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A Diary

本と音楽についてのメモ

ヴォネガット語録

2007-04-20 22:32:26 | その他の読書
彼はユーモア溢れるヒューマニスト。そして何よりも、思いやりのあるやさしい人だ。


 「わたしはただ、恐ろしい苦難から抜け出られない人がたくさんいることを知っている。だから、人間が苦しみから抜け出すのはわけないと思っている連中を見ると、腹が立ってきます。ある人々は、他人からの大きな助けをほんとうに必要としている。わたしはそう思います。愚かな人々、頭の弱い人々のことも心配です。だれかがこういう人たちの面倒を見てあげなくてはいけない。自分だけの力ではこの世に抗いきれないのですから」
(「自己変革は可能か――プレイボーイ・インタビュー」『ヴォネガット、大いに語る』p.314)


 「登場人物を完全に抜きさしならぬ状況におくのは、アメリカ人の作家気質に反することですが、人生にはそんな状況がざらにあります。知性が十分働かないためにひどい苦境に陥って、そこから絶対に抜け出せない人々、特に阿呆呼ばわりされている人々がいます。だのにこの文化社会には、人はいつでも自分の問題を解決できる、という期待が広まっている。それがわたしには、恐ろしくもあり、滑稽でもある。もうちょっとだけエネルギーがあれば、もうちょっとだけファイトがあれば、問題はすぐ解決するのに、という考えがひそんでいるのです。しかしこれはあまりにも事実に反するので、わたしは泣きたくなる――あるいは笑いだしたくなる」
(同上pp.317-8)


小説『ホーカス・ポーカス』の主人公は、ユージン・デブズ・ハートキというが、この名前は、かつてアメリカ社会党(こんな政党があったのだ…アメリカ史をよく知らない僕には、まだまだ学ぶべきことが多い)の著名メンバーの一人だったユージン・デブズに由来する。


 「いまでもわたしは講演のたびに、インディアナ州テレホートの出身で、社会党から合衆国大統領に五度も立候補した故ユージン・デブズ(一八五五-一九二六)の言葉を引用する。
 『下級階級が存在するかぎり、わたしはそれに属する。犯罪分子が存在するかぎり、わたしはそれに属する。刑務所に囚人が存在するかぎり、わたしは自由ではない』
 最近になって、わたしはデブズのの言葉を引用するとき、これをまじめに受け取ってほしい、と前おきするのが賢明であることに気づいた。でないと、大半の聴衆が笑いだす。べつに悪意があるわけではない。わたしが滑稽なことをいうのを知っていて、好意的に反応してくれるのだ。しかし、これはいまの時代を象徴している。こうした<山上の説教>の感動的な反響が、かびの生えた、まったく信用できないたわごとに受けとられてしまう」
(『タイムクエイク』p.152-3)


こういう意見が表明できるヴォネガットを、僕は素直に立派な人だと感じてしまう。

* * * * *

彼の言葉で言えば「まだ子供に毛の生えた程度の年齢」で、彼は第二次世界大戦に参戦し、ドイツで捕虜となる。そしてそのときのドレスデン大空襲の体験が、傑作『スローターハウス5』として描かれることになる。プレイボーイ誌のインタビューアーは、彼に「ドレスデン体験はあなたにどんな瞑想の材料を与えてくれたでしょう?」と質問する。


 「(ヴォネガットが戦友のオヘアに)ドレスデンの体験はきみにとってどういう意味を持っているかとたずねたら、彼は、自分の国の政府がないを言ってももう信じない、と言っていました。われわれの世代の者は、祖国の政府の言うことをまともに信じたものです。――あまり政府からだまされた経験がありませんから。政府がだまさなかったひとつの理由は、わたしたちの子供のころ戦争がなかったことです。おかげで基本的には真実を告げられていた。わが国の政府が国民にやたらと手のこんだうそをつく理由はなかったわけです。ところが、戦時中の政府はどうしても、いろいろな理由でうそつき政府になってしまう。ひとつには敵を混乱させるためです。わが国が参戦したとき、わたしたちはアメリカの政府が生命を尊重し、民間人を傷つけぬよう細心の注意を払っていると思っていました。そこでドレスデンですが、これは戦術的には価値のない、民間人の都市でした。ところがこの都市を連合軍は、燃えてドロドロに融けてしまうまで爆撃をした。そして、そのことに関してうそをついた。こうしたことはみな、わたしたちを唖然とさせました」
(「自己変革は可能か」p.325)


日本の原爆投下についても、ヴォネガットはあちこちで語っている:


 「わたしはこのすばらしい本の第2章に、広島の原子爆弾投下五十周年の記念式典がシカゴ大学のチャペルで行われたことを書いた。あのときのわたしは、広島の原爆が自分の命を救ってくれたという、友人のウィリアム・スタイロンの言葉は尊重に値する、といった。スタイロンが合衆国海兵隊の兵士として日本列島上陸の訓練を受けているとき、あの爆弾が投下されたのだ。
 しかし、わたしは、アメリカの民主主義政府が、非武装の男女と子供たちに対する陋劣きわまりない、殺人狂的で人種差別的な、ヤフーまるだしの殺人、まったく軍事的常識を欠いた殺人をなしうることを証明したひとつの単語を知っています、とつけ加えずにはいられなかった。わたしはその単語を口にした。それは外国語の単語だった。その単語はナガサキという」
(『タイムクエイク』p.205)


最近、ふたたび銃のことが議論を呼んでいるが、彼ははっきり言っている。


 「わたしたちはあまりにも武器を信用しているので、多くのアメリカ人の家庭で鉄砲がまるでペットのように大事にされています。あまりにも多くのアメリカ人が小銃や拳銃に親愛の情を寄せている。銃はわれわれをゾッとさせるのが当たり前なのに。銃は人殺し機械です。それ以外のなにものでもありません。わたしたちは、癌や青酸カリや電気椅子を恐れるのと同じくらい、銃を恐れるべきです」
(「ホイートン大学図書館再建の記念講演」『ヴォネガット、大いに語る』p.269)

* * * * *

僕はアメリカ文学をずっとなんとなく敬遠してきてしまい、知らないことがとても多い。学生時代の「米文学史」の授業は、かなり有名な先生だったのだけれども、興味はまったくゼロ。ホーソンの『緋文字』は読んでみたけれど、なるほどね、くらいの感想。今でも、ピューリタニズムとか、超越主義っていったい何のこと?って具合。でも、ヴォネガットが「好きだ」と評していることは、きっと印象的な内容を持つものに違いないと想像する。


 「さて、いまのわたしは、もうほとんどだれも知らないか、それとも忘れてしまった芝居のさまざまな部分をとりとめもなく思いだしている。たとえば〔ソートン・ワイルダーの〕『わが町』の墓地の場面とか、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』のポーカー場面とか、アーサー・ミラーの『セールスマンの死』の、あの悲しいまでに平凡で、不器用で、気高いアメリカ人ウィリー・ローマンが自殺したあと、その妻がいう言葉などを。
 その妻は、またこんなこともいう――<だいじにしてあげなければ>
 『欲望という名の電車』で、ブランチ・デュボアは、妹の夫にレイプされたあと、精神病院へ連れていかれるときにこういう。<わたくしはいつも見ず知らずの人たちの親切に支えられてきました>
 こうした言葉、こうした状況、こうした人びとは、わたしにとって青年期の情緒的、倫理的な標識になり、一九九六年夏のいまもそこにある。それははじめて劇場でそれらの場面を見聞きしたとき、おなじように夢中になった仲間の人間たちに囲まれて、金縛りになるほど魅惑されたからだ」
(『タイムクエイク』p.39)


ソートン・ワイルダー『わが町』、テネシー・ウィリアムズ『欲望という名の電車』、アーサー・ミラー『サラリーマンの死』、みんな二十世紀アメリカ演劇の傑作ばかり。ヴォネガットが印象に残っている場面は、いったいどんな感じなのだろうと思う。読んでみたい(あるいは観てみたい)という気分にかられる。

こうして、2007年4月10日、84歳で愛すべきカート・ヴォネガットは亡くなった(so it goes…そういうものだ)わけだが、彼の言葉から僕はたくさんの刺激を受けてきて、そして、これからも受け続けるのだろうと思う。


■カート・ヴォネガット『ヴォネガット、大いに語る』(飛田茂雄訳、サンリオ文庫、株式会社サンリオ1984)

■カート・ヴォネガット『タイムクエイク』(浅倉久志訳、早川書房1998)

人生いろいろ読み方いろいろ

2007-03-23 14:13:21 | その他の読書
■富山太佳夫『文化と精読 新しい文学入門』(名古屋大学出版会2003)

先日の新聞に、こんな記事が載っていた:


「人生ゲーム」も「脱お金」 米製造元、新版発売へ

 日本でも人気の「人生ゲーム」をつくる米ハズブロ社は、紙幣にかわっておもちゃのVISAカードで支払い、大金持ちになるかどうかではなく、人生の様々な達成感をポイントに変換して勝敗を決める「人生ゲーム 紆余曲折(うよきょくせつ)」を8月に発売すると発表した。「人生、山あり谷あり」から「人生いろいろ」への転回になりそうだ。
 ゲームは、カード支払いを読み取り、人生ポイントを蓄積して、サイコロの役も果たす機械「ライフポッド」を中心に展開する。おなじみのルーレット方式も変わることになる。参加者は「生きる=冒険」「愛する=家族」「学ぶ=大学」「稼ぐ=キャリア」の四つのコースに分かれて人生航路にこぎ出す。旅行に出かけることも冒険も、稼いだお金も人生ポイントに変換され、ポイントの多さで勝者が決まる。
 ハズブロ社のゲーム広報担当は「人生ゲームは実社会に合わせて変化してきた。今日のライフスタイルに合わせて支払いをカードにし、成功が必ずしもお金では測れないという価値観の多様化も考慮した」と話す。(朝日新聞3月21日)


価値観の多様化…もうかれこれ30年くらい前から唱えられているキーワードだと思うのだが、ついに「人生ゲーム」のルールまでもを変化させるに至った。もちろん実社会はもっと進んでいる。人生が成功と失敗という単純な二項対立で色分けできるなんて考える人は、もはや現代的なデリカシーに欠けていると思う。また「人生ポイント」を貯めるという点、つまり、何かしらの数量の多寡で優劣を競うという点も時代遅れだろう。エコロジーの概念が浸透した現在、嵩が少ないほど良いとされるものはたくさんある。力んで「人生航路にこぎ出す」のではなく、家でじっとしていたほうが、交通機関のCO2排出量を減らせるので地球環境保護には良いかもしれない。ただまあ、「人生ゲーム」はゲームだから勝者敗者を決める必要があるわけで、こういう現代的な価値観をそのまま直截的に反映させた「人生ゲーム」では、ゲームにならなくなってしまうのだろう。(そもそも「人生」はゲームなのか、ゲームたる対象としてふさわしいのか、という疑問につきあたる。)

社会がこんな具合なのだから、ある一冊の本があったとき、それを読む人の反応も多様化して当然なわけだ。「この本はこのように解釈しなければならない」とか、「この表現はこのように理解しなければならない」というような教条的・画一的な価値判断は存在しなくなっている。にもかかわらず、国語のテストで「傍線部Aについて、このときの主人公の気持ちをもっともよく表しているのは、次の①~④のうちのどれか」などという問題がいまだに出題されているのだろうと思うと不思議な感じがする。こうした問いでは、解答者は、作題者が解釈した「主人公の気持ち」を推測しなければならない。つまり厳密に言えば、作題者が誰で、どんな観点からテクスト解釈をする人なのか知らなければこの問いには答えられないはずだ。解答者はこうやって、知らず知らずのうちに、出題者の権威とイデオロギーに従わされていく。そして学校では「出題者」とは一体何者で、そしてそれがなぜ権威を持っているのか、説明してくれる先生など、どこにもいない。

「傍線部Aについて、このときの主人公の気持ちをもっともよく表しているのは、次のうちのどれか」という問題で、「作者の考える」この主人公の気持ち、というように「作者」に偽りの権威を背負い込ませて、それで問題を解かせようという場合もある。でも、作者が読者にテクストの読み方を縛る権限はどこにもない。これはもう何十年も前に、ロラン・バルト(「作者の死」)やミシェル・フーコー(「作者とは何か」)が提唱していることだったような気がする。

いずれにせよ、あるテクストを「こう読め」と読み方を強制してくることは、読者を権威やイデオロギーに盲目的に従わせてしまうことにつながる。多様な価値観を許容する現代にはふさわしくないだろう。読み方の強制は、国語のテストに限らず、テクストと相対する場所ではどこでも起こる事情のようで、今回読んだ『文化と精読』によれば、日本の英米文学研究にもこのあたりの事例はあるらしい:


わが国の英米文学研究の場で繰り返し言われてきたのは、理論や方法では文学はわからないということであった。理論で文学作品を切ってはならないという、少し考えてみれば意味不明の隠喩があたかも適切なアドヴァイスであるかのように通用してきたのである。それでは何が推奨されるのかと言えば、辞書を片手にして一語ずつ丹念に読むということであった。その結果として、一年かけてひとつの作品を読むという教育法が今でも各大学の英文科に堂々と生きのびていることは周知の事実であろう。私はこれが有効な読み方のひとつであることを否定するつもりはないが、あくまでもそれはひとつの読み方以上のものではない。問題はこのひとつの読み方にすぎないものを唯一至上の方法として強制するときに生ずる。それが外国語の作品を読む有効な方法のひとつであることは間違いないが、同時にそれは教える側の経験からくる優位性を保障するためのシステムともなってしまうのである。この最も確実にみえる読みの場は動きの取れない権力の場にもなってしまう。理論では文学がわからないという言い方は、文学を哲学や社会学や心理学から切り離してしまうだけではなくて、読みの場における権力の関係を固定するものとしても機能しているのだ。(pp.30-1)


教師対生徒という権力構造が発生やすい環境下で文学を勉強するのではなく、ただ気楽に気分転換として本を読む分には、別に何の理論も知らなくていいだろう。ところが、実際のところ、世の中はさまざまな情報に溢れている。小説を読むだけでなく、ノンフィクションの本を読み、新聞・雑誌を読み、メールを読む。テレビ・ラジオ・映画・インターネット…。それぞれが情報を伝達するテクストであって、もしかすると、画一的な権威・権力を情報受信者に暗に振りかざそうとしているかもしれない。そのとき、現代の批評理論の動向を感じ取り、多様な読み方と価値観の存在を知っておくことは、決して損にはならないと思う。そして、イギリス文学に興味がある人なら、この『文化と精読』は、本来文学の学生向けの本だけれども、この目的にはとても良さそうだ。少なくても僕にとってはとてもおもしろかった。

* * * * *

ただ単に「おもしろかった」では無責任かもしれないので(いつも無責任だけど)、とくに「なるほど」と思った箇所を簡単に書いてみたい。話は変わるけれども、<イギリス文学史>と言ったら、どういう内容が頭に浮かぶだろうか。古英語時代の『ベオウルフ』から始まり、チョーサーの『カンタベリー物語』を経てシェイクスピアの時代が来て…という、連綿とつらなる作品や思想の歴史が思い浮かぶと思う。でも、<イギリス文学史>という言葉をもう一度よく見てほしい。この単語は「イギリス文学という学問の歴史」という意味にもとれる。イギリス文学という学問は、いつ、どこから始まり、どのように発展してきたのか。実際のところ、学問としてのイギリス文学の歴史は短く、本格的に始まったのは、20世紀に入ってからだ。こういうふうに考えてみたとき、最初の意味での<イギリス文学史>はイギリス文学という学問の一分野であるから、二番目の意味の<イギリス文学史>はメタ・レベルでの歴史ということになる。

では、<イギリス小説成立史>だったらどうだろう。まずは、どの作品から小説というジャンルが成立したのか。デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719)からか。あるいはリチャードソンの『パメラ』(1740)から?…普通だったら、こういう作品を軸に、当時の社会的状況を踏まえながら考察していく。ところが、『文化と精読』の「最初は女」というエッセイに、ホーマー・オウベド・ブラウンという学者のユニークな見解が紹介されている。彼は小説の成立という事柄を追求すること自体をメタ・レベルから捉えなおす:


彼(ブラウン)が問おうとするのは、イギリスにおいて小説はいつ、どのようなかたちで成立したかということではなく、そのような問い自体がいつから可能になったかということである。小説の成立史を問うメタ・レベルの<理論的な>問い自体が歴史の中の特定の状況によって規定されるものだという認識が、そこにはある。……そもそも小説というジャンルの成立時点では、その枠組みが分節化されていない以上、小説というジャンルの内も外も区別できなかったはずであるのに、小説の成立史はのちに成立したジャンルによって選択された作品間の差異を論ずることによって、あたかも小説というジャンルの成立を論じたかのように錯覚してしまうことになる。(pp.165-6)


だからブラウンによれば、リチャードソンとかの18世紀半ばの散文物語は「このジャンルがみずからの制度としての歴史をあとから正当化しようとしたときにその先駆形態となる、より現代に近い文化の制度、文学の制度によって小説と名づけられることになる」(p.167)ということだ。つまり富山氏の言葉で要約すれば、「小説の成立、小説の起源とは……小説というジャンルが事後的に要求する神話」(p.166)なのだ。このように、小説とはどのように成立したのかという問いかけに対して、一歩下がり、その問いかけ自体の性質を考える発想、僕にとってはとてもおもしろいと思うのだけれども、どうだろう。つまらない?それに、こういうものの見方は何かと応用も利くはず。

スタニスワフ・レム『大失敗』

2007-02-09 23:54:42 | その他の読書
■スタニスワフ・レム 『大失敗』(久山宏一訳、国書刊行会2007)

今回はイギリス文学から離れて、僕が敬愛してやまないポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの、最近出された新たな翻訳作品について。

『大失敗(フィアスコ)』はレムの最後の長編SFで、本国ポーランドでは1987年に出版された。スタニスワフ・レムといえば『ソラリス』が有名だが、これは1961年の作で今からもう40年以上も前のもの。彼は、1950年代から60年代にかけて、『ソラリス』を含む本格的なSFを著した後、1970年代はメタフィクション的な作品(『完全な真空』『虚数』)を発表する時期を迎える。この作風の変化は「SFで書くべきことは、もうぜんぶやったよ」という感じ。ところが、80年代になってまた従来のようなSF小説に回帰する傾向が出て、その最後の作品となったのが、この『大失敗』。このあとにはSF作品が発表されることはなく、昨年亡くなった。

レム文学の「集大成」で「最後の作品」ともなれば、いったいどんな内容なのだろうという興味がとても沸いてくる。ましてや、四半世紀前の『ソラリス』などと同じように、地球外の知性との「コンタクト(接触)」を取り扱うというから、なおさらだった。

* * * * *

ということで、早速読んでみて、「ああ、これは画期的な作品だ!」と思った。とてもレムらしい内容なのだけれども、今までの「コンタクト三部作」(『エデン』『ソラリス』『砂漠の惑星』)とはかなり違う展開を見せる。地球外の知性との接触について、そのあり方を考察するという点は一緒なのだけれども、以前の三作品とは決定的に異なる点がある。

この大きな相違点は、『大失敗』では実際に惑星を大規模破壊してしまうところだ。これは過去の作品では見られない展開だった。『エデン』でも、『ソラリス』でも、そして『砂漠の惑星』でも、人間にはとても理解しがたいが、しかし知的な存在が出現する。レムの言葉を借りれば「生物学的なもの、あるいは、心理学的なものを想起させるほどの組織と形態を持ちながらも、人間の予想や仮定や期待を完全に超えるもの」が登場してくる。このような、一般的な想像力を超えるような未知な存在が出現したとき、人間はどのようにふるまうか。

『エデン』『ソラリス』『砂漠の惑星』、どの作品でも、このような存在に対して人間は散発的ながら、多少の攻撃を加える。しかしこれらのSFでは、「人間は何でも理解できるわけでもない」というような、人間中心の世界観を戒めるような結論に収斂していく。つまり、とても予想できないような知性体が棲息しているからといって、その惑星を大々的に攻撃すべきではない、という結論に行き着く。

たとえば『エデン』では、惑星エデンに到着した探査隊一行は、この惑星の生命体の置かれた状況が、探査隊からしてみると「正しい」とは思えないような抑圧的体制となっていることに気付く。そして人間の探査メンバーの中から、この異星の住民たちの支配体制を「力ずくで解放」しようと言い出す者が出てくる。これに対し、探査隊の別の人物は次のように述べて、その考えの問題点を指摘する:


「この惑星の住民は、いまはまりこんでいる袋小路から手を取って連れ出してやらなくちゃならない愚かな子供だというのかね? やれやれ、ヘンリック、ことがそんなに単純なら、われわれが殺生をやらなければ解放が始まらないということにならないかね。そして戦闘が激しければ激しいほど、ますます盲目的に殺生をつづけていって、ついには退路もしくは協定への道を切り開くためにのみ殺す、防御号の前に立ちはだかる者をすべて殺すということにならないかね」(早川文庫『エデン』pp405-406)


「納得できないものは攻撃してしまおう」という発想には問題があること、つまり、人間の目的達成の障害は抹殺してもよいという発想への懸念が表明されている。そして同様の問題提起が、『ソラリス』でも『砂漠の惑星』でもなされている。ところが、今回の『大失敗』では、自分たちの思い通りにならない惑星「クウィンタ星」に対し、人間たちは実際に大規模攻撃を行ってしまう。ここが以前の三作品とは大きく異なる。

* * * * *

『大失敗』ではこんなストーリーが展開する…ハルピュイタ星群ゼータ恒星の第五惑星「クウィンタ星」に向けて、「ヘルメス」号がコンタクトを求めて探査に向かっていた。ところが、クウィンタ星周辺は強力な電波が互いを干渉しあうという尋常ならざる状態だった。科学者たちは、この惑星が二大強国に分かれた交戦状態にあるのではないかと考えた。そんなところにヘルメス号は近づき、レーザー信号のメッセージを惑星に送るが反応はまったくない。次にヘルメス号から無人の着陸船を惑星に送り込んだが、これは着陸の際に破壊されてしまった。さらにヘルメス号自体が攻撃を受ける。ここにいたり、ヘルメス号の乗員たちは彼ら自身の力を誇示する必要から、結局クウィンタ星の衛星(月)を丸ごと破壊してしまう。

このときのヘルメス号指揮官の言葉…「ことが起きてしまったあとに退却すれば、私たちの遠征が殺戮による侵略の試みだったという情報を惑星に残すことになります。それ故に、私たちは引き下がらないのです」(p292)

そして、その後ついにクウィンタ星のほうからメッセージが届く。これは、クウィンタ星への着陸を許可する内容だった。ヘルメス号側は慎重を期して、偽のヘルメス号を送り込むが、案の定、この着陸船もまたクウィンタ星側に破壊されてしまう。ヘルメス号はこの報復として、クウィンタ星の上空にある氷の輪を破壊する。この結果、クウィンタ星には大量の氷塊が落下し、超大規模な惨事が引き起こる。人間とクウィンタ星との間では、このような大規模な攻撃と破壊の応酬が続く。この事態を、乗船している聖職者アラゴは憂慮し、いずれ「大失敗(フィアスコ)」を招くと語る。

純粋に接触(コンタクト)を目的としていたのに、いつからこのような攻撃の応酬になってしまったのか。葛藤する乗務員たちの様子を通して、この失敗の経緯を私たちは読んでいく。

* * * * *

最後にもうひとつ『大失敗』の特徴点だと思うのだけれども、今回の異星の知性体はかなり人間っぽい。外見は人間とは程遠いが、よくわからないものは攻撃して排除しようとするところとか、振る舞いかたが人間じみている。『ソラリス』の知性体の行動が、意図・目的ともに理解不能だったのと対照的。また、クウィンタ星人(星「人」という表記が適切かどうかはわからないけど)とは言語を介したコミュニケーションがいともたやすく確立してしまう点でも、「人間的」だと思える。

描写によれば、クウィンタ星は外洋に囲まれた大陸をいくつか持つ青い惑星のようだ。そして衛星(月)もひとつ持っている。さらに、この星の住人たちのなんとも人間じみた行動様式。…そう、なんだか、クウィンタ星が地球とダブって見えてくるような、そんな印象が沸く。だから、こんなふうに想像してしまうのだ…もし地球に、この『大失敗』のような調査隊がやってきたら、わたしたちはどのように振舞うだろうか…。そんなことを考えさせるような、寓話(fable)としての解読も十分可能な作品。

『ローマ世界の終焉』

2006-12-15 22:59:59 | その他の読書
■塩野七生 『ローマ世界の終焉 ローマ人の物語XV』 (新潮社2006)

年末といえばこのシリーズ、という具合に、僕にとっては年賀状や紅白歌合戦なみの風物詩となった「ローマ人の物語」。今月になって15巻目が発売になり、ついに完結。僕が18歳のときから始まって(そして僕も当時の学生時代から愛読していた)、20歳代を丸まる楽しみ、そして今年を迎えた。ゆくゆく何十年か経過したころ、「あの『ローマ人の物語』シリーズを僕はリアルタイムで読んでいたんだよ」と自慢できる日が来るかもしれない。

著者の塩野七生さんには、「おつかれさまでした」とか「とても堪能しました」みたいな言葉を贈りたい気分がする。15年もかけてここまで書き上げたのだ。これは、なかなかすごいこと。僕にとっても、ひとつのシリーズの本を、ここまで時間をかけて付き合うなんてことがなかったから、読者側にもなみなみならぬ達成感というか、なんだか感慨深いところがある。

* * * * *

今回の内容には、とくに二箇所、印象に残るところがあった。

ひとつは、帝国が瓦解していく様子。とくにローマ帝国を支えた属州を、皇帝自らが「維持できない」として投げ出してしまうところ。

ローマ国家がカルタゴに戦勝してシチリアを最初の属州にしたのは、紀元前3世紀、まだこの「ローマ人の物語」シリーズが第2巻の頃。そこからどんどん戦勝して属州を勝ち取り、ローマは版図を拡大していった。ローマ繁栄の源は、属州にあると言ってもよいくらい。やがて紀元後となり、ゲルマン民族をはじめとする異民族の侵入にさらされるようになると、国境線(リメス)を死守し、属州を守ることがローマ皇帝たちの課題となる。マルクス・アウレリウスを代表とする歴代の皇帝たちが、みんなこの点に頭を悩ましてきた。

要するに、属州などからなる広い版図を維持することが、皇帝の第一の責務なのだ。ところが、ローマ帝国が東西に分裂し、首都ローマさえもが蛮族に荒らされるような時代を迎え、当時の西ローマ皇帝は、ついにこのような布告を発する:

「――ローマ帝国皇帝より、全総督、全司令官、全司法官へ
 蛮族アラリックによるローマ劫掠は、破壊と焼討ちと住民の殺戮によって帝国の首都に甚大なる被害を与えただけでなく、帝国の国庫までも空にして去って行った。もはや帝国には、属州の防衛や統治を担当する経済上の資力はなくなった。それゆえこれ以後は、自分たちのことは自分たちでやってもらうしかない――」(『ローマ世界の終焉』p287)

この布告は、歴史的には真偽のほどはまだ定かではないらしいが、出されたとすれば紀元410年とのこと。もうこの頃から、事実上、統治不可能な状態となってしまっていたわけだ。しかしまあ、こんな開き直ったような布告も出るような時代になってしまったとは。アウグストゥスが形を作り、その後の歴代の皇帝が苦労して守ってきた帝国は、こうして崩れてしまう。

もう一つ印象に残ったことは、僕も知らなかったのだけど、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)による「ゴート戦役」という戦争。

紀元476年に、蛮族出身の将軍オドアケルが、当時の皇帝を廃位して、西ローマ帝国は正式に滅亡したことになる。その後、オドアケルが王を称してイタリアを統治し、さらにその後は、東ゴート族がイタリアを支配した。彼らは比較的穏健な統治を行ったため、この時代は「パクス・バルバリス(蛮族による平和)」と呼ばれている。ところが、このゴート族の統治に、分裂していた片割れの東ローマ帝国(ビザンチン帝国)が介入してきた。ビザンチン帝国がイタリアに侵攻してきたこの戦争を「ゴート戦役」と呼ぶ。紀元536年のこと。

この18年も続いた戦争が、せっかく平穏だったイタリアを、壊滅状態にしてしまった。『ローマ世界の終焉』には、こう書いてある:

「一世紀前の五世紀にくり返された蛮族の来襲よりも、自分たちとは同じカトリックのキリスト教を信じるビザンチン帝国が始めたゴート戦役のほうが、イタリアとそこに住む人々に与えた打撃は深刻であったのだ。このことは、近現代の歴史研究者の多くも認める事実である。人口は激減し、土地は荒廃し、再興をリードできる指導層も消滅したのだから」(p396)

結局、ビザンチン帝国がイタリアを支配するが、これも15年しか続かず、イタリアは、今度はロンゴバルド族に占領されてしまう。このあたりの経緯はこの本ではあまり触れられていないが、「ロンゴバルド族による支配は、ゴート族による支配などは支配ではなかった、と思うほどに、イタリア半島に深く酷い傷を残すことになるのである」(p399)

このようにして、ローマ帝国の本国として栄光を誇ったイタリアは、絶望的な状態で中世を迎えることになる。

* * * * *

15年を費やしてついに完結した「ローマ人の物語」シリーズだけど、壮大なフィナーレ、みたいな印象はない。西ローマ帝国があっけなく滅んだように、この本も、さっくりと、さらっと終わる。確かに、15年の時間と全15巻の長さをかけて、ローマ人の所業を記述してきたのだ。これをじっくり読んで、「ローマ人とは?」という問いの答えを、自分なりに見つければいいわけだ。

この「ローマ人とはどういう人々だったのか」という問いには、ちゃんとヒントがあって、巻末の付録「ローマ人の基本道徳一覧」が参考になる。

僕は歴史の本を道徳的に「教訓」として読む必要はないと思う。純粋に知的好奇心を満たすものとして読めばいいと思う。でも、シリーズをとおして繰り返し説明されてきた、たとえば、ローマ人の「寛容」や「自由」の精神、とかは、15年の歳月を経て心にしっかり染み付いている。そしてその気高い精神性と併せて、「クレメンティア(clementia)」や「リベルタス(libertas)」という、ラテン語の響きにもすっかり魅了されてしまった。

※去年の『キリストの勝利 ローマ人の物語XIV』については、こちらに書きました。

新しい『早稲田文学』

2006-04-05 12:44:08 | その他の読書
とっても生意気な表現だけれども、「知的な刺激がほしい」という瞬間がないだろうか?ない?じゃあ、いい、そういう方は以下省略で。

本選びというのは、食事のメニュー選びと似たところがある。チーズ嫌いの僕はチーズの入ったメニューを常に敬遠し、逆に自分の好きな料理ばかり選んで食べるようになる。自炊している人はみんなわかっていると思う。スーパーに行っても、レストランや食堂に行っても、自分の好きなものばかり繰り返し購入したり、注文したりするようになることを。これは本でも同じこと。意識しないでいると、結局、自分の好きな分野や興味のあることばかり読むようになる。ただ、食事と違って、読書の偏食は、「かっけ」や「鳥目」「骨粗鬆症」といった栄養バランスのくずれによる身体的な危機をもたらすことはない。

その昔、僕は牛乳が飲めなかった(今でも飲まない・・・「飲めない」と書くべきか)。そして大ピンチは小学校入学時に訪れた。学校の給食の牛乳だ。今でも忘れられない、最初の給食の日。六歳の僕。みんなが食べ終わっているのに、一人で昼休みまで取り残されてしまった。その日、担任の益子先生は飲めるところまででいいよ、といって僕を解放した。次の日、もうちょっと飲めるようになった。さらに次の日、僕は全部飲めるようになった・・・。こうして、益子先生は親に宛てた「連絡帳」に「がんばって飲めるようになりました」と書いたのだった。その後九年間、僕は無理をした。

しかし、読書は本来一種の娯楽、愉しみでするもの。だから、嫌いなものを無理して読む必要はない。給食の牛乳のように、無理やり飲まされる必要はないのだ。でも、同じものばかりで読み飽きてしまって、「何か他にもおもしろいものないかなあ」と探すことだってある。「何かおいしそうなものないかなあ」と考えながら、スーパーやデパートの地下食品売り場をさまようように、本屋さんや図書館で立ち読みしたりするではないか。「知的な刺激がほしい」って、つまり、こういうときのことだ。

しばらく前に、新宿のマイシティ(今月から「ルミネエスト」になった)の地下にある小さなカフェ「ベルク」について書いた(2005年10月24日)。カフェインによる追加の刺激がほしいときにはこの店に立ち寄って、金額の割にはとてもまともなコーヒーを味わうのだけれども(素直に「おいしい」と書くべきか)、ここに『早稲田文学』(『WB』)が置かれていた。自由に取ってください、という形でカウンターに並んでいた。こうして、僕はここでこのフリーマガジンに出会った。

この雑誌への僕の感想。これって、本当に無料でいいんですか・・・。この内容の充実ぶりはちょっとお金を払わないと申し訳ないと思ってしまうくらい。少なくとも僕は『WB』を読んで、そのくらい愉しんだし、「知的な刺激」を得た。あえて値段をつけるとしたら・・・まあ、最低でも、200円とか300円とかの価値はある。もっと出してもいいかもしれない。最近は興味の沸くような雑誌になかなか出くわさないから。

前回第二号(一月発売)の中では、フランシス・バーネットの名作『小公子』の翻訳が載っていて、とても興味深かった。『小公子』がどうしてそんなに興味津々かって?ただの『小公子』ではないのだ。翻訳は若松賤子さんという人による、明治30年に発表されたもの。これが一部紹介されていたのだ。以下冒頭部:

「セドリツクには、誰にも云ふて聞かせる人が有ませんかつたから、何も知らないでゐたのでした。おとつさんは、イギリス人だつたと云ふこと丈(だけ)は、おかつさんに聞いて、知つていましたが、おとつさんが、おかくれになつたのは、極く少(ちひ)さいうちの事でしたから、よく記臆(おぼえ)て居ませんで、ただ大きな人で、目が淺黄色で、頬髯が長くつて、時々肩へ乗せて、坐敷中を連れ廻られたことの面白さ丈しか、ハツキリとは記臆てゐませんかつた」

「おとつさん」と「おかつさん」が登場して、「坐敷」で遊んでいる。なんとも和洋折衷な世界だ。なんだか変な感じだなあ、これじゃ、しっくりいかないよ、なんて、けなしてはいけない。『女学雑誌』という雑誌に1890年から1891年にかけて連載されたものなのだが、「口語的な新しい日本語」として、当時は画期的な翻訳だったそうなのだ。こんなわけで、僕はほとんど毎日翻訳された日本語で海外の小説を読んでいるけど、ここに至るまでには、こういう先人たちの歴史があるわけだ。

今回の第三号(三月発売)では、「昔の人の今の声」と題する伊藤比呂美さんの文章がよかった。ここでは親指が蛇になってしまう話などが紹介されているが、この記事を読んで、僕はこういう昔の説話みたいなものへの「飢え」を感じた。こんな話をもっと読みたい。ところで、突然「親指が蛇になる話」と書いてもなんのこっちゃ?という感じだろうが、これは鴨長明の『発心集』からのエピソード。人間の持つ、抑えたくても抑えきれない嫉妬心がよく伝わってくる。日本の古典には、こんなふうに、人間の本質を鋭くついたエピソードが他にもいろいろあるはずだ。もっと読んでみたい。

人によって「もっと読みたい」と思わせる内容はさまざまだろうが、僕は『WB』から読書欲の強い刺激を得た。今号のサルトルの紹介(渡辺直己さんの「サルトルはここが出る」)も個人的にはとてもタイムリーでよかった。ちょうど、サルトルにちょっとだけ興味を感じていたところだったから。知的刺激がないとおもしろい読み物とは思えない、という人には、ぜひこの新しくなった『早稲田文学』を読んでみたら、と言いたい。騙されたと思って・・・ただし、無料なのだから、被害金額はゼロ円である。

■『早稲田文学』のサイト:http://www.bungaku.net/wasebun/

An Obituary - スタニスワフ・レムを追悼して

2006-03-31 16:54:58 | その他の読書
いずれこの日が来るとは思っていたが、ついに、ポーランド文学界の大巨匠、スタニスワフ・レムが亡くなった。ロイターの報道によれば、彼の作品は40ヶ国語以上に翻訳され、2700万も部販売されたという。アメリカやイギリスといったSF出版業界の中心からは離れた環境にありながら、世界中にこれだけ読者を獲得したことは、やはり彼の作品の魅力と実力を証明するものだ。この高い知名度は、二度制作された映画『ソラリス』の影響も確かにある。(一度目は1971年、ソ連の巨匠、アンドレイ・タルコフスキー監督によって。二度目は2002年、スティーヴン・ソダーバーグ監督、ジョージ・クルーニー主演。)レム自身は、この二回の映画化に関しては、その出来栄えについて、必ずしも満足していない旨のコメントを残しているが、二度も映画になったこと自体が原作『ソラリス』の完成度の高さを示しているのだろう。

* * * * *

レムの作品のおもしろさは何か。「レムの作品」といっても、その内容は多岐にわたる。まず、レムといえば誰もが思い出すような、『ソラリス』(1961)を代表とするSF長編小説がある。『エデン』(1959)や、『砂漠の惑星』(1964)などがこの分野に該当する。これらの三作品は、人間が他の知性体の住む惑星を訪れる設定になっているが、レムの場合のポイントは、この知性体が非常にユニークであることだろう。

今まで数多くのSFが創りだされ、数多くの「エイリアン」が想像されたが、それらはみな、どんなにグロテスクであったとしても、人間の形状に類似しているか、あるいは、地球上の生物を髣髴とさせるものが一般的なパターンだ(映画『エイリアン』に登場する生物も口や手、顔、足を持っている)。しかしどうだろう、考えてみれば、全く異なる進化発展をたどってきたエイリアンが、人間、あるいは他の動植物のような姿をしているはずがあるわけないではないか。さらに一歩進めて考えると、人類が有しているような理性や判断力を、その知性体も持っていると言えるだろうか。むしろ、外見的にも精神的にも共通点を持っていないほうが、ありえるのではないだろうか。

そして、何の共通点も持たないような、そういう未知の生命体に遭遇するとき、人間はどう対処するのか。これが、これら長編SFの中心的なテーマになっていると言える。レムは、『ソラリス』のロシア語版序文で次のように述べている:

「相互理解の成立は類似というものの存在を前提とする。しかし、その類似というものが存在しなかったらどうなるか?・・・私はこの問題をもっと広い立場から解明したいと思った。そのことは、ある特殊な文明を具体的に示すことよりはむしろ、「未知のもの」をそのもの自体として示すことのほうが私にとって重要であったということを意味する。私はその「未知のもの」を一定の物質的現象として、物質の未知の形態以上のものとして、人間のある種の観点から見れば、生物学的なもの、あるいは、心理学的なものを想起させるほどの組織と形態を持ちながらも、人間の予想や仮定や期待を完全に超えるものとして描きたかったのである」
(『ソラリスの陽のもとに』ハヤカワ文庫より)

だから仮に、ある惑星で人間とまったく同じような姿の「未知のもの」が現れたとしても、それが、人間が予測し、仮定し、期待するように行動するとは言えないのだ。むしろ、そういう人間の期待通りに振る舞わないほうが、可能性としては高いだろう。あくまでもそれは「人間」ではないのだから。こうしてみると、人間が宇宙の森羅万象を理解できるとか、そういう「未知のもの」と理解しあえるという発想は間違っているに違いない。人間中心の絶対的な世界観とは距離をおき、人間の理解と可能性の限界を指摘する、このような「相対主義」とでも言うべきレムの価値観こそ、彼の作品を印象深いものにしている。

* * * * *

次に、SFでも短編で、風刺とユーモアをねらった寓話風の作品群がある。『泰平ヨンの航星日記』(1957)と、これに続く「泰平ヨン」シリーズ(レムのファンの間では、「ヨン様」といえば、当然、泰平ヨンを指す)や、『宇宙創世記ロボットの旅』(1965)など。これらの作品では、レムの諧謔精神が爆発する。

たとえば、『泰平ヨンの回想録』(1971)に収められた二大洗濯機メーカー「ヌードドレッグ社」と「スノッドグラス社」の競争エピソードはかなり風刺がきいている。まず、ヌードドレッグ社がアイロンがけや刺繍までできる洗濯機を開発すると、スノッドグラス社は、自ら四行詩を作詩してそれを縫い付けることができる洗濯機を開発する。次にヌードドレッグ社はソネットを作詩できる洗濯機を開発し、スノッドグラス社は家族団欒の会話に参加できる洗濯機で対抗する。

この洗濯機開発競争(狂騒)はさらに続く。スノッドグラス社は「水で洗って絞り、石鹸をぬり、頑固な汚れをこすり落とし、濯ぎ、アイロンをかけ、縫いものや編物をやりながら話をし、そうしたことを全部やりながら、しかもなおかつ、子供に代わって宿題をかたづけ、その家の主のために星占いで経済予測をたて、頼まないでもフロイド心理学で夢判断をやり、そくざに老人喰い症(ゲロントファジー)や親殺し症(パトリツィジウム)をも含むコンプレックスをすっかり解消してくれる洗濯機」を開発する。ところがその後、逆にヌードドレッグ社が新機種を開発する一方、スノッドグラス社は商品開発に失敗してしまい、売上高が35パーセント近くも急落。こうした局面でスノッドグラス社が開発した新機種はすごい:

「市場調査をやったところ、ヌードドレッグ社がダンスをやる洗濯機を開発中であることがわかったので、差し迫っている破局を乗りきるために、まったく革命的な処置をとることにした。そこで総額35万ドルにのぼる必要な特許権と使用権を関係者から買いとり、有名なセックス爆弾形をした、プラチナ色の独身男性用洗濯機、マイン・ジャンスフィールドと、もう一種、フィーレイ・マックファイン型の黒い洗濯機を開発したのだ。たちまち売上高はほぼ87パーセント増大した」
(『泰平ヨンの回想録』第五話より)

こういう「洗濯機」には、ハンカチとか枕カバーとか、ちょっとしたものしか洗濯できず、むしろ洗濯とはぜんぜん関係のないメカニズムが本体の中で幅を利かせているという。こんな短編には、レムの才気煥発という感じがして、読んでいて楽しい。

* * * * *

70年代に入り、二つのメタフィクション的な作品『完全な真空』(1971)と、『虚数』(1973)が発表され、レムの文学活動は新局面を迎えることになる。前者は書籍の序文を集めたという体裁の短編集で、それらの書籍はすべて架空のもの、つまりレムの想像上のものだ。一方の『虚数』は、『完全な真空』と同じく架空の書籍についての短編集だが、今度は序文ばかりを集めたものになっている。その後1984年には『挑発』が出版され、ここでは架空の書籍(ドイツの歴史家による歴史哲学書)への書評が創り出されている。いずれの作品でも、レムの幅広い知識が縦横無尽に活用されていて、まさに博覧強記という印象だ。

このようなポスト・ボルヘス的とも言うべきメタフィクションへの流れだが、レム自身は次のように説明している。これは「偶然と秩序の間で」という自伝的エッセイで語っているところだが、まず「第一段階で書いていたのは二流の作品ばかりだった」(オプティミスティックな初期作『金星応答なし』(1951)、『マゼラン星雲』(1955)を指している)。次に『ソラリス』や『砂漠の惑星』といった作品を書く「第二段階」に入り、この段階では、一般的なSFというジャンルの「領土の果てにまで達した」と考えた。そこでさらに新しい領域を開拓するために、このようなメタフィクション的な領域に踏み込んだと語っている。

なぜこのような「序文」や「書評」なのか。レムも『天の声』(1968)では、まだ、アイデアを一冊の長編作品にまで仕上げることができた。この作品はある数学者の回想録という体裁を取っており、その架空の「回想録」には二つの「序文」までがついている。このようにメタフィクションの色彩が濃厚な作品だが、『天の声』は序文だけで終わることなく、本文も一応最後まで完成している。一方、その後の『完全な真空』などでは、架空の書籍の本文は描かれることはない。つまり、このようなタイトルで、このような内容の書物が将来存在するだろうと予見はするが、本文は実現することができない。

この、本文実現不可能性の理由を『虚数』の中の一部分から類推することができる。『虚数』には未来の架空の百科事典の紹介があるが、その中の「PROGNOLINGUISTICS(プログノリングイスティク=予知言語学)」という項目から、以下は、GOLEMという未来のコンピューターが使う第三次元のメタ言語(メタゲン3)を説明している部分:

「そんなわけで、主にGOLEMが用いる言語であるメタゲン3による、例えば「乗り込みいれられた窒息マチックは宇宙屋でプレンティックanトレンティックをフィータする」といった文があったとしても、これを人間の民族語(ゼロゲン)に訳することはできない。というのも、これに対応する発話をゼロゲンで組み立てたとすると、それに要する時間は人間の寿命よりも長いものになってしまうからだ(ツヴィブリンの見積もりによれば、この発話には人間の単位でおよそ135年〔±4年〕かかるという)」
(『虚数』から「ヴェストランド・エクスペディア」より)

レムが『完全な真空』や『虚数』で行っているのも、一種のメタ化だ。だから、これを実際の「書籍」という体裁に還元する(つまり、人間が普通に読書できる本に戻す)には、実現不可能なくらい膨大な時間がかかってしまうということを意味している。レム自身、「私はそれらを書き上げるために、メトセラよりも長生きしなければならないだろう」と述べている(エッセイ『偶然と秩序の間で』)。だから、このような時間的・空間的制約のため、発表されるのは架空の書籍の「本文」そのものではなく、「序文」や「書評」のみになってしまう。

* * * * *

ただし、このような実在しない書物をあれこれ述べるという点については、レムの愛読者にとっては目新しいことではなかった。『ソラリス』ではその惑星ステーション内に図書室があり、「ソラリス学」とでも呼ぶべき架空の書物が紹介されている。『浴槽で発見された手記』(1961)でも、主人公は迷宮のような軍関係の庁舎の中をさまよい歩きながら、やがて図書室に到達し、そこでやはり架空の書籍の数々と遭遇する。このペダンチックなまでの書物への深い執着に、どこまでついていけるかという程度こそ、レムをどこまで好きになれるかという程度を決定すると言ってよさそうだ。

さらに、『ソラリス』その他に見られるような、相対主義的な人間観に賛同できるかどうかもポイントになるだろう。また、レムの才気煥発・博覧強記ぶりや、辛辣な諧謔精神を愛せるかどうかも、レムを好きになれるかどうかのポイントになると思う。どの作品でもいいから読むとわかるが、とにかく知性の塊のような人だ。エッセイ『偶然と秩序の間で』の中で、レムは中等学校時代、知能指数が180に達し、南ポーランドで一番頭のいい生徒だったと書いているが、これもあながち間違いではないだろうなと感じてしまう。レムは晩年、未来に関してあれこれ思索を深めていたようだが、いったいどのくらい将来まで見通していたのか。『虚数』で示されたGOLEMコンピュータ出現は2027年。レムの知性と戯れていられる時間はまだしばらく残っている。

* * * * *

スタニスワフ・レム:1921年、当時のポーランド領リヴォフ(現在はウクライナ領)生まれ。戦後、ポーランドのクラクフに住み医学を専攻。1950年代より本格的に作家デビュー。2006年3月27日心不全にて死去。84歳。

<主な作品>

『金星応答なし』1951
『マゼラン星雲』1955
『変身病棟』1955
『泰平ヨンの航星日記』1957
『対話』1957
『エデン』1959
『捜査』1959
『ソラリス』1961
『浴槽で発見された手記』1961
『星からの帰還』1961
『砂漠の惑星』1964
『ロボット物語』1964
『技術大全』1964
『宇宙創世記ロボットの旅』1965
『高い城』1966
『天の声』1968
『宇宙飛行士ピルクスの物語』1968
『SFと未来学』1970
『完全な真空』1971
『虚数』1973
『枯草熱』1976
『泰平ヨンの現場検証』1982
『泰平ヨンの未来学会議』1983
『挑戦』1984
『大失敗』1987
『地上の平和』1987

『現代イギリス社会史1950-2000』

2006-03-13 18:21:44 | その他の読書
■アンドリュー・ローゼン『現代イギリス社会史1950-2000』
(川北稔訳、岩波書店2005)

映画『リトル・ダンサー』(イギリスではタイトルが『ビリー・エリオット』だった)を観た感想の話をしていたとき、その場にいたイギリスの友人は、サッチャー政権下での労働組合いじめを思い出す、と語っていた。この映画には、当時の炭鉱労働者のストライキをめぐる場面があって、彼はそのことを言っていたのだ。これは実際にはどのようなできごとだったのか。

近年のブッカー賞受賞者には、非白人の作家も目立つようになった。有名どころでは、1971年『自由の国にて』で受賞したV.S.ナイポール、1981年『真夜中の子供たち』のサルマン・ラシュディー、そして1989年のカズオ・イシグロ(『日の名残り』)。こういうマルチ・レイシャルな社会は、戦後から徐々に顕著になってきたが、それにはどのような事情があったのだろうか。

デイヴィッド・ロッジのどの小説だったか忘れてしまったが、登場するその大学はもともと「ポリテクニク」で、それが大学に昇格したものだ・・・という記述が出てくる箇所があった。この「ポリテクニク」とはどのようなものだったのか。またそれが大学になった経緯は?

イギリスに旅行すると、日曜日も商店が営業しているのに気がつく。ただし営業時間は六時間のみだ(たとえば、午前10時から午後4時まで、とか)。本来、日曜日は安息日であるはずだが、近年、人々の宗教への態度はどう変化しているのか。

この本の訳者は、あとがきで次のように述べている:「昨今のわが国では、イギリスについては、王室や紅茶やパブにまつわるような『アングロ・マニアック』な記述が巷に氾濫している一方、冷静な現代社会の分析はひどく欠落している・・・」ほんとうにその通りだと思う。読んでみたが、この本は特別なことを書いているわけでもないし、細かい点を除けば目新しい発見があったわけでもない。でも、僕自身の滞英経験や、イギリス戦後作家の読書経験で、感じたり、気がついたりしたことがきちんと説明されている。

以前、ロンドンに住んでた頃の日記に、イギリスの中等教育の事情にちょっと触れたこともあるが、そういうコンプリヘンシブ・スクールとか、インディペンデント・スクールという学校への教育行政の変化も、読んでみて納得することができた。イートン校やウィンチェスター校といった有名パブリック・スクールと、オクスフォード・ケンブリッジの両大学についての本はたくさんある。でも、数では圧倒的な普通のイギリスの教育事情を知るには、こういう本に接するしかない。

個人的には、この本で言及されている他の細かいトピックについても、あれこれ思いついてしまう。ブルーウォーターやブレント・クロス(この二つが何のことだかわかりますか)、M1やM25といった道路のこと、テイト・モダンやロンドン・アイ・・・羅列していくときりがない。こうやって、いろいろ感想を言いたいことが出てくるというのは、内容がしっかりしている本である証拠だろうか。みんなこの日記のネタになりそうだけど、とくに、公営高層住宅のことと、ミレニアム・ドームについては、また別の機会に書きたい。

最近の訃報から

2006-02-25 11:35:08 | その他の読書
愛読している本のうち、最近亡くなられた翻訳者の方について。

まずは福田陸太郎さん。あのキングズリー・エイミスの代表作『ラッキー・ジム』の翻訳を手がけられた。正直言って自分にとっては、それ以外の接点はないのだが、翻訳されたり監修されたりした本の数はかなり多い。イギリス文学だけが専門ではなくアメリカ文学も同様に手がけ、また比較文学方面での著書もある。論文などの著作集も刊行されている大学者。2月4日没。89歳。

もう一人、新庄哲夫さん。なんといってもハヤカワ文庫に収められたジョージ・オーウェルの傑作『1984年』の翻訳者として大変に有名な方。僕にとってこの『1984年』は、新庄哲夫さんの翻訳による日本語での印象がしっかり染みついている。訃報に紹介されていた経歴によれば、1943年青山学院大学英文科卒。東京新聞の編集委員や大妻女子短大の教授などもなされていたとのこと。大学の先生としての経歴だけではないところが、とても興味深い。2月10日没。84歳。

お二人とも1910年代生まれで、戦前には大学教育を終了されている方々。ちょうど僕の祖父母にあたる世代。いずれの訃報も新聞で読んで知った。それぞれの翻訳には大変お世話になりました・・・これからも大切に愛読してまいります・・・こんな気持ちでこれを書く。


『ローマ人の物語』最新刊

2006-01-06 14:40:11 | その他の読書
■塩野七生『キリストの勝利 ローマ人の物語XIV』(新潮社2005)

年も改まり、もう「去年」になってしまったが、一年に一度のお楽しみである塩野七生の『ローマ人の物語』シリーズの2005年最新刊が発売された。

以前は夏過ぎとか、秋に刊行されていたと思うが、いつの間にか年末ギリギリに発売されるようになって、去年も12月末に書店に並んだ。でも、こんなふうに遅れるのは別に構わないと思う。刊行されればそれでよし、楽しみにしてゆっくり待ちますから・・・という感じ。ただし、発売されたなら早く読みたい!ということで、今回も早速購入し読み終えたところ。ロンドンに住んでいるときでさえも、ちょっと高額だが、わざわざ日系の本屋さんに注文して取り寄せてもらったくらいだったから。(そうしたら、次の年は、注文しなくても本屋さんのほうから「新しいのが入荷しましたよ」と声をかけてもらえて、とてもうれしかった。)

このシリーズも2005年刊行分で第14巻になった。全15巻の予定だから来年で終了する。今号が扱っている時代は紀元後4世紀。産声を上げて若々しく始まった都市国家ローマも、カエサルやアウグストゥスのようなヒーローの時代は過ぎ、五賢帝時代の円熟期も去って、内乱やゲルマン民族の侵入ばかり繰り返される末期を迎えている。塩野七生の記述も、以前の華々しい感じは既に消え、淡々とした、達観しているような印象だ。長く何巻にも続くという共通点を除くと全く別種の本ではあるが、『源氏物語』を読んでいく印象に似ている。最初は登場人物たちがとても生き生きとした印象だが、読み進んでだんだん終わりのほうにいくに従って、たとえば「雲隠」の巻の近辺になると、妙に落ち着いたしみじみとした描かれ方になる。『源氏物語』の場合も『ローマ人の物語』の場合も、ドラマは起こるのだが、もはやドラマチックではない。

今回の読みどころは、ローマ市の首都長官であったシンマクスという人と、当時のミラノ司教であったアンブロシウスの論戦だろう。論戦といっても直接討論するわけではなく、当時の皇帝に向けてお互いが発した書簡を読み比べることになる。シンマクスはローマ元老院の会堂に置かれていた「勝利の女神像」の撤去命令が出たことに抗議し、当時の皇帝に撤去命令撤回の請願書をしたためたのであった。これは当時勢力を増大していたキリスト教からすると、古代ローマ・ギリシアの神々が「異教」「邪教」扱いされていたことが背景となっている。一方、ミラノの司教アンブロシウスは「勝利の女神像」撤去賛成の立場から皇帝に書簡を送るのである。

とくにシンマクスの書簡が興味深い。僕だけではないと思うが、誰にでも敗者への同情心というか、優しさみたいな心情がある。だからこの場合も、女神像の撤去撤回の請願も叶うことなくキリスト教がローマ帝国の国教化となり、古来の宗教が禁じられてしまうというその後の経緯をわかっているだけに、敗者シンマクスのほうに肩入れして読んでしまうのだろう。シンマクスは言う:

「理性といえども限界がある。それをおぎなうのに、自分たちの歴史を振り返ること以上に有効な方法はあるだろうか。将来の繁栄を築くにも、すでにそれを成し遂げた過去を振り返るのは、最上の方法でもある」

この『ローマ人の物語』はもちろん「過去」についての本だ。ということはつまり、筆者塩野七生も私たち読者も一緒に、シンマクスの言う「自分たちの歴史を振り返る」作業をしていることになる。だから、彼の言葉を否定することは自分自身の今行っていることを否定することになってしまう。塩野七生は明確には書かないけれども、アンブロシウスではなく、おそらくシンマクスの立場に思い入れがあるはずだ。

今回の『ローマ人の物語』で扱われているのは、宗教をめぐる争いだけではない。他民族に国境を侵犯されたり、内乱が発生したり、皇帝という独裁者のもとで取り巻き連中が行政を牛耳ったり・・・。約1600年前の出来事ではあるが、多かれ少なかれ現在でも同じようなことが世界では起こっている。宗教についていえば、今日でも世界でメジャーなキリスト教が、まずはどのようにローマ帝国を制覇したのか。このような過去の経緯を振り返ることは、シンマクスの言うとおり、少なくとも弊害にはなるまい。もちろん、こんな教訓めいた意識を持たなくても、純粋に知的で興味深い本なのだけれども。

さて、今年の『ローマ人の物語』の最終巻はどんなふうに完結するのか。12ヶ月先になるのだろうが、今から楽しみ。

祝発売!レムコレクション第三弾

2005-10-28 22:47:28 | その他の読書
愛すべき作家の一人、スタニスワフ・レムの選集が国書刊行会から出版されているが、このたび待望の「レムコレ」第三弾、『天の声・枯草熱』が発売された。

前回の第二弾が発売されたのはいつだったろう。もうすでに思い出せないくらい。調べてみたら、去年の12月だった。

ちなみに第一弾の『ソラリス』が出たのは2004年の9月。国書刊行会からは、もうずっと以前から「レムコレクションが発売されます」と発表されていたが、予定は延期され、やっと出たのが去年の初秋。そんな経緯もあるから、レムコレのファンたちは、今回みたいに10ヶ月待たされたって文句は言わない。第一弾が出版されるまでにものすごく待たされて、待つことには十分教育されているから(永遠に出版されないかと思った)、これくらいのことでは何とも思わない。

というか、出版されるだけでも恩の字というものだ。今回の「天の声」も「枯草熱」も、かの名高いサンリオ文庫に収録されていた。両作品とも当然絶版。そして他のサンリオ文庫の例に洩れず、価格は高騰。実際には入手困難というほどではなく、お金さえ出せばインターネット古書店で簡単に買うことができる。だが、このように、装いも新たに、レムの優れた小説が再び容易に手に入れられるようになったことは、大変すばらしい。

今回のコレクションは新訳ではない。以前のサンリオ文庫版に多少手を入れた程度のものとのこと。「コア」なレムのファンならば、すでに両サンリオ版とも当然必須アイテムだったから、今回のレムコレは、内容的にはあまり斬新ではない。(それに対し、第一弾の『ソラリス』は新訳だったし、第二弾の自伝風エッセイ『高い城』は、初めて翻訳出版されたもの。)それでもやはり、今回の出版もまた高く評価されるべきだ。「天の声」も「枯草熱」も、有名な『ソラリス』とはまた異なる、レムの小説のおもしろさ、奥深さを示しているのだから。

毎回思うのだが、レムコレは「鮮度」が高い。今回の場合、訳者あとがきの日付は10月5日。たった20日足らずで印刷して書店に並んでいる!刷りたてホヤホヤ。…いや、もしかすると、訳者はあとがきの日付を、実際に書き上げた日よりも少々未来にしているのかもしれない。そうすれば、「原稿が完成次第、大、大、大至急で印刷して用意しました!」という印象を購入者に与える。そして、「出版社は遅れを取り戻そうと、がんばっているんだな」と購入者は感じるわけで、コレクションの出版に時間がかかっていることも許してあげようという気になってしまう。国書刊行会も、なかなかあなどれない。

さて、次は第四弾。いったい今度はいつ発売されるのだろうか。また忘れた頃に本屋さんに並ぶことだろう。