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A Diary

本と音楽についてのメモ

続・「差し違え」の覚悟

2006-03-05 11:58:21 | 日々のこと
昨日4日、朝日新聞生活面に載ったカルロス・ゴーンさんの文章から。

「あらゆる課題に対し、チームの全員がまったく意見を戦わせることなく賛同する。これは果たして『完璧な和』を成していると、あなたは思いますか。恐らく違うでしょう。そのような状況は、問題をはらんでいる可能性があります。メンバーに多様性がないか、異論を唱えるのを恐れているのか」

前回、3月3日の日記には、「言いたいことは我慢する」みたいな趣旨のことを僕は書いたかもしれない。サラリーマン生活を10年くらいしてきて、本当にこれは痛切に感じている。余計なことは言わない。言いたいことを感じても、ぐっと腹におさめる、僕はこういう態度で過ごしてきた。この10年のサラリーマン生活で学んだきたのだ。もちろん、各人それぞれに、上司に対する接し方があるだろうが、僕にとってはこれが一番楽だ。安泰だ。余計なことを言って、無用な摩擦を引き起こすようなことはしたいと思わない。

「和を重んじ、権力に従う文化の日本で、私は率直な意見を周囲に求めています。これは大きな課題です。どうしたら角を立てずに、強い主張ができるのか。迷わず賛同するのと、沈黙するのと論争するのとの、適切なバランスとは。簡単ではありません」

「僕はこうだと思います!」みたいな強い主張をすると、必ず角が立ってしまう。それを聞くほうも素直に聞けないし(生意気、目立とうとしている、経験がないのにわかったようなことを言う・・・などの感情が生じやすい)、その主張に反論すると、ビジネス上の議論であるのに、その人の人格や能力まで否定されているように受け取られてしまう。

これは、日本で議論や討議をするという文化がないこと、また、学校時代にこのための訓練がなされないことに原因があるだろう。ちょっと話がずれてしまうが、某テレビ局でかつて深夜にやっていた討論番組でも(今もやっているのだろうか)、議論と言うよりは喧嘩みたいになってしまうことがあった。また、教育テレビで若者たちが(「若者たち」という表現に、自分の年齢を感じる・・・)あるテーマの下に討論する番組もやっているが、これを観ていても、話し合ってコンセンサスを得ることの難しさがわかる。

「イエスマンやおべっか使いは自己満足と慢心のみを助長しがちですが、疑う者は、新しい価値を生み出せます」

おべっか使い、で思い出すが、僕は実際に、良い情報しか聞きたくないという上司を見たことがある。こういう人の場合、たとえば、「現在は厳しい状況です」「売上の見通しは厳しい」とか、「厳しい」という表現は禁物だ。こういうことを言うと怒られて、何やっているんだ!と言われてしまう。すると、どうなるか。みんな怒られたくはない。だから、そう、誰もがその上司には、耳に快い情報しか報告しなくなるのだ。売上の見通しも、なんでもかんでも、過大に楽観的な数字ばかり報告する。あたかもうまくいっているかのように表現してしまう(ものは言いようだから)。そしてその結果は・・・第二次世界大戦で日本が敗戦したのと同じことだ。伝えられる戦果はすべて架空のもので、実際の戦力は壊滅状態。全てが行き詰まり、やがて組織は崩壊する。どの時代にも独裁者は存在してきた。古今東西、歴史を振り返れば、こうした事例には事欠かないのだが。

「グローバル経済の中で働いていると、日本人の先輩と欧米のやり方に板ばさみになることもあるでしょう。心配無用です。それはむしろ、チャンスです。それぞれに長所と短所があるのです。両方の最良を組み合わせられたとき、大きな価値を生み出すことができるでしょう」

なんだか、うまくまとめられてしまった・・・という感じがする。楽観的で前向きな考え方。正論だし、おっしゃるとおりです、としか言えない。でもやはり「上司に異を唱える→退職か異動になる」という経緯を見てきた人間としては、やはり会社では当分大人しくしてよう、と思ってしまうわけなのだ。「和をもって尊しとなす」と、誰かも言っていたではないか。

保身だ、とか、臆病者と言われるのは構わないと思っている。僕はこういう態度こそ「したたかさ」だと思うから。言いたいことを言わないでおく代わりに、こういうインターネット上で自己表現をしながら、精神のバランスは保たれるのかもしれない。

「刺し違え」の覚悟

2006-03-03 12:58:57 | 日々のこと
最近、日本航空社内の経営をめぐる騒動がニュースになっている。現在の社長に不満のある上級社員たちが、社長の退任を求めて行動を起こしたという出来事。不満を持つメンバーたちの署名入り文書を作成したらしい。まさに「連判状」。最終的には、当初辞めるつもりはないという態度だった現社長も、六月で辞任することになったそうだ。

部外者としては、なんとも見苦しい話だなあと思うわけだが、実際にはこういう内紛はどこでも起こっている。ただ、JALは大会社なのでニュースになってしまっただけのこと。ということで、今日は僕の勤める職場でのケース。まだこうやって文字として記すことがためらわれるくらい最近の、僕にとっては生々しい出来事。

まず、自分の職場を説明しておくと、社員は部署長以下十人から構成されていて、他に派遣社員を二人お願いしている。僕は所属長に次ぐ立場。同僚はほとんど女性。比較的人事異動も少なく平穏に推移してきた環境だったが、昨年夏、それまでの男性の所属長が異動になり、新たに女性の上司が赴任してきてから、大きく動揺し始めた。

この新しい上司は、仕事の進め方を大きく変えた。僕の立場からすれば、そのやり方が「良い」のか「悪い」のかはわからない。会社という利潤追求の組織であるから、その最終的な利潤という目標を実現できるのならば、どんなやり方であれ「良い」も「悪い」もないだろうから。結果がすべてなのだ。もちろん、同じように利益を得るにしても、近道や遠回りといった違いはある。結果を得るための効率の違いだ。今考えると、この点で、この新しい上司には課題があったのかもしれない。

この女性上司が赴任して、新しい考え方での指揮が始まると、それまで前の上司の下で働いていたスタッフ、とくに女性のスタッフは一斉に反発した。「やってられない」と。もちろん、表立って声を上げるなんてありえなかった。上司としては「私がこうすると決めたのだから、当然従ってください」という絶対的立場。彼女の出す指示はみな、ある意味、正論というか、建前としては間違っていないので、「それは間違っています」と言えないのだ。

問題は僕の態度なのだけれども、みんなのこういう反発する気持ちはよくわかっていた。だから、意見をうまく代弁して、もっと彼女に伝えるべきだったかもしれない。でも、ここは会社なのだ。上司が「こう」と決めたら、それが正しかろうと間違っていようと、それを遂行するしかない。組織というのは、そういうふうにして動いていくと僕は考えている。みんなが自分の都合で好き勝手をしていたら、組織としての仕事はできなくなる。でも、部下たちの気持ちも理解できるから、所属長から「みんなに、こうしてもらうよう指示してください」などと指令がでると、どうしようかなあって思ってしまう。きっとみんな嫌がるだろうなあ、と想像する。でもそれを伝えなくては、その仕事が始まらない。結局こんなふうに言う:「大変になるのは申し訳ないけど、○○さん(所属長)はこういう希望なので、その通りお願いします」

こんな状況がしばらく続いた。みんなストレスが溜まっていたに違いない。嫌々やらされる仕事。後輩たちは僕にも質問してきた:「どうして平気なんですか」「僕も大変だとは思うけど、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろなやり方があるから。上司もいろいろだし、それをいちいち気にしていられない。長くて三年くらいで上司なんて変わるのだから、もし仮に大変だと思っても、頭を低くして嵐を避けて、じっとしてやり過ごせばいいんだよ」

当然のことだが、こういう環境では仕事の中身にも影響が出る。士気が上がらない。もちろん、サボタージュなどしているわけではない。でも、売上が上がらない。取引先ともなぜかうまく物事が進まない。

そしてスタッフたちは最終手段を行使し始めた、つまり、みんな次々にこの職場を去っていった。慣れた仕事と慣れたメンバーでやってきた仕事だが、こういう環境に変わってしまっては、嫌々無理して続ける意味がない、と考えたのだった。まず、この人は男性だったのだけれども、一人が社内募集による異動で職場を去った。次に今年の一月、一人退職した。そして二月、社員一名、派遣社員一名が退職した。さらに、今月いっぱいでさらに社員一人と派遣社員一人が辞めてしまう。また、今月から社員二人に対し異動の辞令が交付された。少なくともその一人は、異動の希望を出していたようだ。

このような人材流出の事態となると、所属長の資質が疑問視されてくる。そして、これは本人はしばらく前から決めていたようだが、上司も退職することになった。

もちろんみんな、上司自身も含めて、辞職の理由を「職場の人間関係が嫌になったから」などとは言わない。健康上の理由、家の都合などを挙げて退職する。でも、会社だって鈍感ではない。こういう内部事情は漏れていてわかっているようだ。先日、なんと、わざわざ社長自身が職場を訪れて、こういう混乱について一種のお詫びをし、新たな上司とともにがんばって欲しいことを述べた。

結果的に、上司は退職というかたちで職場を去った。しかし、不満を持っていたメンバーもまたこの職場を去った。僕はこの経緯を見ていて、「刺し違えた」という言葉を思い出してしまう。会社に対する不平を明らかにするのはかまわない。しかしそのためには、自分自身の現在の地位も捨て去る覚悟が必要だ。相手を切りつけるためには、自分も切られてしまう覚悟がないとできないのだ。JALの経緯を見て欲しい。社長は確かに退任するが、社長退任を要求したメンバーだって必ず配置転換がなされているはずだから。

約半年前にいた十二人のメンバーのうち、今でもいるのは僕を含めて三名のみになる。新入社員が四人配属になり、残りは現在欠員。その新入社員のうち、一人は新しい所属長だ。マネージャー級の資格で先月入社されたばかり。また新しい上司とのお付き合いが始まる。

手のひらから解読する人生

2006-02-26 00:07:02 | 日々のこと
最近たまたまだけど占い師さんに僕自身をみてもらう機会があった。みんな占ってもらっているから、僕もついでにお願いします、という感じで。これまで生まれてから一度も、お金を払って自分を占ってもらったことがなかった。周囲の友人たちからは、手相を見てもらったとか占ってもらったとか、そういう話を聞くことは何度もあったし、今度一緒に行こうね、とか誘われることもあったけど、結局行かずじまい。きっと、自分がこれまで占いを避けてきた理由はこんな感じだろう:

①必要がない:僕は現在十分恵まれている(と思っている・・・だって、自分は不幸だと思いながら生きていくなんて損なことではないか)。自分にだって悩みや不安がまったくないわけではないだろうが、たとえば今ここで列挙しろと言われても思いつかない。嫌なことは思い出さずに毎日生活している。単純で幸せにできあがっている性格なのだ。だから、お金を払ってまでして占ってもらう必要はない。

②信じていない&期待していない:たとえば、テレビや雑誌の星占いを見ていると思うのだけれども、今日はおとめ座の人は星回りが悪いから「慎重に行動しましょう」とか、のたまっていたりする。そういうことを聞くたびに思うのだ・・・「慎重に行動すれば、誰だって不幸から避けられる可能性が高くなる。そんなことわざわざ占いで言われなくたって当たり前じゃん!」つまり、占いが私たちに提案するアドバイスは、無難で当然なことばかり。「金銭運×→不必要な出費に気をつけましょう」「災難の相あり→安全運転を心がけましょう」「人間関係トラブル→周囲の人たちとの協調を重んじましょう」などなど。こういう常識的なことを述べてお茶を濁してしまうことが多いから、占い自体に期待しなくなってしまった。

③知らなくてよい未来がある:古代ローマ帝国の皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』にはこう書いてある・・・「未来のことで頭を悩ますな。必要ならば君は今現在のことに用いているのと同じ理性をたずさえて未来のことに立ち向かうであろう」(マルクス・アウレーリウス『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)。高校生の僕はこの部分に線を引いた。この文に納得する気持ちは今も変わらない。将来のことを心配しすぎてあれこれ考える時間はもったいない。何かよろしくない事態に至ったとしても、そのときどきで、自分のベストをつくせばいいのだから。だから、わざわざ無理に未来を知って、それを考えあぐねるくらいなら、むしろ知らないほうがいい。

付け加えるなら、占いという商売が本質的に無責任という点も挙げていいかもしれない。製造物責任法のこの時代、金銭を見返りに提供される「占い」というサービスだが、その品質については確かめようがないことが多い。仮に占いで「この冬は風邪を引く可能性があるので気をつけてください」というアドバイスを得たとしよう(注意:冬場に風邪を引かぬよう気をつけるのは、占ってもらうまでもなく当然なことである)。そして実際に風邪を引いてしまったら、その占いは当たったことになる。まあ、これはこれでよいとしよう。しかし一方、もし風邪を引かなかったら、その占いを聞いて気をつけて過ごしたからだ、ということにされるのだろう。なんだかそれはちょっとずるいな、と思ってしまう。

* * * * *

今、こうして占いについて、僕なりに考えて文章を書いている。しかし・・・実は自分でもひとつ気がついていることがある。それを書く前に、ここでこれを読んでいる方に質問してみたいのだけど、つまり僕に対して、「そんな真剣にならなくてもいいんだよ」とか「もっと占いを気軽に楽しめばいいんだよ」というふうに感じないだろうか。

そう・・・そのとおりだ、僕自身も気がついた。「もっと肩の力を抜いて、気軽に占い師さんの言うことを楽しめばいいわけじゃん」ということ。何千円かの費用はそのエンターテイメントのためと割り切れば済んでしまうこと。人生、必要なことばかりしていたのでは、楽しみがない。エンターテイメントなのだから、信用するとかしないとかも関係ないし、発言には無責任で当たり前。むしろ責任などを追求するほうが、無粋というもの。

普段、周囲の人どうしで、あなたはこうだ、とか、こうしたほうがいい、とか言いあうことは少ない。そういう無遠慮な発言は人間関係を傷つけてしまう可能性がある。「君はちょっとお金遣いが荒いから、気をつけたほうがいいよ」とか「あなたは恋愛のためにもっと自分を磨いたほうがいいよ」とか、突然そんなことを言われたら、「余計なお世話です!」と反発してしまうだろう。ところが、占いはこういうことを遠慮なく言ってくるのがその役割。お金を出して、日常生活ではありえない「評価」や「諭し」を楽しむためのエンターテイメント、というところだろう。

今回の占いで、占い師さんは僕の手のひらをルーペで見ながらこう語った:「繊細で、感受性が強い、女性的、意思が強くて、芯はしっかりしている」(繰り返すが、占い師さんが言ったのであって、僕が言ったのではない。)僕を知っている方は、これをどう思いますか。自分の感想としては、「この人、外見や雰囲気をよく観察しているな」という印象。当たらずとも遠からず、という感じ。

そして彼女に言わせると「今は、血が出るような苦労の時期ですが、あと1ヶ月でそれも終わります」とのこと。なんだろう、これは?健康面では、ちょっと風邪を引くくらいで、あとは腰に注意(無難な内容だ)。金銭的には「出入りが激しいでしょう」(これまた無難な表現だ。大金持ちになるとか、お金には不自由のない人生を送るでしょうとかは言ってくれなかった。)そして恋愛は・・・「素質は恵まれているのだから、積極的に行動しなさい」だって。ははは。この占い師さんの場合、相性占いをして欲しいときには紙にその相手の名前を書くのだけれど、僕みたいに書こうとしない消極的な人間には、みんな同じように「積極的になれ」と言ってるんだろうな。

オールアボード!

2006-02-18 00:32:52 | 日々のこと
ディズニーワールドのうち、マジックキングダムでのこと。これもまた東京ディズニーランドにもあると思うのだが、園内のぐるっと一周する蒸気機関車の鉄道が走っている。日本のものとは規模は違うのかもしれない。車輌は6両くらい連ねていて、かなり本格的なものだ。もちろん、本格的といっても本物の鉄道のようにスピードを出したりはしない。いたって安全運転で走っている。

僕たちが乗ったときには、本物の車掌さんから「ゲスト・コンダクター」を紹介する車内放送が流れた。(「ゲストコンダクター」という英語だったと思うけど・・・それとも違うフレーズだったかな・・・忘れてしまった。今までの僕の印象だと、ゲストコンダクターというと「客演指揮者」という意味になってしまうので。)
「今回のゲスト・コンダクター(ゲストとしてお迎えする車掌)は○○州から来た○○君です。○○君は今日が10歳の誕生日だそうです。おめでとう。みんで『ハッピーバースデイ、○○君!』と言いましょう!」
乗客はみんな「ハッピーバスデイ、○○君」と言う。こういうのはアメリカらしい感じがしていい。
「じゃあ、○○君にオールアボードを言ってもらいましょう」
(少年の声で)「オールアボード!」
すると蒸気機関車は汽笛を鳴らし、ゆっくりと進み始める。

オールアボード、すなわち「All Aboard!」なんて言葉は知らなかった。よく日本では鉄道が出発するときに、「出発進行!」と声をかけるけど、これは運転士さんの役目。このオールアボードは車掌さんが言う掛け声。直訳すると「全員乗車!」だが、「出発します」というくらいのところだろうか。

ちなみにこの言葉を検索したら・・・たくさん検索結果が出てきた。有名な言葉だったとは。ちなみに中でも二つの興味深い事実が判明。ひとつは日本のディズニーランドの鉄道でも、やっぱり使われているらしいこと。さすがにディズニーランド、このあたりの演出は徹底している。もうひとつは、これが高校の英語の教科書のタイトルにも使われていること。英語の教科書が『オールアボード』か・・・うーん、なんだか、タイトルを考える出版社編集員の苦労がしのばれるようだ。

スペースマウンテンの詩的世界

2006-02-17 13:34:48 | 日々のこと
僕は今日、伝えるのがちょっと難しそうなことを書こうとしている。今抱いている気分が、これを読んでいるあなたにちゃんとうまく伝達されるか、あまり自信がない。タイトルを見て欲しい、「スペースマウンテンの詩的世界」・・・楽しくて刺激的なジェットコースターが、なぜ詩的なのか。

東京ディズニーランドにもある、あの「スペースマウンテン」のことだ。僕は今回オーランドのディズニーワールドで、このスペースマウンテンなる屋内ジェットコースターに初めて乗った。そして、これが僕にとっては、とても詩的で、ちょっとノスタルジーも感じられるような印象的な体験だった。ロマンチックというか、ちょっとしみじみとした気分も含まれている。この印象はスペースマウンテンというアトラクション自体から得たものだ。だからたとえば、好きな人と昔スペースマウンテンに一緒に乗ったとか、その人にスペースマウンテンで告白したとか、そういう他の経験が重なって感傷的になったりしたのではない。スペースマウンテンの建物に入るところからジェットコースターに乗るまで、その間に通過した時間と空間自体に、僕はしみじみとした印象を感じ取った。

この話の前提として、僕は二点、自分の興味について話さなければならないと思う。ひとつは宇宙への関心。僕は小学生の頃、星や星座にとても興味があった。『宇宙』とか『星・星座』という図鑑が何よりの愛読書で、そこに描かれていた内容は、ビッグバン理論とか光のドップラー効果とか高度な内容もあったと思うが、小学生になりに理解していたようだ。有名なカール・セーガン博士による『コスモス』という大判の写真本も買ってもらい、当時最新の宇宙船ボイジャーによる惑星の写真なども堪能した。ハレー彗星が到来した際には、友達といっしょに観測会に出かけたりもした。しかしながら、やがて高校生、大学生となるにつれ、こういう銀河とか惑星とかに耽溺している時間は、残念ながら英単語とか部活動、アルバイトとかに割かれる時間に取って代わられてしまった。ただ、今でも自分の心の素地というか、心の奥底に、子供の頃に培った「宇宙」への憧れが根強く残っている。これがひとつ。

もうひとつの前提はSF小説の愛好だろう。といっても、SFでもかなり選り好みがあって、何でもいいというわけでもない。抽象的な説明になってしまうが、宇宙と人間の関係を考えさせるようなものが好きだ。とくに、人間の存在が相対化されるようなものがいい。「人類=最高」みたいな発想で、宇宙人を見つけるやいなや有無を言わさずに成敗してしまうとか、ひたすら他の星を征服し続けるとか、そういうものは好きではない。むしろ人間の弱さ、はかなさを考えさせるもののほうが興味深い。たとえばSFの古典、H.G.ウェルズの『宇宙戦争』では人類が危うく滅びそうになる。最終的にはもちろん人類は滅びないのだが、それは人間の力が勝っているからではないところがいい。火星人が滅ぶのはたまたま偶然だ。(どうやって火星人たちが撃退されるのかは、読んでみてください・・・余談だが、このウェルズの作品は邦題が良くない。なんだか「スター・ウォーズ」のような内容ではないかと誤解してしまう。原題は『The War of the Worlds』。地球の世界(world)と火星の世界、この二つの世界が戦争をするということ。)

ところで、誰でも冬の夜の帰り道、空を見上げることがあるだろう。オリオン座が光っている。その斜め下には青白くきらめく星。シリウスだ。地球からの距離は8.6光年。さきほどのオリオンの右の肩にあたる赤い星、ベテルギウスの500光年に比べればかなり近い。地球から最も近い恒星ケンタウルス座アルファ星(「アルファ・ケンタウリ」と呼ばれる)は4.4光年。光速で飛び立っても4年以上かかるということ。ちなみに太陽系最遠の冥王星でも、光速で向かえば約6時間くらいで到達する。先月NASAから、この冥王星に向かう惑星探査機「ニューホライズンズ」(なんだか昔の英語の教科書みたいな名前だ)が打ち上げられたが、今年2006年に地球を出て、冥王星に到達するのは2015年。平均時速5万8000キロメートルで移動してもこれだけかかる。こういうことを書いて何が言いたいのかというと、人間が実際に現在できることが、宇宙の規模からするといかにささいなことであるか、ということ。人間はまだ火星にすら行くことができない。

しかし、SFでならとっくに到達している。火星どころか何万光年、何億光年のはるか彼方まで。スタニスワフ・レムのSF小説『星からの帰還』には、23光年先の恒星フォーマルハウトから戻ってきた宇宙飛行士が登場するが、彼は地球から星を見上げて考える:
「ほんとに、ほんとにおれはあの星にいたんだぞ。口には出さないで胸の中で何度も繰り返すことはできたが、しかしそれも私の際限のない驚きを少しも減らしはしなかった」
もし、僕が、あなたが、あの冬の夜空に輝くシリウスへ、その8.6光年、すなわち81兆キロメートルの彼方に実際に行くことができたとしたら・・・そのとき、この宇宙飛行士のように、驚くべき、信じられないような思いを抱くに違いない。あの輝く星へ実際に到達するという想像・・・実現性の薄いはかない夢ではあるが、そこには何かしらの詩的な気分が、想像力をかきたてる何かがある。

ディズニーランドのアトラクションにはみんな「ストーリー」設定がある。スペースマウンテンにも、ただジェットコースターに乗るだけではない「ストーリー」が設定されている。つまり、わざわざ暗闇の中をジェットコースターが進むのには、ディズニーランドの考えた意味がある。スペースマウンテンは「・・・まばゆいばかりに星が輝く幻想的な宇宙空間を抜け、ロケットは銀河系のかなたへ・・・」なのだ。憧れの宇宙へ。あくまでもディズニーのアトラクションということは十分承知している。承知していてもなお感じてしまう、宇宙への詩的な気持ち。

スペースマウンテンの他にも「宇宙へ出て行く」アトラクションはあった。たとえば、MGMスタジオの「スター・ツアーズ」とか、エプコットの「ミッション:スペース」とか。でもスペースマウンテンが一番淡々としていていい。入ってすぐのところに、各方面への旅程表が出ている(どこどこ星には何千光年、といった具合に)。長く続くとても暗い通路には、時折星座や銀河の写真パネルが掲げられている。でも、ただそれだけ。「今からみなさんは何々星に向かって旅行します・・・」みたいなアナウンスもないし、表示もない。僕にとっては純粋に「宇宙」を感じられて良かった。

もちろん、スペースマウンテンはあくまでもジェットコースターだ。怖さはというと、僕には程良く怖いくらいでとてもおもしろい。今までに他所でもっと強烈に怖いのに乗ってしまったので、これくらいならばOK。終わるととても気分爽快で気持ちがいい。オーランドのディズニーワールド全体でも、僕が一番楽しいと思ったアトラクションだった。

オーランドで出会うイギリスの味

2006-02-14 14:43:11 | 日々のこと
二週間も会社を休んで遊んでいるわけだ。休むための準備は怠らなかったとはいえ、同僚のみなさまにはそれなりに面倒も掛けているだろう。まさか、手ぶらで帰り出社するわけにもいくまい・・・ということで、おみやげの話。旅行では常に生ずる難問のひとつである。

会社に持っていく場合、おみやげはお菓子がいい。できれば、箱詰めの中にさらに一人分のパック分けがなされているもの。カットして、人数分切り分けなければ食べられない・・・みたいなものは面倒で不適切だ。切り分けたタイミングでみんな職場に在席しているとは限らない。そしてまた、そのタイミングでみんなお腹がすいているとは限らないのだから。

今回の旅先はオーランド。アメリカ合衆国だ。僕の思い込み、かつ、ありあまる先入観とは承知しているが、アメリカのお菓子においしいものはない(正確な表現をきたせば、「ない」ではなくて「少ない」だろうか)。日本の和菓子みたいに、微妙な甘さというものがないのだ。甘く作られたお菓子(食事・飲料を含む)はみんな極端に甘すぎる。とても食べられたものではない。だからあんなに肥満の人が多いのだろう。

そういうアメリカ的な、とんでもないお菓子をおみやげに持って帰ったらどうなるか・・・「あいつ、センスのない奴」と職場から思われてしまうではないか。別にそんなの気にしないよ、というほど僕は大胆な神経の持ち主ではないので、おみやげのお菓子選びはおのずと慎重にならざるをえない。それに、別に自分の評判を気にする必要はないとしても、みんなのために買って帰ったお菓子が「おいしくない」と言われてしまうのは、やっぱりさびしい。

ということで、各テーマパークでは必ずおみやげショップに入ったのだが、僕はお菓子をいろいろ物色。比較的おいしそうなものはどれだろう。なんだか、怪しげなアメやチョコレートがたくさんあるが、見るからに「やばそう」な感じがする。きっと死ぬほど甘いだろう。ひとつの袋にたくさん入っているスナック菓子ふうのものも、チップとデールがかわいく描かれているが除外。上に書いたように、おみやげとして食べやすいものでないといけない。最終的に候補に残ったのは、緑色の箱にミッキーの絵が描かれたショートブレッドだった。ちなみにショートブレッドというのは、バタービスケットのようなもの。イギリスの伝統的なお菓子で、紅茶を飲みながら食べるとおいしい。

これを書くと、僕が小心者というか、かなり慎重な奴と思われるだろうな・・・。実は「これにする!」と決めて買う前に、そのショートブレッドが2枚だけ入った小さいパック(価格1ドル)も販売されていたので、味見ということでわざわざそれを買い、事前にホテルで試してみたのだ。僕がいかにアメリカのお菓子に不信感を抱いているかおわかりいただけるだろう。で、その結果・・・これがなかなかおいしい。というか、かなりうまい。「アメリカのお菓子にもこういうのがあるんだね、どこで作っているのかな、何という会社かな?」と思って袋のウラを見て、全てが氷解。

その製造会社の名前は「ウォーカーズ」。なあんだ、イギリス製じゃん!どうりでおいしいわけだ。ウォーカーズ(Walkers)というのは、ショートブレッドでは一番有名なイギリス(スコットランド)の企業。味はさくさくしていて、程よいバター風味。気にならない程度の甘さがあるが、ほんのちょっと塩味もあり、これはかなりおいしい。実はイギリスでショートブレッドを扱う仕事もしていたから、この方面にはちょっと詳しかったりする。だから思う、ウォーカーズなら大丈夫。お土産はこれに決定。そして後日、一つ4ドルの箱詰めセットをいくつか買って帰国。結果は予想通り好評で、みんなにおいしいと言ってもらえた。やれやれ。

ちなみにウォーカーズのショートブレッドは日本でも普通に売られている。スーパーで赤いタータンチェックの箱に入ったショートブレッドを見かけたら、それがそう。お試しあれ。ところで、僕が選ぶベストショートブレッドは「ショートブレッドハウス・オブ・エジンバラ」社のもの。これはウォーカーズよりおいしい。とても香ばしくて、さくさくしている感じも硬すぎず、もろすぎず丁度良い。十人食べたら九人は必ずおいしいと言うと思う。

ただしこのショーブレッドハウス・オブ・エジンバラは、おそらく日本ではまだ発売されていないのではないか。ウォーカーズと違い、保存料を入れていないせいだと思うが、日持ちしないのだ。賞味期限が短い。なので日本に輸入して、スーパーに卸して・・・みたいな時間のかかる流通には不向きな商品。だから、どこかで、アザミの花の絵が図案化された青い箱のショートブレッドを偶然見かけたら(たまに赤い箱もある)、ぜひ試して欲しい。とくにイギリスに旅行した際には必食。おみやげとしても絶好。

■ウォーカーズ社のサイト:
http://www.walkersshortbread.com/

■ショートブレッドハウス・オブ・エジンバラ社のサイト:
http://www.shortbreadhouse.com/
(ただしこのサイト、なぜかかなり重いです。なかなか開かない)

「タワー・オブ・テラー」

2006-02-07 16:28:39 | 日々のこと
何日か前の朝方に見た夢。

どこかの都市で、僕はなぜか高級なリッツホテルに泊ることになった。数あるホテルの中で、なぜリッツホテルなのかは定かではない、夢だから。そしてあてがわれた部屋はなんと51階の客室だった。エレベーターに乗り込むと、ボタンは52階までしかない。出張で泊まるのに、なんでこんないいところに・・・という不審な気分でエレベーターに乗りこむ。

エレベーターが高層階に近づくにつれ、右に左に大きく揺れだしているのがわかる。建物全体が風か何かで、大きくしないでいるような感覚。なお、このエレベーターはガラス張りになっていて外の景色が楽しめるタイプで、眼下の町並みははるか小さくなっている。「楽しめる」と書いたが、夢の中の僕はもちろんそんな気分ではない。ガラスの向こうに見えるエレベーターの支柱が妙に心もとない。「やばい・・・このエレベーター、大丈夫かな・・・。」言葉には出なくても既に抱いている感覚がある。そう、落下への恐怖感。

こんな具合で、また見てしまったエレベーターの夢。去年の12月21日の日記に書いたとおり、エレベーターはなんとなく苦手なのだ。あの、下に向かって加速するときの落ちていく感覚も好きではない。だから、オーランドのディズニーワールドにはいろいろなアトラクションがあるけれど、MGMスタジオにある「トワイライトゾーン タワー・オブ・テラー」だけは、まさに鬼門だった。自分を乗せたエレベーターが13階の高さから垂直落下するという、聞いただけでご遠慮願いたくなるアトラクション。僕の好きではない要素がここには見事結集している。

しかしオーランドまで行っておいて、これに乗らずに帰国したのでは、日本男児のはしくれとしても許されまい。ということで挑戦。実は九年前にも乗ったのだが、「怖かった」以外にほとんど記憶がなく、ほぼ初挑戦の心境。建物に入ると、テレビ画像で過去のテレビ番組「トワイライトゾーン」を模した説明があったりして、実際にエレベーターに着席するまで少々時間がある。だがもうその時点で心拍数が異常なくらい上昇。そして問題のエレベーターに積み込まれ、落下を待つ間は限界寸前。「やっぱりやめたい」という気持ちに強くとらわれるが、もう逃げ場はない。そして、落下。急上昇。落下。そしてまた急上昇、落下。

アトラクションの出口のところでは、エレベーターに乗っている間に撮影された写真が掲出され、販売されている。その第一回目に乗ったときの、僕の顔といったら・・・あんなに引きつっている表情、初めて見た。まったく余裕が感じられない顔つき。当然だ。終わってからも、一体何だったんだろうという感じで、乗っていたときのことが漠然としか思い出せない。怖すぎて夢中だったのだ。あまりにも強く手すりを掴んでいたらしく、腕の筋肉が妙に疲れているのがわかる。怖い瞬間に写真を撮影されるアトラクションは他にもあるが、こんな顔をしている自分は初めてだった。

要するに、僕はこういうのが苦手で怖いのだ。臆病者と呼ばれてもいいから、人生において、この手のものはできれば避けて通りたい。しかし、である。また繰り返すが、せっかくオーランドまで行ったのだ。往復30時間飛行機のエコノミークラスで我慢したのだ。一回乗ったきりで終わらせていいものだろうか。否である・・・ということで最終的に、このアトラクションに計六回も乗ってしまった。MGMスタジオ訪問第一日目に一回。二日目にも一回。三日目には四回。

慣れとは恐ろしいものだ。最終的には、なんと、あの強く握っていた手すりを放して乗ることができるまでに至った。いやいや言いながらも、六回も乗ったかいがあったというもの。手を放してみて初めてわかったのだが、落ちる瞬間に体がふわっと浮く。腰のベルトに体が下へ引っ張られる不思議な感覚。こうして手を放して乗ることが出来るようになった記念に、ちょうど両手を万歳しているところを写真に撮られたので買って帰ってきた。「タワー・オブ・テラー」征服の、動かぬ証拠である。

帰国して知ったのだが、この「タワー・オブ・テラー」、日本のディズニーシーにも作っているらしい。現在建設中で今年秋にはオープンとのこと。この「落下訓練」を日本でも実行できる日は近い。

愛しき悪役(ヴィランズ)たち

2006-02-05 00:33:06 | 日々のこと
オーランド、ディズニーワールドでの印象をひとつ。

童話『シンデレラ』の物語は、シンデレラが無事にプリンセスの地位を得たというところで「めでたしめでたし」になる。では、その後はどうなったのでしょう・・・みんな興味あるよね?という感じでそのショーは始まる。そしてシンデレラは王様からプリンセスとしての冠を授けられ、正式にプリンセスとなる・・・これがマジックキングダムで行われていた「シンデレラブレーション」というステージショー。東京ディズニーランドから来た新しいショーですと紹介されていたが、ディズニーランドに久しく遊びに行っていない僕にはまったく新鮮な内容。

この「シンデレラブレーション」で一番すごいなと思ってしまったのは、この「戴冠式」に臨席する来賓の方々。『シンデレラ』のストーリーに基づいているのに、次の方々が登場する:『白雪姫』から白雪姫と王子様、『眠れる森の美女』からオーロラ姫と王子様、『アラジンと魔法のランプ』からジャスミンとアラジン、そして『美女と野獣』からはベルと野獣に変身させられていた王子様。こんな感じでディズニーのヒロインとその王子様たちが一堂に舞台に現れて、みんな一緒にシンデレラの戴冠をお祝いするのだ。

このようにお姫様と王子様を大奮発・大盤振舞したのはきっと観客を、とくに女の子のお客さんを喜ばせる狙いだ思うが、よく考えるとこれは本来の『シンデレラ』のストーリーをハチャメチャにしてしまっている。でも、僕はこういうシュールな展開は嫌いではない。なんだか笑えてしまう。想像してみてほしい、もしこれが『日本昔話』で行われたら・・・桃太郎の鬼征伐成功と無事帰還お祝いするために、足柄山から金太郎が、月からかぐや姫が、そしてどこかの浜辺からは浦島太郎がやってきて、みんなでお祝いした・・・。想像するとかなりおかしい。「シンデレラブレーション」でいろいろお姫様が一気に登場するのも、今僕が想像した「桃太郎後日譚」もシュールさでは大差ないと思うのだが、どうなのだろう。どうせなら、シンデレラの戴冠式に、スティッチ、バズ・ライトイヤー、プーさん、チップ・アンド・デール、ないしは、グーフィーなどを登場させるのも、かなりシュールかつナンセンスで悪くないと思うのだが、さすがのディズニー社も『シンデレラ』の物語をここまでぶち壊してしまう勇気はないらしい。

本来とは別の物語のキャラクターが一気に出てくるといえば、MGMスタジオで行われている「ファンタズミック!」というショーもまた同じだった。ただしこれは何かの物語を下敷きにしているというわけではなく、ショーのためのオリジナルなストーリーだから、「シンデレラブレーション」のような原作との違和感とか、突拍子もないというシュール感はない。内容はまず、平和な世界に住むミッキーを、ディズニーの悪役(総称してヴィランズと呼ぶ)たちが脅かす。するとミッキーはなんとか彼らをやっつけて、そして再び希望と夢と今ジーネーションの世界が取り戻される・・・こういうストーリー。もっと要約すれば、ヒーローのミッキーが悪者をやっつけるということ。ディズニー的な勧善懲悪の典型だ。

「ファンタズミック!」では豪快な噴水の水しぶきがスクリーンとなって、そこにアニメーションが投影される(と書いても、どういうことかは実際に見ないと理解できないと思う)。そのアニメ画像に悪役たちが登場する。『101匹わんちゃん』からはクリエル、『アラジン』からジャファー、『リトルマーメイド』からアースラ、そして『白雪姫』からは毒りんごを食べさせる王妃。ジャファーは言う:「今こそミッキーにはさよならしてもらうぞ!」・・・うーん、『アラジン』のキャラクターや、『白雪姫』の悪いお妃が、それぞれ本来の物語とは関係のないミッキーマウスについて云々するのは、やっぱりちょっとシュールかもしれない。

それはともかく、僕はこういう悪役たちに目が向いた。自分より誰が美しいのか気になってしかたがない王妃(「鏡よ鏡!」と魔法の鏡に問いかける)とか、王位を狙う大臣(ジャファーのこと)とか、こういうキャラクターのほうがよっぽど人間味溢れているような気がして親近感がある。子供向けの話なのだから、僕がむきになってあれこれ言う事柄ではないのだろう。しかし、不幸せな境遇からプリンセスに成り上がったり、悪者と見るやすぐ刀を抜き、たちどころに成敗しまう連戦連勝の王子様連中には、いとおしさを感じない。彼らはいわゆる「勝ち組」だから、僕の同情は不要なのだ。むしろ、地位や容姿、あるいは財産に一喜一憂してしまうような、人間的な弱みのあふれる悪役たちのほうが、愛すべきキャラクターに思える。

ところで、お姫様たちや、悪役たち、そしてたくさんいるディズニーキャラクターたちだが、旅行前は名前も顔もみんな知らなかった。ところが今ではこんな文章が書けるくらい、それなりに詳しくなってしまった。これはもちろん、8日間滞在した結果、自然に身についたということでもある。しかし、これは積極的に興味を持ったという証拠でもあると思う。もっと素直に書けば、要するにディズニーの世界を「楽しんだ」ということだ。

だから、もしかすると上に書いた文章は、とくにショーについて、ちょっと皮肉っぽく批判的に響くかもしれないが、とんでもない。純粋に楽しんだのです、童心に還って。

安全の代償

2006-01-31 03:06:11 | 日々のこと
●行きは約12時間。帰りは約13時間。長時間の飛行機旅行は本当にしんどい。この時間は成田-ニューアーク間だから、まだ目的地には到達しない。さらにオーランドまでは3時間の空の旅。なんだか、その日一日は何時間起きているんだろうという状態になる。いつも思うのだが、飛行機の中で寝られる人が羨ましい。あるいは僕も、脱エコノミークラスを目指すべきだろうか。しかし、その道のりはオーランド以上に果てしなく遠いように思われる。

●出発前に自宅へ届いた旅行会社からの書類の一枚には、次のような告知があった:
「米国連邦航空省交通保安局は、保安対策としてアメリカ合衆国へ到着されるお客様に対し、受託手荷物(預け荷物)の検査を強化しており、施錠の有無に拘わらず、米国内全ての空港において無作為に開錠検査を実施しております。・・・スーツケース等の受託手荷物(預け荷物)は、施錠しない様にご協力をお願い致します。施錠されている場合、鍵を破壊して検査を行う場合があります」
僕のスーツケースはもう12年くらい使われているもので、さすがにちょっとがたついてきていて、蓋が簡単に開きやすいような気がしている。だから、開いてしまわない安全装置として施錠したかったのだが、まあ、仕方ない。勝手に開かないよう、祈るのみ。その祈りが通じたのか定かではないが(宗教心ゼロなので)、結果的には無事に旅行を終えることができた。しかし毎回こういう心配をするのは嫌だし、どこに行くにも使ってきた小ぶりで愛着のあるスーツケースだけど、そろそろ買い替え時なのかもしれない。

●前回アメリカを訪れたのは約4年前で、もちろん既にテロの後ではあったが、今回のように身体検査は厳しくなかったような気がする。覚えていないだけだろうか。日本で飛行機に乗るときに比べて、若干厳重だ。ニューアークの空港でも、オーランドの空港でも飛行機の搭乗前、いわゆる「エアサイド」に入る前に手荷物と金属探知機の検査があるが、金属探知機では上着(コートを着ていた)と靴(スニーカー)を脱ぐよう指示された。言われてみれば、厚底の靴のかかとに危険物を隠していた、なんて話を聞いた記憶があるような、ないような。この観点からすると、一昔前、日本の局所的な地域及び年齢層に流行した厚底サンダルなるものは、非常に怪しまれるに違いない。ともあれ、みんな金属探知機のゲートの下を、靴を脱いだ靴下姿でぺたぺた歩いている。

●入国審査でのこと。質問はいつものパターン。何しに来たのか、何日滞在するのか。僕には何回目の渡米か質問されたが、「a few timesだと思う」といい加減に答えて済ませてしまう(実際には4度目)。そして噂に聞いていた例の指紋押捺と顔写真の撮影。入国審査のカウンターの上に、ちょっとした四角の台があって、そこに指を載せてと指示される。その後、マイクのように伸びてきている小さいカメラを見るように言われて顔の撮影。おととし全ての一般旅行者の指紋押捺と顔写真の撮影を義務づけると米政府が発表したとき「絶対にアメリカに行くもんか」と思ったものだが、もはややむを得まい。万事休す。ということで、僕の指紋が唯一正式に保管されているのは米政府だけ。日本の警察当局のみなさん、僕に何か不審な点があったら、米政府に指紋を照会するように!

●しかし、人を犯罪者扱いするような、一歩間違えると人権侵害とも思われるようなこの指紋押捺制度だが、日本に居住する外国人にも義務づけられていたのを忘れてはいけないだろう。だから米政府ばかりを非難するのは酷なのかもしれない。また、アメリカ人は指紋を取られることに、そんなに神経質ではないのかもしれない。今回のディズニーワールドだが、四つある各テーマパークの入場ゲートには指紋判別機(らしきもの)が付いていて、それに指を乗せないと入場できないようになっている。まず入場券を差込み、そのあと、右手の中指と人差し指を機械に差し入れ、それからゲートが開くしくみ。これを日本のディズニーランドでやったらどうなるだろう。みんな「安全のため」なら納得するのだろうか。考えようによっては、入場の際の手荷物検査だって失礼な話かもしれないのに(これは確か日本でもやっている)。安全の代償というところか。

●ということで、帰国しました。しばらく旅行ネタが続くと思いますが、あしからず。よろしくどうぞ。

オーランドへの旅

2006-01-18 18:29:04 | 日々のこと
1997年2月のこと。僕たちはオーランドの滞在を終えて、次の目的地ニューヨークへ向かう飛行機に乗ろうとしていた。団体旅行(といっても、みんな仲のいい友人たちだったのだけれども)だったから、余裕を持って空港には早めに着いていたのだと思う。みんなそれぞれ座っておしゃべりしたり、飲み物やお菓子を買ったり・・・多分そういう状況だったと思うが、なにせ10年近く前のこと。もう詳しくは覚えていない。

どこの空港にも見られるが、そのオーランド国際空港の待合ロビーにも、ちょっとキオスクを大きくしたくらいの本屋さんがあった。これまた、はっきりは覚えていないが、そのお店の取り扱いのメインは機内で気軽に読めるような新聞や雑誌だったのだと思う。そして、奥のほうには多少のペーパーバックが置いてあるような、そんなお店。

本屋さんを見かけると中に入りたくなってしまうのは、もう習性というか、もはや止められない僕の行動パターン。旅行中みんなと話してばかりで(もちろんそれはとても楽しいのだけど)、ちょっと活字に飢えていた可能性もある。また、オーランドというのは活字や書籍といった文化とは離れたぜんぜん違う意味で、ものすごく楽しめる場所だ。そんな環境に何日も浸っていたせいか、きっと久しぶりに活字に囲まれたくなったのだろう。どんな本があるのかなと、僕は中に入っていった。

その旅行は初めての海外旅行ではなかったのだけれども、英語を公用語とする国を訪れたのはそれが初めてだった。ペーパーバックも別に珍しい品物ではない。授業や卒論のためにいくつも日本で買ったし、新宿の紀伊国屋や神保町の専門店には死ぬほど並んでいる。でも、普通にペーパーバックが売られている光景というのは、まあ一応初めて見るわけだった。

日本で買う洋書は当然高い。背表紙に書いてあるドルやポンドの価格をそのまま為替レートで換算すると「だいぶ儲けているなあ」と思ってしまうような価格設定。しかし、日本ではその設定金額で買うほかない。供給の絶対量が少ないし、今みたいにアマゾンとか存在しない頃だから完全に売手市場で、購入者には選択の余地がなかった。ところが、そのオーランド空港で見た本は、当たり前なのだが、印刷された定価どうりの値段で売られている。なんだかお買い得ではないか。買わないと損だ・・・そんなふうに感じてしまったのも不思議ではない。

一種のお土産のような気持ちで、そのとき本棚に並ぶペーパーバックから選び出して購入したのが、カズオ・イシグロの『日の名残り』。なぜ『日の名残り』なのか・・・もはやその理由は思い出せないのだけれども、彼の名前と作品には多少の馴染みがあった。戦後のイギリス文化史の本を読んだ授業でカズオ・イシグロの名前は明らかに登場し、映画についての言及もあった。その映画、『日の名残り』は1993年に公開されたもので、その1993年当時は、僕はまだ現代イギリス文学にそれほどの関心はなかったから、公開時に映画館で観た可能性はない。だからきっと、その数年後、ちょうどオーランドに行く前にでもレンタルビデオで鑑賞したのでろう。そして、アイヴォリー監督の他の作品同様、優雅なイギリスらしさ溢れるこの映画を気に入っていたに違いない。

しかし、今こうして書いているのは自分のことなのに、歯切れの悪い表現ばかりになってしまう。けれども、ほんとにもう覚えていない。すっかり忘れてしまった・・・9年の歳月は長い。

英語の本を買うなんて、読まない人から見るとちょっとキザなことだ。例に違わず同行の友達から冷やかされてしまう。そしてこの本を買う光景は、ガイドさんにも見られていた。彼はかなり面白い人でツアー中みんなをかなり盛り上げてくれたのだが、そのときは比較的まじめな感じで僕に質問してきた。「何を買ったの」「カズオ・イシグロの『日の名残り』という本で・・・」「君はこういうの読むの?」「はい、学校で勉強しているので・・・」こんな会話だったと思う。そしてそのガイドさんは僕に言うのだ。「ねえ、ここで一緒に仕事しない?英語できるんでしょ?」

僕は笑顔でお茶を濁した・・・のだと思う、きっと。すでに内定も得て、4月から新入社員として働き始めるのだ。承諾できるはずがない。それにこんな僕を本気で誘っているなんて思えなかった。しかし今考えると、あのときもし「是非そうさせてください!」と答えていたらどうなっていたのだろうと想像してみたくなる。温暖なオーランドで、最初は学生ビザでアルバイトだろうけど、いずれ定住権を得て・・・みたいな。それもまた悪くないかもしれない。

もちろん、内定していた企業にそのまま僕は就職した。そしてその企業で入社4年目から2年間、ロンドン生活の経験を得た。これもまた、オーランドでの誘いを選択しないことで得られた、価値ある結果だ。だから、人生の選択肢はいろいろあると思うが、どっちが良かったとか悪かったとか、結局わからない。きっと、どっちでも良かったのだろう。もしオーランドでの仕事を選んでいたら、今の自分とは全く違った生活環境と価値観の下で暮らしているのだろうが、それはそれで満足すべきものになっているに違いない。そして、僕の今現在の生活も、とくに不満はないし、十分幸運で恵まれたものだと感じている。

おかげさまでその幸運のひとつとして、明日から9年ぶりにオーランドに訪れることになっていて、今日は旅支度をして過ごした。僕はあんまり自発的にオーランドへ行こうというタイプではないが(これだけ休みがあれば、一人だったらロンドンにいくだろう)、まあ、オーランドは気候も良くて、そして十分に楽しめるところなので全く文句はない。この旅行はオーランドにしか滞在しないし、ディズニーワールドから外に出る計画もない。なので、今回もきっと空港の本屋さんに立ち寄ってしまい、もしいい本が見つかれば、また買うことになるだろう。その結果は1月末に。

たまには英語の訓練を

2006-01-11 16:16:06 | 日々のこと
日頃から「スタッフ」という言葉が気になる。

もし何かの案内に、たとえばお店やイベントなどの案内に、こう書いてあったとしよう:
『ご不明な点はお近くのスタッフまでお申し付けください』
本当に何か疑問なことがあったりして、あなたがその「スタッフ」に話しかけるのは何人だろうか?もちろん一気に何人もの人には声をかけられないから、きっと大勢いるスタッフ、少なくとも何人かいるスタッフの中の一人に質問することになるだろう。つまり、この場合のスタッフは一人の人間を指している印象がある。

次にもし、あなたが会社や何かの組織のリーダーで、外部者から「あなたの部署のスタッフはどのくらい技術を習得していますか」と質問されたとする。そのとき、場合によってはこんなふうに答えることもあるだろう:
『技術の習熟度はスタッフによってばらつきがあります』
こんなときに使う「スタッフ」という言葉も、メンバーの集団という集合体の意味ではなく、個々のメンバー一人ひとりを指し示しているような印象になる。

上の例で考えてみたように、日本語で「スタッフ」と言う場合、「ある組織のメンバーの集団」を意味する場合と同時に、そのメンバー個々人を指し示しているようなケースもある。そう、だから僕は間違って複数形で言いそうになるわけだ。ところが、英語ではstaffsと複数形にするのは基本的におかしい。

具体的には、たまに外国人の同僚や上司が職場を訪れるときがあって(一応外資系なので)、そのとき自分の部署を説明しようとしてstaffsと言いそうになる。「うちのスタッフは・・・」と説明しようとすると「Our staffs...」と言いかけてしまうのだ。気をつけてはいるけど、いつもけっこう何も考えずお気楽にしゃべってしまうので(正しい文法で・・・と思っていると何も話せなくなる)、実際には気づかずにたくさん間違っていると思われる。ところで、もし本当に「うちのスタッフは・・・」と言いたいのならば、実は「We...」もしくは「They...」で十分だと思う。

この「staffs」が間違いであるということは、ロンドンで知った。学校でも教えてくれているのかもしれないが、「受験」という目的のための勉強は、いったん目的を達成すると忘れるのも早い。ちなみに、
「The staff in the shop are friendly.」と言うべきであって、
「The staff in the shop is friendly.」ではないということも教わった。
まあ、実際にはコミュニケーションという観点から言えば、どちらでも理解してもらえると思う。英語は母語ではないのだから、このくらいのミスは勘弁してほしいところだ。

この「staff」と同じような使われ方をする単語はあと二つ、「police」と「people」がある。そういわれてみると、確かに「people」の後ろには複数形の動詞がくると教わったような気がする・・・もうかなり昔の話だ。見た目は単数形みたいなのに複数扱いになるとか、あれやこれや。

個人的な英語の苦手ポイントは3つある。
①動詞句(phrasal verb)
②前置詞
③単数・複数の考え方

まず①だが、これは結局慣用表現なので、ひたすら覚えていくしかない。「put up」「take up」「draw up」「mix up」「own up」「go up」・・・。この大変さは日本語だって同じ。たとえば「腰を掛ける」「腰を据える」「腰を折る」「腰を低くする」「腰が砕ける」・・・みんな文字通りの意味ではなく慣用表現になっている。母国語だと無意識のうちに身につけてしまっただけのこと。

②だけれども、これも大変。さきほど「The staff in the shop...」と書いたが、こちらのほうが「The staff of the shop...」よりも自然に感じられる気がする。どうしてだろう。INという前置詞はどういう意味で・・・とか、OFと言う前置詞はどういう意味あいで・・・とか、そういう「知識」としては理解しているのだけれども、感覚としてぱっと出てこない。体で覚えてないわけだ。僕がささやかながら気をつけている点は、日本語の「の」という助詞を、単純に前置詞「of」にしてはいけないということ。とくに場所を示すときに間違いやすい。(「マンチェスターは英国の都市です」→「Manchester is a city in England.」)

③は今日の「staff」のような問題。これもまた、知識としてはわかっていても、センスを体得しなければならないポイント。日本語には名詞にも動詞にも複数形がないので、そういう文法的「数」の意識がすぐには出てこない。

こういう上記の課題点に比べれば「仮定法」なんて易しい文法だ。一度ルール覚えれば、その後はそのパターンを応用していくだけ。単語もそうだけど、動詞句やイディオムのようにひたすら暗記が必要なものや、前置詞や数の考え方みたいに、体でセンスを身につけるもののほうが実際には大変。

最後に、ロンドンの英語学校にて僕のこういう弱点を相談したところ、先生から「じゃあ、こういうテキストで勉強してみたら」と勧められたのが以下の問題集。余計なお世話とは思いますが、もしご関心のある方がいたら、見てみてください。もちろんすべて今でも我が家にあるのですが・・・残念ながら冬眠中です。いつかまた練習しないと、と思いつつ。

☆動詞句について
Goodale, Michael.
Collins COBUILD Phrasal Verbs Workbook (Collins Cobuild Dictionaries):
HarperCollins Publishers, 1993.


Flower, John.
Phrasal Verb Organiser: With Mini-Dictionary:
Language Teaching Publications, 1993.


☆前置詞について
Keane, L. L.
Practise Your Prepositions:
Longman, 1990.


☆語彙について
Thomas, B. J.
Advanced Vocabulary and Idiom:
Thomas Nelson and Sons, 1989.


☆発音について
Baker, Ann.
Ship or Sheep an Intermediate Pronunciation: An Intermediate Pronunciation Course (2nd edition):
Cambridge University Press, 1981.


☆文法全般
Hewings, Martin.
Advanced Grammar in Use:
Cambridge University Press, 1999.

「役に立つ」だけの人生

2006-01-01 15:43:27 | 日々のこと
もし就職の際の面接で「どうしてあなたは○○学部へ進学したのですか」と質問されたら、どう答えるだろうか。

法学部:「社会の仕組みを根本から規定する『法』というものについて勉強したかったからです。具体的には○○法に興味を持っていて・・・それを仕事に役立てていきたいと思ったからです」
経済学部:「お金を仲立ちとして、財・サービスが循環する経済活動こそが世界を動かしていると感じ、その仕組みを詳しく知りたかったからです。とくに・・・について勉強し、その知識を生かしていければと考えました」

きっとこんな感じの答えで、一応の模範解答になるのではないだろうか(正確なところは、法律も経済も勉強したことがないからわからないが)。

さて、僕の場合は次のように質問されることになる:
「どうしてあなたは文学部へ進学したのですか」あるいは、
「どうしてあなたは英米文学を専攻したのですか」

就職の面接とかで、世間的・社会的な建前が求められる場合、僕はこう答えることにしている。
「子供の頃から本が好きだったのと、英語の勉強も嫌いではなかったので・・・」
でも、本音は違う。はっきりわかっている。
「『役に立つ』勉強がしたくなかったから」
なのだ。本を読み、登場人物の心理描写を研究することが、仕事にどのように役に立つだろうか。作者の比喩表現の特徴から、作者自身の生い立ちに潜む劣等感を探り出すことが、日本経済にどのような影響を与えるだろうか。

今回使っている「役に立つ」という表現は、「就職に有利」「資格が得られる」「仕事に便利」という意味。つまり「お金を稼ぐ上で役に立つ」という意味だ。ここからは意見分かれるところだが、僕は自分の勉強という時間を「仕事のため」とか「金稼ぎのため」に使いたくなかった。好きなことを好きなように勉強したかった。

幸いにも僕の家族は放任主義で「好きなようにしろ」という態度なので(内心は親なりに心配していただろうが)、こういう僕の振る舞いをとやかく言うことはあまりなかった。本人自身も公務員をしていた祖母は、僕には地元の県庁に就職することを期待していたようだが、そして僕自身もお役所仕事のイメージにあこがれて多少「そういうのもいいかな」と思っていたが、やはり所詮無理な話。「公務員試験に合格するための勉強」なんて、僕の一番嫌いなタイプの勉強ではないか。勉強という行為に「見返り」を期待するものはうまくいかない。なんだかその「見返り」というエサのために、勉強をやらさらているという気分になってしまう。

こういう「役に立つ」とか「見返りがある」というものを軽視する傾向は現在も変わらない。たとえば昨今幅を利かせている、いわゆるハウツー本なんて読む時間がもったいないと感じる。「役に立つ本」なんて僕にはひどくうさん臭い。読書なんてそんな万能ではないのだから。しかしそれでも巷ではベストセラーだったりするところをみると、どうやら僕のこのスタンスは少数派であることがわかる。僕にとって読書は、音楽を聴いたり、絵画を鑑賞したりすることと同じことだ。その対象についてあれこれ考えてみたりすることはあっても、「仕事の役に立たせよう」みたいな計算は全く働かない。というか、働かせたくない。

僕のこういう態度の根本には、自分なりの労働への価値観がある。僕にとって仕事は純粋に「金を稼ぐためのもの」であって「人生を豊かにするもの」ではない。極端に言えば、仕事は生活費を得るための必要悪であって、そこから得られる金銭に特別の価値はなく、また、金銭を必要以上に持っている理由もあまりあるとは思えない。結局、仕事も金銭も手段であって、人生の目的にはなりえない。

一方、労働や金銭の価値観が全く異なる人たちがいる。仕事をすること、そして金を稼ぐことが生きがいという人たちだ。これは、ある意味羨ましい。好きなことをやっているだけで、経済的な結果もダイレクトに得られるのだから。また、こういう人たちこそが「役に立つ」ための勉強や読書を進んで実行できる人たちであると想像する。彼らにとっては、お金はとても大切のものであるのに違いない、僕が好きな本を大切にするのと同じように。

働いて得たお金はどうするのだろうか。世の中を見渡すと、これでもか、これでもかと、お金の必要性を煽り立てる社会になっていることがわかる。日々新聞に挟み込まれるチラシやテレビのコマーシャルは消費者の欲望を永遠に刺激する。「こういう生活を送るのは当たり前じゃないですか」と、そういう宣伝は押し付けて(「新生活の提案」などという表現を装う)、際限なくモノを買わせようとする。「これからは、大型液晶テレビを持っているのが当たり前です」「お正月には高級おせち料理を注文するのが当たり前です」などなど。

こういう社会だから、
「①欲しいものがたくさんある→②それらを買うためのお金が必要になる、つまり、お金の価値が高まる→③お金を得るための行為、すなわち仕事や労働の価値も高まる→④仕事や労働に役立つ物事が尊ばれる」
という流れになる。「役に立つ」勉強や「役に立つ」本ばかりが重視されるのは、こういう消費社会が背景にあるわけだ。消費社会、これはつまり、製造や商売、あるいはサービスの提供をしている企業が儲かる社会だ。だから逆にたどると、
「仕事に役に立つ勉強や読書をする→仕事でお金を儲ける→消費して企業にお金を与える」
という結果になるのだが、これでみんなハッピーなのだろうか。

* * * * *

「音楽にチャレンジしてみたい」「留学してみたい」「旅行をしてみたい」とか、「○○したい」という話をよく耳にする。場合によっては、僕との直接のコミュニケーションでそういう希望を表明してくるケースもある。みんな自分のやりたいことがあるのだ。そんなとき、多くの人が仕事や金銭的な心配をするものだが、僕はぜひ「やるべきだよ!」と言いたい。

仕事に役に立つこと、お金を稼ぐのに役に立つことというのは、最低限の生活費を除けば、結局欲しいものを買うということにしか役に立たない。消費だけで人生が豊かになれる、消費だけで幸せだという人はそれでいいだろう。確かに消費はある程度の豊かさを保障はする。だが、そのためだけに、今現在「本当にやりたいこと」すなわち、希望や夢を犠牲にすべきだろうか。消費にはそんな価値はないと僕は思う。

ということで、僕もやりたいことをやる。これが2006年新年の意見表明。

(新年早々長文にお付き合いいただき恐縮です。本年が皆様にとって良い一年になりますように。)

『歓びを歌にのせて』

2005-12-29 13:00:27 | 日々のこと
■映画『歓びを歌にのせて』
(ケイ・ポラック監督、2004年スウェーデン映画、渋谷ルシネマにて)

さすが「文部科学省特別選定作品」。正統派に「いい話」という作りの映画だった。泣きたい人にとっては泣ける内容らしく(僕はぜんぜん泣けなかったが)、映画代金には「感動」が含まれていなくてはならないとか、感動できないならその代金の元が取れないという発想の方には、まあ、おすすめかもしれない。ところでこの映画、「文科省特選」ではあるが「成人、青年向け」である。うら若き女性の全裸が出てくるので、そのあたりはご参考まで。

ストーリーは単純だ。クラシック界の巨匠が故郷の寒村に住み着く。そこで聖歌隊の指導を始めることになり、メンバーたちは音楽を通してさまざまな家庭事情を乗り越えて、最終的にはオーストリアのインスブルックでの音楽祭に出場する・・・。新聞のレビューのコメントを借りれば「コーラスを軸に、人間性、社会問題の核心に迫っていく」映画。実際にはそういう重要事の「核心」にまでは至っていないし、考えこむような作品でもない。よくありそうなストーリー(イギリス映画『ブラス』と酷似)だし、純粋に「いいお話だね」と楽しめばいいのだろう。

あえてちょっと深いところを追求するとしたら、この映画のキーワードは「天使」だろう。『歓びを歌にのせて』という邦題が付いているが、原題は『As it is in Heaven(天国にいるかのように)』(これも正確な原題ではない・・・本当の原題はスウェーデン語、ただしこの英訳と同じ)。天国だから、天使と関係がある。そして小学校の壁には天使が描かれているし、クリスマスか何かの場面では、登場人物たちが天使の仮装をしている。さらに「背中に翼が見える」といった台詞が繰り返し登場する。これはどういう意味だろうか。表面的には「みんな誰もが本当は天使のように善人なのだ」くらいの内容だろう。しかし深く追求すると・・・僕には不可能。キリスト教文化での「天使」の概念はかなり難しい・・・というか、専門的に掘り下げられている研究分野なので門外漢の僕にはわからないのが、実際のところ。

主人公の指揮者やヒロインの女性が好印象なのは当然だが、脇役の牧師夫婦の演技がいい。宗教の偽善に固められた牧師と、その偽善性を見抜き、夫への愛憎が入り混じる妻。この二人の演技がとても良かったと感じる。そしてなんといっても好演は、夫からの家庭内暴力に悩みつつ、歌をとおして自己を表現することを身につける女性ガブリエラ(ヘレン・ヒョホルムさんという方)。劇中で歌われる彼女の独唱は見事。とても歌がうまい人だなあと思ったら、実際に本国スウェーデンで活躍している女優兼歌手の方らしい。さすがだ。

ここから先は映画を観た人じゃないとわからない話になるが、最後のほうで指揮者のダニエルの具合が悪くなる。それはなぜだったのだろう。考えられる理由としては①自転車をこぎすぎて疲れたから。②少し前にレーナを抱いて、その興奮で持病の心臓病を悪化させたから。③自転車をこいでいるときに、インスブルックの教会の鐘が大音量で鳴り、それにびっくりして心臓を傷めたから。④コンクールへのプレッシャーに弱いという持病を再発させたから・・・果たしてどれが本当の理由なのだろうか。成功した映画の例に漏れず、この作品のノベライズ版も出ているそうなので、それを読めばこんなふうに書かなくても正解が一発でわかるのかもしれない。でもまあ、もし今後『歓びを歌にのせて』を観た人がいたら、どれが理由だと思うか、僕にご教示ください。

エレベーターの夢

2005-12-21 11:30:27 | 日々のこと
寝ているときに見る夢の話。自分で言うのも変だが、僕はかなり想像力に富んだ夢を見ていると思う。最近はゆっくり寝ている時間もなくて、目覚まし時計に叩き起されてすぐに朝の支度をしないといけないから、いちいち夢の内容を覚えていられない。でも、ゆっくり寝られたときなどは自分でも興味深い夢を見る。極端な場合だと、夢の中で感動して涙を流しながら目覚めることもあった。泣けるストーリーだったわけだ。

もちろん、見る夢には多少のパターンがある。たとえば、大きな建物の中でさまよい歩く夢。これは今朝方見ていた夢でもあるが、迷路のような大きい空港なかで出口を探してひたすらさまよっていた。日本のどこかの仮想の空港らしく、僕がいたのは「ターミナル10」というところで、他の番号のターミナルに行きたいのだがどうしてもうまくいけない。暗い通路の中でスーツケースを押しながら進んでみたり、怪しげなエスカレーターに乗ってみたり・・・。「大きな建造物の中でさまよう」という夢の場合、他のパターンとしては、それが巨大なショッピングセンターみたいなところだったり、一風変わった場合だと、巨大な船の中だったりもする。

変わった夢としては、最近はあまり見ないが、空を自力で飛ぶ夢がある。自分の意思で体が宙に浮くのだ。そして、空をグライダーに乗っているように飛翔することができる。でも夢でのことなのに可笑しいが、自力で空に浮かぶというのはとても疲れる。夢とはいえ物理的に無理なことをしているのは確かなので、集中力がとても必要らしい。だからこの夢を見ると、その状況が夢であることに気づいてしまい、目覚めてしまうことが多い。

怖い夢も、ごくたまにだが、見る。高いところから落ちる夢を子供の頃から見るのだが、これが一番怖い夢のパターン。あの自由落下の感覚。これはもちろん、現実の世界でも好きではなくて、僕はあんまりジェットコースターとか乗りたくない。バンジージャンプ、スカイダイビングなんてもってのほか。あと、もうひとつ怖いのは、なんとも不思議なのだが、エレベーター。僕の夢の中にエレベーターが出てきたら、これは絶対に怖いほうに話が進む。エレベーターに乗るくらいなら、階段のほうがいいと夢の中の自分が思うくらい。

僕にとってエレベーターは子供の頃からとても身近な存在だった。ずっと11階に住んでいたので、毎日乗らずには生活できなかった。実際の生活では、もちろん嫌な思いとか、怖い思いをしたことはない。でもなぜか夢の中では、①動かなくなる、ないしは操作不能になる。②ロープが切れて落ちる。③暗い中に閉じ込められる。④何か異形なものが乗っていて、恐怖に陥れられる・・・などなど、こういう思いをさせられる。

誰かが、夢は潜在意識の顕現化だ、みたいなことを言っていたが、もしそうだとすると、こういう僕の夢は何を表しているのだろう。僕なりに解釈すれば、巨大な建物で迷うというのは、自分の「迷い」や「とまどい」を表しているということだろうか。自力でなんとかしようとするけど、上手くいかない・・・そういう気分が夢に出てくるのかもしれない。空を飛ぶ夢は自分の能力にたいする自負ないしは、過信ではないかと思う。できないことでもやってみせる!という自信でもあるし、あるいは過度な自分の能力への思い込みとも考えられる。では、高いところから落ちるのはどういうことか。これは地位やステイタス下落に対する恐怖の現れだろうか。テストの成績順でもいいし、会社の評価でもいいが、自分の地位が下がるというのはあまり喜ばしいことではないので。

エレベーターについてはどう考えていいかわからないが、今ここでよく考えてみると、普段の現実生活でも僕はどうやらエレベーターを若干敬遠しているような部分がある。できれば乗りたくないと思っているような意識を心のどこかに抱いている。まず第一に、あのせまい空間で知らない人といっしょになるのをためらっているような気がする。あの状況は結構気を遣うものだ。また、高層ビルの、いわゆる「高速エレベーター」みたいなのがあまり好きではない。六本木ヒルズの高層階に行くエレベーターや、台北の101というビルのエレベーターとか、上のほうに登るためには使用せざるをえないのだけれども、「ああ、これに乗らないといけないのか」みたいな意識がうっすらと発生する。明確な理由はないけど、なんとなく嫌だなと感じてしまう。

いったん乗ってしまうと自分では操作できず、あとはただ機械に身をまかせるだけという、エレベーターの本質がいけないのかもしれない。ということは、僕は昔の人のように機械不信論者だったわけか・・・。たぶん周囲の人はこう言うだろう・・・嫌なら乗るな。そのとおり。そのほうが健康にもいいからね、と、やせ我慢をしてみる。

納税

2005-12-18 13:34:25 | 日々のこと
イギリスは郵便制度も発祥の国。たった2年ばかりの滞英であっても、我が家のフラットの郵便受けにはいろいろな手紙が舞い込んだ。ドアに郵便差し入れ口が付いていて、帰宅すると床にちらばった郵便物を拾い上げるのが、靴を脱ぐよりも先にすることとなる。

到着する手紙の種類は日本に住んでいるのと同じ。一番多いのはダイレクトメール。とくに、ああいうフラットに住んでいると、このフラットを売りませんか、という不動産屋さんからの手紙がたくさんくる。もちろん、僕はフラットの家主ではないからこの手の案内は意味がないので、即廃棄。次に決まって届くのが請求書。BT(ブリティッシュ・テレコム)、携帯電話会社(ボーダフォンだった)、日本に安く電話がかけられる電話会社からの請求、そしてガスと電気が一緒になった会社からと、テムズウォーターという民間水道会社。水道光熱費はたしか3ヶ月に一度くらい請求が届いて、いつも小切手を書いて支払っていた。

一年に一度、記憶だと春先にテレビ・ライセンスの請求書も届く。NHKの受信料みたいなものがない代わりに、テレビを観ていい権利を買うというのか、正確にはなんと言っていいのかわからないが、TVライセンスというのを払わないとテレビは観られないことになっている。これまた一年分一括払いだが、100ポンド以上する大きな支払い。でも、日本のNHKの受信料も一年分まとめればこのくらいの額になるのかな。

最初に届いたとき、これは何だろうと不思議だった郵便物があって、その差出人は「Inland Revenue」という。ちゃんと英語を勉強していればすぐわかったのだろうが、この方面の英語にはまったく無頓着だったから、思わずその手紙を捨ててしまうところだった。これは直訳すれば「内国歳入」という名前の政府機関で、つまり国税庁のこと。所得税の申告用紙が家に届いていたのだった。「名前のどこにもTaxとかTaxaionとか入っていないから、なんのことだかわからなかったよ」とイギリスの友人に話したのを覚えている。ちなみにこの「内国歳入庁」は今年の4月から政府の組織再編に伴い「HM Revenue & Customs 」というお役所になったそうだが、こちらのほうがなんとなく理解しやすい。なんといっても権威の象徴の枕詞「HM(Her Majesty's)」を冠している。

ちなみに税金はどのくらい取られていたのだろうか。その所得税の申告用紙は、そのまま会社の経理に渡しておしまいだったので(いくつかの箇所にサインだけさせられたが)、よくわからない。また、住民税(カウンシル・タックスといって、住んでいるロンドン市の「ボロー」すなわち「区」から届く)の申告書も、手を触れずそのまま会社の経理行き。同封されていた住民税の説明書を読んだとき、所得額で税率が変化する累進課税になっているのだな、という印象を持ったので、きっとそうだったのだろう。でも興味がないので忘れてしまった。税金を会社の経理まかせにしていて、かなり納税意識の低い納税者ではあったが、やはり自分の国ではないからだ。ある程度の住民サービスは当然享受していたが(たとえば治安とかゴミ収集とか)、教育みたいに関係しない住民サービスも多いし、何よりも参政権がない。

さて、ふりかえって今は12月。最近大変ありがたいことに賞与が支給されたが(というか、僕は年俸制で働かされているので、ボーナスといってもその年俸に含まれているから、それほどは「ありがたく」ない)、その税金の額に驚いてしまった。取りすぎだろう、これは!・・・一ヶ月分の給料くらいが天引きされていた。僕は今まで累進税率制度大賛成で、いわゆる「所得の再配分」をなんと素敵な考え方なんだろうと賞賛してきたが、ある程度勤続年数を重ねて自分への課税率がじわりと「累進」してくると、うーん・・・と、ちょっと考えてしまう。株とか土地とかで儲けたんじゃなくて、月に200時間も体を動かした対価なんだからさ、という気持ち。

でもまあ、あまりお金に執着するのはやめたいと思う。なんだかつまらない人間になりそうな気がして。とりあえず食べていけるのだから、それで十分と考えたい。気の合う幾人かの友人と幾冊かの本、そしていくつかの音楽とを、繰り返し出会い、深く親しむことができれば、それだけでも十分幸せな一生ではないだろうか。