A Diary

本と音楽についてのメモ

道路A30での瞑想

2006-08-31 22:06:12 | 英詩
最近BBCのRadio4をインターネットで聴いていると(たいてい聴きつつ他のことをしているのだが)、ジョン・ベッチマン(John Betjeman・・・ベッチェマンと書くべき?)の名前が頻出する。注意して聞いていたら、ちょうど生誕100年を迎えるということで、この詩人の特集番組が組まれていたのだった。

BBCのこの特集のウェブサイトで、彼の詩をいくつか聴けるのだが、僕が個人的におもしろいとおもったのがこれ。題して「A30での瞑想」・・・A30とは、道路の番号のこと。イギリスではA1とかA303とか、そういうふうに番号付けされている。ちなみに、B275 とかM25 とか、Bで始まるものと、Mで始まるものもある。BはAよりも交通量の少ない道路のこと。Mは高速道路(motorway)。日本だと国道何号線とか、そういう感じ。だから「国道30号線での瞑想」という具合に意訳したほうが、イメージは伝わりやすいかもしれない。

日本でも国道1号線とか、有名な道路はどこからどっち方面に向かうとか知られている。とくに車を運転する人ならそうだろう。イギリスでも同じで、たとえばM25と言えば、ロンドンの周りを大きくぐるっと一回りしている環状道路のこと。そして、このA30は、ロンドンの南西からずっとソールズベリーとか、エクセターとか、西のほうに向かう道路。一部は高速道路(M)に昇格しているとのこと。

* * * * *

Meditation on the A30

A man on his own in a car
Is revenging himself on his wife;
He open the throttle and bubbles with dottle
and puffs at his pitiful life

She's losing her looks very fast,
she loses her temper all day;
that lorry won't let me get past,
this Mini is blocking my way.

"Why can't you step on it and shift her!
I can't go on crawling like this!
At breakfast she said that she wished I was dead-
Thank heavens we don't have to kiss.

"I'd like a nice blonde on my knee
And one who won't argue or nag.
Who dares to come hooting at me?
I only give way to a Jag.

"You're barmy or plastered, I'll pass you, you bastard-
I will overtake you. I will!"
As he clenches his pipe, his moment is ripe
And the corner's accepting its kill.

John Betjeman(1906-1984)


「道路A30での瞑想」

一人の男が車に乗って
妻に仕返しをしようとしている。
男はスロットルを開き、わずかな吸いさしの残るパイプに
みじめな生活の思いをくゆらせる。

あいつは急にふけこんできたな。
あいつは一日ずっと怒っていやがった。
あのトラックはおれを追い抜かせようとさせないし、
このミニは道をふさぎやがる。

なんでもっと急がないんだ、あいつを出し抜けよ。
こんなチンタラ走っていられないんだよ。
朝メシのとき、あいつ、おれなんか死ねって言ってたな。
おかげでキスをしなくて済んで助かったよ。

金髪のかわいいやつをひざに乗せるんだ、
文句を言ったり、うるさく言うような女はうんざり。
おれさまにクラクションを鳴らすのは誰だ。
おれはジャガーにしか道を譲らないことにしているんだ。

本気か、頭おかしいんじゃないか。抜かしてやる、ばかものめが。
絶対おまえを抜いてみせる、絶対だぞ!
男はパイプをぐっと噛み、彼の機は熟した。
そして、カーブがその死を受け止めることになる。

ジョン・ベッチマン(1906-1984)

* * * * *

日本語訳は、こんな内容の詩なんだね、という参考程度にしていただくこととして、原文の韻のおもしろさを楽しんでもらえればといいと思う。

彼は1972年から亡くなる1984年まで桂冠詩人(Poet Laureate)だった。でも、人気の秘密はどうやらこういう肩書きだけではないらしい。今回のこの詩もそうだけど、まず、こういうユーモアのあるユニークな作風が好まれた。さらに、1960年代からテレビ番組に頻繁に登場していたことから、名前も顔も覚えられて、多くの人に親しまれたことにあるようだ。日本ではあんまり知られていないのと対照的。

※BBC Radio 4のベッチマン特集:
http://www.bbc.co.uk/radio4/arts/betjeman_season.shtml

ジェーン・エア(その1)

2006-08-25 14:52:03 | イギリスの小説
これだけ偉そうにイギリスの小説をあれこれ言っておきながら、いまさら、という感じもするけれども、シャーロット・ブロンテの代表作『ジェーン・エア』を現在読んでいる。今回読み始めたきっかけは・・・ブックオフで文庫本の上下巻が各一冊105円で売っていたから。なんとも散文的な、感傷性及びロマンチックさの全く欠如した『ジェーン・エア』との出会い。全国のシャーロット・ブロンテファンのみなさまごめんなさい。

どんなストーリーかはうすうす知っているが(さすがにこれだけイギリス文学に接していると、情報が漏れてくる)、齢三十二にして初めて読むことになった。そして実際に読み始めたら、実はこの本、かなりツッコミどころ満載の小説だということに気がついた。まだ読み終わっていなくて途中なのだけれども、気がついたことを忘れないうちに書き出していきたいと思う。今回はその第一回。

* * * * *

■第一章から第四章まで(少女のジェーン・エアのゲーツヘッド邸時代)

この部分は、まあ要するに、両親を亡くしていたジェーンは、母親の兄、つまり伯父であるリード家に預けられていたが、その伯父もまた既に亡くなり、血のつながっていないリード家の他の人々(リード夫人とその三人の子供)にいじめられながら暮らしていくという場面。たしか、ディケンズにもこういう小説があったよなあと思った。子供の頃に苦労する話。いや、ディケンズに限らない。血のつながらない家族にいじめられるのは、「シンデレラ」も同じ。典型的な物語の始まりかた。果たして、ジェーンはシンデレラのようにお姫様になれるのだろうか。

ところが、このシンデレラはおとぎ話とはぜんぜん違う態度を取り出したから、読んでてびっくりしてしまった。継母たちに虐げられて、ひたすら我慢するのではないのだ。なんとガンガン反抗する。最終的には、なんとこんなことまで言ってのけてしまう。ジェーンはリード夫人に対してこう言い切る:

「わたしはあなたがわたしの血縁でないことを感謝します。わたしは一生涯、あなたをおば様とは呼びません。わたしが大人になったら、二度とあなたを訪ねるようなことはしません。わたしがあなたを好いていたかどうか、あなたがわたしをどう扱ったかどうかを訊かれた場合には、あなたのことなぞ考えただけでも気色が悪くなる、わたしをひどく残酷な目に遭わせたと言ってやります」(上巻pp58-59)

続いて、

「・・・あなたは世間では善良な夫人として通っていますが、ほんとは悪い、薄情な人です。あなたこそ、嘘つきだわ!」(上巻p59)

とっても過激だ。ジェーンはこのとき10歳。身寄りがなくて、衣食住をすべてリード家に依存して暮らしている。つまりリード夫人の庇護の下、生きていくことができる状態なのだ。それなのに、その保護者にここまで言っていいのだろうか・・・と、ヴィクトリア朝の人々は感じるはず。

当時は体制維持に熱心な、超保守的な時代。女性で(男性に対して地位が圧倒的に低い)かつ、子供(一人前とはみなされない・・・これは現代でも同じ。日本のように子供がもてはやされない)という、社会的地位の低いジェーンが、こういう不届きな反発を行うことは、時代的には絶対に容認できないことなのだ。こういう主張を認めていたら、体制維持ができないのだから。現代人の僕が読んでも、おおっ!と思うくらいだから、当時の人々には衝撃だったろう。危険な本とみなされたに違いない。でも、逆にこれが、この本の魅力でもある。何事も万事順調で、予定調和の物語では、読者は眠ってしまうのだから。

* * * * *

詳しい人がいたら教えてもらいたいのだが(それに、すでに誰かがエッセイにしているとおもうのだけれども)、『ジェーン・エア』は、心理学的に分析するとおもしろそうな気がする。冒頭のたった四章を読んだだけで、以下の箇所が気になった。

①自分のことを、愛想のない、かわいげのない、素直ではない子供と感じていること
→こういう劣等感は克服されるのか。行く末はシンデレラのようになれるのか。

②読書をする場面や、実際の風景の描写で、ことさら荒涼さが強調されていること
→場面設定が冬ということで、ジェーンの置かれた状況を暗示しているかのよう。読み進むうちに、もっと温かく、明るい季節が来るのだろうか。

③痛みや血の描写。暴力的な箇所。
→こういう暴力や血が大好きな作家もいる(無意識的に)。シャーロット・ブロンテはどうだろう?

④赤い部屋に閉じ込められ、怪しげな光を目撃する。
→怪しい場所に幽閉されて、お化けを見る・・・ゴシック小説の典型的パターン。この小説は、これからも、こんなふうにゴシック小説仕立てで展開していくのだろうか。

なんだか、この小説、ちょっと「病んでる」と思うのだけど。作者が病んでるから?こんなふうに感じるのは僕だけ?いずれにしても、こういう、なんとも病的な部分は、今後どのようになっていくのだろうか。そういう興味で読み続けていく予定。

※使用している版:大久保康雄訳、新潮文庫1991

アドルストロップ駅の鳥たち

2006-08-17 13:01:29 | 英詩
乗っていた電車が突然速度を落とし停まってしまう。それまで鳴り響いていた車輪がレールを走っていく音もやんでしまい、妙な静寂が車内を包みこむ。どうしたんだろう、ここはいったいどこなんだろう・・・僕たちは窓の外に目を向ける。そして、エドワード・トマスもまた外を見て、とある駅名を見つけたのだった。その名前は「アドルストロップ」

* * * * *


ADLESTROP

Yes. I remember Adlestrop —
The name, because one afternoon
Of heat the express-train drew up there
Unwontedly. It was late June.

The steam hissed. Someone cleared his throat.
No one left and no one came
On the bare platform. What I saw
Was Adlestrop — only the name

And willows, willow-herb, and grass,
And meadowsweet, and haycocks dry,
No whit less still and lonely fair
Than the high cloudlets in the sky.

And for that minute a blackbird sang
Close by, and round him, mistier,
Farther and farther, all the birds
Of Oxfordshire and Gloucestershire.

Edward Thomas (1878-1917)


* * * * *

「アドルストロップ」

そう、覚えている、アドルストロップという名前
乗っていた急行列車が、なぜかその駅で停まってしまったから。
六月も終わりの頃の、ある暑い日の午後のこと。

蒸気がしゅーっと音を立てた。誰かが咳払いをした。
がらんとしたプラットフォームには、
降りる人もいなかったし、やってくる人もいなかった。
アドルストロップという名前だけが見えた。

ヤナギやヤナギラン、芝にシモツケソウ、
そして乾いた干草の山。
空高く浮かぶ雲々のように、
すべてが静止した、誰もいない美しい光景。

そのとき、近くにいた一羽の鳥が鳴きだして、
周りの鳥たちも歌いだした。そして、じんわりと、
そのさえずりは、次から次へと広がっていった、
オクスフォードシャーとグロスターシャーの、全ての鳥たちに。

* * * * *

僕の訳は参考程度に(間違っているかもしれないし)。むしろ原文の詩自体をゆっくり、何回も読んで堪能してもらえればいいと思う。先日、イェイツの「イニスフリーの湖島」を取り上げたけれども、これもまた超有名な詩。アドルストロップというのはコッツウォルズのほうにある小さな美しい村。ただし、現在この村に駅はない。もうずっと前に廃駅となったそうだ。鉄道自体は幹線なので残っていて、今では村のはずれをその線路が走っているとのこと。

きっと静かな車内だったのだ。アドルストロップに停まったとき、それまでの走行音がやんでしまったので、その車内の静寂ぶりはますます際立っていたのだろう。蒸気機関車の立てる蒸気の音や、他人の咳払いさえもがはっきり聞こえてくる。窓の外には、田舎の駅の平和な光景。そんな静けさを一羽の鳥のさえずりが破った。そして、鳥の歌声はどんどん広まっていった・・・。ある暑い六月の午後のこと。イギリスで六月と言えば、もう十分に夏という印象。

まず、車内(日本の列車の車内ではなくて、向こうの列車のコンパートメントを想像するべき)という狭い空間があって、そこから、エドワード・トマスは誰もいないのどかな駅の様子を眺めている。やがて、小さな雲の浮かんでいる青空を見上げたあと、鳥の歌声に気がつく。そして、その狭い空間から、トマスの意識はオクスフォードシャーとグロスターシャー全体へとどんどん広がり、高まっていく。こういうふうに、詩の中の世界がどんどん大きく広がっていくところが僕は好きだと思う。声に出して読むと、だんだん高揚していく感じがある。すてきな詩だ。

ドラブルを語るという暴挙

2006-08-13 20:27:28 | イギリスの小説
■マーガレット・ドラブル『滝』(鈴木健三訳、晶文社1974)

今までに僕が読んだ(と言ってもたった三冊だが)、マーガレット・ドラブルの小説の主人公は:

1.若い女性(20歳代)
2.どちらかというと、美貌の外見を持つ
3.才能に恵まれていて、専門職や知的職業に就く能力がある
4.中流階級(ミドルクラス)ないしは、アッパーミドルクラス出身

という点で共通している。そして恋愛の問題、つまり愛している相手とは不倫関係だったり、結婚という絆を持ち得ない相手だったりして、あれこれ悩んでしまうというストーリーも共通している。こういう抽出をしてしまうと、一歩間違えると、ちょっと鼻につくような「イヤな感じ」の女性主人公像ができあがってしまいそうだ。実際、ドラブルの小説が嫌いだという人がいたら、こんなふうに美しくて家柄が良くてあれこれ恵まれているのに、そんな人の悩みなんか聞きたくない!みたいな点に発端がありそうな気がする。

今回読んでみた『滝』の主人公、ジェイン・グレイは28歳。自分は美しいなんて、はっきり書いてはいないけれど、自分の容姿に悩んでいる様子はない。そして、ジェインには詩作の才能があり、既に詩集を出版したこともある。彼女の出自については、こう書いている:

「わたしの父も母も、ジェイン・オースティンならすごく容易に書き上げたと思われる、いわゆる中流階級の出身だった。母の家庭のほうがまあ繁栄していて、彼女の兄の一人は法廷弁護士で、もう一人は国教会の牧師だった。一方父の側は、祖父の代にちょっとした災難があったので、三人の息子はいくぶん―といっても上品な暮らしをしてはいたが―貧乏な雰囲気の中で育てられた。父は三人兄弟の末っ子で、最終はサセックスのパブリック・スクールのための私立小学校の校長だった」

個人的には「ジェイン・オースティンならすごく容易に書き上げたと思われる」というたとえが何ともわかりやすい。とにかく、こういう環境の下で、ジェインの母は父より家柄が良いことをいつも知らせたがるし、父のほうは父のほうで、自分の家柄は本来ならもっと良いはずだったということに言及するのだった。(こんな両親にジェインはほとほとうんざりしている。)

ということで、上に書いた1から4までのポイントがこの小説『滝』にもぴったり当てはまるが、これって、マンガやアニメのヒロインの条件としても該当しそうな気がする。伝統的な、いわゆる「ヒロイン」像にかなり合致するのではないか。もしかするとドラブルの作家としての人気の秘訣は、こういうお姫様像にあるのかもしれない。良い家柄のお嬢様が恋愛についてあれこれ悩み出す。僕たちはそういう「あれこれ」に付き合わされるわけだ。

しかし、マーガレット・ドラブルによる現代版お姫様苦悩物語は、単なるラブストーリーでは終わらない。「文学」を称するに値するドラブルのクリエイションがちゃんと存在する。

第一に、主人公の苦悩の描き方。とくに、人を好きになってしまったときの、苦しい感情の描写。これはうまい。どの作品を読んでも上手だなと思う。『碾臼』でのステイシーもそうだし、『滝』のジェインの悩み方も(彼女は半端ではないくらい悩みまくるが)、個人的にはなかなか共感できる。

第二に、人間関係の機微に敏感なところ。例えば、上に引用したような、イギリスならではの階級社会の問題にはどの小説でも敏感だ。そしてこの階級意識がまた恋愛と絡んできて主人公を苦悩させる一因にもなる。(主人公自身より階級がちょっと下の相手のことを愛してしまうパターンが多いような気がする・・・そして、主人公はその自分の「いい出自」を負担に感じてしまったりする。)

第三に、現代的なストーリーの解決方法。つまり、おとぎ話のようにハッピーエンドで終わったりしない。これは作品によって違うが、じんわりとした印象を残すようにして小説は幕を閉じる。もっとはっきり言ってしまえば、主人公は愛する人とハッピーになってめでたしめでたし、にはならないということ。しかし一方で、もう一方のドラマチックな展開、つまり悲劇にもなったりはしない。『滝』ではジェインの愛するジェイムズは交通事故で死んでしまうという展開もできたはずだが、生き延び、ハッピーエンドでもなく悲劇でもない、オールタナティヴな結末を迎えることになる。

初期の作品たった三冊(『碾臼』『ギャリックの年』そしてこの『滝』)でドラブルを語るのはやはり暴挙と思われるので、これに引き続き『夏の鳥かご』『黄金の王国』『黄金のエルサレム』『氷河時代』『針の眼』を読んだ上で最終的な意見をまとめてみたいと思う・・・というのも、残念ながら翻訳があるのはこれだけ。あとはがんばって英語で読むしかない。

イニスフリーの湖島

2006-08-08 13:48:56 | 英詩
The Lake Isle of Innisfree

I will arise and go now, and go to Innisfree,
And a small cabin build there, of clay and wattles made;
Nine bean rows will I have there, a hive for the honey bee,
And live alone in the bee-loud glade.

And I shall have some peace there, for peace comes dropping slow,
Dropping from the veils of the morning to where the cricket sings;
There midnight 's all a glimmer, and noon a purple glow,
And evening full of the linnet's wings.

I will arise and go now, for always night and day
I hear lake water lapping with low sounds by the shore;
While I stand on the roadway, or on the pavements gray,
I hear it in the deep heart's core.

William Butler Yeats

* * * * *

ロンドンに移り住んだイェイツが故郷アイルランドの湖に浮かぶ島を思い出しながら詠みあげた詩。このときイェイツは23歳の頃。イニスフリーとは、彼の故郷スライゴー地方の湖(ロッホ・ギル)に浮かぶ小島。ここに質素な小屋を建てて、ミツバチの羽音を聞きながら暮らしたい、美しい自然に囲まれて平安に暮らしたい・・・そういう気持ちを、ロンドンの街中で思い出しているという詩。あわただしい都会に生活する現代人には、とても共感できるものがあると思う。

大変興味深いことに、この詩はイェイツの肉声で堪能することができる。録音はBBCが1932年に収録したもの。(イェイツは1865年生まれなので、67歳のときの声。)彼自身による詩の簡単な説明のあと、まさに歌うように、朗々とこの詩を読み上げる。ウェブサイトの説明にもあるが、もっと普通の会話のように朗読するのが最近の通例なので、こういう読み方はちょっと違和感があるかもしれない。

また、イェイツがこの詩の中の「purple glow」という部分を親切にも説明してくれている。それによれば、赤紫色の花を咲かせるheatherという野草が湖水に映っている様子、とのことだ。(ただし、heatherはその種の野草の総称。)他にも、ロンドンの繁華街ストランドで、水を噴き上げてボールを浮かせているショーウィンドーを見たとき、この詩の気持ちがわいてきたこととか、作者ならではの説明をしてくれている。

* * * * *

朝の通勤電車に詰め込まれるとき、一時間ばかりの昼休みさえもが楽しみに思えるとき、たった5分電車が遅れただけでイライラしてくるようなとき・・・。スーパーで買い物をして、テレビを観て、ご飯を食べて・・・そういう日常の生活。無理だとわかっていても、晴耕雨読という言葉のような自然に囲まれた生活に憧れてしまう。周囲の人は、軽井沢や佐久にでも引っ越して、新幹線通勤でもしたらと僕に言うが、そういうのもまんざらではないかもと思ってしまう。


※イェイツの肉声が聴けるサイト:
http://www.poetryarchive.org/poetryarchive/singlePoet.do?poetId=1688

アイリス・マードックの小説『鐘』

2006-08-01 14:09:03 | イギリスの小説
■アイリス・マードック『鐘』(丸谷才一訳、集英社文庫1977)

よくできた小説というのは、どうやら小説技法の教科書みたいな感じになる。登場人物の描きかた、よく考えられたストーリー展開、次はどうなるんだろうと読者をそそのかせるサスペンス、意味深な象徴的技法、ラブロマンス・・・などなど。こんな具合の一読してすぐわかる技法もあるし、隠されたテクニック、つまり、意識して読まないと気がつかないような作家の細工もいろいろある。それは、小説内の天候や時間配分とか、さりげなく他の小説や詩に言及してみるテクニック(インターテクスチュアリティー)とか。

アイリス・マードックの『鐘』は、こういう意味でとてもよくできている。純粋に読み物として楽しめる上に、細かいところまで上手くできている小説だなあと感心してしまう。フィクションの技法を勉強する人は、こういう小説を分析対象にするとおもしろいと思うのだけれども、どうだろう。

おせっかいながら、こういう要素をちょっと指摘してしまうと、『鐘』の第一章で、主人公の若い女性、ドーラ・グリーンフィールドは夫の待っているインバー修道院へいやいや向かうことになる。インバーへ向かう列車の客室の中、そろそろインバーへの最寄り駅に着くかという頃になって、彼女は客室内に蝶を見つけて捕まえる。手の中でつぶさないように細心の注意を払う一方で、列車は駅に到着し、ドーラは慌てて降りる。ホームには彼女の恐れる夫ポールが待っていた。ドーラはポールとぎこちなく再会する。しかし、ドーラは慌てて列車から降りたので、手荷物を車内に置き忘れてしまったのだった。その際、ポールは彼女の手を見て次のように語る:


‘Why are you holding your hands like that?' he said to Dora.‘Are you praying, or what?'
Dora had forgotten about the butterfly. She opened her hands now, holding the wrists together and opening the palms like a flower. The brilliantly coloured butterfly emerged. It circled round them for a moment and then fluttered across the sunlit platform and flew away into the distance. There was a moment's surprised silence.

「どうして、手をそんふうにしてるんだ?」と彼はドーラに言った。「お祈りか何か、してるのかい?」
ドーラは蝶のことを忘れていた。彼女は、手首をあわせたまま両手をあけ、双の掌を花のように開いた。派手な色の蝶が姿をあらわす。それはちょっとのあいだ、両手のまわりをまわってから、日の光に輝いているプラットフォームをひらひらと横切り、遠くへ飛び去った。驚きに満ちた一瞬の沈黙があった。(p.30)


偉そうに解説してしまうと、まず、蝶というのはもろい存在だから、手の中でつぶしてしまわないように、やさしく持っていてあげないといけない。しかし一方で、手をしっかり合わせていないと蝶は逃げてしまう。だから、蝶を持ち続けるというのは、かなり気を遣う緊張する作業だといえる。小説『鐘』ではドーラはこの場面で、嫌な夫ポールと再会するという、かなり緊張する場面を迎えている。この再会の緊張感と、蝶を捕まえているというもう一方の緊張感とが同時に現れて、相乗効果をもたらすようマードックは仕掛けているのがわかる。

さらに、蝶を自由に飛んでいくことができる人生の象徴とみなせば、ポールに捕まえられた状態で生活していかなければならないドーラの苦しい心情が対比的に強調されるという効果もある。ドーラはポールからひらひら飛び去ることができないのだから。また、ドーラの両手が花にたとえられているのも興味深い(「掌を花のように開いた」)。蝶にはやっぱり花の比喩がふさわしい。

* * * * *

ドーラは最終的にどうなるのだろう。これはぜひこの本を読んで、楽しんでみてほしい。


Soon all this would be inside the enclosure and no one would see it any more. These green reeds, this glassy water, these quiet reflections of pillar and dome would be gone forever. It was indeed as if, and there was comfort in the thought, when she herself left it Imber would cease to be. But in this moment, and it was its last moment, it belonged to her. She had survived.

間もなくこれらはすべての僧園の囲い込みのなかにはいって、誰も見ることができなくなるだろう。この緑の葦も、この鏡のような湖も、この円柱や円天井の静かな反映も、すべて永遠になくなってしまうのだ。まるで、ドーラが離れるとインバーが存在しなくなるみたいな気がし、そう考えることで慰められた。しかし、この一瞬、この最後の最後の一瞬、インバーはあたしのものだ。あたしは生き延びたのだ。(p.418)


『鐘』のこの最後のページで、ドーラはあれだけ嫌だったこのインバーのことを「自分のもの」として感じている。そして「survive」つまり、「生き残る」という言葉が使われているが、つまり、ドーラはここインバーで繰り広げられたサバイバルに生き残ったということだけれども、これは何が繰り広げられたということなのか。読む価値は大いにあると思うのだけれども。

さて、この『鐘』はマードックの作品群では一二を争う傑作だと思うが、日本ではすでに絶版。古本屋では探せば手に入る。今回は英語も引用したが、このように比較的平易なので読みやすい。英語のペイパーバックは簡単に入手可能。