A Diary

本と音楽についてのメモ

イーヴリン・ウォーの風刺と哀愁

2006-07-30 15:23:54 | イギリスの小説
■イーヴリン・ウォー『囁きの霊園』(吉田誠一訳、早川書房1970)

イーヴリン・ウォーの本には、何か独特の情緒があると読むたびに思う。いや、情緒という言葉では十分に伝えられない・・・しんみりとさせられるような、そういうある種の情景。

有名な『一握の塵』では、主人公のトニィ・ラーストが愛着を感じていた家族は離散してしまうことになるし、そして彼の住むヘットンの館からも離れなくてはならなくなってしまう。こういう、喪失の物語。同じく名高い『ブライヅヘッドふたたび』では逆に、中年の主人公チャールス・ライダーが20年以上前の学生時代、友人のセバスチャンと親しんだブライヅヘッドの館を回想する物語。

こういう「失われた情景」みたいな雰囲気が、どの作品にもじんわりと広がっている。『ブライヅヘッドふたたび』では、この要素が前面に打ち出され、良くも悪くもちょっとセンチメンタルな物語になっている。『一握の塵』では、ウォー独特の風刺とかブラック・ユーモアがぐっと前に出てきて、こういう哀愁の調子はかなり陰に隠れている。

そしてこの『囁きの霊園』の場合、アメリカの軽薄な文化を嘲笑する調子と、そしてやたらと品格を重視したがるイギリス人の態度を皮肉る態度がほとんど全面に出てきていて、こういうしんみりする要素はかなり薄い。内容もグロテスクなところがある。しかしそれでも、なんとなく切ないような一抹の印象がある。皮肉に満ちたストーリーの陰に、ごく目立たなく、途切れることなく流れる哀調の通奏低音。霊園とか、動物の火葬とか、この話がそういう「死」についてあれこれ扱っていることに、この要素の発端はあるように思う。

『囁きの霊園』の最後のほうで、エイメ・タナトジェノスが自殺し、その死体をデニス・バーロウは彼の働く動物用の火葬場で火葬する。彼は「すっかり燃えきるまで待たねばならぬ。赤くなって燃えている遺骨を掻き出し、頭蓋骨とおそらく骨盤はたたいて砕き、処分しなければならないだろう」・・・こんなことを考えながら「愛されし人の焼きあがるのを待った。」(ちなみに『囁きの霊園』の原題は『The Loved One』つまり『愛されし人』となる。)

こういうふうにここだけ引用すると、なんだかグロテスクな物語のような気がしてしまうけど、やっぱり違う。エイメは頭は良くないかもしれないが、二人の男ジョイボーイ氏とデニス・バーロウのどちらを愛すべきか悩み、二人に翻弄された末自殺したのだった。そういう経緯を知っていると、この火葬はなんともやるせないような、それでいて風刺が強くかかっていて、複雑な読書経験になる。こういう「やるせなさ」については、ちょうど、『一握の塵』の最後で、トニィ・ラーストがひたすらディケンズを読まされ続けるような、複雑な読後感を呼び起こす結末になっているのと似ている。

『囁きの霊園』を読むと、詩の引用が多い。これもまた、この本を単なるおもしろいだけの風刺物語にするのではなく、哀愁の調子や、深い情感を添えるのに役立っている。引用元の詩のイメージがストーリーの世界にも染み渡ってくるような感じがあるということだろう。タイトルの「囁きの霊園」とは葬儀と埋葬をも産業化したカリフォルニアのとある霊園の名前のことだが、そこには『湖島』という最高級クラスの霊園区画がある。その湖島の名前はイニスフリーと言う。その湖島に渡る船の中で、デニス・バーロウは説明される:

「この島の名前はロマンチックな詩にちなんだ名前だそうだし。ミツバチの巣があってね。以前はハチもいたんだが、お客さんがやたらにハチに刺されたんで、今じゃすべて機械仕掛け、万事科学的でね」(pp85-86)

そして上陸したデニスはミツバチの巣箱をのぞきこむと、「どの巣箱にも赤い豆ランプが点いており、音響発生装置が順調に作動している」ことに気がつく。この場面はもちろん、W.B.イェイツのあまりにも有名な詩「イニスフリーの湖島」に基づいている。イェイツの詩ではミツバチの羽音を聞きながら穏やかな日々を暮らしたいものだ・・・みたいなことが述べられるわけだが、この「囁きの霊園」ではその羽音も人工的に演出されている。これがウォーの風刺。でも一方で、イェイツの詩が本来持っている叙情も、読者にはしんみり伝わってくることになる。

上で書いたエイメ・タナノジェノスの死に際しては、エドガー・アラン・ポーの詩『ヘレンに』(『To Helen』)が引用される。

Helen, thy beauty is to me
Like those Nicean barks of yore,
That gently, o'er a perfumed sea,
The weary, wayworn wanderer bore
To his own native shore.

『囁きの霊園』では、この詩をデニスが「ヘレン」の名前を「エイメ」に変えて読み上げる。

エイメよ、きみの美しさ
さながらに、いにしえのニケアの小舟のごと
香りよき海原をたおやかに
旅に疲れし漂泊人(さすらいびと)を
古里の浜へと運ぶ

『囁きの霊園』は、日本では「ブラックユーモア選集」というシリーズの第二巻に収められている。確かに、ウォーらしいそういう鋭い風刺に満ちた作品なのだけれども、こういう深いところの叙情性のほうに僕は、どちらかといえば、関心が向かうかもしれない。

戦後イギリス小説のベスト10

2006-07-26 14:51:55 | イギリスの小説
戦後イギリスで発表された小説から、特に重要なもの、意義のあるもの、面白いものなどの観点からトップ10を挙げてみるとする。人によって何を選ぶかはいろいろだろう。僕なら次のような感じになる:

・イーヴリン・ウォー 『ブライヅヘッドふたたび』(1945)
・ジョージ・オーウェル 『1984年』(1949)
・ドリス・レッシング 『草は歌う』(1950)
・グレアム・グリーン 『情事の終わり』(1951)
・キングズリー・エイミス 『ラッキー・ジム』(1954)
・ウィリアム・ゴールディング 『蝿の王』(1954)
・アイリス・マードック 『鐘』(1958)
・ミュリエル・スパーク 『ミス・ブロウディの青春』(1961)
・アントニー・バージェス 『時計仕掛けのオレンジ』(1963)
・マーガレット・ドラブル 『碾臼』(1965)

年代順に挙げてみた。良い順とかではないので。するとウォーの『ブライヅヘッドふたたび』が一番上にくる。ウォーがここに入るべきかどうかは悩むところだった。『ブライヅヘッドふたたび』と並んで知られる本に『一握の塵』がある。この作品は1934年のもので、個人的にはこちらのほうが面白いような気がする。今回、「戦後」というくくりをつけたので、ウォーを取り上げるべきかどうかは考えるちょっとだけ必要があったが、個人的には好きな作家なのでトップ10に入選。ちなみに、彼の『囁きの霊園』(1948)も面白いし、翻訳されていないけど「Sword of Honour」という三部作もあって、これも戦後の作品。

おそらくジョージ・オーウェルを入れることに疑問を感じる人はいないと思うのだけど・・・なんて感じるのは僕だけかもしれないが。『1984年』ではなくて『動物農場』(1945)のほうを入れたほうが良いという人もいるかもしれない。また、彼の両作品がフィクションという観点から芸術的に価値があるかどうか・・・という疑問を感じる人がいるとしたら(確かに政治的社会的示唆に富んだ作品ではあるので)、彼の数あるエッセイを読んでみてと言いたい。非常に良質な散文。

ドリス・レッシングを入れるなら、他の人を入れたほうがいいという意見は、かなり的を得ていると言える。おそらく上の十作品のうちで、彼女の『草は歌う』の地位はかなり危うい。むしろ、アラン・シリトーやジョン・ファウルズ、ロレンス・ダレル、アンガス・ウィルソン、アントニー・パウエルの作品のほうがいいかもしれない。僕自身、多少女流作家ひいきのところはあるかもしれないが(そういう教育を受けたので)、それでも、エリザベス・ボウエンやフラン・オブライエン、アイヴィ・コンプトン=バーネットという大家たちがまだ控えている。それでもレッシングを入れたい理由は・・・1919年生まれながらまだご活躍中という点に敬意を表して。去年2005年にも新作が発表されている。

グレアム・グリーン・・・彼をこのリストから除外するのは難しい。あえて問題点を探すとしたら、イーヴリン・ウォー同様、戦前から活躍している作家という点。この二人を入れるなら、時期的にはジョイス・ケアリーとL.P.ハートレーも考えるに値する人たちだ。また、グリーンは非常に作品を書くのがうまいので、こういうときにどの本を選べばいいかとても迷ってしまう。晩年の作品『ヒューマン・ファクター』(1978)なんかも僕は好きだ。

戦後のイギリス小説史、いや、文学史・文化史を説明している本のうち、キングズリー・エイミスの『ラッキー・ジム』について言及しない本はない。もしあったら、その本のほうがおかしい。エポックメイキングというか、新たな時代の到来を告げるような作品なのだから。同様に、ゴールディングの『蝿の王』に言及しないような文学史の本もおかしい。ゴールディングの場合は、『蝿の王』という作品自体が非常に強烈な衝撃をはらんでいるせい。

グレアム・グリーン同様、アイリス・マードックもまた、こういうときにどれを代表作に選んだらよいか迷ってしまう作家。一般的には、初期の四作品、『網のなか』(1954)、『魅惑者から逃れて』(1956)、『砂の城』(1957)、『鐘』(1958)が良いとされているし、実際、この順番でだんだん面白くなっていく。でも、その後の作品も十分読ませるものだし、晩年の作品、たとえば『本をめぐる輪舞の果てに』(1987)もなかなか面白かった。とはいえ、僕はアイリス・マードックびいきなので、その点は差し引いてもらってかまわないけど。

アントニー・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』が有名なのは、キューブリックの映画のおかげであることは間違いない。でも、こういうふうにして知られるようになった本がトップ10に入っていたっていいと思うし。というか、この本は読むとなかなか興味深い。マーガレット・ドラブルはこのトップ10の中では実際に一番若い(1939生まれ)。デビューからしばらくは、ちょっと「流行作家」という感じがしていて、若い女性の本音の生き様を描く・・・みたいな作品傾向だけれども、現在では文壇で確固たる地位を占めている印象。イギリス文学界の大御所のひとり。

* * * * *

そのうちまた別の機会に、イギリス文学の「20世紀ベスト10」とか、「20世紀女性作家によるベスト10」とか、「最近30年間のベスト10」とかをやってみたいなと思った。

ブロウディ先生の最良の時

2006-07-02 13:17:03 | イギリスの小説
■ミュリエル・スパーク 『ミス・ブロウディの青春』 (岡照雄訳、筑摩書房1973)

エジンバラは見てまわるのにいいところだ。僕はたしか三回訪れた。日本からお客さんが来て、ちょっと小旅行をしようということになったとき、案内すると喜ばれる街。ロンドンから飛行機で行ってもいいけど、キングス・クロス駅から特急列車に乗って、何時間もかけてゆっくり行くのも悪くない。列車はドンカスター、ヨーク、ニューカッスルなどを経て、エジンバラの街に滑り込む。駅は市街の中心に位置しているのだけれども、なんだか谷間のような窪地にある。そしてその両側の見上げる谷の上に、昔ながらのヨーロッパ的なたたずまいの街が広がっている。そういうなかなか素敵な街。

エジンバラはロンドンのように大きな都市ではないから、主な観光地はみんな徒歩で巡ることができる。誰もが行くのはエジンバラ城だろう。城は高台にあって、遠く海のほうまで見渡すことができる景色の素晴らしい場所。有名なフォース鉄道橋も見える。僕が初めてエジンバラに行ったのはイースター休暇のときで、春先のまだ冷たい風が吹きすさぶ夕方だった。今回掲載した写真はそのときのもの。エジンバラの街の様子。あんまりうまく撮れていないけど、まあ、雰囲気は伝わると思う。

『ミス・ブロウディの青春』は1930年代のエジンバラが舞台の小説で、ミス・ブロウディに率いられた生徒たちもまたエジンバラの街を徒歩で巡る。でも、現在のように観光地としてこぎれいになったエジンバラの街ではない。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間のつかの間の平和と、そして一方、不況で失業者があふれる不安定な時代。イタリアとドイツではムッソリーニとナチスがそれぞれ勢力を伸ばしている。この本では、ミス・ブロウディとその取り巻きの女子生徒たちの個性的なキャラクターがスパークらしくユニークに描かれているが、こういう厳しい時代背景もまた色濃く影を落としている。

* * * * *

ミス・ブロウディ(ブロウディ先生)の口癖は「人生最良の時」。これはこの作品のキーワードでもある。読んでいると何回も繰り返されるフレーズ。

「さあ、みんなこっちを向いて。人の最良の時というと、その人がまさにそのために生まれて来たような瞬間のことです。いよいよ私にもそのような時がやってきて―サンディ、またよそ見をしてるのね。何のお話をしていたか言ってごらん」
「先生の最良の時です」(pp.11-12)

このとき生徒の一人であったサンディはこのとき10歳。それから時が流れ、第二次世界大戦も終わって、やがてサンディは修道会に入り、中年になった彼女はシスター・ヘレナと呼ばれていた。

「シスター・ヘレナ、あなたの学校時代、何に一番影響をうけましたか。文学、政治、それとも個人の影響でしたか。カルヴィニズムですか」
サンディは答える。「ブロウディ先生という人がありました。先生の最良の時でしたわ」(p.124)

『ミス・ブロウディの青春』は、このユニークな教師のキャラクターを読み解いていくことにおもしろさがある。彼女が自ら「最良の時」と宣言するのは、どういうわけなのか。そして本当に、僕たちからしてみても「最良」と呼べるような人生なのだろうか。どちらかといえば、ちょっと強引かつ自己中心的で、それでいて無器用で弱みもある・・・読んでいると、そんな女性像が浮かび上がってくる。このような主人公の様子が、どちらかといえば、主に生徒たち(取り巻きの女子生徒たちは「ブロウディ・セット」と呼ばれている)の視点から、描写・批評されていく。

そして、この作品の本質的なところには、スパークの他の作品同様、宗教的な色彩がじわりと帯びてくる。十五歳の頃に、サンディは「神は事実上あらゆる人に、その生まれる以前から、死ぬときのためにちゃんと意地わるい不意打ちを計画している」とか「死の前の奇襲がいっそうこたえるように、或る人々に偽りのよろこび、救済の意識を植えつけるのも、まったく神の勝手である」(pp.105-106)などという、カルヴィニズムの宗教観(いわゆる「予定説」)にとらわれるようになった。

そしてサンディは、このカルヴィン的な視点に立ってブロウディ先生を見直したときに、「自分には神の恩寵があると勝手に決め込んでいた」ブロウディ先生には、「最良の時の行きすぎ」があると感じるようになる。その後サンディはブロウディ先生を裏切り(これがカルヴィニズムの「意地悪い不意打ち」に該当するわけだ)、その教職を辞職させて、そして、やがて先生は亡くなる。

この経緯をおそらくサンディは後悔しているせいだと思うのだが、彼女はカトリックに改宗し、修道女となる。修道女となってからのサンディが、あたかも刑務所の中から面会しているような様子に描かれるのは、ブロウディ先生への裏切りという形の「死の前の奇襲」を悔いているせいではないか・・・こう僕は想像するのだが。

* * * * *

先日スパークが亡くなった際、この場でデイヴィッド・ロッジのオービチュアリーを引用したが(2006年4月21日のブログ)、ロッジはそこで「場合によっては、たったひとつのパラグラフ内で、現在から過去、未来、そしてまた過去に戻るというよう例もあり、めまぐるしいスピードで時間が展開する」と書いていた。で、この『ミス・ブロウディの青春』は、このロッジの指摘どおり、時間の展開の面でもなかなか興味深い。実際、現在・過去・未来があちこち行き来しあう。そして、それなのに読んでも違和感がない。無理がない。

他のスパークの作品同様、あんまり長さがない。中篇小説といった程度の分量。翻訳の言葉遣いはちょっとどうかなと思うところがあるが(誤訳ということはないと思うが、別の人が違う言葉遣いで語らせたら、作品の印象がかなり変わりそうな気がする)、それでもやっぱりスパークらしい個性にあふれる良い小説。