いずれこの日が来るとは思っていたが、ついに、ポーランド文学界の大巨匠、スタニスワフ・レムが亡くなった。ロイターの報道によれば、彼の作品は40ヶ国語以上に翻訳され、2700万も部販売されたという。アメリカやイギリスといったSF出版業界の中心からは離れた環境にありながら、世界中にこれだけ読者を獲得したことは、やはり彼の作品の魅力と実力を証明するものだ。この高い知名度は、二度制作された映画『ソラリス』の影響も確かにある。(一度目は1971年、ソ連の巨匠、アンドレイ・タルコフスキー監督によって。二度目は2002年、スティーヴン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演。)レム自身は、この二回の映画化に関しては、その出来栄えについて、必ずしも満足していない旨のコメントを残しているが、二度も映画になったこと自体が原作『ソラリス』の完成度の高さを示しているのだろう。
* * * * *
レムの作品のおもしろさは何か。「レムの作品」といっても、その内容は多岐にわたる。まず、レムといえば誰もが思い出すような、『ソラリス』(1961)を代表とするSF長編小説がある。『エデン』(1959)や、『砂漠の惑星』(1964)などがこの分野に該当する。これらの三作品は、人間が他の知性体の住む惑星を訪れる設定になっているが、レムの場合のポイントは、この知性体が非常にユニークであることだろう。
今まで数多くのSFが創りだされ、数多くの「エイリアン」が想像されたが、それらはみな、どんなにグロテスクであったとしても、人間の形状に類似しているか、あるいは、地球上の生物を髣髴とさせるものが一般的なパターンだ(映画『エイリアン』に登場する生物も口や手、顔、足を持っている)。しかしどうだろう、考えてみれば、全く異なる進化発展をたどってきたエイリアンが、人間、あるいは他の動植物のような姿をしているはずがあるわけないではないか。さらに一歩進めて考えると、人類が有しているような理性や判断力を、その知性体も持っていると言えるだろうか。むしろ、外見的にも精神的にも共通点を持っていないほうが、ありえるのではないだろうか。
そして、何の共通点も持たないような、そういう未知の生命体に遭遇するとき、人間はどう対処するのか。これが、これら長編SFの中心的なテーマになっていると言える。レムは、『ソラリス』のロシア語版序文で次のように述べている:
「相互理解の成立は類似というものの存在を前提とする。しかし、その類似というものが存在しなかったらどうなるか?・・・私はこの問題をもっと広い立場から解明したいと思った。そのことは、ある特殊な文明を具体的に示すことよりはむしろ、「未知のもの」をそのもの自体として示すことのほうが私にとって重要であったということを意味する。私はその「未知のもの」を一定の物質的現象として、物質の未知の形態以上のものとして、人間のある種の観点から見れば、生物学的なもの、あるいは、心理学的なものを想起させるほどの組織と形態を持ちながらも、人間の予想や仮定や期待を完全に超えるものとして描きたかったのである」
(『ソラリスの陽のもとに』ハヤカワ文庫より)
だから仮に、ある惑星で人間とまったく同じような姿の「未知のもの」が現れたとしても、それが、人間が予測し、仮定し、期待するように行動するとは言えないのだ。むしろ、そういう人間の期待通りに振る舞わないほうが、可能性としては高いだろう。あくまでもそれは「人間」ではないのだから。こうしてみると、人間が宇宙の森羅万象を理解できるとか、そういう「未知のもの」と理解しあえるという発想は間違っているに違いない。人間中心の絶対的な世界観とは距離をおき、人間の理解と可能性の限界を指摘する、このような「相対主義」とでも言うべきレムの価値観こそ、彼の作品を印象深いものにしている。
* * * * *
次に、SFでも短編で、風刺とユーモアをねらった寓話風の作品群がある。『泰平ヨンの航星日記』(1957)と、これに続く「泰平ヨン」シリーズ(レムのファンの間では、「ヨン様」といえば、当然、泰平ヨンを指す)や、『宇宙創世記ロボットの旅』(1965)など。これらの作品では、レムの諧謔精神が爆発する。
たとえば、『泰平ヨンの回想録』(1971)に収められた二大洗濯機メーカー「ヌードドレッグ社」と「スノッドグラス社」の競争エピソードはかなり風刺がきいている。まず、ヌードドレッグ社がアイロンがけや刺繍までできる洗濯機を開発すると、スノッドグラス社は、自ら四行詩を作詩してそれを縫い付けることができる洗濯機を開発する。次にヌードドレッグ社はソネットを作詩できる洗濯機を開発し、スノッドグラス社は家族団欒の会話に参加できる洗濯機で対抗する。
この洗濯機開発競争(狂騒)はさらに続く。スノッドグラス社は「水で洗って絞り、石鹸をぬり、頑固な汚れをこすり落とし、濯ぎ、アイロンをかけ、縫いものや編物をやりながら話をし、そうしたことを全部やりながら、しかもなおかつ、子供に代わって宿題をかたづけ、その家の主のために星占いで経済予測をたて、頼まないでもフロイド心理学で夢判断をやり、そくざに老人喰い症(ゲロントファジー)や親殺し症(パトリツィジウム)をも含むコンプレックスをすっかり解消してくれる洗濯機」を開発する。ところがその後、逆にヌードドレッグ社が新機種を開発する一方、スノッドグラス社は商品開発に失敗してしまい、売上高が35パーセント近くも急落。こうした局面でスノッドグラス社が開発した新機種はすごい:
「市場調査をやったところ、ヌードドレッグ社がダンスをやる洗濯機を開発中であることがわかったので、差し迫っている破局を乗りきるために、まったく革命的な処置をとることにした。そこで総額35万ドルにのぼる必要な特許権と使用権を関係者から買いとり、有名なセックス爆弾形をした、プラチナ色の独身男性用洗濯機、マイン・ジャンスフィールドと、もう一種、フィーレイ・マックファイン型の黒い洗濯機を開発したのだ。たちまち売上高はほぼ87パーセント増大した」
(『泰平ヨンの回想録』第五話より)
こういう「洗濯機」には、ハンカチとか枕カバーとか、ちょっとしたものしか洗濯できず、むしろ洗濯とはぜんぜん関係のないメカニズムが本体の中で幅を利かせているという。こんな短編には、レムの才気煥発という感じがして、読んでいて楽しい。
* * * * *
70年代に入り、二つのメタフィクション的な作品『完全な真空』(1971)と、『虚数』(1973)が発表され、レムの文学活動は新局面を迎えることになる。前者は書籍の序文を集めたという体裁の短編集で、それらの書籍はすべて架空のもの、つまりレムの想像上のものだ。一方の『虚数』は、『完全な真空』と同じく架空の書籍についての短編集だが、今度は序文ばかりを集めたものになっている。その後1984年には『挑発』が出版され、ここでは架空の書籍(ドイツの歴史家による歴史哲学書)への書評が創り出されている。いずれの作品でも、レムの幅広い知識が縦横無尽に活用されていて、まさに博覧強記という印象だ。
このようなポスト・ボルヘス的とも言うべきメタフィクションへの流れだが、レム自身は次のように説明している。これは「偶然と秩序の間で」という自伝的エッセイで語っているところだが、まず「第一段階で書いていたのは二流の作品ばかりだった」(オプティミスティックな初期作『金星応答なし』(1951)、『マゼラン星雲』(1955)を指している)。次に『ソラリス』や『砂漠の惑星』といった作品を書く「第二段階」に入り、この段階では、一般的なSFというジャンルの「領土の果てにまで達した」と考えた。そこでさらに新しい領域を開拓するために、このようなメタフィクション的な領域に踏み込んだと語っている。
なぜこのような「序文」や「書評」なのか。レムも『天の声』(1968)では、まだ、アイデアを一冊の長編作品にまで仕上げることができた。この作品はある数学者の回想録という体裁を取っており、その架空の「回想録」には二つの「序文」までがついている。このようにメタフィクションの色彩が濃厚な作品だが、『天の声』は序文だけで終わることなく、本文も一応最後まで完成している。一方、その後の『完全な真空』などでは、架空の書籍の本文は描かれることはない。つまり、このようなタイトルで、このような内容の書物が将来存在するだろうと予見はするが、本文は実現することができない。
この、本文実現不可能性の理由を『虚数』の中の一部分から類推することができる。『虚数』には未来の架空の百科事典の紹介があるが、その中の「PROGNOLINGUISTICS(プログノリングイスティク=予知言語学)」という項目から、以下は、GOLEMという未来のコンピューターが使う第三次元のメタ言語(メタゲン3)を説明している部分:
「そんなわけで、主にGOLEMが用いる言語であるメタゲン3による、例えば「乗り込みいれられた窒息マチックは宇宙屋でプレンティックanトレンティックをフィータする」といった文があったとしても、これを人間の民族語(ゼロゲン)に訳することはできない。というのも、これに対応する発話をゼロゲンで組み立てたとすると、それに要する時間は人間の寿命よりも長いものになってしまうからだ(ツヴィブリンの見積もりによれば、この発話には人間の単位でおよそ135年〔±4年〕かかるという)」
(『虚数』から「ヴェストランド・エクスペディア」より)
レムが『完全な真空』や『虚数』で行っているのも、一種のメタ化だ。だから、これを実際の「書籍」という体裁に還元する(つまり、人間が普通に読書できる本に戻す)には、実現不可能なくらい膨大な時間がかかってしまうということを意味している。レム自身、「私はそれらを書き上げるために、メトセラよりも長生きしなければならないだろう」と述べている(エッセイ『偶然と秩序の間で』)。だから、このような時間的・空間的制約のため、発表されるのは架空の書籍の「本文」そのものではなく、「序文」や「書評」のみになってしまう。
* * * * *
ただし、このような実在しない書物をあれこれ述べるという点については、レムの愛読者にとっては目新しいことではなかった。『ソラリス』ではその惑星ステーション内に図書室があり、「ソラリス学」とでも呼ぶべき架空の書物が紹介されている。『浴槽で発見された手記』(1961)でも、主人公は迷宮のような軍関係の庁舎の中をさまよい歩きながら、やがて図書室に到達し、そこでやはり架空の書籍の数々と遭遇する。このペダンチックなまでの書物への深い執着に、どこまでついていけるかという程度こそ、レムをどこまで好きになれるかという程度を決定すると言ってよさそうだ。
さらに、『ソラリス』その他に見られるような、相対主義的な人間観に賛同できるかどうかもポイントになるだろう。また、レムの才気煥発・博覧強記ぶりや、辛辣な諧謔精神を愛せるかどうかも、レムを好きになれるかどうかのポイントになると思う。どの作品でもいいから読むとわかるが、とにかく知性の塊のような人だ。エッセイ『偶然と秩序の間で』の中で、レムは中等学校時代、知能指数が180に達し、南ポーランドで一番頭のいい生徒だったと書いているが、これもあながち間違いではないだろうなと感じてしまう。レムは晩年、未来に関してあれこれ思索を深めていたようだが、いったいどのくらい将来まで見通していたのか。『虚数』で示されたGOLEMコンピュータ出現は2027年。レムの知性と戯れていられる時間はまだしばらく残っている。
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スタニスワフ・レム:1921年、当時のポーランド領リヴォフ(現在はウクライナ領)生まれ。戦後、ポーランドのクラクフに住み医学を専攻。1950年代より本格的に作家デビュー。2006年3月27日心不全にて死去。84歳。
<主な作品>
『金星応答なし』1951
『マゼラン星雲』1955
『変身病棟』1955
『泰平ヨンの航星日記』1957
『対話』1957
『エデン』1959
『捜査』1959
『ソラリス』1961
『浴槽で発見された手記』1961
『星からの帰還』1961
『砂漠の惑星』1964
『ロボット物語』1964
『技術大全』1964
『宇宙創世記ロボットの旅』1965
『高い城』1966
『天の声』1968
『宇宙飛行士ピルクスの物語』1968
『SFと未来学』1970
『完全な真空』1971
『虚数』1973
『枯草熱』1976
『泰平ヨンの現場検証』1982
『泰平ヨンの未来学会議』1983
『挑戦』1984
『大失敗』1987
『地上の平和』1987
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レムの作品のおもしろさは何か。「レムの作品」といっても、その内容は多岐にわたる。まず、レムといえば誰もが思い出すような、『ソラリス』(1961)を代表とするSF長編小説がある。『エデン』(1959)や、『砂漠の惑星』(1964)などがこの分野に該当する。これらの三作品は、人間が他の知性体の住む惑星を訪れる設定になっているが、レムの場合のポイントは、この知性体が非常にユニークであることだろう。
今まで数多くのSFが創りだされ、数多くの「エイリアン」が想像されたが、それらはみな、どんなにグロテスクであったとしても、人間の形状に類似しているか、あるいは、地球上の生物を髣髴とさせるものが一般的なパターンだ(映画『エイリアン』に登場する生物も口や手、顔、足を持っている)。しかしどうだろう、考えてみれば、全く異なる進化発展をたどってきたエイリアンが、人間、あるいは他の動植物のような姿をしているはずがあるわけないではないか。さらに一歩進めて考えると、人類が有しているような理性や判断力を、その知性体も持っていると言えるだろうか。むしろ、外見的にも精神的にも共通点を持っていないほうが、ありえるのではないだろうか。
そして、何の共通点も持たないような、そういう未知の生命体に遭遇するとき、人間はどう対処するのか。これが、これら長編SFの中心的なテーマになっていると言える。レムは、『ソラリス』のロシア語版序文で次のように述べている:
「相互理解の成立は類似というものの存在を前提とする。しかし、その類似というものが存在しなかったらどうなるか?・・・私はこの問題をもっと広い立場から解明したいと思った。そのことは、ある特殊な文明を具体的に示すことよりはむしろ、「未知のもの」をそのもの自体として示すことのほうが私にとって重要であったということを意味する。私はその「未知のもの」を一定の物質的現象として、物質の未知の形態以上のものとして、人間のある種の観点から見れば、生物学的なもの、あるいは、心理学的なものを想起させるほどの組織と形態を持ちながらも、人間の予想や仮定や期待を完全に超えるものとして描きたかったのである」
(『ソラリスの陽のもとに』ハヤカワ文庫より)
だから仮に、ある惑星で人間とまったく同じような姿の「未知のもの」が現れたとしても、それが、人間が予測し、仮定し、期待するように行動するとは言えないのだ。むしろ、そういう人間の期待通りに振る舞わないほうが、可能性としては高いだろう。あくまでもそれは「人間」ではないのだから。こうしてみると、人間が宇宙の森羅万象を理解できるとか、そういう「未知のもの」と理解しあえるという発想は間違っているに違いない。人間中心の絶対的な世界観とは距離をおき、人間の理解と可能性の限界を指摘する、このような「相対主義」とでも言うべきレムの価値観こそ、彼の作品を印象深いものにしている。
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次に、SFでも短編で、風刺とユーモアをねらった寓話風の作品群がある。『泰平ヨンの航星日記』(1957)と、これに続く「泰平ヨン」シリーズ(レムのファンの間では、「ヨン様」といえば、当然、泰平ヨンを指す)や、『宇宙創世記ロボットの旅』(1965)など。これらの作品では、レムの諧謔精神が爆発する。
たとえば、『泰平ヨンの回想録』(1971)に収められた二大洗濯機メーカー「ヌードドレッグ社」と「スノッドグラス社」の競争エピソードはかなり風刺がきいている。まず、ヌードドレッグ社がアイロンがけや刺繍までできる洗濯機を開発すると、スノッドグラス社は、自ら四行詩を作詩してそれを縫い付けることができる洗濯機を開発する。次にヌードドレッグ社はソネットを作詩できる洗濯機を開発し、スノッドグラス社は家族団欒の会話に参加できる洗濯機で対抗する。
この洗濯機開発競争(狂騒)はさらに続く。スノッドグラス社は「水で洗って絞り、石鹸をぬり、頑固な汚れをこすり落とし、濯ぎ、アイロンをかけ、縫いものや編物をやりながら話をし、そうしたことを全部やりながら、しかもなおかつ、子供に代わって宿題をかたづけ、その家の主のために星占いで経済予測をたて、頼まないでもフロイド心理学で夢判断をやり、そくざに老人喰い症(ゲロントファジー)や親殺し症(パトリツィジウム)をも含むコンプレックスをすっかり解消してくれる洗濯機」を開発する。ところがその後、逆にヌードドレッグ社が新機種を開発する一方、スノッドグラス社は商品開発に失敗してしまい、売上高が35パーセント近くも急落。こうした局面でスノッドグラス社が開発した新機種はすごい:
「市場調査をやったところ、ヌードドレッグ社がダンスをやる洗濯機を開発中であることがわかったので、差し迫っている破局を乗りきるために、まったく革命的な処置をとることにした。そこで総額35万ドルにのぼる必要な特許権と使用権を関係者から買いとり、有名なセックス爆弾形をした、プラチナ色の独身男性用洗濯機、マイン・ジャンスフィールドと、もう一種、フィーレイ・マックファイン型の黒い洗濯機を開発したのだ。たちまち売上高はほぼ87パーセント増大した」
(『泰平ヨンの回想録』第五話より)
こういう「洗濯機」には、ハンカチとか枕カバーとか、ちょっとしたものしか洗濯できず、むしろ洗濯とはぜんぜん関係のないメカニズムが本体の中で幅を利かせているという。こんな短編には、レムの才気煥発という感じがして、読んでいて楽しい。
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70年代に入り、二つのメタフィクション的な作品『完全な真空』(1971)と、『虚数』(1973)が発表され、レムの文学活動は新局面を迎えることになる。前者は書籍の序文を集めたという体裁の短編集で、それらの書籍はすべて架空のもの、つまりレムの想像上のものだ。一方の『虚数』は、『完全な真空』と同じく架空の書籍についての短編集だが、今度は序文ばかりを集めたものになっている。その後1984年には『挑発』が出版され、ここでは架空の書籍(ドイツの歴史家による歴史哲学書)への書評が創り出されている。いずれの作品でも、レムの幅広い知識が縦横無尽に活用されていて、まさに博覧強記という印象だ。
このようなポスト・ボルヘス的とも言うべきメタフィクションへの流れだが、レム自身は次のように説明している。これは「偶然と秩序の間で」という自伝的エッセイで語っているところだが、まず「第一段階で書いていたのは二流の作品ばかりだった」(オプティミスティックな初期作『金星応答なし』(1951)、『マゼラン星雲』(1955)を指している)。次に『ソラリス』や『砂漠の惑星』といった作品を書く「第二段階」に入り、この段階では、一般的なSFというジャンルの「領土の果てにまで達した」と考えた。そこでさらに新しい領域を開拓するために、このようなメタフィクション的な領域に踏み込んだと語っている。
なぜこのような「序文」や「書評」なのか。レムも『天の声』(1968)では、まだ、アイデアを一冊の長編作品にまで仕上げることができた。この作品はある数学者の回想録という体裁を取っており、その架空の「回想録」には二つの「序文」までがついている。このようにメタフィクションの色彩が濃厚な作品だが、『天の声』は序文だけで終わることなく、本文も一応最後まで完成している。一方、その後の『完全な真空』などでは、架空の書籍の本文は描かれることはない。つまり、このようなタイトルで、このような内容の書物が将来存在するだろうと予見はするが、本文は実現することができない。
この、本文実現不可能性の理由を『虚数』の中の一部分から類推することができる。『虚数』には未来の架空の百科事典の紹介があるが、その中の「PROGNOLINGUISTICS(プログノリングイスティク=予知言語学)」という項目から、以下は、GOLEMという未来のコンピューターが使う第三次元のメタ言語(メタゲン3)を説明している部分:
「そんなわけで、主にGOLEMが用いる言語であるメタゲン3による、例えば「乗り込みいれられた窒息マチックは宇宙屋でプレンティックanトレンティックをフィータする」といった文があったとしても、これを人間の民族語(ゼロゲン)に訳することはできない。というのも、これに対応する発話をゼロゲンで組み立てたとすると、それに要する時間は人間の寿命よりも長いものになってしまうからだ(ツヴィブリンの見積もりによれば、この発話には人間の単位でおよそ135年〔±4年〕かかるという)」
(『虚数』から「ヴェストランド・エクスペディア」より)
レムが『完全な真空』や『虚数』で行っているのも、一種のメタ化だ。だから、これを実際の「書籍」という体裁に還元する(つまり、人間が普通に読書できる本に戻す)には、実現不可能なくらい膨大な時間がかかってしまうということを意味している。レム自身、「私はそれらを書き上げるために、メトセラよりも長生きしなければならないだろう」と述べている(エッセイ『偶然と秩序の間で』)。だから、このような時間的・空間的制約のため、発表されるのは架空の書籍の「本文」そのものではなく、「序文」や「書評」のみになってしまう。
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ただし、このような実在しない書物をあれこれ述べるという点については、レムの愛読者にとっては目新しいことではなかった。『ソラリス』ではその惑星ステーション内に図書室があり、「ソラリス学」とでも呼ぶべき架空の書物が紹介されている。『浴槽で発見された手記』(1961)でも、主人公は迷宮のような軍関係の庁舎の中をさまよい歩きながら、やがて図書室に到達し、そこでやはり架空の書籍の数々と遭遇する。このペダンチックなまでの書物への深い執着に、どこまでついていけるかという程度こそ、レムをどこまで好きになれるかという程度を決定すると言ってよさそうだ。
さらに、『ソラリス』その他に見られるような、相対主義的な人間観に賛同できるかどうかもポイントになるだろう。また、レムの才気煥発・博覧強記ぶりや、辛辣な諧謔精神を愛せるかどうかも、レムを好きになれるかどうかのポイントになると思う。どの作品でもいいから読むとわかるが、とにかく知性の塊のような人だ。エッセイ『偶然と秩序の間で』の中で、レムは中等学校時代、知能指数が180に達し、南ポーランドで一番頭のいい生徒だったと書いているが、これもあながち間違いではないだろうなと感じてしまう。レムは晩年、未来に関してあれこれ思索を深めていたようだが、いったいどのくらい将来まで見通していたのか。『虚数』で示されたGOLEMコンピュータ出現は2027年。レムの知性と戯れていられる時間はまだしばらく残っている。
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スタニスワフ・レム:1921年、当時のポーランド領リヴォフ(現在はウクライナ領)生まれ。戦後、ポーランドのクラクフに住み医学を専攻。1950年代より本格的に作家デビュー。2006年3月27日心不全にて死去。84歳。
<主な作品>
『金星応答なし』1951
『マゼラン星雲』1955
『変身病棟』1955
『泰平ヨンの航星日記』1957
『対話』1957
『エデン』1959
『捜査』1959
『ソラリス』1961
『浴槽で発見された手記』1961
『星からの帰還』1961
『砂漠の惑星』1964
『ロボット物語』1964
『技術大全』1964
『宇宙創世記ロボットの旅』1965
『高い城』1966
『天の声』1968
『宇宙飛行士ピルクスの物語』1968
『SFと未来学』1970
『完全な真空』1971
『虚数』1973
『枯草熱』1976
『泰平ヨンの現場検証』1982
『泰平ヨンの未来学会議』1983
『挑戦』1984
『大失敗』1987
『地上の平和』1987