■イーヴリン・ウォー『囁きの霊園』(吉田誠一訳、早川書房1970)
イーヴリン・ウォーの本には、何か独特の情緒があると読むたびに思う。いや、情緒という言葉では十分に伝えられない・・・しんみりとさせられるような、そういうある種の情景。
有名な『一握の塵』では、主人公のトニィ・ラーストが愛着を感じていた家族は離散してしまうことになるし、そして彼の住むヘットンの館からも離れなくてはならなくなってしまう。こういう、喪失の物語。同じく名高い『ブライヅヘッドふたたび』では逆に、中年の主人公チャールス・ライダーが20年以上前の学生時代、友人のセバスチャンと親しんだブライヅヘッドの館を回想する物語。
こういう「失われた情景」みたいな雰囲気が、どの作品にもじんわりと広がっている。『ブライヅヘッドふたたび』では、この要素が前面に打ち出され、良くも悪くもちょっとセンチメンタルな物語になっている。『一握の塵』では、ウォー独特の風刺とかブラック・ユーモアがぐっと前に出てきて、こういう哀愁の調子はかなり陰に隠れている。
そしてこの『囁きの霊園』の場合、アメリカの軽薄な文化を嘲笑する調子と、そしてやたらと品格を重視したがるイギリス人の態度を皮肉る態度がほとんど全面に出てきていて、こういうしんみりする要素はかなり薄い。内容もグロテスクなところがある。しかしそれでも、なんとなく切ないような一抹の印象がある。皮肉に満ちたストーリーの陰に、ごく目立たなく、途切れることなく流れる哀調の通奏低音。霊園とか、動物の火葬とか、この話がそういう「死」についてあれこれ扱っていることに、この要素の発端はあるように思う。
『囁きの霊園』の最後のほうで、エイメ・タナトジェノスが自殺し、その死体をデニス・バーロウは彼の働く動物用の火葬場で火葬する。彼は「すっかり燃えきるまで待たねばならぬ。赤くなって燃えている遺骨を掻き出し、頭蓋骨とおそらく骨盤はたたいて砕き、処分しなければならないだろう」・・・こんなことを考えながら「愛されし人の焼きあがるのを待った。」(ちなみに『囁きの霊園』の原題は『The Loved One』つまり『愛されし人』となる。)
こういうふうにここだけ引用すると、なんだかグロテスクな物語のような気がしてしまうけど、やっぱり違う。エイメは頭は良くないかもしれないが、二人の男ジョイボーイ氏とデニス・バーロウのどちらを愛すべきか悩み、二人に翻弄された末自殺したのだった。そういう経緯を知っていると、この火葬はなんともやるせないような、それでいて風刺が強くかかっていて、複雑な読書経験になる。こういう「やるせなさ」については、ちょうど、『一握の塵』の最後で、トニィ・ラーストがひたすらディケンズを読まされ続けるような、複雑な読後感を呼び起こす結末になっているのと似ている。
『囁きの霊園』を読むと、詩の引用が多い。これもまた、この本を単なるおもしろいだけの風刺物語にするのではなく、哀愁の調子や、深い情感を添えるのに役立っている。引用元の詩のイメージがストーリーの世界にも染み渡ってくるような感じがあるということだろう。タイトルの「囁きの霊園」とは葬儀と埋葬をも産業化したカリフォルニアのとある霊園の名前のことだが、そこには『湖島』という最高級クラスの霊園区画がある。その湖島の名前はイニスフリーと言う。その湖島に渡る船の中で、デニス・バーロウは説明される:
「この島の名前はロマンチックな詩にちなんだ名前だそうだし。ミツバチの巣があってね。以前はハチもいたんだが、お客さんがやたらにハチに刺されたんで、今じゃすべて機械仕掛け、万事科学的でね」(pp85-86)
そして上陸したデニスはミツバチの巣箱をのぞきこむと、「どの巣箱にも赤い豆ランプが点いており、音響発生装置が順調に作動している」ことに気がつく。この場面はもちろん、W.B.イェイツのあまりにも有名な詩「イニスフリーの湖島」に基づいている。イェイツの詩ではミツバチの羽音を聞きながら穏やかな日々を暮らしたいものだ・・・みたいなことが述べられるわけだが、この「囁きの霊園」ではその羽音も人工的に演出されている。これがウォーの風刺。でも一方で、イェイツの詩が本来持っている叙情も、読者にはしんみり伝わってくることになる。
上で書いたエイメ・タナノジェノスの死に際しては、エドガー・アラン・ポーの詩『ヘレンに』(『To Helen』)が引用される。
Helen, thy beauty is to me
Like those Nicean barks of yore,
That gently, o'er a perfumed sea,
The weary, wayworn wanderer bore
To his own native shore.
『囁きの霊園』では、この詩をデニスが「ヘレン」の名前を「エイメ」に変えて読み上げる。
エイメよ、きみの美しさ
さながらに、いにしえのニケアの小舟のごと
香りよき海原をたおやかに
旅に疲れし漂泊人(さすらいびと)を
古里の浜へと運ぶ
『囁きの霊園』は、日本では「ブラックユーモア選集」というシリーズの第二巻に収められている。確かに、ウォーらしいそういう鋭い風刺に満ちた作品なのだけれども、こういう深いところの叙情性のほうに僕は、どちらかといえば、関心が向かうかもしれない。
イーヴリン・ウォーの本には、何か独特の情緒があると読むたびに思う。いや、情緒という言葉では十分に伝えられない・・・しんみりとさせられるような、そういうある種の情景。
有名な『一握の塵』では、主人公のトニィ・ラーストが愛着を感じていた家族は離散してしまうことになるし、そして彼の住むヘットンの館からも離れなくてはならなくなってしまう。こういう、喪失の物語。同じく名高い『ブライヅヘッドふたたび』では逆に、中年の主人公チャールス・ライダーが20年以上前の学生時代、友人のセバスチャンと親しんだブライヅヘッドの館を回想する物語。
こういう「失われた情景」みたいな雰囲気が、どの作品にもじんわりと広がっている。『ブライヅヘッドふたたび』では、この要素が前面に打ち出され、良くも悪くもちょっとセンチメンタルな物語になっている。『一握の塵』では、ウォー独特の風刺とかブラック・ユーモアがぐっと前に出てきて、こういう哀愁の調子はかなり陰に隠れている。
そしてこの『囁きの霊園』の場合、アメリカの軽薄な文化を嘲笑する調子と、そしてやたらと品格を重視したがるイギリス人の態度を皮肉る態度がほとんど全面に出てきていて、こういうしんみりする要素はかなり薄い。内容もグロテスクなところがある。しかしそれでも、なんとなく切ないような一抹の印象がある。皮肉に満ちたストーリーの陰に、ごく目立たなく、途切れることなく流れる哀調の通奏低音。霊園とか、動物の火葬とか、この話がそういう「死」についてあれこれ扱っていることに、この要素の発端はあるように思う。
『囁きの霊園』の最後のほうで、エイメ・タナトジェノスが自殺し、その死体をデニス・バーロウは彼の働く動物用の火葬場で火葬する。彼は「すっかり燃えきるまで待たねばならぬ。赤くなって燃えている遺骨を掻き出し、頭蓋骨とおそらく骨盤はたたいて砕き、処分しなければならないだろう」・・・こんなことを考えながら「愛されし人の焼きあがるのを待った。」(ちなみに『囁きの霊園』の原題は『The Loved One』つまり『愛されし人』となる。)
こういうふうにここだけ引用すると、なんだかグロテスクな物語のような気がしてしまうけど、やっぱり違う。エイメは頭は良くないかもしれないが、二人の男ジョイボーイ氏とデニス・バーロウのどちらを愛すべきか悩み、二人に翻弄された末自殺したのだった。そういう経緯を知っていると、この火葬はなんともやるせないような、それでいて風刺が強くかかっていて、複雑な読書経験になる。こういう「やるせなさ」については、ちょうど、『一握の塵』の最後で、トニィ・ラーストがひたすらディケンズを読まされ続けるような、複雑な読後感を呼び起こす結末になっているのと似ている。
『囁きの霊園』を読むと、詩の引用が多い。これもまた、この本を単なるおもしろいだけの風刺物語にするのではなく、哀愁の調子や、深い情感を添えるのに役立っている。引用元の詩のイメージがストーリーの世界にも染み渡ってくるような感じがあるということだろう。タイトルの「囁きの霊園」とは葬儀と埋葬をも産業化したカリフォルニアのとある霊園の名前のことだが、そこには『湖島』という最高級クラスの霊園区画がある。その湖島の名前はイニスフリーと言う。その湖島に渡る船の中で、デニス・バーロウは説明される:
「この島の名前はロマンチックな詩にちなんだ名前だそうだし。ミツバチの巣があってね。以前はハチもいたんだが、お客さんがやたらにハチに刺されたんで、今じゃすべて機械仕掛け、万事科学的でね」(pp85-86)
そして上陸したデニスはミツバチの巣箱をのぞきこむと、「どの巣箱にも赤い豆ランプが点いており、音響発生装置が順調に作動している」ことに気がつく。この場面はもちろん、W.B.イェイツのあまりにも有名な詩「イニスフリーの湖島」に基づいている。イェイツの詩ではミツバチの羽音を聞きながら穏やかな日々を暮らしたいものだ・・・みたいなことが述べられるわけだが、この「囁きの霊園」ではその羽音も人工的に演出されている。これがウォーの風刺。でも一方で、イェイツの詩が本来持っている叙情も、読者にはしんみり伝わってくることになる。
上で書いたエイメ・タナノジェノスの死に際しては、エドガー・アラン・ポーの詩『ヘレンに』(『To Helen』)が引用される。
Helen, thy beauty is to me
Like those Nicean barks of yore,
That gently, o'er a perfumed sea,
The weary, wayworn wanderer bore
To his own native shore.
『囁きの霊園』では、この詩をデニスが「ヘレン」の名前を「エイメ」に変えて読み上げる。
エイメよ、きみの美しさ
さながらに、いにしえのニケアの小舟のごと
香りよき海原をたおやかに
旅に疲れし漂泊人(さすらいびと)を
古里の浜へと運ぶ
『囁きの霊園』は、日本では「ブラックユーモア選集」というシリーズの第二巻に収められている。確かに、ウォーらしいそういう鋭い風刺に満ちた作品なのだけれども、こういう深いところの叙情性のほうに僕は、どちらかといえば、関心が向かうかもしれない。