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A Diary

本と音楽についてのメモ

ミドルマーチ(2)

2007-05-11 00:00:01 | イギリスの小説
■お知らせ■

現在、デザインと読みやすさの点から、この「gooブログ」から「はてなダイアリー」へ引越しを考えています。試験的に新しいブログのほうも運用を始めてみました。すでにご覧いただけますが、内容はこちらと全くおなじものです。
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■ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』 (工藤好美・淀川郁子訳、講談社文芸文庫①~④ 1998)
George Eliot Middlemarch (1872)

<語り手エリオット>

前回のブログでミドルマーチの第一章の冒頭を紹介した。あの、「ブルック家の長女には、粗末なよそおいのため一段とひきたって見えるといった美しさがあった。…」という部分。で、ここで質問だけれども、この度ドロシアにこのような美しさがあると評価・判断しているのは、いったい誰だろう。『ミドルマーチ』は主人公が自らを語るというような一人称の小説ではないから、この語り手は小説内の登場人物ではない。では、「神の声」のような漠然とした語り手なのか。それとも、ジョージ・エリオットご本人?

しばらく読み進めると、地の文にこんなフレーズが出てくる…「まともな人間は周囲の者がしていることをする。だから、もし精神異常者が野放しになっていたら、われわれはそれを知って、避ければよいのだ」(第一巻、p.18)…これは、ドロシアが周囲の人とは同じことをしない、特殊なタイプの女性なのだという説明から派生して述べられる部分なのだけど、それにしても、この「われわれ」という言葉を使って、読者たる僕を取り込もうとするあなたはいったいだれ?

「われわれ」が登場したことから察せられるように、『ミドルマーチ』の地の文に語り手たる「わたし」が登場するのは、もはや時間の問題だ。これはいったい誰なのか。文学理論的にはいろいろ面白い理屈が考えられそうだけど、ここではとりあえず素直に作者ジョージ・エリオットだと思って読むことにしてみよう。実際のところ、この「わたし」はかなり頻繁に登場してくる。こんなに出てきたら、フィクションたる体裁が崩れてしまうのではないかと懸念してしまうが、絵本や紙芝居を読み聞かせてもらっているような感じで、あんまり違和感がない。登場人物たちの立ち振る舞いなどについて、彼女があれこれコメントつけてくるのも、なかなかおもしろい。

たとえば「わたし」が作中の登場人物を非難してしまうところとか、僕はおもしろいと思う。「わたし」をジョージ・エリオットだとみなすと、つまりこれは作者自らが自分で創造したキャラクターを批評していることになる。こんなの小説としてありだろうか。実際には、こういう具合だ:

(周囲の人々は)公正に彼(カソーボン氏)を理解したということになるだろうか。隣人である牧師が偉大なる精神の持主だと噂されるのを軽蔑するカドウォラダー夫人、恋仇の足の恰好をけなすジェイムズ・チェッタム卿、さてはまた、相手の思想をひき出しそこねたブルック氏、中年の学者の容姿にけちをつけたシーリア――こういう人々の意見から出た独断的結論や偏見に、わたしは抗議する(第一巻、p.171)

抗議すると言ったって…だって、エリオットさん、これらのキャラクターは自分が描いた人たちじゃないんですか、とここはいぶかしく思うところだ。でもこれは逆に、「わたし」は客観的な第三者であって、物語の内容については一切責任ありません、という意味にも感じ取れる。彼女は暗にこういうふうに言いたいのかもしれない…≪わたしはあたかも紙芝居を読むように、ストーリーを読み上げているだけです。内容の是非については、ときどきこのように読者のみなさまのためにコメントはいたしますが、基本的にわたしとは関係ないことです≫…さらにもう一箇所、「わたし」がストーリーの内容に対して、キレてしまうところがある。作者なのに。これは第二十九章の出だしの部分。ローマでの新婚旅行からカソーボンの住まいであるロウイックに戻ってきたドロシアについて、「わたし」は語り始めようとするのだが:

ロウイックに着いていく週かたったある朝、ドロシアは――しかし、なぜ、いつもいつも、ドロシアは、ドロシアは、なのだろう? 彼女の側からの見方のほかには、この結婚の見方があり得ぬというのか? 悩みや苦労があっても、なお生気に溢れる若い者たちばかりに興味をもち、これを理解しようと努力することには、わたしは反対である(第二巻、p.105)

ここで「わたし」は、ドロシアばかりに着目する物語の描写方法に「反対」しているのだが、『ミドルマーチ』は「わたし(=ジョージ・エリオット)」が創ったストーリーだったのではないのだろうか。僕にはこんなイメージがわいてくる…「わたし」は、きっとこんな説明をしてくれるのだろう…≪わたしの預かり知らぬところに、もうすでに定められたストーリーがあって(あなたの比喩で言うところの「紙芝居」です)、わたしはそれを読者たるあなたに語っていますが、その内容や話の進め方にはときどき納得できないところもあるのです≫。あたかもこのストーリーは自分が作ったものではございませんという態度。ここで僕が前提とした「わたし=物語の創作者ジョージ・エリオット」説は、微妙にぐらつき始めてしまう。「わたし」はむしろ、自分が聞き知ったことを読者に伝達する、あたかもジャーナリストのような立場を取っている。

「わたし」こと、ジャーナリストのエリオット氏(女史?)がキレたこれら二箇所には共通するところがある。それは、ストーリーについて客観的に接し、公平・公正であろうとする態度。とくにカソーボン氏に対して公平であろうという態度が印象的だ。わざわざ「あわれなカソーボン氏は(われわれは公平な立場にいるので、いささか彼に同情してもよいだろう)…」(第二巻、p.295)というように、括弧内に自分の公平さについて断り書きを入れている部分もある。

ほかにも、この語り手は折々におもしろいコメントをしてくれる。「完全に自分のほうが正しいと思っているときに、論争が冷淡に回避されるのは、夫婦間では学問上の論争の場合以上に癪にさわるものである」(第二巻、p.114)…これはカソーボン氏とドロシアの口論を描写した後でのコメント。結局、内容からは一歩離れた客観的視点から語るジャーナリスト的な「わたし」が存在することで、物語自体のリアリティーを高める効果をもたらしている。小説の内容自体のリアリティーを素直に高めるのではなく、語り手の客観性・公平性を維持することで小説のリアリティーを高める(「これはわたしがでっちあげた物語ではありません。公平なわたしが読者に伝えています」)という、なんとも屈折して面倒な手法。

今回書いたような、客観性・公平性をもたらす枠組みや形式を作って、その中にフィクションを埋め込むという手法は、僕にはとても古風なやりかたに見える。イギリスで小説というジャンルが形成されつつあるころ、書簡とか日記とか、あるいは「淑女たるマナーを学ぶためのガイドブック」というような外見を装って創作された、ああいった初期の小説群を思い出してしまうから。ジョージ・エリオットが活躍した時代には、すでに読者はさすがにこのようなものを真に受けてしまうほどナイーヴではないので、だから『ミドルマーチ』ではこのような手の込んだ枠組みが現れたたのだと思うが、でもまあ、このあたりの厳密な小説論の議論は、僕の手に余る。あと、「わたし」が果たして自らが主張するほど本当に客観的で公正なのか、というの点も、きっと追求したら興味深いのではと思う。でもさしあたり『ミドルマーチ』を楽しむには、この語り手「わたし」のおもしろいコメントに、ときどきびっくりしながら、耳を傾けていれば十分。

* * * * *

<遺産をめぐって>

ストーリーの進行に目を転じてみれば、カソーボン氏とドロシアのこと、そしてリドゲイト医師とロザマンドのことがひととおり語られると、物語はフェザストウンの死とその遺産のことが山場となる。ちょうど第三部と第四部、この文庫本でいえば第二巻は、果たしてフェザストウンはどのような遺言を残しているのかという興味で、ぐいぐいと読み進めることができる。彼が衰弱していると聞き、普段は疎遠なフェザストウンの親戚たちが一堂に彼の家に集結する。みんな遺産がどのように分配されるか気になって、いてもたってもいられないのだ。このような遺産への期待を描く比喩が、僕はとてもうまいと思った。ジョウナとかマーサといったフェザストウンの貧しい親類たちが期待する、遺産がもらえるのではないかという可能性を「わたし」はこのようにたとえている:

しかしジョウナや、マーサや、その他、金がないばかりに門前払いを食わされていた連中には、これとは違った見解があった。可能性というものはどうにでも考えられるもので、雷文細工や壁紙の模様を見ていると、こちらの思うままのさまざまな顔かたちに見えてくるのに似ている。想像をたくましくして見るならば、そこにはジュピター神から漫画のジューディーにいたるまで、あらゆる形が見えるものだ(第二巻、p.154)

壁紙模様とかが自分の都合よく見えてくるように、ジョウナとかマーサたちもまた、自分たちももしかすると遺産の分配に与れるのではないかという、都合のいい可能性を夢見てしまうのだ。ここには当然、ジョージ・エリオットの皮肉が含まれているが(「人間というのはなんでも自分の都合のいいように物事を見るものだ」)、これは逆に言えば、自分の都合よく解釈するのではなくて、客観的に事象を判断するべきだ、という主張でもある。ここでまたもやお出まし!あの言葉…「客観的」。

フェザストウンの遺言はいかなるものだったか、これについては実際に読む方へのお楽しみなので伏せておくが、ロザマンドの兄で借金を抱えたフレッド・ヴィンシーにとっては大打撃となった。期待させておいて、一気に下に落とす、つまり期待を裏切る結果とする…このパターンは『ミドルマーチ』を読んでいると繰り返し登場することに気づく。ドロシアはあれだけカソーボンとの結婚を期待していたのに、不幸な結末となるわけだ。

そして次の読みどころは、カソーボンが死んでゆくまでのところ。ドロシアの彼への尊敬は完全に同情へと変わってしまう。カソーボンは発作を起こし、リドゲイト医師に自分の残りの寿命を尋ね、彼の病状が突発的に死を招く種類のもので、それがすぐかもしれないし、ずっと先かもしれないし、見込みがはっきりしないと知る。今から先、いつ死ぬかわからない。すぐ死ぬかもしれない。このことを知ったカソーボンの様子を描いた場面は、とても美しい:

リドゲイトは、患者が一人になりたがっていることがわかったので、ほどなくその場を去った。手を背に組んで、頭を垂れた黒いうしろ姿が歩みつづける並木道には、くろずんだいちいの木々がもの言わぬ相手となって、ともに深いもの思いに沈んでいた。そして、そこここの枝をもれる日の光をかすめすぎる、小鳥や落葉の小さな影は、悲しみの場をはばかるかのように、音もなく、ひそやかであった。ここにいるのは、今はじめて死の目をのぞきこむ自分に気づいた男である。彼は死というありふれたことがらの真実性を身をもって感じるという、まれな瞬間を経験していたのである(第二巻、p.391)

それにしても、この引用を含む第四十二章は、とてもいい。僕が思うに『ミドルマーチ』のなかで一番高貴な、深みのある一章だと思う。ドロシアとカボーソンがそれぞれ相手に対して抱く複雑な心境が、淡々と描かれていく。そして第四十八章でついにカソーボンは亡くなるが、彼の死後、これよりあとの『ミドルマーチ』には、このような精神的に深みのある描写は途絶えてしまう。

次回は『ミドルマーチ』の最終章まで。


ミドルマーチ(1)

2007-05-04 15:12:32 | イギリスの小説
■ジョージ・エリオット 『ミドルマーチ』 (工藤好美・淀川郁子訳、講談社文芸文庫①~④ 1998)
George Eliot Middlemarch (1872)

<きっかけはバーゴンジーから>

マーガレット・ドラブルの処女作『夏の鳥かご』を読んだのはだいぶ前のことなのに、このブログでなかなか紹介できないでいる。紹介するに値する小説だろうとは思うのだけれども、ただあらすじを述べるのではつまらないし、せめて「僕はこういうふうなところが面白いと思いました」みたいなことが書けないと楽しくない。どうしようかなあと思っていたあるとき、バーナード・バーゴンジーの『現代小説の世界』という本を読んでいたら、こんな箇所を発見し、なんだか『夏の鳥かご』についてブログに書けそうな気分になってきたのだった:


マーガレット・ドラブルは彼女の処女作『夏の鳥かご』(1963年)についてこんなふうに述懐した。「あのプロットの多くは、『ミドルマーチ市』(1871-2年)を下敷にしました。二人の姉妹とか、ローマでの蜜月とか、ヒロインがローマで自分は大変な人と結婚してしまったとさとったりするとか、そのようなことですが」 (p.21※1)


二人の姉妹とそれぞれの結婚について…きっとドラブルの『夏の鳥かご』とジョージ・エリオット『ミドルマーチ』の両方を読めば、何か面白いことに気がつくかもしれない。さらに今年になって新しい文庫本が出たジェイン・オースティンの『分別と多感』も、同じように二人の姉妹とそれぞれの結婚を扱うストーリーだから、一緒の機会に読んでもいいだろう…僕は、まあ、こんなふうに思ってしまったわけだ。

『ミドルマーチ』…ジョージ・エリオットの代表作ということぐらいは知っていた。どこかの地方都市を舞台に人々のあれやこれやを描いた小説、僕のわかっていることはこのくらい。文庫本で四冊にもわたる大作だけれども、たまにはこういう小説を楽しんでみるのもいいだろう。ヴァージニア・ウルフはこの作品を「大人のために書かれた数少ないイギリス小説のひとつ(one of the few English novels written for grown-up people ※2)」と評価しているそうだ。僕もまたウルフ女史から認められるような「大人」なのかどうか、ここはひとつ、かなり長い本だけど試してみることにしよう。

* * * * *

<意外とユーモアのある『ミドルマーチ』>

上で紹介した経緯のとおり、『ミドルマーチ』にはまず最初にブルック家の二人の姉妹、ドロシアとシーリアが登場する。二人とも同じような性格でした…ということでは話が進まないので、『夏の鳥かご』や『分別と多感』同様、この二人もまた対照的な性格であるように描き分けられている。いや、対照的、という言葉はふさわしくないかもしれない。長女のドロシアが、とーっても個性的なのだ。では、どういうふうに個性的なのか。


ブルック家の長女には、粗末なよそおいのため一段とひきたって見えるといった美しさがあった。その手や手首の形はまことにみごとなので、イタリアの画家たちが想像した聖処女マリアのよそおいのように、古風で簡素な袖でも着こなせた。またその横顔は、背の高さや身のこなしと相まって、簡素な衣装のためにひときわ品位をますかと思われた。これを田舎風の流行の衣装と並べてみると、あたかも今日この頃の新聞記事のなかに、聖書のすぐれた一句、あるいは、昔の詩人の佳句が引用されているのを見た時のような感銘が与えられた。すば抜けて頭のいい令嬢、というのが世間の評判であるが、それにはいつも、しかし妹のシーリア嬢のほうが常識がある、という但し書きがつけられていた。といっても、シーリアが妹よりも飾りの多い衣服を身につけたというわけではない。仔細に観察眼を働かすひとでなかったら、彼女の着るものが姉のとは違っていることも、着こなしにどこか仇っぽいところのあることも、見のがしてしまったであろう (p.13-4)


長く引用してしまったけど、これが『ミドルマーチ』第一部のまさに冒頭の部分。書き出しが印象的な小説はたくさんあるけど、僕はこの『ミドルマーチ』もまた、とても印象的な始まりかただと思う。なかなか古風で、品位あふれる感じ。この部分で形容されているブルック家の長女のようだ。まだこの部分では読者に名前が紹介されていないけど、この長女のドロシアは、現代的な派手な美しさを持つ女性ではないらしいことがわかる。彼女は「聖書のすぐれた一句、あるいは、昔の詩人の佳句」にたとえられているのだから、きっと古風な人なのだ。聖処女とか聖書とあるので、きっと宗教的な潔癖さを伴う人だということも、ここですでに暗示されている。そして、一番辛辣なところは、妹のシーリアのほうが常識がある、ということはつまり、この姉には非常識なところがある、と示されている部分。どうやら読者はこれからドロシアの非常識に付き合わされることになるらしい点が、もうこの冒頭から読み取れてしまう。

ただ、このドロシアの非常識は、読んでいて面白い。『ミドルマーチ』は、「わっはっは」と大笑いできるような場所はほとんどないと思うが(まだ僕も最後まで読んでいない)、「ふふふ」と不敵な笑みを浮かべてしまうような、そういう皮肉溢れるユーモアには事欠かない。たとえば、ドロシアは「好き」なんて感情を排した真面目一直な結婚を望んでいるのだが、その場合、「夫が父親のような人で、こちらが望むなら、ヘブライ語でもなんでも教えてくれる人でなければならない」(p.20)らしい。ヘブライ語というところが可笑しい。

こんなドロシアにも結婚の契機が訪れる。近隣に住み、宗教関係の研究に従事するカソーボン氏が彼女に好意をいだく。カソーボン氏は年齢は四十五歳を過ぎ、見た目もあまりよろしくない。妹のシーリアは言う…「カソーボンさんて、ずいぶんみっともない方ね」…でもドロシアには、なんと、彼がジョン・ロックのように偉大で謹厳な人物に見えてしまう。このような姉の気持ちについていけないシーリアは昔イギリスに来る前に、姉妹で勉強していたスイスのローザンヌでも同じようなことがあったことを思い出すのだが、僕はここも笑えた。


この醜悪な学者を崇拝する姉の気持は、これもまた醜い学者、ローザンヌのリレー先生に対する尊敬と同類だとみなしていたのであった。ドロシアはリレー老先生の言うことに飽きもせず耳を傾けたのだが、そんな時のシーリアの足は耐えられないほど冷たくなって、先生の禿頭の地肌がピクピク動くのが、ただもう恐ろしくてたまらなかった (p.94)


禿げた頭皮がピクピク動くというところが可笑しい。ジョージ・エリオットは真面目にあれこれ書いていく中に、こういうことを何気なく混ぜ込んでいる。まあとにかく、禁欲的に学問に励むカソーボン氏について、ドロシアは結婚相手として異論のあろうはずがなく(周囲の人物はみんな反対するが)、二人は結婚していくことになる。カソーボン氏は彼らしい硬い言葉遣いでドロシアにプロポーズするが、これに対する作者エリオットのコメントがまた可笑しい…「その意図においてこれほど誠実な言葉はあり得なかったろう。この最後のかたくるしい修辞も、真心がこもっている点で、犬のほえる声にも、あるいは多情な烏の鳴き声にも劣らなかった」(p.100)…カソーボン氏の愛の言葉は、犬やカラスと同等扱いされている。

第一部の後半になると、ブルック家の近隣に住むカドウォラダー夫人というのが登場するが、これがまた典型的な中年女性キャラクターで、とてもおしゃべり、かつ、おせっかいやき。ドロシアとカソーボンの結婚に自分が関われなかったのが悔しくて、あれこれ反対する。こういうおばさんキャラクターは、面白くないはずがないが、彼女の手にかかると、カソーボン氏の中身は「ひからびた豆ががらがら鳴っているだけ」(p.117)で、彼の体についてはさらに「あの人の血を虫眼鏡で見たら、セミコロンと括弧だけで、ほかには何もなかったんですって」(p.144)などとのたまう。こういうカドウォラダー夫人の、多方面への画策にもかかわらず、結婚は無事に進み、彼らはローマに新婚旅行へと旅立つ。

* * * * *

<別の筋のはじまり>

第一部の最後の二章から、この田舎町ミドルマーチへやってきた若い医師、リドゲイトと、リドゲイトに思いを寄せるようになるロザマンド・ヴィンシー、そして彼女の家族、ヴィンシー一家のことにストーリーが移っていく。僕はてっきり『ミドルマーチ』はブルック家姉妹のことだけをメインに語っていく小説かと思っていたが、どうやら異なるらしい。この辺りから登場人物数がぐっと増えてくる。そしてロザマンドの兄フレッドが、遊び過ぎて借金を密かに作ってしまっているとか、そういうトラブルを予感させつつ第一部は終わる。

次回は第二部以降について。

※1 バーナード・バーゴンジー『現代小説の世界』(鈴木幸夫・紺野耕一訳、研究社1974)
※2 ‘The Common Reader: George Eliot’(The Times Literary Supplement, 20 November 1919)

ダレルの「n次元」モダニズム

2007-04-27 14:25:21 | イギリスの小説
■ロレンス・ダレル 『アレキサンドリア四重奏I ジュスティーヌ』 (高松雄一訳、河出書房新社 2007)
Lawrence Durrell Justine (1957)

僕が興味を持っている時代、つまり20世紀の半ばから後半にかけてのイギリスのことだけれども、オクスフォードかケンブリッジを卒業しているということの持つ意味は、きっと僕たちがなんとなくイメージするよりずっと大きいに違いない。第二次世界大戦以前の日本で「帝大卒」という学歴が意味するところに近いのではと想像する。イギリスでも、戦後新設された大学群が十分根付き、サッチャー流の経済価値観が広まった1980年代以降には、それまで少しずつ変化していた旧来型社会階層システムの崩壊が明白になった。だから以前は「高学歴」「中流階級以上」「富裕層」の三つの要素はおおむねきれいにイコールでつながっていたのだけれども、現在ではその相関関係が必ずしも成り立たない状態になっている。

しかしかつては、オクスフォードかケンブリッジを出ていれば、とりあえずイギリス社会の主流層(支配的、指導的階層という意味で)としてのスタートを切れることが約束されていた。でも仮に、ある作家の卵が両大学のいずれかを目指していたのに入れなかったとしたら…その後に生み出される作品において、この挫折感は彼/彼女の作風に影響を与えるのだろうか。もっと広い意味で考えるなら、もし「イギリス社会の主流層」に入らない(入れない)イギリス人作家は、「主流層」に迎えられた作家と比べたとき、何か作風に違いがあるのだろうか。

というのも、ロレンス・ダレルの経歴を読んでいて、次のようなところが気になったからだ。

①インド植民地生まれで、両親もまた植民地で生まれた世代
②イギリスの寄宿学校に送られたがまったくなじめなかった
③個人教授を受けながらケンブリッジ大学を目指すが失敗
④23歳でギリシア領コルフ島に住んで以来、各地を転々とするが、基本的にはイギリスには戻っていない

これは当時の、社会的成功を収める典型的なイギリス人の経歴とは程遠い。僕はダレルについて、はっきり「異端児」というレッテルを貼ってもいいのではと思う。そしてこういう人こそが、「アレキサンドリア四重奏」に代表されるような、モダニズムの息吹を残す作品を書いているわけだ。

戦後のイギリス圏では、みんなまるでモダニズムなんて時代は存在しなかったかのように小説を書くのだけれども、その中であってもモダニズムの傾向を残した作家といえばこのダレルのほかに、サミュエル・ベケット、マルカム・ラウリー、B.S.ジョンソンなどを思いつく。そして僕は彼らの経歴と作風には何か共通する要素があるなあと感じてしまう。ベケットはアイルランド人でずっとフランスにいた人。ラウリーはケンブリッジを出たものの世界を放浪し、イギリスには死ぬときまで戻らない。B.S.ジョンソンは労働者階級の出身で、イレヴン・プラスに落第してしまった(イレヴン・プラス…11歳で受ける学力テスト、これに落ちると大学受験ができるような進学校には入学できない。当時はたった11歳で人生が決まってしまった…ただしB.S.ジョンソンは勉強しなおし、23歳で大学に合格する)。みんなイギリスの主流からは外れた人たちばかり。

もちろん、本家本元の戦前のモダニズム自体が、ヴィクトリア朝的価値観とリアリズムへのある種の反発を、イギリスの「主流」からは外れた人々が表現したものなのだ。(ちゃんと勉強してみないと断言できないけど。)ジェイムズ・ジョイスはアイルランド人、T.S.エリオットはアメリカ人、ヴァージニア・ウルフは当時の女性という立場。もちろんT.S.エリオットは自らイギリスへ渡ってきたのだけれど、戦後のモダニスト作家を含めて、みんなイギリスという国にはしっくりいかなくて、そのなじめなさが、イギリスに典型的なリアリスティックな作品とは相反する手法という形で具現化している…のではないだろうか。

アントニー・ポウエルのような誰が見ても上流階級的経歴の作家は、ああいう典型的なイギリス的小説を描く。「私は伝統路線でいく」宣言をしたマーガレット・ドラブルも主流路線の経歴。ちょっとずれてるな、と感じる作家は、僕が思うに、経歴や出身階層を見ると納得できそうな気がする。そういう人たちは経歴がやっぱり典型的な「主流」からはちょっとずれているのだ。ジョージ・オーウェルしかり(植民地出身)、アイリス・マードックしかり(アイルランド)、ドリス・レッシングしかり(植民地出身)…。そしてついでに言えば、主に1970年代以降は、逆に植民地出身、といってもイギリス白人支配者層ではない、被支配者側の移民たちやその子孫がイギリス文学に進出するようになり、これ以降、僕の「モダニスト=異端児」説は、社会階層自体の変化とも併せて、あまり唱える意味がない時代をむかえていく。典型的な主流イギリス人的経歴というものが消失し、みんなが異端児の時代。きれいにまとめれば、多様な価値観の時代。

* * * * *

1957年というから、ちょうど50年前に発表されたこの小説『ジュスティーヌ』は、骨子からいえば(小説に骨子などというものがあるとしての話だけれども)、すこぶる単純だと僕は感じた。パターンとしては「愛する対象の喪失」系のメロドラマ。自分が好きだったり大切にしていたりするものが無くなったり、どこかに行ってしまったりしたら悲しいではないか。それもその喪失の原因が自分にあったりしたら。この小説はその手の物語。

このメロドラマパターンを形作る登場人物は四人。主人公の「ぼく」、この「ぼく」と付き合っているギリシア人ダンサーのメリッサ、「ぼく」と急速に親しくなっていくジュスティーヌ、ジュスティーヌの夫で富豪のネッシム。これだけでだいたい見当がつくと思うけど、要するに「ぼく」は、愛してくれているメリッサから心が離れてしまい、ジュスティーヌにぞっこんになってしまう。ネッシムは嫉妬にかられ、ジュスティーヌは結局「ぼく」ともネッシムとも離れて失踪する。そんなこんなのうちに、元から体の弱かったメリッサは死んでしまう。二兎を追うものは…ではないけれど、「ぼく」は結局メリッサもジュスティーヌも失うわけだ。

しかし、あくまでもこれは骨子で、実際のストーリーはアレクサンドリアの下町の路地みたいにもっと細かく複雑な迷路のようになっている。「ぼく」が回想する形式の、一人称の視点の小説だから、読者は彼の言葉だけから事情を読み取っていかなくてはならないし。実際のところ、僕はこの小説、最初のうちはわけがよくわからなかった。眠くなるのをこらえてガマンして読み続けていくうちに、やっとだんだん読みやすく感じられてくるようになった。最後のほうにはちゃんと「全員集合の場面」もあって、ストーリーも盛り上がる。(「全員集合の場面」…個別に登場していたキャラクターたちが一堂に会する場面のことを指す僕の勝手な命名。全員集合という性質上、パーティー系宴会の場面であることが多い。この『ジュスティーヌ』では狩猟大会となっている。)そして二回目に読むときは、一回目の疑問点も解消し、最初から納得して読むことができるようになった。

さて、メロドラマはさておき、読みながら感じたことがあって、これはこの小説『ジュスティーヌ』が「小説を書く」ということに対して、あちこちで野心的な態度を表明している点。僕が思うに、つまりこれはロレンス・ダレル自身の小説作法への野心的態度が反映しているせいだろう。素直にストーリーを描いていけばいいところを、たまに「こんなふうに小説を書きたい」みたいな要素が顔をのぞかせる。具体的にはまず、ジュスティーヌが洋服屋さんの鏡の前に立ち、語るせりふ:


 「見てごらん!ひとつのものが五つの違う形になって映っている。わたしが小説家なら性格の描写に多次元的な効果を出してみたいと思うところね。プリズムを通して見るみたいに。人が一時にひとつのプロフィールしか見せてはならないってこともないでしょ」(p.30)


登場人物を「多次元的な効果」で表現したいと言っているけど、この「多次元」という言葉がくせもの。他の例としては、『ジュスティーヌ』には『風俗(ムール)』というタイトルの小説が内包されるかたちで長々と引用されるのだが、その一部分:


 「すべての人物は時間によってある次元に縛りつけられているが、それはぼくらがそうであってほしいと望むような現実ではない――作品の必要によって作られた現実だ。なぜなら、あらゆる劇は束縛を作りだし、そして人物は縛られている度合いに応じて意味をもつだけだから」(p.92)


また「次元」が出た。そしてこの『ジュスティーヌ』には、一番最後に「作品の要点」という章が添えられている。(こんな章のある小説は普通じゃない。やっぱり異端児だ。)ここで語られる一節:


 「n次元小説」三部作についてパースウォーデンが言う。「物語の進行運動量は過去に言及するたびに押し戻される。つまりaからbへと進行するのではなく、時間の上に立って、おのれの軸のまわりをゆっくりと旋回しながら、模様の全体を包みこんでゆく、という印象を与えるのがこの本だ。事件のすべてが前へ進行して別な事件に繋がってゆくのではなく、そのあるものは過去の事件に逆戻りする。過去と現在が結婚して、多種多様な未来がぼくらに向かって飛んでくる。とにかく、それがぼくの考えだったんだがね」(p.304)


パースウォーデンとは、この小説に登場する人物のひとりで、小説をいくつか書いているが自殺したらしい(明確には描かれていない)。とまあ、ここでもまた「次元」が出た。つまりそれぞれの文脈こそ違えど、どうやらダレルは「多次元」みたいなことに興味があるらしいとわかる。それも「多面的」という言葉ではなく、数学用語でわざわざ語らせている。もっと素直に言うならば、ダレルは小説というものが過去から未来へと進む時間の流れに縛られていることが気に入らないみたいで、これをどうにかしたい、もっと時間に拘束されない描き方をしてみたい、そういう野心がここから感じられる。実際、『ジュスティーヌ』は時間軸にはきちんと並ばない多くのエピソードの集成という体裁の作品となっている。どうりで読みづらいわけだ。

* * * * *

現代の日本でもそうだし、きっと世界中で言えることなのだろうけど、「こういう人生を送るべきだ」みたいな「正統な」人生とか、典型的なパターンみたいなものは、価値観の多様化の前に崩壊しつつあると思う。もちろん、お金持ちになって、不自由なく暮らせれば誰でもハッピーだろう。でも、「金銭=幸福」という考え方には疑問を持つ人だっているわけだ。いろいろな価値観や宗教の人々と共存する社会…結局、望むと望まざるとに関わらず、これだけ世界中を人々が行き交うわけだから、こういう「多様な価値観との共存」みたいなことが、社会のテーマになっていく。

僕はダレルのことを「異端児」と呼んだが、異端がいれば正統もいる。正統とはつまり、いわゆる「正典」と呼ばれるような本や作家のこと。イギリス文学の正典といえば、なんだろう…シェイクスピアとか、オースティンとか、ディケンズとかかな。でも、よく言われているように、正典なんて誰が決めたんだということが問題で、何が正統で、何が正統ではないなんて勝手に決めるなということだ。社会が変遷し、いろいろな読み方や価値観があるのだから、ある人にとっては正典扱いの作品でも、他の人にとっては目の上のたんこぶのような、異端の一冊かもしれない。

だからロレンス・ダレルも、もしかすると20世紀イギリス文学の中ではかなり個性的で、これまでは異端、ないしは傍系扱いだったかもしれないが、発表から五十年が経過した今、主流(正統あるいは正典)になるとは言えなくても、英文学の多様性の「先駆」とか、「一翼を担う」みたいな形で、もっと評価されるようになっても良いと感じてしまう。そして彼の本を読むにあたり、僕はダレルの、「あいつら(イギリスの普通の作家)になんか負けないで、なんとかしてユニークな小説を創ってやろう!」みたいな野心的な挑戦を、興味を持って楽しんでいきたい。「アレキサンドリア四重奏」シリーズは、まだあと三作品も続く。

権力と栄光とドッジボール

2007-04-13 23:56:26 | イギリスの小説
■グレアム・グリーン 『権力と栄光』 (斎藤数衛訳、早川書房 ハヤカワepi文庫 2004)
Graham Greene The Power and the Glory (1940)

舞台は1930年代のメキシコ。このメキシコの中でも東のはずれのほうにある、タバスコ州の田舎町を中心に『権力と栄光』のストーリーは展開する。当時のメキシコではラサロ・カルデナスという左派改革派の大統領の下、農地改革やら産業の国有化などが進められていた。さらに、宗教を否定する共産主義的発想から、厳しいカトリック教会へ弾圧も進められ、各地で教会が破壊され、司祭らは追放されていた。こういう状況で、警察から追われる身となった、タバスコ州でたった一人残された司祭がこの小説の主人公。

たった一人残された司祭…といっても、彼は決して「ヒーロー」ではない。常にアルコールを飲みたがる「ウィスキー坊主」だし、聖職者の結婚を禁じるカトリックの司祭なのに、実は私生児の娘が一人いる。情けないキャラクターは行動だけではない。小男で老人で太っていて出目と描写されている。美しくてかっこいい「ヒーロー=殉教者」ではないのだ。彼について、グレアム・グリーンは名前すら与えていない。しかし、でもだからこそ、この「ウィスキー坊主」の殉教の物語を、僕のようにキリスト教の信者ではなくても、胡散臭く感じずに読めるのだろう。

「ウィスキー坊主」が置かれた状況を、ものすごくつれなく、散文的に例えてしまうなら、小学生の体育の授業でやっていたドッジボールを僕は思い出す。ボールから逃げて逃げて逃げまくって、内野で自分がたった一人になってしまった状況を想像してほしい。それもボールは敵チームが持っているという場面。仲間のみんなはボールに当たって外野に出てしまっている。自分が当たれば、それでゲームはおしまい。相手がミスするのを待って、もはやさらに逃げるしかない。下手に手を出してボールを捕まえようとすると、取り損ねるかもしれない。四面楚歌。そしてこんなふうに思うのだ…こんな苦しい立場なら、もう逃げるのをやめて、ボールに打たれたほうがいいのではないか、みんなはもうこんなドッジボールを終わりにしたいのかもしれないのだから。

『権力と栄光』というグレアム・グリーンの中でも一二を争う傑作を、小学校のドッジボールに例えてしまうという、僕の冒涜的な説明が、果たして『権力と栄光』のストーリーに合致するかどうかは、実際に読んでいただくこととして(当たらずとも遠からず、くらいだと思う)、実は、こういう「一人で取り残された主人公」というのは、小説の設定としては時々あるパターン。とくに、悲劇的なエピソードとしてはよく見かける展開だということも指摘しおきたい。周囲の味方はいつの間にか消え去り、知らないうちに主人公は一人追い詰められていく…まさに今、このフレーズをパソコンに打ち込みながら、僕は源義経を思い出した。細かいところはいろいろ異なるけど、こういう構造のストーリーは日本の古典にだってあるのだ。どうりで読みやすいわけだ。

* * * * *

「キリスト教のことがいろいろ出てきて、どうも違和感を感じる」「あそこまでキリスト教の司祭としての立場にこだわるキャラクターには、読んでいて肩入れできない」…『権力と栄光』については、こういう感想を持つ人もいると思う。まあ、そういうこともあるだろう。でも、こういう問題は文学だけに限らなくて、絵画や音楽にだってあることだ。今、日本にレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』が東京国立博物館に来ているわけだが、どうだろう、宗教画だから嫌いになるだろうか。確かに、キリスト教徒として「受胎告知」という教義の重みを親身に感じる人と、僕みたいな一般人とでは、確かに作品の捕らえかたは異なる。でも、みんな、そして僕もまた、レオナルド・ダ・ヴィンチという名前にあやかって、絵を鑑賞しに行くわけだ。それでいいじゃん、と思う。

それに、バッハの『マタイ受難曲』とか、モーツァルトとかヴェルディとかの『レクイエム』を聴くとき、キリスト教徒でなければ、音楽が単なる騒音になってしまうのか、ということでもある。明らかにそんなことはないわけで、絵画や音楽にはどうやら、何か宗教的な要素を超えた、普遍的な「美」みたいなものが存在しているようで、だからこそ『受胎告知』は観る価値があるのだし、「モツレク」(モーツァルトのレクイエムのこと)は聴く価値があるのだろう。いや、別にキリスト教じゃなくったっていい。僕たちは運慶の仏像を鑑賞したり、アンコールワットを観に行ったり、エジプトの古代神殿を眺めたりするが、果たしてそれらの宗教の真剣な信徒だったことがあるだろうか。

僕のこういうふうな、「普遍性」とか「美」をもってして芸術の価値を説明するやりかたは、すっかり時代遅れであることは、よーくわかっているのだけれども、「キリスト教が鼻につくから『権力と栄光』はあまり読みたいと思わない」という人がいたら、それはとてももったいない、狭量な視野だなあと思うからこんなふうに書いてしまった。そして、「キリスト教のことがよくわからないから、この本のこともよくわかった気がしない」という人がいたら、「そんなこと心配しなくていいんじゃん」って言いたいからでもある。僕もそんな一人だし。グリーンの描く、ある種の切ないストーリーを単純に楽しむだけでも、この本は読む価値がある。

「ウィスキー坊主」である司祭が、貧しい村にたどり着き、自分の娘と二人きりになる場面。娘はまだ七歳で、お行儀がいいとは言えない女の子。彼はこのように語りかける:


「わしは命を捨ててもいい、なんの値打ちもない命だが。この魂だってかまわない……ね、おまえ、理解するように努めてくれ、おまえは――とても大切な子だということを」そのことが、彼の信仰と彼ら政治指導者たちとの相違だということを、彼はずっと前から知っていた。彼らは、ただ国家とか共和国のようなものだけ関心があった。この子は一つの大陸全体より大切だった。彼はいった。「おまえは非常に――必要なんだから。首都にいる大統領は、いつでも銃をもった人たちによって護衛されている――だが、わしの子よ、おまえは天のすべての天使がついている――」彼女は、暗い、自覚のない目で彼を見返した。彼は、自分がここに来るのが遅すぎたのだとわかった。彼はいった。「さよなら、かわいいおまえ」そして不器用にキスをした―愚かにも思い上がったこの老いぼれ。彼は、彼女の手をはなし、広場へととぼとぼ帰りはじめたが、もうその瞬間に、まるめた彼の背中のうしろで、邪悪な世の中全体が彼女をだまし、破滅させようとしているのを感ずることができた。(p.166)


本来の司祭という立場ならば、自分の娘だけを愛せばいいのではない。自分の娘だけが助かればいいのではなく、世の中の人をみんな愛し、みんなが助かるように祈らなければならない。でも、彼は銃殺される間際になっても、世の中の人を娘同等に愛そうとして失敗している。「あらゆるおそれと、救いたいという願いが、不当にもたった一人の子供に集中してしまった」(p.408)司祭という立場で私生児がいるだけでもまずいのに、この娘のことばかり気になってしまう主人公…とても人間的でなキャラクターではないか。キリスト教とか、そういう宗教なんて超えたところの親近感を、僕は感じてしまう。

* * * * *

「臆病者にだって、義務感というものがあるんだよ」(p.373)…『権力と栄光』は、この臆病者たる「ウィスキー坊主」が、逃げることだってできたのに、ただ優しさと義務感だけで殉教することになる物語。全体を見渡せば、この本が確かにちょっと「きれいごと」的になっている点は否めない。でも「良い本」なんて言われるものは、みんなそんなものだ。

そして…ドッジボールコートの内野に一人残された僕は、つまり、ボールから逃げに逃げまくった臆病者の僕は、早いところボールに当たってゲームを終わらせ楽になるべきか、それとも勝利への義務感から、壮絶な討ち死にを遂げるまで粘り続けるのか。こんなことになってしまうのだったら、どうして逃げていないで、最初からちゃんとがんばらなかったのだろう……そういうものだ(so it goes.)。

棄ててきた女

2007-03-30 23:43:15 | イギリスの小説
■若島正編 『棄ててきた女 アンソロジー/イギリス編』(異色作家短編集19 早川書房2007)

僕は持っていないのでわからないけど、「iPod」っていうのはきっと、どこかしらからかダウンロードした音楽を貯めこんで、持ち歩いて聴けるようにする機械なのだと思う。そして自分が好きだ、聴きたいと思った音楽だけを取り込めるのだから、自分専用の「ベスト・アルバム」が作れるということなのだろう。これって、考えてみたら、中学生のときなんかに、カセットテープに自分の好きな音楽だけを録音して集めたのと原理は一緒だ。

これを自分の好きな音楽ではなく、自分の好きな小説や詩を集めて一冊にまとめれば「アンソロジー」ということになる。もし商業的側面を度外視して(つまり、売れるとか儲かるとかを考慮せずに)、自分の好きな小説を集めてアンソロジーを作っていいよと言われたとしたら、あなたはどういうものを編集するだろうか。考えてみるとおもしろいかもしない。選ばれた作品を通して、編者という人間が浮かび上がってくる。集められた作品に選び出す側の興味関心が表れるのは当然として、人柄やいろいろな嗜好、さらには野心の有無とか、他人からどのように見られたいと思っているか、なんてことまでわかるような気がする。

たとえば極端な場合だけれども、「傑作」と賞賛されるような作品ばかりで構成されたアンソロジーがあったとしたら、それをよしとして選んだ編者もまた「傑作がわかる立派な人間」として認められたいという、意識的あるいは無意識的な意図があると想像する。とくに本の場合は音楽と異なり、iPodのように何千という、桁違いに大量の作品を取り込めるわけではない。好きなものを手当たり次第アンソロジーに組み入れるというわけにはいかない。だから選ばれて作品集として残ったものには、ただ「好きだ」以上の理由があると思われるわけで、アンソロジーを読むときは、このあたりの編者の取捨選択が興味深く感じられる。

さらに、選ばれた作品がどういう順番に並んでいるのかにも興味が沸く。年代順とかアルファベット順なら、面倒な類推はいらない。でもこの『棄ててきた女』みたいに、一見ランダムに配列されていると、うーん、と考え始めてしまう。これはコース料理がどのように出てくるかに似ている。前菜、メイン、デザート…勉強不足で三つしか思い浮かばないので、日本の会席料理のような、たくさんある名称のほうがいいかも…前菜、お吸物、刺身、煮物、焼き物、揚げ物、蒸し物、酢の物、ご飯、止め椀、香の物、水菓子…。じゃあ、冒頭のジョン・ウィンダムの「時間の縫い目」は前菜で、次のジェラルド・カーシュの「水よりも濃し」はお吸物なのかと言われると、なんだかよくわかならなくなってくるが、まあいい。

でも、食べ物との比喩はなかなか悪くない。仮にお弁当を食べているとして、あなたはおいしいものや好物を(僕だったらエビフライを)最後に食べるほうだろうか、それとも最初に食べてしまうほうだろうか。あるいは、頃合を見計らって、真ん中くらいに食べるのだろうか。つまり、『棄ててきた女』には十三編の作品が収録されているのだが、これらがみな同じように良い作品とは言えないだろう。編者にとっても、甲乙がきっとあるはず。そして、ベスト(つまりメインディッシュ)はどこにあるのか、一番最初だろうか。それとも一番最後? あるいは、真ん中くらいにさりげなく隠してあるのかもしれない。

アンソロジーのタイトルとなっている「棄ててきた女」は、十番目に登場するミュリエル・スパークの同名の短編から採られている。タイトルになっているのだから、これがベストなのだろうという見方もある。十番目という位置は、中間より後ろで、それでいてデザートになってしまうような順番でもなく、なかなかメインディッシュにふさわしい好位置であるとは思う。でも、世の中には先鋒、次鋒、中堅、副将、大将なんていう順番の決め方もあったりする。編者はもしかすると、柔道や剣道の団体戦のように、読者をコテンパンにやっつけてしまおうという意図かもしれないから、先鋒や次鋒あたりで討ち死にしないよう、心して読書するとよい。

* * * * *

実際のところ、僕にとっての「大将」レベルの作品は、後ろのほうになって登場してくる。十番目のミュリエル・スパーク、十一番目のウィリアム・トレヴァー、十二番目のアントニー・バージェス、この三人が僕はとくに好きだし、短編もなかなかおもしろかった。しかしこれはかなり個人的な色眼鏡を通しての判断であるのは間違いない。つまり、いわゆる「純文学」系の作家を「良いもの」とみなすように教育された(した)結果が反映してしまっている。このアンソロジー自体は、前菜、あるいは先鋒としてジョン・ウィンダムが据えられていることに象徴されるように、19世紀末から20世紀前半に生まれた作家による、娯楽文学と純文学の折衷のような体裁になっている。SFチックなものや、恐怖小説めいたものが好きな人なら、メインディッシュ、あるいは大将の位置づけは、僕とは大きく異なってくるだろう。 

あと、L.P.ハートリー(L.P.ハートレーとされることもある)の短編が含まれていることも注目したい。彼の作品が新たに日本語の活字になったのは、久しぶりではないかと思う(十年前後ぶりくらいか)。それにしても、ハートリーの短編はいつも「世界怪奇小説集」とか「幻想小説集」といったアンソロジーの一編として登場する。今回の「顔」という作品を含めると、少なくとも十編の彼の短編がこれまで翻訳されてきたわけで、これらを全部まとめれば十分に一冊の短編集として仕上がる。ハートリーのこんなアンソロジーを作ってくれる出版社はどこかにないのだろうか。確かにあんまり売れないとは思うけど。

ところで、今回の「異色作家短編集」には同じ編者による第18集として『狼の一族 アンソロジー/アメリカ編』というのと、第20集に『エソルド座の怪人 アンソロジー/世界編』がある。どちらもおもしろそうだけど、とくに第20集の世界編をそのうちに読んでみたい(編者若島氏のお気に入りらしいカブレラ=インファンテもちゃんと収録されている)。最近時々感じるのだけれども、英米の小説ばかり読んでいると、どうも視野が狭くなってしまうような気がする。単に飽きてきたせいか。ともかく、欧米の価値観が、全世界で諸手を挙げて賛成されるような、普遍的なものであるとは必ずしもみなされなくなっている現代、いろいろな地域のいろいろな人の小説を読むことには、それなりの意義があるだろう。

さらについでに言えば、「異色作家短編集」を刊行している早川書房は、今年から「ハヤカワepi〈ブック・プラネット〉」というシリーズを立ち上げていて、アルジェリア出身の作家ヤスミナ・カドラ(Yasmina Khadra)と、タイ系アメリカ人のラッタウット・ラープチャルーンサップ(Rattawut Lapcharoensap)の作品がこれまでに刊行された。「翻訳文学=欧米もの」という発想にとらわれない企画は素晴らしいと思う。ただし、両作家とも欧米で売れた実績のある人たちなので(ヤスミナ・カドラは国際的に評価されている作家、ラープチャルーンサップはまだ新人らしい)、今後どういう作家と作品が取り上げられていくのか、興味が尽きないところ。

赤い帽子をめぐって

2007-03-16 14:12:52 | イギリスの小説
■ジョン・ベイリー 『赤い帽子』 (高津昌宏訳、南雲堂フェニックス2007)
〔John Bayley The Red Hat 1997〕

フェルメールの絵を実際に観たことがあるだろうか。かつてロンドンで行われた「フェルメールとデルフト派展」に行き、僕は初めて彼の作品に遭遇したのだが、そのときの第一印象は、なんといっても「絵が小さい」ということ。一メートル四方くらいのキャンバスに描かれているものもあったが、例えばあの有名な『牛乳を注ぐ女』なんて、50センチメートル四方もない。どの作品も、こんな小さなキャンバスに細かく精密に描かれている。そして会場ではそれをじっくり鑑賞しようと、狭いスペースに人が多く群がり、人口密度が異様に高まってしまう。混んでいるところに巻き込まれるのは常に遠慮したい僕としては、せっかくのフェルメール鑑賞も、なかなかの難行苦行となってしまった。世界に三十数点しか残っていない作品のうち、十三点も集めた記念すべき展覧会だったそうだが、五年以上経過した現在、もはや鑑賞した記憶もかなり薄らいできている。

この「フェルメールとデルフト派展」の会場には、『赤い帽子の女』という絵もあったはずだ…といっても、僕ははっきり覚えていないのだが、記録を調べるとそういうことになっている。大きさは22.8x18センチメートルというとても小さな肖像画。フェルメールの真筆かどうか疑問の声も多いらしく、そういうことを知っていれば、もっと僕もしげしげと、人ごみに負けずに鑑賞しただろう。そして、この一枚の小さな絵から、ジョン・ベイリーはひとつの中篇小説を作り上げた。これが『赤い帽子』という作品。(ただし、ジョン・ベイリーのこの小説の発表は1997年。ロンドンのナショナル・ギャラリーでのフェルメール展は2001年。)

作者のジョン・ベイリーだが、僕にとっては(そして多くの人にとってもそうだと思うけれど)なんといっても、あのアイリス・マードックのご主人ということで名高い。彼女との結婚生活と、彼女が侵されたアルツハイマー病の経緯を描いた回想記は有名だし(邦訳あり)、その映画版である『アイリス』はもっと有名。ジム・ブロードベントが演じた、あの優しいけれど、かなり無器用そうなジョン・ベイリー像が印象に残っている。こんな具合で、マードックのご主人というイメージばかりが先行するが、彼は長らくオクスフォードで英文学の先生をしていた文芸批評家。最近の批評の本などではあまり登場してこないけど、一昔前、たとえば、バーナード・バーゴンジーの戦後英文学についての名著『The Situation of the Novel』(1970)を読むと、ベイリーの名がたくさん言及されている。

文芸評論家としても名高い大学の先生が、小説も書くというパターン…ぱっと思いつくだけでも、マルカム・ブラドベリとか、デイヴィッド・ロッジがいる。この二人の小説はなかなか面白いし、そして立場上、作品も創作技法にかなり意識的だ。ブラドベリの『超哲学者マンソンジュ氏』なんて、明らかに大学の先生が面白おかしく作った(ただし真面目な顔つきを装っている)という感じだし、ロッジの本も、とくに以前の作品には、文学を研究している人々がよく登場する。では、ジョン・ベイリーの『赤い帽子』は果たしてどんな小説なのか。

* * * * *

この本は第一部と第二部からなり、第一部ではナンシーという主人公が友人たちと一緒にオランダのハーグを訪れ、フェルメールの絵を観に出かけた顛末が語られる。第二部では、ナンシーによるハーグでの奇妙な体験談に興味を持ったローランドという男性が、ナンシーを南仏の小さな村まで追いかけ、そこでまた不思議な事件が発生するというストーリー。第一部はナンシーによって、第二部はローランドによって語られ、どうやら、彼らは必ずしも真実を述べていないようだが(彼ら自身が真実を把握していないようでもある)、読者は彼らの言葉からしか物語を知ることができない。いわゆる「信用できない語り手」というパターン。

とくに第一部でのナンシーの語りがとても不思議に感じられる。ナンシーはハーグで「浅黒く、ハンサムな男」(名前はわからない)に夢中になってしまい、その男が勝手にホテルの自室に入ってきても騒がないし、なんと彼に首を絞められ殺されそうになっても、このような感じだったりする:

「彼が実際やっていたことは、わたしの首を愛撫し、まさに快感が得られるように適切な箇所を締め上げることだった。わたしは気を失いつつも、天にも昇る気持ちだった。彼にもそれがわかっていたに違いない。おそらく十分な経験があったのだろう。わたしは極めて自然に呼吸し、呼吸しながら体に当たっている彼の厚い胸を感じ、まさに眠りに落ちるときの気分だった。真の『愛=死』だった」(p132)

首を絞められて快感というのは、いったいどういうことなんだろう、苦しくなるはずなのに…こういうふうに疑問を感じるのが普通の読み方だと思う。つまり、首を絞められて快感を得ているナンシーが、普通の人とはちょっと違って異常な状態にあるということだ。だから、彼女の言うことがあんまり信用できなくなる。また、この引用でも「に違いない」とか「おそらく…だろう」という言葉が使われているとおり、ナンシー以外の事柄でも、彼女自身の類推・観察でのみ表現されているわけで、作者ベイリーが読者に与える情報はかなり限られている。

『赤い帽子』を最後まで読んでも「それで、本当のところはどういうこと?」という疑問には、結局ベイリーは答えてくれていない。ナンシーと謎の男の関係はわからずじまい。むしろ、それまでオランダとフランスを舞台としていたところに、今度はナンシーがロンドンに現れるらしいぞ、という新たな展開を予感させるところで物語が終わる。日本で読書しているとわかりづらいが、これはイギリス本国の読者にとっては、ナンシーと謎の男のミステリーがイギリスにも忍び込んでくるぞ、と突然現実味を帯びさせている終わらせかた。幽霊小説とかで「この霊は、じつはあなたの身の回りにも今度現れるかもしれません」というふうに終わらせているのと一緒の技法だろう。

いずれにしても、謎を多く残したまま物語は終わる。そういえば、フェルメールの『赤い帽子の女』も、本当にフェルメールの手によるものなのか、謎が残っている。また、この絵に描かれた人物像が、果たして女性なのか、それとも女装した少年なのか、これも判然としない。さらに、研究者がこの絵にX線を照射して観察してみると、上下さかさまになった男性の肖像画が現れてきたそうだ。

* * * * *

「愛=死」なんて書いてある部分を引用したので、『赤い帽子』がなんとも奥深い文学であることを想像されたかたもいるかもしれないが、この本は実際のところかなり気軽に読める。同じ「愛と死」でもワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』みたいな、深遠な世界を連想してはいけない。一気に読めばそれほど時間もかからない、かなり軽めの本。なので、正直言うと、ちょっと価格が高いかもしれないと感じてしまった(2,940円)。ジョン・ベイリーのファンにとっては、この値段でも読む価値があるのだろうけれど、果たしてそういうマニアックな人は日本にどのくらいいるのだろう。

B.S.ジョンソンを朗読する

2007-03-02 14:31:15 | イギリスの小説
■B.S.ジョンソン『老人ホーム――一夜のコメディ』(青木純子訳、東京創元社2000)
〔B.S.Johnson House Mother Normal (1971)〕

かつてまだ中学生の頃、この年頃にはありがちだけれども、僕は部屋にあったラジオを一生懸命聴くようになり、なかでもNHKFMの熱心な愛聴者になった。NHKFMということはすなわち、クラシック音楽を主に聴いていたということだが、これとは別に、毎晩夜11時前に放送される連続ラジオドラマ「青春アドベンチャー」も楽しみにしていた。あと、週末に放送されるラジオドラマ「FMシアター」もよく聴いていた(両方とも現在でも放送されている番組)。当時からテレビではあまりドラマを観なかったが、ラジオのドラマは別で、受験だとか何やらの理由で自ら聴取を禁じるまでは、かなり定期的に聴いていたと思う。

耳で物語を聞くという作業は、テレビや映画を観るよりも、本を読むという行為に近いところがある。つまり、想像力が刺激される点だ。登場人物の容姿や、ストーリーに登場する舞台背景は、限られた言葉や音から、読者、あるいは聴取者が自らイメージをふくらませていく楽しみがある。ただこれは、視覚的な伝達がない分、ストーリーを理解するのが大変という意味でもある。テレビや映画はヴィジュアル表現にかなり助けられているので、どういうストーリーなのか理解が容易だ。本やラジオドラマは読者、あるいはリスナーへの負担が大きく、逆にテレビや映画は、誰にとっても安易に楽しめる。人間は情報の多くを聴覚よりも視覚から取り込んでいることもあり、この点が、テレビが普及した最大の要因なのかもしれない。

中学生や高校生の頃が過ぎると、NHKFMのラジオドラマとはすっかり疎遠になってしまった。最近はぜんぜん聴いていない。ただし、先日BBCのRadio4で「ジキルとハイド」のラジオドラマを聴いた。というか、インターネットラジオをつけっぱなしにして、別のことをしながら聴いていた。当然英語だし、よくわからないところも多々あるのだが、元の話を知っているので、まあ普通に楽しめた。「ジキルとハイド」は週末の特別番組だったが、Radio4には超有名な連続ラジオドラマ「The Archers」(みんなあのテーマ音楽を知っている)を筆頭に、こんな具合で、しょっちゅうラジオドラマをやっている。本や詩の朗読の番組も多い。もちろんRadio4が「Intelligent speech」のチャンネルで、音楽は基本的に流さないせいでもあるが、それにしても、イギリスにおける「ストーリーを耳で楽しむ」文化の度合いは、日本より圧倒的に高い。

例えば、いわゆる「オーディオブック」というものを考えてみると、日本では、夏目漱石や芥川龍之介といった広く親しまれている古典作家のオーディオ版(CDやカセットテープ)というのは、きっとどこかにはあるのだろうけど、僕は見かけたことがない。でも、ディケンズやオースティンのオーディオ版というのは、イギリスでは大きな本屋さんだと普通に売っている。試しにアマゾンのUK版で検索みれば、こういう古典作家の作品だと、ほとんどがCD版も入手できることがわかる。

テレビがない時代だったら、人間の声だけで物語を楽しむ文化は当たり前だったのだろう。イギリスの19世紀の小説を読んでいると、夜のくつろぎのひととき、家族の誰かが本を朗読している場面がよく登場する。そしてこんな朗読を楽しむ文化は、きっと以前の日本にもあったはずだ。『平家物語』は琵琶法師の弾き語りだったのだから。ただ、テレビや映画が普及する時代になり、どういう理由かはわからないが、日本ではラジオドラマとか朗読とかがそれほど一般的でないのに対し、イギリスではこの「聴いて楽しむ」文化が今でも根強く定着している。

* * * * *

ということで、B.S.ジョンソンの『老人ホーム』を僕がみなさんのために、朗読して差し上げましょう!…と意気込み、がんばってみたところで、この企画はきっと失敗するに違いない。普段の会話及びカラオケを考慮すると、僕の音声表現力には確かに限界があると思われるので、なんだったら有名な声優さんを起用してもいい。でも、きっとうまくいかないだろう。『老人ホーム』という作品は、もちろん言葉がつづられているから、これを声に出して読むという点では朗読は可能だ。僕でもできる。でも、この非常にユニークな作品の、ユニークたらしめている部分を、音声だけで伝えるのは、かなり困難、というか、無理だと思う。

この困難の原因は、B.S.ジョンソンが『老人ホーム』では言葉だけではなくて、視覚にも訴える書き方をしているせいだ。つまり、声だけでは伝えられない部分がある点に、この本が朗読では表現できない理由がある。ページを開けばわかるが、一般的な小説だと文字がぎっしり並んでいるところを、『老人ホーム』では一見詩のような、不思議な改行のなされた配置になっている。太文字は実際に登場人物が声に出した言葉、平常の書体は頭の中の思考を表している。そして、読み進むにつれて、ページに印刷された文字数はどんどん少なくなっていく。つまり、これは登場人物の思考が減少していくことを意味している。最終的には、思考の停止を表す白紙のページまでもが現れてしまう。

さらに興味深いのは、この本には各章に一人ずつ、八人の老人と一人の寮母が登場するのだが、それぞれに割り振れらた各章のページが三十ページで揃えられていて、さらに、その三十ページが時間的に重なり合うようにできあがっているところ。つまり、例えばセーラという老人の十ページ目は、他の全ての登場人物についての各章の十ページ目と時間的に一致している。こういう構成なので、最初は意味不明な部分であっても、最後の登場人物の章まで読み進めれば、内容がかなり理解できるようになっている。

確かに朗読できないことはあるまい…でも、白紙のページが続く部分は、どうしたらいいのか。僕はずっと黙っていればいいのだろうか。あと、思考が散漫になり、印刷された文字が、ページ中を飛び散っているような箇所は、どのように音声で表現したらよいのか。それに、ページをめくるというのは、本を読むときだけの作業だ。音読するときは「ページをめくります」なんていちいち言わない。でも、『老人ホーム』は、そのとき何ページ目を読んでいるのか、これを意識することが楽しむために必須となってくる。「誰それの何ページ目を読んでいます」という具合に、本文に書かれた言葉以外のことまで説明しなくてはいけないわけだが、果たしてそういう「注」の施された朗読を楽しめるのかどうか、はなはだ疑わしい。

『老人ホーム』は、このようにかなり独創的な作品だ。印刷された文字がルールどおりに配列されていて、それを順番に読み進んでいけばOKというような、一般的な小説とはかなり異なる。印刷された文字はルールどおりには配列されていないので、まずその配列の意味から考えていかなくてはならない。そして、この本の最後には、登場人物自らが、小説のルールを踏み外す行為に出る:


      さて、この辺で、わたしもそろそろ
決まり事の枠組みから外れることにいたしましょうか。各人三十ページに
割り振られた世界から。もうおわかりかと思いますが、わたしもまた
作者の操り人形というか、でっち上げの存在で(常に背後にちらつく作者の影に
気づいていらしたでしょ? あら、読者のみなさんをだまそうなんて
不可能ですもの!)、 (p298)


こんなふうに「作者」がいて、「でっちあげ」であることを認めてしまう。できるだけ本当にあったことのような、リアリティーを旨とする従来の一般的な小説と比べて、『老人ホーム』がいかに無謀な企てであるか。でも、こういう無謀さこそB.S.ジョンソンの真骨頂なので、たとえ朗読ができないからといって、価値がない小説なのだと切り捨ててしまうのは、ちょっとどうなのだろう。ジョンソンが自ら影響を認めているロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』にだって、ひっきりなしに作者は登場し、明らかに朗読不可能と思われるページが多数あるが(真っ黒に黒塗りされたページをどう発音するのだろう)、その価値は十分認められているのだから。

* * * * *

実は、ロレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』には、なんと、オーディオCDが存在する。もちろん、要約版ではあるのだけれど(Naxos AudioBooksシリーズより発売)。だったら、B.S.ジョンソンの諸作品だって、朗読版が可能ではないだろうか…。どんなものだって音声表現にしてしまう、イギリスの朗読文化をあなどってはいけない。

※Naxos AudioBooksのウェブサイト:http://www.naxosaudiobooks.com/

トレヴァーの短編集

2007-02-23 23:21:33 | イギリスの小説
■ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』(栩木伸明訳、国書刊行会「短編小説の快楽」シリーズ、2007)

イギリスに旅行に行くとしたら、いつの時期に出かけるのがいいだろうか。自分の仕事とか、旅行代金とか、そういう諸事情を一切忘れて、一番訪れてみたい時期を考えてみる。買い物が好きな人は、セールが始まる七月か、クリスマス明けがいいかもしれない。街中を華やかに彩るクリスマスのイルミネーションを楽しみたいなら、十一月過ぎがいいと思う。オペラやコンサート、バレエを楽しむならば、主要なシーズンは十月から三月くらいになる。

こうして考えると、秋から冬のイギリス、とくにロンドンを訪れるのも、いろいろ楽しみがあることがわかる。でも、もし僕自身、いつイギリスに行ってみたいかと尋ねられたら、その答えは絶対に「夏」だ。五月から八月の間に行きたい。向こうで仕事をしていた頃、この季節の印象で忘れられないのは、なんといっても日が長いこと。職場を出ても、まだ外は明るい。夕方のような時間が夜九時や十時くらいまで続く。(そして「まだ明るいし…」ということで、ついついパブに寄り道してビールを一杯、ということになる。)こういう「夏」を感じられる季節に、僕はぜひ行きたい。

「イギリスは天気が良くない、傘が手放せない」という話はよくあるが、これは冬については確かに正しい。寒くて湿った日が多い。でも、そのぶんを取り戻すかのように、夏は概して好天に恵まれる。暑い日も多い。僕が住んでいた二年間がたまたまそうだったのかもしれないが、夏に傘を広げたという記憶があまりない(冬は必需品)。夏の日の午後、家の近くのハムステッド・ヒース(ロンドンの北寄りにある公園、というか、丘の上に広がる草原と林)をときどき散歩したのだが、今から考えると、なんとまあ贅沢なひとときだったのだろうと思う。記憶につき、かなり美化されているのも、きっと確かだろうが。

* * * * *

こんなイギリスの夏を思い出したのも、ウィリアム・トレヴァーの短編「マティルダのイングランド」を読んだことによる。この短編は「テニスコート」「サマーハウス」「客間」の三篇から成るのだが、とくに「テニスコート」が秀逸で、僕はこれを読んで、イギリスの夏の記憶に思い当たった。この物語の舞台はイングランドのどこかの田舎。1939年の夏のできごと。農家の子供である主人公のマティルダには、姉ベティーと兄ディックがいて、三人とも村の学校に通っている。この子供たちが、ミセス・アシュバートンという没落したお屋敷に住む老女から、テニスをしてみないかと誘われる。老女の提供するケーキやチョコレートに心を動かされ、ディックを中心に屋敷の荒廃とともに草ぼうぼうの状態になってしまったテニスコートをきれいに作りなおし、ついにテニスができるようなコートに整備する。そして8月31日、ミセス・アシュバートンの念願だったテニスパーティーが盛大に、村人総出で行われたのだった。

このテニスパーティーで、参加者たちは夜十時くらいまでテニスをやっているが、これは上に書いたとおり、日本の夜十時のイメージとは違うということだ。爽やかな夏の夕暮れ。と言っても、さすがに夜十時だとかなり薄暗くなる。

「テニスコート」は必ずしも明るい、ハッピーエンドのお話しではない。ミセス・アシュバートンの住むチャラコム屋敷は、第一次世界大戦までは栄えていて、夫のミスタ・アシュバートンがテニス好きだったこともあり、何度もテニスパーティーが開催されていたのだった。ところが、第一次世界大戦に参戦し、復員してきたミスタ・アシュバートンは精神的に病んでいて、経済的にチャラコムを維持できなくなる。そして彼の死とともに、屋敷は銀行の管理下に置かれるようになってしまう。二十世紀に入り、両大戦を経るころから、昔ながらの広大な屋敷を経済的に維持できなくなるというパターンは、イギリス文学でも比較的頻繁に描かれている展開。

そして、僕がテニスパーティーの実施日をわざわざ1939年の8月31日と明記したのにも理由がある。八月最後の一日で、これで今年の夏も終わってしまう、という終焉感…たしかにそれもあるだろう。しかしそれよりも、再びドイツとの大きな戦争が始まるという感覚、つまり幸せだった時代の終焉という感覚が、この、ある田舎の夏の物語に重く暗い影を与えている。マティルダの父親は、テニスパーティーからの帰り道に「あれですべて終わったってことだな」とつぶやく。でも、この終焉感があるからこそ、テニスパーティーがとても明るく幸せに、そして、はかなくて尊いものに感じられるわけだ。

* * * * *

ウィリアム・トレヴァーは短編小説の名手として高く評価されているが、この「テニスコート」の中でも、さすがだなあと思ってしまうところがあった。チャラコムのテニスコートを整備するにあたり、ディックはそもそもあんまりやる気がなかったのだが、ミセス・アシュバートンからタバコで懐柔させられてしまう場面:


彼女(ミセス・アシュバートン)は、先頭に立って草ぼうぼうのテニスコートへ歩いて行き、わたしたちは四人揃ってコートを眺めた。
「タバコを吸ってもいいのよ、ディック」と彼女は言った。
ディックは笑うしか反応のしようがなかった。そして日没の太陽みたいに顔を真っ赤にした。彼は赤く錆びた支柱をぽんと蹴ると、できるだけさりげなくポケットに手を突っ込んでつぶれたウッドパインの箱をとりだし、がさごそ音を立ててマッチ箱を開けた。ベティーは兄を肘で突いて、ミセス・アシュバートンにも一本あげたら、とうながした。
「ひとついかがですか、ミセス・アシュバートン?」とつぶれた箱をさしだしながらディックが言った。
「そうね、じゃあいただこうかしら、ディック」彼女は笑いながらタバコに手を伸ばして、一九一五年以来吸ってなかったのよ、と言った。ディックは彼女のためにマッチを擦った。その拍子にマッチ棒が何本か、丈の高い草むらに散らばった。兄はくわえタバコで、落ちたマッチを拾い上げて箱にしまった。ふたりのとりあわせはなんだかおかしかった。ミセス・アシュバートンは、大きな白い帽子にサングラスのいでたちだった。
「草刈り鎌が必要ですね」とディックがつぶやいた。(p225)


ディックは当初、「ミセス・アシュバートンは自分たちを使ってテニスコートを整備させようとしている、ずるい」などと言い、テニスコートの件には消極的だった。ところがミセス・アシュバートンとのタバコのやり取りの結果、自分から「草刈り鎌が必要だ」と言うまでに心変わりしてしまう。ディックはまだ十五歳で、父親からはタバコを吸う許可が得られておらず、ふだんは隠れて吸っていたのだった。このディックに対し、ミセス・アシュバートンは唐突に「タバコを吸ってもいいのよ」と語りかける。そして、二人で一緒にタバコを楽しむ。八十一歳の老女と十五歳の少年の間に通じ合った、何かしらの理解。このあたりの感情の機微の描きかたが、とてもうまいなあと僕は思う。仮にこの部分に「タバコを認められたディックは、それまでのミセス・アシュバートンへの気持ちを改め、テニスコートを整備する計画に賛成してもよいという気分になったのでした」なんて書いてあったら、とても興ざめではないか。

* * * * *

今回紹介した「テニスコート」は、最近発売されたばかりのウィリアム・トレヴァーの短編選集『聖母の贈り物』に収められている。このほかに十一篇の短編が集められているのだが、どれもみな同じようにすばらしい。彼の評判に違わない佳作ばかり。

すばらしい新世界

2007-02-16 22:18:01 | イギリスの小説
■オルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』(松村達雄訳、講談社文庫1974)

たしか大学二年生の頃のこと。もう十年以上も前の話だ。「英語が勉強できるからいいかも」くらいの、ほとんど気まぐれから英米文学を専攻してしまった僕は、いったい何をこの専攻で勉強したいのかよくわかっていなかった。読書は子供のころからの趣味(というよりは悪癖…常に勉強の妨げだった)で、ドストエフスキーやらカフカやらは愛読していたけれども、実を言えばイギリスの小説にはほとんど無縁の状態。強いていえば、ドリトル先生シリーズとシャーロックホームズのシリーズをかつて読んだ、という程度。

とりあえず英米文学専攻なのだし…ということで、ディケンズをかたっぱしから読んでみたが、まあ、これはこれで面白いけど、いまいちピンとこない。そんなとき、強制的に振り分けられた「原典購読」の授業の、これまた選択の余地なく決定された教科書(『戦後イギリス文化史』…実は今でも折々に参照する大切な一冊)の中で、ついに「これだ」という作品に出くわした。その発見は二冊。ジョージ・オーウェルの『1984年』とウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』。そう、読んだ人はわかると思うのだけれども、当時の僕は、こういう感じの、つまり、近未来を舞台とするSF調で、かつ、文学的壮絶さも備えた、こんな印象の本が読みたかったのだ。

『蝿の王』を始めとするゴールディングのほうは、ゆくゆく卒論へと発展するのだけれども、『1984年』もこのままでは終わらなかった。オーウェルの他の作品を読んでみる一方で、いわゆる「ユートピア」とか「アンチユートピア」と呼ばれる作品群へと僕の触手は伸びていった。イギリスは元祖『ユートピア』が書かれた国だけあって、この手の文学には伝統がある。学校の図書館で『ユートピアだより』(ウィリアム・モリス作)とか『エレホン』(サミュエル・バトラー作)を見つけたときは、心躍ったものだ。

そしてこんな経緯で、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』もまた僕の視界に入ってきて、初めて読んだのだった。今でも僕の手元にある文庫版『すばらしい新世界』は1993年の版。ちょうど僕がアンチユートピア文学に興味を持った頃に購入したもの。当時は、入手して読んでみるだけでOKみたいな状態だったから(現在でもこの傾向はあまり変わってないかもしれないが)、「なるほどね」くらいの感想で、その後は五年に一度読むかどうかくらいの頻度になった。

五年に一度…これはつまり、あんまり読んでいないということだ。たとえば『1984年』のほうはもっと何回も何回も読んでいる。話の筋は覚えているし、印象的なセリフや場面は頻繁に思い出すことがある。明らかに『1984年』のほうが読み物として面白いということなのだろう。もちろん、こういうのは作品の良し悪しよりも、好みの影響が大きいので断言できないけれども。でも、他の有名なアンチユートピア小説である『われら』(ザミャーチン作…ロシア人)とか、『時計仕掛けのオレンジ』(アントニー・バージェス作)のほうがもっと繰り返し読んでいる。やっぱり『すばらしい新世界』はつまらない本なのだろうか。

* * * * *

ということで、今回久しぶりにこのハクスリーの代表作を読んでみた。そして、こういう結論を得た:読み物(fictionという意味で)としては、やっぱりちょっとつまらないかもしれない。

基本的に、アンチユートピア的世界が描かれているフィクションは好きなので、そういう観点からはなかなか「良い」作品であることには間違いない。でも、生意気ながら、現在の僕はそれだけでは読書に満足できないらしい。『すばらしい新世界』には、「主義主張」や「思想」はあるのだけれども、読み物として面白くなるための何かが足りない。

しっくり読めない原因はおそらく、登場人物たちの描かれかたに起因するように思う。読んだことのある人に質問したいのだけれども、この『すばらしい新世界』って、主人公は一体誰なのだろう。バーナード・マルクスか。それとも「野蛮人」ことジョンだろうか。当初僕は、身体的に恵まれず劣等感に悩むバーナード・マルクスが、完璧な美男子で才能にも恵まれたヘルムホルツ・ワトキンスと孤独という点で結ばれて、友情をはぐくんでいくあたりが興味深いと思っていた。でも、途中から野蛮人ジョンが大きな存在感を占めるようになり、それと平行して、マルクスはかなりつまらない人間になる。ジョンの人物造形自体はなかなか悪くないと思うのだが、それでも、読み進んでいっても、あんまり深みが感じられてこない。平板な道徳観念や愛情観念を振りかざすだけなので、彼にはあまり感情移行できなくなってしまう。

そして、最後にジョンは自殺に至るのだけれども、これがまた悲劇的にはあんまり思えない。どちらかというと、この「すばらしい新世界」を頑固なまでに拒絶するジョンの振る舞いが、喜劇的に思えてしまう。

主人公が誰だかはっきりしない小説というのは、実際には、ままあることだ。アイリス・マードックの小説には、いろいろな人の描写が編み上げられていて、結局のところ誰が主人公とは言いかねる作品が多い(例としては代表作『鐘』もそう)。だから、一人の人物を集中して描く必要は必ずしもない。でもこの本、僕が思うに、もっと印象的で壮絶な内容にできただろう…とくに後半がつまらなくなっていくから、そういうところがなんとかなっていれば…。これだけシェイクスピアを引用しているのに、惜しいところ。

* * * * *

アンチユートピア小説…熱を上げていた大学生のころを比べて、今ではだいぶ客観的に読めるようになったのではないかと思う。この手のフィクションが熱っぽく語る思想や主義主張に惑わされない読みかた、これが必要だと感じている。この手の本は覚めた目で読んだほうが発見がある。

『すばらしい新世界』と『1984年』はしばしば比較され、その違いがあれこれと指摘されるが、僕にとっては共通点がかなり目に付く。標語・モットーの類が繰り返されるところ、階級(カースト)社会、歴史の軽視、権力の温存。そして、『すばらしい新世界』のジョンがデルタ階級に「自由」を理解させようとしたところは、『1984年』で主人公のウィンストン・スミスがプロレ階級を蜂起させようと夢見たこととぴったり合致する。

この二つの作品で大きく食い違うように思えるとしたら、『1984年』が「肉体的な痛み」で人々を支配しているのに対し、『すばらしい新世界』が「肉体的快楽」で人々を支配しているところだ。でも、考えればわかってもらえると思うのだが、これはつまるところ、同じ事柄を一方では表側から描き、他方は裏側から描いているに過ぎない。「痛み」と「快楽」…人間の快/不快という感覚に訴えて支配するという点で、これは結局同じことではないか。ただ単に、表と裏のどっちを攻略するか、という問題に過ぎない。

こんな具合で、ユートピア小説やアンチユートピア小説はかなりワンパターンのような気がする。こういう点を乗り越えるような魅力…それはきっと登場人物の人間的な深みや、人間関係の織り成す「あや」にあると思うのだが、これは僕の期待しすぎだろうか。

エリザベス・テイラーについて

2007-02-02 17:04:49 | イギリスの小説
前回、『家族のかたち』というアンソロージーを紹介した中で、エリザベス・テイラー(小説家)について少し書いた。今回はその続き。彼女についてもう少し。

エリザベス・テイラーの場合、名前の後ろに「(小説家)」と入れないと、あの有名な女優さんと同姓同名ということもあって、かなりまぎらわしい。この小説家は1912年にレディングで生まれ、アビー・スクールを出た。その後、家庭教師をしたり図書館で司書をしたあと、24歳でお菓子工場の経営者と結婚。そしてポイントは1945年からで、この年に小説『リッピンコート夫人の家で』が出版されて作家デビューを果たした。その後、十作を越える長編小説といくつかの短編集を書き、1975年に亡くなった。

知名度はあまり高くない。彼女はよく「one of the hidden treasures of the English novel」なんて紹介されている。比較的詳しくてアカデミックな現代文学史の本でも、作品や経歴が取り上げられていなかったりして、ちょっと残念なこともある。どうやら「退屈な日常生活を描いた平凡な作家」みたいなイメージがあるせいらしい。でも、ちょうど死後三十年を経た昨年くらいから、少し動きが出てきている。

まず昨年の4月、出版社のViragoが、エリザベス・テイラーの作品のうち六つの小説をペイパーバックで一気に復刊させた。

■『At Mrs Lippincote's』(1945)
■『A View of the Harbour』 (1947)
■『Angel』 (1957)
■『In a Summer Season』 (1961)
■『Mrs Palfrey at the Claremont』 (1971)
■『Blaming』 (1976)

たとえば『A View of the Harbour』には、『The Night Watch』などで昨今好評なサラ・ウォーターズのイントロダクションが付いている。そして『Angel』にはこれまた有名なヒラリー・マンテルのイントロダクションが付いている。こんな具合で、今回はなかなか意欲的な出版だと思う。その結果、イギリスの主要紙に書評が掲載されたり、ラジオ番組で紹介されたりして「彼女はやっぱりなかなか面白い」みたいなことになっている。再評価の機運が高まってきた…だろうか。

もうひとつ、今年2007年、彼女の小説を基にした映画が公開される。これは、フランスの映画監督、フランソワ・オゾン氏による『Angel』(あるいは『The Real Life of Angel Deverell』)という作品。エリザベス・テイラーの小説『Angel』が原作で、ある女性作家の人生を描いたものらしい(少なくとも、小説のほうは…僕は実際には読んでいないので)。フランス本国では今年の3月14日から劇場公開されるということ。果たして『Angel』は日本でも公開されるのだろうか。ぜひ観てみたいと思うところだけれども、僕が調べた限りではまだわからないが、今までのオゾン監督の作品はみんな順調に公開されているようなので、まあ期待していいと思う。

* * * * *

日本語で楽しめるエリザベス・テイラーの作品は非常に限られていて、長編小説だと翻訳は皆無。僕の知っているかぎりだと、短編小説のうち、四作品のみが翻訳されている。

■深町真理子訳 「生涯のはじめての死」 (青木日出夫編『ニューヨーカー短編集』 角川文庫1973)
原題「First Death of Her Life」(短編集『Hester Lilly』1954)

これはもともと雑誌『ニューヨーカー』誌に掲載されたもの。とても短い作品。あっと言うまに読み終わってしまうくらい。母の死に際した若い女性主人公の心の動きを描いている。

■伊東昌子訳 「プア・ガール」 (中田耕治編『恐怖の1ダース』 講談社文庫1980) 
原題「Poor Girl」 (短編集『The Blush and Other Stories』1958)

これはなかなかおもしろいと思った。「生涯のはじめての死」よりも長さはずっとある。ある若い女性の家庭教師が主人公。ある家で七歳の少年を教えている。ところが、彼女は地味でまじめな性格であるはずなのに、自分でわけもわからないうちに、なにやら情熱的な気分にとりつかれてしまうようになる。そしてこの家の主人に関係を迫られるが…という展開。一種の幽霊談であると思う。

■小野寺健訳 「蠅取紙」 (小野寺健編訳『20世紀イギリス短篇選』 岩波文庫1987)
原題「The Fly-Paper」 (短編集『The Devastating Boys』1972)

ピアノのレッスンに向かう女の子が主人公。バスに乗ったところ、変な男に声をかけれて迷惑していると、同乗していたおばさんが助けてくれる。レッスンの時間までちょっと時間があったので、そのおばさんの家に行ってみると…という話。おばさんの家の窓から蝿取紙がぶらさがっているのが、このストーリーの象徴になっている。

■川本静子訳 「ミスタ・ウォートン」 (佐藤宏子/川本静子訳『英語圏女性作家の描く 家族のかたち』 ミネルヴァ書房2006)
原題「Mr Wharton」 (短編集『A Dedicated Man and Other Stories』1965)

前回のブログで紹介した作品。自分の娘がロンドンで一人暮らしを始めるというので、主人公の母親がその住まいの準備と、生活の手伝いをする。娘は、職場の上司であるミスタ・ウォートンの悪口を始終言っているが、実は彼女はその上司と…という展開。これもなかなかおもしろい。

* * * * *

やっぱり、長編小説をひとつも読めないというのはさびしい。仕方なく英語で読むしかないだろうか。『Angel』については映画を観てから読んでもいいだろうが、もしかすると原作とはちょっと違う話だったりするかもしれないから、逆に混乱してしまうかもしれない。いずれにせよ、他の長編小説もそれぞれの紹介文を読んでいると、なかなか興味をそそられるものばかり。

※映画『Angel』の情報は、フランソワ・オゾン監督のサイトから:http://www.francois-ozon.com/

アンソロジー『家族のかたち』

2007-01-29 15:11:04 | イギリスの小説
■『英語圏女性作家の描く 家族のかたち』
(佐藤宏子/川本静子訳、ミネルヴァ書房 MINERVA世界文学選、2006)

この本は今までの日本にはなかった、とても面白い視点のアンソロジーだと思う。面白い視点とは言っても、別に奇をてらったテーマによる編集ではない。20世紀後半の英語で書かれた女性作家による短編を集めたもの。ここには三つの重要なポイントがある。一つめは女性作家という区分。日本でも状況は同じだが、20世紀に入り、それまで稀少であった女性作家が次々に登場するようになった。さらに第二次世界大戦を経てその数は急激に増加し、現代では質の高い作品が次々に発表されている。イギリスでもこの状況は同じだし、世界全体でもこの傾向は変わらない。

二つめに注目するのは、短編小説集であること。女性作家の急増と並んで、短編小説というジャンルの興隆も20世紀的な現象と言えるだろう。僕は専門家ではないからこれを例証していくことはできないけれども、19世紀が何巻にもわたるような長編小説が中心の時代であったのに対し(イギリスならばディケンズやサッカレー、それにフランス・ロシアの文豪たちの作品)、現代社会の多忙な生活環境を反映してか、現代では、すぐに読みきれるような、どちらかといえば短編小説が多く生み出されるようになっている。個人的には、19世紀後半のエドガー・アラン・ポーと、20世紀初頭のキャサリン・マンスフィールドの二人の短編小説の名手が現れて以降、「短編小説」というジャンルは完成されたと思う。

そして最後に、このアンソロジーが「英語圏」(イギリス、インド、北米、アフリカ、大洋州)という、広範囲にわたっての作家の作品を収録していることも、非常に現代的で注目すべきところだと思う。本来イギリス諸島で使用されていたこの言語は、イギリス植民地の広がりとともに世界各地で使用されるようになった。その結果、「ポスト・コロニニアズム」といった批評用語に馴染みがなくても、ここ30年くらいのブッカー賞の受賞リストや最終選考リストを見れば、いわゆる「イギリス文学」が、それまでの地域的枠組みにはもはや収まらない時代になっているのを実感できる。

こうしてみると、この『英語圏女性作家の描く 家族のかたち』が、「女性」「短編」「拡大する英語圏」という三つの重要な切り口をそろえた、非常に現代的視点を備えた優れた視点によるアンソロジーだということが想像できる。家族という枠組みの中で、女性は「娘」「母」「妻」、あるいは「姉妹」とか「おばさん」なんてこともあるだろうが、これらの立場の存在自体は、世界中どこに行っても変化しない。しかし、同じ「母」でも、どのように振舞うかについては、時代や地域によって大きく変化する。こういった共通点と相違点、あるいは多面性というものを読み解くのがこの本の興味のひとつ。そして、そういう内容表現を支えている、「短編小説」を成立させるための技法を楽しむのが、もうひとつの楽しみになるのではないかと思う。

* * * * *

さて、褒めちぎってはみたけれど、良い視点から編集されたアンソロジーも、集められた作品がつまらなくては元も子もない。

まず注目は、エリザベス・テイラーだろう。彼女の「ミスタ・ウォートン」がこの本の一番最初に収録されている。あまたいるイギリスの女性作家のうち、テイラーを選ぶなんて趣味がいいと僕は思う。(ただしちょっと「お上品」な感じがつきまとう…田舎の小さな街で、小奇麗な中年女性が午後のひととき、美しくバラでも咲いた庭が見える部屋で紅茶をすすっている…そんなイメージ。)エリザベス・テイラーの作品は、こんな感じのイギリス的小奇麗さ設定の中に、ちょっと痛みとか、もどかしさとか、同時に笑ってしまうようなおかしさが感じられることが多い。そしてこの「ミスタ・ウォートン」でも、僕は主人公のヒルダに対しては、真面目な登場人物なのでちょっとかわいそうと同情もしてしまうが、基本的にはやっぱりおかしい(funny)と思う。

邦訳が少なくて、なかなか知名度が上がらないエリザベス・テイラーがこのように収録されただけでも、このアンソロジーは価値がある。さらに僕の好きなフェイ・ウェルドンの「週末」が入っているのもなかなかよろしい傾向。この人の書く作品は、女性ならではだと思う。彼女のようには、男性は絶対書けまい。こういうアンソロジーには常連のウェルドンだが、この人の場合、文体にも注目が必要。長々と文章を連ねるのではなく、短く、単語をポンポン勢いよく連ねていく。そして、ある程度文章がまとまると(一段落分ぐらい)、次の段落にそのまま行くのではなく、一行空白を開けてから次に行く。つまり極端な部分でいえば、こんな感じ:


Martin drives. Martha, for once, drowses.

The right food, the right words, the right play. Doctors for the tonsils: dentists for the molars. Confiscate gums: censor television: encourage creativity. Paints and paper to hand: books on the shelves: meetings with teachers. Music teachers. Dancing lessons. Parties. Friends to tea. Shcool plays. Open days. Junior orchestra.

Martha is jolted awake. Traffic lights. Martin doesn't like Martha to sleep while he drives.

Clothes. Oh, clothes! Can't wear this: must wear that. Dress shops. Pile of clothes in corners: duly washed, but waiting to be ironed, waiting to be put away.

Get the piles off the floor, into the laundry baskets. Martin doesn't like a mess.
 (Fay Weldon 「Weekend」原文から)

そして、このアンソロジーでは、このように翻訳されている:


 マーティンは運転し、一度だけ、マーサはうとうとした。
 然るべきものを食べさせ、然るべき言葉を使わせ、然るべき遊びをさせる。扁桃腺が腫れると医者へ、臼歯が生えると歯医者へ。ガムを取り上げ、テレビ番組に目を光らせ、創造力をのばすようにする。手近に絵の具と紙、書棚に本、教師との面談。音楽の先生につける。ダンスのレッスン。パーティ。お友達をお茶に招く。学校劇の上演。授業参観日。児童オーケストラ。
 がたがたと揺さぶられてマーサは目を覚ました。交通信号灯が目に入る。マーティンは自分が運転しているときにマーサが眠るのをいやがった。
 衣類。ああ、衣類!これは着られない、あれを着なくちゃ。洋服やに出向く。隅っこに積み上げられた衣類の山。ちゃんと洗ってはあるものの、アイロンをかけて、しまわれるのを待っているのだ。
 床に山積みの衣類を洗濯籠に入れなさい。マーティンは散らかっているのが嫌いだ。
 (『英語圏女性作家の描く 家族のかたち』の「週末」より)

僕の個人的な希望としては、本来の原文にあるような、行間のスペースを尊重してほしかった。今回の翻訳では、紙の分量の問題か、行間にスペースを入れるのは省略されている。実際には、こういうスペースが意外な効果をもたらすことも十分ありえる。例えば、似たようにスペースを開けて書く方法をとる作家に(と言っても、内容はまったく違うジャンルだが)、カート・ヴォネガットがいる。少なくともヴォネガットの小説の場合、僕が思うに、こういう行間が、印象的で不思議な深みを小説にもたらしている。

いずれにしても、ウェルドンの短編の中でも「週末」は傑作と言われるだけのことはある。読む価値あり。独特の読後感があると思うが、これこそウェルドンの味わい。

* * * * *

エリザベス・テイラーとフェイ・ウェルドンしか紹介しなかったけれども、このアンソロジーにはまだ他に13人もの作家がいる。これらの中で、僕が比較的知っているのは、A.S.バイアットだけ。あとは、聞いたことはあるけど読んだことはない名前か、もしくは、初めて知った名前ばかり。

ちなみに、「なかなかいいなあ」と思ったのは、マーガレット・アトウッドの作品。非常に有名な作家だけれども、僕は一冊も読んだことがない。こういう機会に読んでみると、発見があっていい。出会いになる。あと、メアリ・ゴードンという作家の「仮のすみか」というのも良かった。アメリカ文学ではそれなりに有名な人らしいが、ぜんぜん名前に心当たりがなくて、知っていることがだいぶ偏っているなあと反省してしまう。こんな感じで、どれが良かったとか、誰のが好きとか、こういうアンソロジーは楽しみが多くていい。

笑いのちから

2007-01-13 01:52:59 | イギリスの小説
■富山太佳夫 『笑う大英帝国――文化としてのユーモア』(岩波書店、岩波新書 2006)
■澤村灌・高儀進編 『イギリス・ユーモア文学傑作選 笑いの遊歩道』(白水社、白水Uブックス 1990)

先日、紀伊国屋書店新宿本店の五階で「笑いのちから」という特集コーナーをやってるよ、というメールを頂いた。せっかくなので、どれどれ、ということで仕事の合間の昼休みに行ってみた。そこでは、中央のレジ前の棚の一面を使い、「笑い」というテーマを切り口に、研究書から文庫本まで、硬そうなものから気軽なものまで、あれこれ本が並べられていた。研究用の洋書のパンフレットリストまで備えられていて、紀伊国屋書店らしい、ブッキッシュというか、本格的な顔ものぞかせている。

たった棚一面だけだから、どんな本があるのかざっと見るのに五分もかからないのだが、こういう陳列もなかなか興味深い。本屋さんというのは、研究書は研究書のコーナーに、新書は新書のコーナーに、という具合で、本の内容ではなくどちらかといえば体裁ごとに仕分けされていることが多い。だからこういうような本の配列のしかたは新鮮に映る。「日本文化における笑い」みたいな本と、イギリスのユーモア小説とが、隣りあわせで飾られていることのなんて、あんまりない。

そんなこんなで、本格的で知的好奇心をくすぐる書籍もあったのだけれど、結局紀伊国屋の作戦通りお金を支払ってしまったのは、この上の二冊。ねらいとしては、まず岩波新書の『笑う大英帝国』を読み、イギリスのユーモアについて、その理論を「お勉強」をしてみる。そしてその後、もう一方のイギリスユーモア小説のアンソロジーを読み、理論から実践へ、ユーモアの現場を体験してみよう、というか、実際に笑ってみようという魂胆。果たしてうまくいくのだろうか。

* * * * *

『笑う大英帝国』は実際のところ、ユーモア理論の硬い研究書などではなくて、王室から下ネタまでの実例豊富な、愉快な新書だったりする。王室ネタの紹介はなかなか楽しいし、政治ネタでも、とくに副首相プレスコット氏のことなどは、もし彼についてよく知らないのならば、ぜひ読んでみてもらいたいと思うところ。イギリスにはああいう政治家がいて、労働党が嫌いな人でも、彼のことはなんだか憎めない感じがするわけだ。

個人的には、「ガリバー旅行記」で有名なジョナサン・スウィフトの『使用人心得』が紹介されていたところが注目だった。僕が読んだのは昨年の4月、岩波文庫の古めかしい復刻版で、タイトルも『奴婢訓』という、いかにもいかめしいものだったが、これがまたなんとも愉快な一冊。そして『笑う大英帝国』の中でも、僕が『奴婢訓』でとくに抜群のおかしさだと思ったところ(「主人に一度名前を呼ばれてもすぐには行かないこと・・・召使は犬ではないのだから」と「料理中のスープに煤が落ちて入ってしまったら、そのままよくかき混ぜて、高尚な『フランス風味』に仕上げること」)が同様に引用されていた。僕もこの新書の著者先生と同じところをおかしいと思えるほどはユーモアのセンスがあるのだと一安心した・・・と言いたいところだが、この『奴婢訓』は、どこを読んでもおかしいので、あまり参考にはならないかもしれない。

召使ネタといえば、P.G.ウッドハウスの超有名な「ジーヴスもの」もちゃんと取り上げられている。ジーヴスのユーモア小説シリーズは、最近日本でも国書刊行会が精力的に出版を進めているので知名度も上がってきているのだろう。それにしても、カズオ・イシグロの小説『日の名残り』を「イギリスの古き良き伝統と、緑に囲まれた美しい建物が・・・」みたいな側面だけで読む人には、ぜひ、『奴婢訓』と「ジーヴス」シリーズ、あるいは、『笑う大英帝国』でも紹介されていた、オスカー・ワイルドの『真面目が肝心』を読んでみて、と言いたい。「召使」の一面的なイメージを打破した上で『日の名残り』を読むと、きっと新鮮で「高尚な」視野が開かれると思う。

そういえば、『日の名残り』が、ただ単に「イギリスの伝統と美しさ」みたいな印象の小説になってしまったのは、ジェイムズ・アイボリー監督の美しい映画のせいのような気もする。僕の好きなE.M.フォースターの小説も、彼の監督する映画になると、そのユーモアとか、あるいは過激な感じなところが影を潜めてしまい、とても良くできた「美しい映画」になってしまう・・・たとえば『ハワーズ・エンド』とか。でもこれは、僕に映画を観る眼がないせいかもしれないので、断定できない。

* * * * *

次は『イギリス・ユーモア小説傑作編』について。19世紀のディケンズから戦後に活躍した作家まで、全部で十二編が収録されたアンソロジー。編者の言葉にあるとおり、「ペーソスの漂う笑い」「ナンセンシカルな笑い」「黒い笑い」「とぼけた笑い」「ミステリアスな笑い」など、ユーモアの多様な側面が取り上げられている。『笑う大英帝国』で登場したP.G.ウッドハウスの「ジーヴスもの」もちゃんと収録されている。やっぱり彼抜きでは、とくに19世紀以降だったら、イギリスのユーモア小説を語ることはできまい。

いくつか、読んでみて面白かったものを紹介してみる。まずは、チャールズ・ディケンズ。やっぱりさすがだ。この本では「ミンズ氏といとこ」という短編が収録されているが、その冒頭を読んだだけで「これはおもしろそうだな」と思わせてしまう:

「オーガスタス・ミンズ氏は独り者で、本人の言うところでは四十ぐらいだが、友人たちの言うところでは四十八ぐらいである」(p5)

これだけで、きっとこの主人公は変わり者で、おかしなことをしてくれるのだろうと期待してしまうわけだ。そして実際にその期待どおりストーリーは展開する。しかし、これは甚だ「19世紀的」というか、「ヴィクトリア朝的」とでもいうべき推測なのだ。ある意味、予定調和の世界なのだから。

この19世紀的ディケンズの対極にあると言えるのが、このアンソロジーの後のほうに登場するフラン・オブライエンの短編。もしあなたが、フラン・オブライエンという名前を聞いただけで素直な読書をあきらめ、身構えることができたなら、なかなかの読書家だと思う(僕がこんなことを言うのも偉そうだけれども)。このオブライエンの短編「ジョン・ダフィーの弟」は、次のように始まる:

「厳密に言えば、この話は書いてもいけないし、してもいけないのである。この話は書いたりしたりすると台無しになってしまうのだ」(p191)

こういう語り口って、どこかで聞いたことがあるような・・・僕には、ロレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』を思い出させる印象。ほんとうに『トリストラム・シャンディ』と似ているかどうかは実際に読んでいただくこととして、僕はこの「ジョン・ダフィーの弟」が、このアンソロジーの中でもひときわ異彩を放っていることを指摘すれば十分だと思う。さすがは、かのジェイムズ・ジョイスが評価した作家だけのことはある。

アントニー・トロロープの「パナマへの船旅」は、安心してゆっくり楽しむことができる作品だった。トロロープ(この短編集の表記では「トロロプ」)は、もっともっと紹介されていい作家だと思う。僕はこういう感じの語り口や物語の展開は好きだ。平易で落ち着いた、大人びた小説。読書とは本来、こういう作品を時間をかけてゆっくり読むような行為だったのではなかろうか。しかし、めまぐるしい現代社会では、このような刺激の少ないストーリーでは物足りなく思われるのかもしれない。

* * * * *

『イギリス・ユーモア傑作編』の十二編のうち、一番好きなのはどれ?と尋ねられたら、僕は、二つのうちのどちらかにしてよいか、かなり迷うだろう。その二つとは、イーヴリン・ウォーの「勝った者がみな貰う」と、ドリス・レッシングの「歓び」。二人とも僕のかなり好きな作家ということもあって、ベストワンを決定する最終選考まで残ってしまう。

まず、ウォーの「勝った者がみな貰う」だが、これはもう、ウォーらしさが良く発露した作品。彼は主人公を徹底的にいじめ抜く。とことんまで、やるせないくらいに。この点は、ウォーの処女作『大転落』(タイトルがポール・ペニフェザーの冒険』とか『衰亡』とかに訳されるときもある)において、主人公がとことんまで栄華と没落を極めるのと似ている。有名な『一握の砂』でも、主人公は最終的にこれでもかというくらい無残な結末を迎える。他の作品、『黒いいたずら』や『囁きの霊園』(あるいは『愛されしもの』と訳されるときもある)も同じで、やはり、とことんまで、やるせないくらいぐらい話が展開する。

つまり、ウォーを読むおもしろさはこういうところにあるわけで、「悲惨すぎる」とか「極端だ」とか、目くじらを立ててはいけない。『ブライズヘッドふたたび』がちょっと特殊なのだ。昨年日本でもこの本が復刊されたが、これが傑作であることには異論はないけれども、あんまりウォーらしくない作品であることも確か。

あと、もう一方のドリス・レッシングの「歓び」について・・・これは、子供が独立したくらいの年齢の夫婦、メアリとトミーが南仏へバカンスに出かけるエピソード。二十年来出かけていた南仏の海岸の村へ、このたび四年ぶりに赴いたところ、村は観光地として発展してしまっていて、定宿もいっぱいで泊まれず、せっかくの南仏で二人は出だしからつまづく。なんとかして寝場所を得て、夏の太陽を満喫しようと砂浜に寝そべり、トミーのほうは海で潜水する楽しみを見つけたりするが、かたくななメアリは意地を張ってしまい、楽しみを見つけることができない・・・そんな話。

僕は、やっぱりレッシングはうまいなあ、とか、読ませる作家だよなあって思う。レッシングのほうが一番かな・・・。気がついた点だけれども、この短編は、冒頭にまず、クリスマス時期のできごとから始まる:

「メアリ・ロジャズの一年には二つの大きな祭日、ないしは変わりめがあった。クリスマスの飾りつけが片付けられると、さっそく彼女は二つめの祭日の準備にとりかかった」(p200)

「二つめの祭日」とはもちろん夏の休暇旅行のこと。そして、そのあとずっと南仏へのバカンスに向かうエピソードが続く。メアリは結局ずっと不機嫌なままこの南仏の村を去り、イギリスへの帰路の途中、夫婦は鉄道の乗り継ぎの関係でパリに立ち寄る。以下はそこでのできごと。これは、この短編の一番最後の部分でもある:

「夫婦はセーヌ河畔の露天のマーケット近くを歩いていた。そのときメアリが土器を売る屋台のまえで足をとめた。
『あの大きな鉢』とメアリは声を上げたが、それは新たな生気を帯びていた。『あの大きな赤いの、ほら、あそこよ――クリスマス・ツリーにぴったりじゃないかしら』
『ぴったりだね。さあ、買ってきなさい、メアリ』トミーはさっそく同意し、ほっと胸をなでおろした」(p223)

すごい細かいところだけれども、この短編小説は、最初にクリスマスが言及されて、そして最後もちゃんとクリスマスについて触れられて終わっている。メインは南仏にバカンスへ行く話なのに、こういう細かいところまで行き届いた配慮。もし深く読むならば、メアリの楽しみは夏の休暇旅行とクリスマスしかない、そういうことを暗に示すための描写とも解釈できる。こんな、細やかな観察力と的確な描写の点で、僕はドリス・レッシングに軍配を上げたい。

* * * * *

やっぱり二冊いっしょに取り上げると長くなってしまう。こういうふうに欲張ると、書くのもちょっと大変。ところで、前回このブログで取り上げた『イングランド・イングランド』も分類的にはコミック・ノベルだったから、今年2007年は、このようにユーモアの側面からスタート。でも、こういうのって、つまりユーモアなんてものは紹介してもなかなかうまく伝えられない。ぜひとも実際に読んでみてください、という感じ。

イングランド・イングランド

2007-01-08 16:37:57 | イギリスの小説
■ジュリアン・バーンズ『イングランド・イングランド』 (古草秀子訳、東京創元社2006)

2006年の年末に発売されたバーンズのユーモア小説は、期待にたがわない、とてもおもしろくて、そして読みがいのある作品だった。イギリス的なユーモアとか、イギリスらしさ(いわゆる「Englishness」というやつ・・・学校のイギリス文学の授業ではお勉強する題目のひとつ)に関心のある人は、ぜひ読むべきだろう。

ポイントは、ただ単に「おもしろい」というだけではないところ。何かで読んだのだけれども、おもいろいだけの小説ならば誰でも書けるのだ。この『イングランド・イングランド』を読めばわかるが、意外と詩情のある、味わい深い小説だったりする。バーンズには限らない話だが、現在活躍中の作家は、果たして今後、アカデミックな研究に耐えうるような「ハイブラウ」な作品を書いているのかどうか、評価が難しい。つまり長い歳月を経ても埋没しない「文学」かどうか、にわかに判断しがたい。でも、ジュリアン・バーンズは、僕が思うに、かなりいい線をいっている。100年後も読まれているかどうかは確信がないが、まあ、少なくとも半世紀ぐらいはあれこれ研究される作家になるだろう。

まずは、この本の「おもしろい」部分から紹介しよう・・・サー・ジャック・ピットマンという富豪実業家が、イギリス南部のワイト島全部を使ったテーマパーク建設に着手する。この「高級レジャー施設」が目指すのは「イングランド」。もうひとつのイングランド、その名も「イングランド・イングランド」を、この実業家(僕にはこの登場人物が、ヴァージングループ会長のサー・リチャード・ブランソン氏を思い出させる)はワイト島に造りあげてしまう。

「イングランド」を目指すのだ・・・ということは、ワイト島に揃えなくてはならないものもおのずと決まってくる。バッキンガム宮殿、ビッグベン、ストーンヘンジ、二階建てバスに黒塗りのタクシー(ブラックキャブ)、食事はイングリッシュ・ブレクファストからパブでの語らいもOK。紅茶にガーデニングも当然楽しめる。さらには歴史上・文学上の登場人物も出現し、ヴィクトリア女王やクロムウェル、チャタレイ夫人(!)やロビン・フッドに会うこともできてしまう。そしてついにはイギリスといえばこれ、という最終兵器、「王室」までもが、イギリス本土から移住してしまう。

ちょっとだけ、笑えるところ、というか、苦笑を誘うイギリス的ユーモアを紹介しておく。まずは、ワイト島に再現されたロンドン塔について。この有名な観光スポットに中には、なぜか最高級デパート「ハロッズ」が店を構えており、買い物を楽しむ観光客には、ビーフィーターがカートを押してくれる、という。(ビーフィーターとは実際のロンドン塔にいる衛兵で、赤いチューダー時代風の格好をしていて、現在ではロンドン塔のガイドなどをしている。)これは、はちゃめちゃ系のユーモア。

現在のイギリスでは100ペンス=1ポンドというすっきりした形になっているが、1971年までイギリスでは、12ペンス=1シリング、20シリング=1ポンド、という複雑な貨幣システムになっていた。そこで、このテーマパークでは・・・「イングランドの旧貨幣の複雑さに頭を悩ませてみたいという、冒険好きな方のための支払い方法もある。銅貨や銀貨でポケットをふくらませたいというならば、四分の一ペニーのファージング銅貨から半ペニー青銅貨、一ペニー青銅貨、グロート銀貨、タナー白銅貨、シリング白銅貨、フロリン白銅貨、ハーフクラウン銀貨、クラウン銀貨、ソヴリン金貨、ギニー金貨とお望みしだい」(p179)

「イングランド・イングランドでは、赤い二階建てバスに乗りたいと思えば、あなたがポケットから小銭を探し出し、配車係が呼び笛を唇に当てるよりも早く、二台も三台も矢継ぎばやにやって来る」(p181)これは皮肉っぽい・・・あの二階建てバスが、なかなかやってこないのを、みんな知っているから。バス停で目を凝らしながらバスを待つ経験を、ロンドンでは誰もがしている。

* * * * *

さて、こういう「イングランド・イングランド」のおもしろさばかり紹介していると、この小説の本筋が伝わらなくなる。この本の主人公は、マーサ・コクランという女性で、このテーマパークを開発・運営しているピットマン・コーポレイションに勤務している。小説の第二部は「イングランド・イングランド」の話だが、第一部は彼女の少女時代、第三部では、彼女の晩年が描かれる。上で「この小説は味わい深い」と書いたが、つまりこれは、このマーサ・コクランの人生についての描写が、なかなかしんみりとして、深い印象を残すということを言いたかった。

ここから先は読んだ人ではないとピンと来ないと思うので、以下省略でお願いしたい。

読んだ方なら、「ああ、あれね」という具合に思い出してもらえると思うが、この『イングランド・イングランド』を味わい深く、詩情豊かにしている鍵のひとつとして、キリスト教の「主の祈り」のパロディがある。全体を通じて、とくに「支柱と花と物語とは、汝のものなればなり」というフレーズが、肝心なところで何度も繰り返され、この小説の真髄に近づく大切なポイントのように思える。まず最初に、翻訳された主の祈りのパロディをそのまま引用してみる:

天に屁をひるわれらのヒヒよ
ねがわくは、ヘマをあがめさせたまえ
失敗を、きたらせたまえ
出来心の天になるごとく、地にもなさせたまえ
われらのもめ事の種を、今日も与えたまえ
われらに罪をおかすものを、わられが強請るごとく
われらとともに強請りたまえ
われらをごろつきに逢わせず、灰汁より掬い出したまえ
支柱と花と物語とは、かぎりなく汝のものなればなり
アーメン
(pp18-19)

で、これはジュリアン・バーンズの原文だと、このようになっている:

Alfalfa, who farts in Devon,
Bellowed be thy name.
They wigwam come.
Thy swill be scum
In Bath, which is near the Severn.
Give us this day our sandwich spread,
And give us our bus-passes,
As we give those who bus-pass against us,
And lead us not Penn Station,
Butter the liver and the weevil.
For thine is the wigwam, the flowers and the story,
For ever and ever ARE MEN.
(pp12-13、Picador版ペイパーバック)

(僕が直訳すれば:)
デヴォンに屁をひるアルファルファよ
ねがわくは、その名をどなられたまえ
彼らはテント小屋にやってくる
セヴァーン川の近くにあるバースにて、
そなたの生ゴミはカスとなりたまえ
われらにサンドイッチスプレッドを、今日も与えたまえ
われらに対するものに、われらがバス定期券を与えるがごとく
われらにもバス定期券を与えたまえ
われらをペン駅には導かせず
レバーとゾウムシにバターを与えたまえ
支柱と花々と物語は
かぎりなく汝のものなればなり

ここに現れる「wigwam」とは、調べたところ、「北アメリカの先住民の小屋のように、つる性植物で円錐形を作るようにした自然素材の支柱」とのこと。強引に直訳してみたが(間違っているかもしれない)、最後の「ARE MEN」だけは、どう訳したらいいか、なかなかアイデアが浮かばない。ちなみに、ジュリアン・バーンズがパロディにする以前の、もともとの「主の祈り」とは、このようなものだ:

Our Father, who art in heaven.
Hallowed be thy name.
Thy kingdom come.
Thy will be done
On earth, as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our trespasses,
as we forgive those who trespass against us.
And lead us not into temptation.
But deliver us from evil.
For thine is the kingdom, the power and the glory,
For ever and ever Amen

(日本語訳)
天におられるわれらの父よ
ねがわくは、御名(みな)をあがめさせたまえ
御国(みくに)を、きたらせたまえ
御心(みこころ)の天になるごとく、地にもなさせたまえ
われらの日用の糧を、今日も与えたまえ
われらに罪をおかすものを、われらが許すごとく
われらの罪を許したまえ
われらを試みに逢わせず、悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは、かぎりなく汝のものなればなり
アーメン

こうしてみると、『イングランド・イングランド』日本語版の翻訳者、古草さんは、この「主の祈り」のパロディをかなり工夫して翻訳していることがわかる。なかなかうまい翻訳だと思う。ただし、翻訳がうまいということを紹介したくて、ここに書いたのではない。「支柱と花と物語とは、かぎりなく汝ののものなればなり」というのが印象的なフレーズなので、原文はどういうふうになっているのだろう、とか、パロディになる前の「主の祈り」はどのようなものなのだろう、という興味が僕にはとても沸いてきた。そしてこれが、既に読んでいる方で、同様に興味をお感じの方に、多少のご参考になればと思う。

* * * * *

2006年の年末から2007年のお正月は、主にこの『イングランド・イングランド』を読んで過ごしたが、久しぶりに人に遠慮なく勧められる本を読んだ感じがする。僕がここで取り上げる本は、自分の好みには合うけれども、他人も楽しめるかどうかはちょっと自信がなかったりするものも多い。第一、絶版の本が多くて、ということは、あんまり万人受けしないということの証左ではないかと思ってしまう。

イギリスに興味のある人なら、きっと楽しめると思う(楽しくなくては読書ではないという方もOK)。イギリスにそれなりに詳しい方なら、あちこちにこめられた皮肉に気付いて面白いと思う。ジュリアン・バーンズ愛好者の方にとっては、いつもの彼の才気煥発ぶりや、「記憶」や「歴史」といった定番のテーマが今回も繰り出されるので、これまた十分楽しめるだろう。そして、読書に対し、ある程度のしんみり感や味わい深さ・詩情を求める僕のような人間にも、なかなか満足させられる内容。なんだか、東京創元社のまわし者のように絶賛してしまったが、この本は、こんな具合で、なかなか悪くない。

2006年総集編

2006-12-28 14:10:17 | イギリスの小説
■2006年総集編■

ということで、早いもので2006年も残すところあと数日でおしまい。せっかくなので、勝手にこのブログ『A Dairy』の2006年総集編をしてしまおう。(昨今のテレビ欄を読んでいたら思いついた。)

気がつくのは、最近とくに顕著なブログ更新ペースの遅さ。月別の更新状況は以下のとおり:

1月:6回
2月:8回
3月:11回
4月:9回
5月:7回
6月:2回
7月:3回
8月:6回
9月:6回
10月:4回
11月:2回
12月:5回(今回を含む)

ご存知の方もいるとは思うけど、今年の中盤からこのブログについてちょっと方針転換をしていて、以前はふだんの生活で感じたことなども書いていたが、現在は近現代イギリス文学のレビュー(じみたもの)を中心に書くようになった。ふつうの日記ブログなんて書いている人がいっぱいいるし、そもそも僕は読んで頂く価値のあるような日常生活なんて送っていない。そして、その方針転換以降、更新ペースが遅くなっているような気がする。

実はこのブログ、一回につき大体三時間くらいかけて書いているので、仕事が休みの日ではないと更新できない。もちろん、休日の全てをブログに充てるわけにはいかないので、週休二日のうち一日くらいのペースかな、と思う。でも、6月と11月は二回しか更新していない!これは僕の怠慢なので、ご勘弁を。正直言うと、休み前に徹夜で飲みに出かけたりするので、次の日は更新どころではなかったりする・・・という事情。

このような環境なので、今後も週一回のペースで更新できれば良いかなと思っている。来年も週刊『A Dairy:The way we live now』をよろしくどうぞ。(ちなみに、この副題「The way we live now」はトロロープの小説のタイトルをそのまま頂戴したもの)

* * * * *

■2006年「今年の一冊」賞は、果たしてどの本に!?■

せっかくなので、今年このブログで取り上げたイギリス文学の本の中で、いろいろな意味で一番印象に残る「今年の一冊」と思われるものを決めてしまおう。(こういうのもテレビ欄を眺めていたら思いついた・・・テレビ欄ばかり読んでるみたいに思われそう。)短編や詩を除いたノミネートは以下のとおり(カッコ内は更新日):

★アイリス・マードック       『ブラック・プリンス』     (1月16日)
★アイリス・マードック       『砂の城』           (2月22日)
★ウィリアム・ゴールディング   『特命使節』          (3月6日)
★カズオ・イシグロ         『私を離さないで』       (4月28日)
★ジェイン・オースティン      『マンスフィールド・パーク』  (5月6日)
★A.S.バイアット          『抱擁』             (5月14日)
★スーザン・ヒル          『君を守って』         (5月17日)
★カズオ・イシグロ         『わたしたちが孤児だったころ』 (5月23日)
★ドリス・レッシング        『破壊者ベンの誕生』      (5月27日)
★ウィリアム・ゴールディング   『尖塔』             (6月27日)
★ミュリエル・スパーク      『ミス・ブロウディの青春』   (7月2日)
★イーヴリン・ウォー        『囁きの霊園』         (7月30日)
★アイリス・マードック       『鐘』              (8月1日)
★マーガレット・ドラブル      『滝』              (8月13日)
★シャーロット・ブロンテ      『ジェーン・エア』       (8月25日、9月4日、9月18日、9月26日)
★アイリス・マードック       『かなり名誉ある敗北』    (9月30日)
★イーヴリン・ウォー        『大転落』           (10月24日)
★グレアム・グリーン       『ブライトン・ロック』      (11月6日)
★イアン・マキューアン      『愛の続き』          (12月1日)
★ジュリアン・バーンズ      『フロベールの鸚鵡』     (12月8日)

更新日順に漫然と並べたけれども、この中にはいくつか異質のものが混ざっている。まず、ジェイン・オースティンとシャーロット・ブロンテは19世紀の作家で、もはや「古典」の域に達している人たち。僕が良いとか悪いとかいうような段階にはない。もう一つ、カズオ・イシグロとイアン・マキューアン、それにジュリアン・バーンズは、他の人たちよりも世代が断然新しい。「20世紀後半に活躍したイギリスの作家」という僕の興味の中では、ちょっと別の扱い。どんな小説を書く人たちなのか、味見をしてみたというところ。

残った作家たち、マードック、レッシング、スパーク、ドラブル、ウォー、グリーン、ゴールディング・・・どれもゾクゾクするくらい好きな作家たちばかり。マードックは4冊も取り上げているが、中でも『鐘』は傑作。イーヴリン・ウォーはブラックな中にも独特の情緒(リリシズムとでも言うべき?)があって印象深い。あと、何といってもグレアム・グリーンの『ブライトン・ロック』。グリーンをちょっと敬遠していた僕にとって、感動的で読み応えのあるこの小説は、グリーンに興味を持つとてもいいきっかけになった。

こんな中から、一冊を選び出すのは難しいのだけれども、「2006年今年の一冊」は・・・(照明が暗くなり、ドコドコドコドコとティンパニが鳴る)・・・ミュリエル・スパークの『ミス・ブロウディの青春』に贈りたい。僕はああいう、しみじみとした印象が残るような本が好きだ。ストーリーの面白さ、技巧へのこだわり、内面的・思索的な深み、詩的印象、こういう各面がバランス良く揃ってこそ読み甲斐のある小説だと思うのだが、『ミス・ブロウディの青春』はまさにこれに該当する。そしてなんといっても、今年4月に亡くなったミュリエル・スパークを追悼し、この作品を選びたい。

* * * * *

■登場できなかった小説たち■

このように、このブログに取り上げた小説がある一方で、諸事情により、ちゃんと読んだにもかかわらず、この場に取り上げられなかった作品もある。感想やレビューを書くほどには印象が残らなかったとか、もっとはっきり言えばつまらなかったとか、時間がなかったとか、あれこれ理由はあるが、一応紹介しておく:

★ジーン・リース 『サルガッソーの広い海』
この本はシャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』を読んだあと、ブログに取り上げる予定だった。そしてもちろん読んだのだけど、なかなか言いたいことがまとまらず、それっきり。でも、なかなか強い印象の残る本で、いずれはこのブログに感想を登場させたい。

★スーザン・ヒル 『奇妙な出会い』
第一次世界大戦に参戦する若者を描いた小説。なかなか良く出来ている小説で、スーザン・ヒルの労作という感じ。ただし、この本をどのように紹介したら良いか、僕のほうの準備が進まない。シューベルトの歌曲とトーマス・マンの『魔の山』といわゆる「War Poets」について、それぞれ関連結合させて書きたいという僕の壮大な(!?)野心が更新を妨げている。

★ヴァージニア・ウルフ 『オーランドー』
簡単に言えば、16世紀から20世紀初頭にかけての、英文学史の教科書みたいな小説。いろいろな作家が登場する。小説としてのおもしろみと言うよりは、むしろ、そういう過去の作家たちのエピソードを楽しむ本という感じがする。もちろん、こういう「小説」らしくないところが、「モダニズム」たる所以なのだろうけど。

★アイリス・マードック 『ジャクソンのジレンマ』
途中まで書いて、現在「草稿」状態。なかなか後が続かない。

★マーガレット・ドラブル 『季節のない愛』と『夏の鳥かご』
どちらも、いずれ気分が向いたら書くと思う。

★イアン・マキューアン 『アムステルダム』
ちょっとこの本、ブッカー賞受賞作にしては短かすぎないか!?と思う。先日香港旅行に持っていったのだけれども、すぐ読み終わってしまい、帰路には読むものがなくて困った。

★ピーター・アクロイド 『原初の光』と『オスカー・ワイルドの遺言』
最近の作家の「味見」として読んでみた二冊。ところが残念なことに、そんなに楽しめなかった。もちろん普通に堪能したのだけれども、何か「深み」に欠ける印象。もちろん、読む側の「深み」も欠けているのだけれども。

だいたいこんな具合。でも、せっかく縁があって読んだのだし、いずれは何かの機会にちゃんと紹介したいと思っている。

* * * * *

■2007年、来年の展望■

我が家の本棚には、まだじっくりと読んでいない本が、今や遅しと順番を待っている状態。一日24時間、週休二日ではとても追いつけない。それなのに、新しい本が続々と本棚に到着する。そんな中でも、一応読んでみたいと思っているのは、まず、戦後の男性作家たち。とくにアンガス・ウィルソンは何冊かあるので、試してみたい。(想像するに、きっとかなり地味な感じの作風だと思うが、20世紀イギリス文学という観点からは、やっぱり興味がある。)他に、アントニー・バージェスとキングズリー・エイミスとか。もし僕が、ローレンス・ダレルとアラン・シリトーとジョン・ファウルズを取り上げたら、苦手な食べ物もがんばって食べているということで、褒めてやってほしい。

女性作家だと、スパークとマードックとドラブルの本で取り上げていないものが、まだたくさんあるので、そういうのを紹介することになると思う。あと先日、ドリス・レッシングの『草は歌っている』(翻訳)を入手したので、それも読んでみたい。自分で言うのもなんだが、これは入手困難な一冊。かなり探した。

さらに、戦前から戦後の作家でちょっとマイナーな人たちもいる。L.P.ハートリーや、C.P.スノー、アントニー・ポウエル、それにエリザベス・ボウエン、エリザベス・テイラー、コンプトン=バーネットなど。こういう人たちも、いい機会があればぜひ。

新しい世代の作家の「味見」も続けていく予定で、既に登場したイアン・マキューアン、ジュリアン・バーンズに加えて、マーティン・エイミスとかも。あと、デイヴィッド・ロッジとマルカム・ブラッドベリについても。

・・・などと、風呂敷を広げすぎると大体失敗してしまうのだけれども、興味のある方は、どうぞ長い目で見守っていただければ・・・と思う、2006年の年末。皆様良いお年を。

ジュリアン・バーンズの試験問題

2006-12-08 16:24:58 | イギリスの小説
■ジュリアン・バーンズ『フロベールの鸚鵡』(斎藤昌三訳、白水社白水Uブックス、1993)

試験勉強・・・人によって、いろいろな勉強方法があるのだろう。僕個人としては、ドラえもんの「暗記パン」にいつも憧れていた。暗記したい内容をパンに押し付けて、そのパンを食べれば暗記できてしまうというスグレもの。ああいうのがあれば、英単語を覚えるのももっと楽だったろうに。しかしながら、僕の机の引き出しからドラえもんが現れることはなく、結局、僕の試験勉強は「睡眠学習」になってしまうのだ。いつのまにか眠ってしまい、試験当日の朝を迎える。「勉強してきた?」「やってきたよ、睡眠学習だけど」・・・というのが、テスト開始直前の僕の会話パターン。

こんないいかげんな勉強で生き延びてきた僕ではあったが、中学・高校とテスト勉強に苦労するうちに、どうすれば興味を持って机に向かえるか、自分なりの方法がわかってきた。それは、自分で予想問題を作ることだった。当初は単純で、問題集をやって間違えた問題だけを復習のために抜き出し、それを100点満点になるように点数配分をして再チャレンジするような形だった。ところが繰り返しそうこうするうちに、なぜか不思議なことに、試験問題を作るおもしろさに目覚めてしまったのだ。

この試験問題作りへの熱中は、とくに、自分の得意教科だった英語と世界史において遺憾なく発揮された。中間テストとか期末テストというのは、教科書のある限られた分野から出題されるから、その教科書の内容を自分なりにひねくり回し、試験問題を作ってしまう。ポイントは、問題を作ることだけで満足してしまうこと。だって、自分で作った問題だから、答えがわかっていて、自分で解いてもおもしろくもなんともない。

やがて大学受験の時期が近くなると、どこかの予備校の模擬試験とか、学校の勉強範囲にとどまらないテストも受けるようになる。また、大学の過去問がいろいろ載っているような問題集も学校から配られるようになる。こうして、世の中にはいろいろ工夫された試験問題があることを知るにいたり、僕の試験問題作りへの興味はいっそうエスカレートした。たくさんの問題を目を通すのと平行して、試験問題への鑑識眼も身についてくるようで、センター試験の問題はとても味気ないのに対し、難関校と呼ばれるような大学の試験問題は妙にかっこよく、美しさすら感じられたものだ。(英語だと、東大や東京外語大の問題とか。)

ここでよく注意したいのだけれども、鑑識眼と学力は比例しないという事実。例えば、何かの模試とかを受けたとき、「おっ、こんな問題を作ってきたのか・・・新機軸だなあ・・・」などという感想を抱くのだが、それが実際に解けるかどうかは別問題。ということで、東大とは、赤本で試験問題を鑑賞しただけの縁で終わってしまう。そういうものだ。その後、大学に入っても試験は折々にあるのだけれども、このような問題作製熱が再び頭をもたげることはなかった。強いて言えば、アルバイトで塾の先生をしていた頃、仕事としてテスト問題を作ったことがあったくらい。

* * * * *

さて、ここまで書いてきたことと、ジュリアン・バーンズの『フロベールの鸚鵡』がどう関係するのか。この本を読んだことがある人は、ピンとくるかもしれない。ジュリアン・バーンズの出世作となったこの本の中には、実は、まるまる一章が「試験問題」というところがある。これが、なかなか興味深い問題。さあ、あなたもさっそく解いてみよう!(以下は問題の引用)


 A部門 第一部

 近年の試験結果の明らかな傾向として、受験者は芸術と人生を区別することにますます困難を感ずるようになっているようである。いや、区別はちゃんとつけているとは誰もが言うことではあるが、その実、それぞれの認識は大いに異なる。豊かで芳醇、自然のままの材料を使った素朴な田舎料理が人生であるとすれば、芸術は人工の着色料や香料づけと言っていい味気ない商品にすぎないと考える者がいる。他方、芸術こそは真実に近く、充実し、生動し、深い満足感を与えるものであり、これにひきかえ、人生は最低の小説よりも劣る、話の筋立てもなく、退屈な連中や悪い輩ばかり登場し、しゃれた面白さなど皆無に近く、不愉快なことばかり多くて、暗い結末もあらかじめわかっている、とこう考える者もいる。後者の考えを採る者はローガン・ピアソール・スミスの句を引用することが多い。「肝心なのは人生だと人は言うが、わたしは読書のほうがいい。」この引用句を受験者は解答中に使用しないこと。
 つぎのいくつかの陳述または状況のうちから二つを選び、そのなかにあらわれた芸術と人生の関係を考察せよ。

 (a) 「一昨日、トゥックの森のなか、泉のそばの素敵な場所で、葉巻の吸いさしやパイの切れっぱしを見つけました。してみると、ピクニックに来てここで飲み食いをした人たちがいたのです!十一年前、僕が『十一月』のなかに書いた通り、まさにそのままじゃありませんか!まったくの想像で書いたことだったのに、先日見つけたのはそっくりその通りの状況でした。想像で創りあげたものはすべて真実である。間違いなくそうなのです。詩は幾何学と同じように正確に事実を表すものです。〔・・・・・・〕僕の創造した哀れなボヴァリー夫人は、たぶん、今この瞬間にも、フランス中の多くの村々で苦しみ、泣いているに違いありません。」(1853年8月14日付、ルイーズ・コレへの手紙)

 (b) パリに出ると、フロベールは辻馬車の窓を閉めきって乗ることにしていた。ルイーズ・コレに見つかり、事と次第によっては誘惑される憂き目をみるのを避けるためである。ルーアンで、レオンはエンマ・ボヴァリーを誘惑するのに窓を閉ざした辻馬車を使う。ハンブルクでは、『ボヴァリー夫人』刊行後一年もしないうちに、辻馬車が性的目的のために使用される現象が生まれ、この種の辻馬車はボヴァリーと呼ばれた。

 (c) (妹カロリーヌが死に瀕していたときのこと)「ところが僕の目は大理石のように乾いたままなのだ。奇妙なことに、小説のなかの苦悩に対しては敏感ですぐに気持ちが動いてあふれだすのに、現実の苦悩は心のなかに硬くちぢこまったままで、生ずるそばから凝固していくような有様だ。」(1846年3月15日付、マクシム・デュ・カンへの手紙)

 (d) 「あの人〔シュレザンジェ夫人〕を真剣に愛していたんだろうときみは言うが、そんなことはありません。ただ、書くことで気持ちをたかぶらせるという僕の特技をつかってあの手紙をしたためたので、手紙の文句を自分でも大まじめに信じこんでいるような気持ちになったことは確かです。ただし、それも書いているあいだだけのことにすぎません。現に自分で目にしたり誰かがそのことを話したりしていても何とも思わないようなことであっても、それについて話すか、特に書くとなるとそうなのですが、やたらに苛立ったり、傷ついたりする、そういうことが多いのです。」(1846年10月8日付、ルイーズ・コレへの手紙)

 (e) ジュゼッペ・マルコ・フィエスキ(1790-1836)はルイ・フィリップ暗殺計画に加わったことで有名になった。彼はタンプル大通りに部屋を借り、人権宣言協会のメンバー二人に手伝わせて、いちどきに発射できる銃を二十挺並べ備えた「殺人機械」を作りあげた。1835年7月28日、ルイ・フィリップが三人の息子と多くの重臣たちを従えて通りかかったとき、フィエスキは社会体制に対する一斉射撃の火蓋を切ったのだった。
 数年後、フロベールはタンプル大通りの同じ並びに建った家に居を構えたのである。

 (f) 「間違いないよ。この時代〔ナポレオン三世の統治期〕は、何篇かの大作品に題材を提供することになるだろう。結局のところ、おそらく、クーデターとその結果は自然の成り行きとして、単に何人かの有能な作家に素晴らしい情景を供するためのものでしかなかったということになるだろう。」(マクシム・デュ・カン『文学的回想』中のフロベールの言葉)

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どうだろう・・・どういう方針で論述するか、少なくともその論旨くらいは思いついただろうか。僕が初めてこの問題を読んだとき、「これは難問だなあ」としみじみ思った。フロベールについてはあまり知らなくても答えられるが、逆に、論述力や表現力、そして思考力が、解答を通してかなりバレるだろう。ちなみに『フロベールの鸚鵡』のこの章では、こういう論述問題をあと三問解かなくてはならず、それでいて制限時間は三時間である。これは、なかなか難易度が高い。

このように、試験問題を作ることもまた「小説」なのだ。試験問題が果たして小説なのか?この点に引っかかると、「小説とは?」という文学上の大問題にぶち当たってしまうので、あまり深く考えないほうが良い。

試験問題が存在するという事実から、ある程度容易に想像されると思うけど、『フロベールの鸚鵡』には他の文体、例えば「年譜」や「辞典」の章もある。インタビュー風の箇所もある。こんな具合で、いろいろな文体を「小説」として試すのが、いわゆるポストモダンなところではある。そしてさらに興味深いところだが、こういう小説を作り上げるための材料が、どうやらほとんどすべて正確な事実であるという点。文中に登場するフロベール研究家は実在の人々とのことだし、上の試験問題に使われた資料のように、作品に出てくる書物、書簡の類はすべて実在のもの。それでは、『フロベールの鸚鵡』はノンフィクションなのかというと、まあ、そういう体裁も感じられないこともないが、やはりそれでもこの本はフィクションだ。

いつだったか、A.S.バイアットの小説『抱擁』をここで取り上げたが、この小説もまた、書簡や詩を織り交ぜた、いろいろな文体が観察できる小説だった。(さすがに、こちらには試験問題はない。)でも、『抱擁』の場合、こうした文体はみんなバイアットの手による創作で実在しないもの。これはこれですごい。でも、ジュリアン・バーンズは現存する資料からこのような小説を作り上げていて、もしかすると、この方法のほうが大変なのではないかと想像する。膨大な資料と対峙する歴史家のような作業。とにかく、バーンズがこの本を書くにあたって必要としただろうフロベールについての知識量は、まさに圧巻だ。

ということで、読んでいると「これが小説?」みたいな印象も伴うけど、一歩下がって全体を眺めれば、主人公ジェフリー・ブレイスウェイトが真実の鸚鵡を求めてあれこれ知的に放浪するストーリーであるわけで、このプロトタイプは聖杯伝説とか、黄金の羊毛を求めて冒険に出かけるアルゴノートたちとかと一緒だ。また、ジェフリーの妻が浮気の末自殺してしまったという点からは、『ボヴァリー夫人』のストーリーが浮かび上がってくる。

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試験問題を扱った小説といえば、ちょうど僕が大学に入ったころ、清水義範さんによる『国語入試問題必勝法』という本に出会い、とてもおかしかったのを思い出す。今日は長い内容になってしまったけど、さて最後に、ここで僕からあなたへ問題!

問い:この今日のブログの内容を七文字で要約しなさい。ただし句読点は含まない。

答えは・・・『国語入試問題必勝法』を参照せよ。