスの小説
■B.S.ジョンソン『老人ホーム――一夜のコメディ』(青木純子訳、東京創元社2000)
〔B.S.Johnson House Mother Normal (1971)〕

かつてまだ中学生の頃、この年頃にはありがちだけれども、僕は部屋にあったラジオを一生懸命聴くようになり、なかでもNHKFMの熱心な愛聴者になった。NHKFMということはすなわち、クラシック音楽を主に聴いていたということだが、これとは別に、毎晩夜11時前に放送される連続ラジオドラマ「青春アドベンチャー」も楽しみにしていた。あと、週末に放送されるラジオドラマ「FMシアター」もよく聴いていた(両方とも現在でも放送されている番組)。当時からテレビではあまりドラマを観なかったが、ラジオのドラマは別で、受験だとか何やらの理由で自ら聴取を禁じるまでは、かなり定期的に聴いていたと思う。

耳で物語を聞くという作業は、テレビや映画を観るよりも、本を読むという行為に近いところがある。つまり、想像力が刺激される点だ。登場人物の容姿や、ストーリーに登場する舞台背景は、限られた言葉や音から、読者、あるいは聴取者が自らイメージをふくらませていく楽しみがある。ただこれは、視覚的な伝達がない分、ストーリーを理解するのが大変という意味でもある。テレビや映画はヴィジュアル表現にかなり助けられているので、どういうストーリーなのか理解が容易だ。本やラジオドラマは読者、あるいはリスナーへの負担が大きく、逆にテレビや映画は、誰にとっても安易に楽しめる。人間は情報の多くを聴覚よりも視覚から取り込んでいることもあり、この点が、テレビが普及した最大の要因なのかもしれない。

中学生や高校生の頃が過ぎると、NHKFMのラジオドラマとはすっかり疎遠になってしまった。最近はぜんぜん聴いていない。ただし、先日BBCのRadio4で「ジキルとハイド」のラジオドラマを聴いた。というか、インターネットラジオをつけっぱなしにして、別のことをしながら聴いていた。当然英語だし、よくわからないところも多々あるのだが、元の話を知っているので、まあ普通に楽しめた。「ジキルとハイド」は週末の特別番組だったが、Radio4には超有名な連続ラジオドラマ「The Archers」(みんなあのテーマ音楽を知っている)を筆頭に、こんな具合で、しょっちゅうラジオドラマをやっている。本や詩の朗読の番組も多い。もちろんRadio4が「Intelligent speech」のチャンネルで、音楽は基本的に流さないせいでもあるが、それにしても、イギリスにおける「ストーリーを耳で楽しむ」文化の度合いは、日本より圧倒的に高い。

例えば、いわゆる「オーディオブック」というものを考えてみると、日本では、夏目漱石や芥川龍之介といった広く親しまれている古典作家のオーディオ版(CDやカセットテープ)というのは、きっとどこかにはあるのだろうけど、僕は見かけたことがない。でも、ディケンズやオースティンのオーディオ版というのは、イギリスでは大きな本屋さんだと普通に売っている。試しにアマゾンのUK版で検索みれば、こういう古典作家の作品だと、ほとんどがCD版も入手できることがわかる。

テレビがない時代だったら、人間の声だけで物語を楽しむ文化は当たり前だったのだろう。イギリスの19世紀の小説を読んでいると、夜のくつろぎのひととき、家族の誰かが本を朗読している場面がよく登場する。そしてこんな朗読を楽しむ文化は、きっと以前の日本にもあったはずだ。『平家物語』は琵琶法師の弾き語りだったのだから。ただ、テレビや映画が普及する時代になり、どういう理由かはわからないが、日本ではラジオドラマとか朗読とかがそれほど一般的でないのに対し、イギリスではこの「聴いて楽しむ」文化が今でも根強く定着している。

* * * * *

ということで、B.S.ジョンソンの『老人ホーム』を僕がみなさんのために、朗読して差し上げましょう!…と意気込み、がんばってみたところで、この企画はきっと失敗するに違いない。普段の会話及びカラオケを考慮すると、僕の音声表現力には確かに限界があると思われるので、なんだったら有名な声優さんを起用してもいい。でも、きっとうまくいかないだろう。『老人ホーム』という作品は、もちろん言葉がつづられているから、これを声に出して読むという点では朗読は可能だ。僕でもできる。でも、この非常にユニークな作品の、ユニークたらしめている部分を、音声だけで伝えるのは、かなり困難、というか、無理だと思う。

この困難の原因は、B.S.ジョンソンが『老人ホーム』では言葉だけではなくて、視覚にも訴える書き方をしているせいだ。つまり、声だけでは伝えられない部分がある点に、この本が朗読では表現できない理由がある。ページを開けばわかるが、一般的な小説だと文字がぎっしり並んでいるところを、『老人ホーム』では一見詩のような、不思議な改行のなされた配置になっている。太文字は実際に登場人物が声に出した言葉、平常の書体は頭の中の思考を表している。そして、読み進むにつれて、ページに印刷された文字数はどんどん少なくなっていく。つまり、これは登場人物の思考が減少していくことを意味している。最終的には、思考の停止を表す白紙のページまでもが現れてしまう。

さらに興味深いのは、この本には各章に一人ずつ、八人の老人と一人の寮母が登場するのだが、それぞれに割り振れらた各章のページが三十ページで揃えられていて、さらに、その三十ページが時間的に重なり合うようにできあがっているところ。つまり、例えばセーラという老人の十ページ目は、他の全ての登場人物についての各章の十ページ目と時間的に一致している。こういう構成なので、最初は意味不明な部分であっても、最後の登場人物の章まで読み進めれば、内容がかなり理解できるようになっている。

確かに朗読できないことはあるまい…でも、白紙のページが続く部分は、どうしたらいいのか。僕はずっと黙っていればいいのだろうか。あと、思考が散漫になり、印刷された文字が、ページ中を飛び散っているような箇所は、どのように音声で表現したらよいのか。それに、ページをめくるというのは、本を読むときだけの作業だ。音読するときは「ページをめくります」なんていちいち言わない。でも、『老人ホーム』は、そのとき何ページ目を読んでいるのか、これを意識することが楽しむために必須となってくる。「誰それの何ページ目を読んでいます」という具合に、本文に書かれた言葉以外のことまで説明しなくてはいけないわけだが、果たしてそういう「注」の施された朗読を楽しめるのかどうか、はなはだ疑わしい。

『老人ホーム』は、このようにかなり独創的な作品だ。印刷された文字がルールどおりに配列されていて、それを順番に読み進んでいけばOKというような、一般的な小説とはかなり異なる。印刷された文字はルールどおりには配列されていないので、まずその配列の意味から考えていかなくてはならない。そして、この本の最後には、登場人物自らが、小説のルールを踏み外す行為に出る:


      さて、この辺で、わたしもそろそろ
決まり事の枠組みから外れることにいたしましょうか。各人三十ページに
割り振られた世界から。もうおわかりかと思いますが、わたしもまた
作者の操り人形というか、でっち上げの存在で(常に背後にちらつく作者の影に
気づいていらしたでしょ? あら、読者のみなさんをだまそうなんて
不可能ですもの!)、 (p298)


こんなふうに「作者」がいて、「でっちあげ」であることを認めてしまう。できるだけ本当にあったことのような、リアリティーを旨とする従来の一般的な小説と比べて、『老人ホーム』がいかに無謀な企てであるか。でも、こういう無謀さこそB.S.ジョンソンの真骨頂なので、たとえ朗読ができないからといって、価値がない小説なのだと切り捨ててしまうのは、ちょっとどうなのだろう。ジョンソンが自ら影響を認めているロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』にだって、ひっきりなしに作者は登場し、明らかに朗読不可能と思われるページが多数あるが(真っ黒に黒塗りされたページをどう発音するのだろう)、その価値は十分認められているのだから。

* * * * *

実は、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』には、なんと、オーディオCDが存在する。もちろん、要約版ではあるのだけれど(Naxos AudioBooksシリーズより発売)。だったら、B.S.ジョンソンの諸作品だって、朗読版が可能ではないだろうか…。どんなものだって音声表現にしてしまう、イギリスの朗読文化をあなどってはいけない。

※Naxos AudioBooksのウェブサイト:http://www.naxosaudiobooks.com/