昨日4日、朝日新聞生活面に載ったカルロス・ゴーンさんの文章から。
「あらゆる課題に対し、チームの全員がまったく意見を戦わせることなく賛同する。これは果たして『完璧な和』を成していると、あなたは思いますか。恐らく違うでしょう。そのような状況は、問題をはらんでいる可能性があります。メンバーに多様性がないか、異論を唱えるのを恐れているのか」
前回、3月3日の日記には、「言いたいことは我慢する」みたいな趣旨のことを僕は書いたかもしれない。サラリーマン生活を10年くらいしてきて、本当にこれは痛切に感じている。余計なことは言わない。言いたいことを感じても、ぐっと腹におさめる、僕はこういう態度で過ごしてきた。この10年のサラリーマン生活で学んだきたのだ。もちろん、各人それぞれに、上司に対する接し方があるだろうが、僕にとってはこれが一番楽だ。安泰だ。余計なことを言って、無用な摩擦を引き起こすようなことはしたいと思わない。
「和を重んじ、権力に従う文化の日本で、私は率直な意見を周囲に求めています。これは大きな課題です。どうしたら角を立てずに、強い主張ができるのか。迷わず賛同するのと、沈黙するのと論争するのとの、適切なバランスとは。簡単ではありません」
「僕はこうだと思います!」みたいな強い主張をすると、必ず角が立ってしまう。それを聞くほうも素直に聞けないし(生意気、目立とうとしている、経験がないのにわかったようなことを言う・・・などの感情が生じやすい)、その主張に反論すると、ビジネス上の議論であるのに、その人の人格や能力まで否定されているように受け取られてしまう。
これは、日本で議論や討議をするという文化がないこと、また、学校時代にこのための訓練がなされないことに原因があるだろう。ちょっと話がずれてしまうが、某テレビ局でかつて深夜にやっていた討論番組でも(今もやっているのだろうか)、議論と言うよりは喧嘩みたいになってしまうことがあった。また、教育テレビで若者たちが(「若者たち」という表現に、自分の年齢を感じる・・・)あるテーマの下に討論する番組もやっているが、これを観ていても、話し合ってコンセンサスを得ることの難しさがわかる。
「イエスマンやおべっか使いは自己満足と慢心のみを助長しがちですが、疑う者は、新しい価値を生み出せます」
おべっか使い、で思い出すが、僕は実際に、良い情報しか聞きたくないという上司を見たことがある。こういう人の場合、たとえば、「現在は厳しい状況です」「売上の見通しは厳しい」とか、「厳しい」という表現は禁物だ。こういうことを言うと怒られて、何やっているんだ!と言われてしまう。すると、どうなるか。みんな怒られたくはない。だから、そう、誰もがその上司には、耳に快い情報しか報告しなくなるのだ。売上の見通しも、なんでもかんでも、過大に楽観的な数字ばかり報告する。あたかもうまくいっているかのように表現してしまう(ものは言いようだから)。そしてその結果は・・・第二次世界大戦で日本が敗戦したのと同じことだ。伝えられる戦果はすべて架空のもので、実際の戦力は壊滅状態。全てが行き詰まり、やがて組織は崩壊する。どの時代にも独裁者は存在してきた。古今東西、歴史を振り返れば、こうした事例には事欠かないのだが。
「グローバル経済の中で働いていると、日本人の先輩と欧米のやり方に板ばさみになることもあるでしょう。心配無用です。それはむしろ、チャンスです。それぞれに長所と短所があるのです。両方の最良を組み合わせられたとき、大きな価値を生み出すことができるでしょう」
なんだか、うまくまとめられてしまった・・・という感じがする。楽観的で前向きな考え方。正論だし、おっしゃるとおりです、としか言えない。でもやはり「上司に異を唱える→退職か異動になる」という経緯を見てきた人間としては、やはり会社では当分大人しくしてよう、と思ってしまうわけなのだ。「和をもって尊しとなす」と、誰かも言っていたではないか。
保身だ、とか、臆病者と言われるのは構わないと思っている。僕はこういう態度こそ「したたかさ」だと思うから。言いたいことを言わないでおく代わりに、こういうインターネット上で自己表現をしながら、精神のバランスは保たれるのかもしれない。
「あらゆる課題に対し、チームの全員がまったく意見を戦わせることなく賛同する。これは果たして『完璧な和』を成していると、あなたは思いますか。恐らく違うでしょう。そのような状況は、問題をはらんでいる可能性があります。メンバーに多様性がないか、異論を唱えるのを恐れているのか」
前回、3月3日の日記には、「言いたいことは我慢する」みたいな趣旨のことを僕は書いたかもしれない。サラリーマン生活を10年くらいしてきて、本当にこれは痛切に感じている。余計なことは言わない。言いたいことを感じても、ぐっと腹におさめる、僕はこういう態度で過ごしてきた。この10年のサラリーマン生活で学んだきたのだ。もちろん、各人それぞれに、上司に対する接し方があるだろうが、僕にとってはこれが一番楽だ。安泰だ。余計なことを言って、無用な摩擦を引き起こすようなことはしたいと思わない。
「和を重んじ、権力に従う文化の日本で、私は率直な意見を周囲に求めています。これは大きな課題です。どうしたら角を立てずに、強い主張ができるのか。迷わず賛同するのと、沈黙するのと論争するのとの、適切なバランスとは。簡単ではありません」
「僕はこうだと思います!」みたいな強い主張をすると、必ず角が立ってしまう。それを聞くほうも素直に聞けないし(生意気、目立とうとしている、経験がないのにわかったようなことを言う・・・などの感情が生じやすい)、その主張に反論すると、ビジネス上の議論であるのに、その人の人格や能力まで否定されているように受け取られてしまう。
これは、日本で議論や討議をするという文化がないこと、また、学校時代にこのための訓練がなされないことに原因があるだろう。ちょっと話がずれてしまうが、某テレビ局でかつて深夜にやっていた討論番組でも(今もやっているのだろうか)、議論と言うよりは喧嘩みたいになってしまうことがあった。また、教育テレビで若者たちが(「若者たち」という表現に、自分の年齢を感じる・・・)あるテーマの下に討論する番組もやっているが、これを観ていても、話し合ってコンセンサスを得ることの難しさがわかる。
「イエスマンやおべっか使いは自己満足と慢心のみを助長しがちですが、疑う者は、新しい価値を生み出せます」
おべっか使い、で思い出すが、僕は実際に、良い情報しか聞きたくないという上司を見たことがある。こういう人の場合、たとえば、「現在は厳しい状況です」「売上の見通しは厳しい」とか、「厳しい」という表現は禁物だ。こういうことを言うと怒られて、何やっているんだ!と言われてしまう。すると、どうなるか。みんな怒られたくはない。だから、そう、誰もがその上司には、耳に快い情報しか報告しなくなるのだ。売上の見通しも、なんでもかんでも、過大に楽観的な数字ばかり報告する。あたかもうまくいっているかのように表現してしまう(ものは言いようだから)。そしてその結果は・・・第二次世界大戦で日本が敗戦したのと同じことだ。伝えられる戦果はすべて架空のもので、実際の戦力は壊滅状態。全てが行き詰まり、やがて組織は崩壊する。どの時代にも独裁者は存在してきた。古今東西、歴史を振り返れば、こうした事例には事欠かないのだが。
「グローバル経済の中で働いていると、日本人の先輩と欧米のやり方に板ばさみになることもあるでしょう。心配無用です。それはむしろ、チャンスです。それぞれに長所と短所があるのです。両方の最良を組み合わせられたとき、大きな価値を生み出すことができるでしょう」
なんだか、うまくまとめられてしまった・・・という感じがする。楽観的で前向きな考え方。正論だし、おっしゃるとおりです、としか言えない。でもやはり「上司に異を唱える→退職か異動になる」という経緯を見てきた人間としては、やはり会社では当分大人しくしてよう、と思ってしまうわけなのだ。「和をもって尊しとなす」と、誰かも言っていたではないか。
保身だ、とか、臆病者と言われるのは構わないと思っている。僕はこういう態度こそ「したたかさ」だと思うから。言いたいことを言わないでおく代わりに、こういうインターネット上で自己表現をしながら、精神のバランスは保たれるのかもしれない。