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A Diary

本と音楽についてのメモ

塩の柱

2006-05-02 22:46:15 | 日々のこと
唐突だが、逃げるときは、どうして後ろを振り返ってはいけないのだろう。

ギリシア神話では、オルフェウスが愛する妻エウリディーチェを連れ戻す際、冥界の王ハデスから、冥界を抜け出すまでの間は後ろを振り返ってはいけない、と言い渡される。旧約聖書(「創世記」)でも、ソドムの街が滅ぼされるとき、逃げるロトの家族は後ろを振り返ってはいけない、と命じられる。そしてもちろん想像どおり、どちらの場合も振り返ってしまうのだ。オルフェウスはあと少しというところで後ろを見てしまい、エウリディーチェを連れて帰ることができない。創世記のエピソードでは、ロトの妻が振り返ってしまい、塩の柱に変えられてしまう。

でも「見るな」と言われたら見たくなってしまう、これってごく自然な人間の心情ではないだろうか。日本昔話の「鶴の恩返し」だってそうだ。浦島太郎だって、「開けてはいけない」と言われた玉手箱を開けてしまう。(だったら、最初から渡さなければいいのに、と思わなくもない。)これらのギリシア神話や聖書、さらには日本昔話のエピソードは、我慢することの大切さや、言われたことを守ることの大切さ、といった教訓を狙いとしているのかもしれない。でも、むしろ僕には、こういう彼らの失敗が、古今東西、誰もが持っている人間らしい好奇心の現れのような気がする。みんながみんな、英雄になれるわけではないのだから。

* * * * *

カート・ヴォネガットの小説『スローターハウス5』(1969)には、創世記のロトの妻のエピソードが出てくる。ソドムとゴモラの二つの街が滅ぼされたことについて、ヴォネガットは次のように語り始める:

「周知のとおり、この二つの町に住んでいたのは悪い人間ばかりである。彼らが消えたおかげで世界はいくらかマシになった。
 ロトの妻は、もちろん、町のほうをふりかえるなと命ぜられていた。だが彼女はふりかえってしまった。わたしはそのような彼女を愛する。それこそ人間的な行為だと思うからだ。
 彼女はそのために塩の柱にかえられた。そういうものだ」
(ハヤカワ文庫『スローターハウス5』第一章より)

僕はこの部分が昔からとくに印象に残っている。ヴォネガットの作品には、独特なSF的言辞があったり、使われている語り口調もかなりラフだったりして、そういう表面的な点だけ見ると、彼は単なるSFエンターテイメント作家と分類されがちだ。しかし、彼が一見冗談風に構成し、かつ、語っていくその言葉の積み重ねの先には、ものすごく真剣なテーマが隠れている。それを的確に表現するのは難しいけれど、「人間とはいったい何なのか」とか、そういう普遍的なテーマであることは間違いない。そしてさらに、上に引用した箇所に見られるような、ヴォネガット自身の人間に対する優しいまなざしに僕は魅了されてきた。

* * * * *

映画『千と千尋の神隠し』で、千尋が通常の人間の世界に戻っていくとき、ハクから「トンネルを抜けるまでは後ろを振り返ってはいけない」と言われる。千尋は一瞬振り返りそうになるけど、その約束を守ってちゃんとトンネルを抜けることができた。この場面は、ある種のサスペンス的な効果、「ちゃんと守れるかな」と観客をドキドキさせる効果のために設定されたのではないかと思う。最後まで緊張感を持って観てもらえるように。

でもあの場面で、もし彼女が振り返ってしまったらどうなっていただろう。個人的には、そういう弱い彼女こそ、人間として自然な、ましてや子供として自然な反応として、親近感を得ていたのではと時々思うことがある。

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3 コメント

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Unknown (まいすた)
2006-05-04 22:41:53
昔読んだロシアの民話にもこんなのがありました。



「ある貧乏な小作人が地主の娘に恋をする。二人は絵に描いたような美男、美女だが、身分の違いから地主の反対によって結婚は叶わない。ある日地主は、二人が仲良くしているのを見つけ、男を解雇してしまう。男は自暴自棄になり昼間から自棄酒をあおっていると、隣にいた見慣れない薄汚い男が声を掛ける。男は俺の言ったとおりやれば、お前の願いは叶うという。条件は、夜が明ける前に山奥にある羊歯の花をとってくること。ただし、羊歯の花をとった後は絶対に後ろを振り返ってはならない」



何故後ろを振り返ってはならないのでしょう。僕が考えた一つの解釈なんですが、人間は全能の存在ではないので、一つの世界でしか生きられないからではないからではないかと思います。どういうことかというと、例えばある一人の青年が一つの部分社会に入ったとします。そうすると、その青年はその世界の論理でしか生きられなくなる。部分社会は例えば学校であったり会社であったり、政治集団であったりするわけですが、その社会の秩序を維持するためには、望むと望まざるとに関わらず、特有の論理を身につけなければならない。部分社会の論理なるものが働くようになるわけです。



この部分社会の論理はどの集団にも共通するという性質のものではありません。ある集団において善しとされる論理は別な集団においては善しとされるとは限らない。例えばある少年は「嘘をつくな」という論理を学校の先生から教わるかもしれない。しかし、大人になって会社に入れば、債権者からの取立ての電話がかかってきたとき「今責任者は留守にしています」と応えるのが正しい論理かもしれません。ここで、後ろといいますか、過去を振り返って学生時代の論理を持ち出すのはタブー視されます。(この意味において『日の名残』のスティーブンスも執事という一つの論理に生きた人でした。このことについて色々書きたいのだけど、時間がないので止めておきます)



物語において「後ろを振り返ってはいけない」が出てくるのは、大抵黄泉の世界というか、この世とあの世の中間のようなプレーローマから帰るときのように思われますが、そこには大きな論理転換が含まれるからではないでしょうか。あの世の論理を断ち切らないで残しながら、この世で生きるということは許されないのではないかと思います。

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ロシアの民話 (たいせい)
2006-05-06 10:30:13
>まいすたーさん



なるほど・・・世界中に似たような例があるようですね。ある社会集団から別の社会集団へと移動するとき、元々いたところの論理・価値観から新しい論理・価値観へ移行する必要があるということでしょうか。



でも、新しい境遇に適応することは、誰にとってもそれなりに苦労が伴います。過去のやり方に未練が残るのは、僕には、人間らしい(許せる)弱さのひとつのように感じています。だから、振り返るなと言われても、振り返ってしまう。



この手のストーリーが、みんな、「我慢して約束を守れば、いいことがある」という形態であることにも気がつきます。美女と結婚するためにも、人間の世界に戻るためにも、ソドムの業火から逃れるためにも、後ろを振り返らないという約束を守れば、みんなOKみたいな。だからこの手のストーリーには、約束を守ることを説く「訓話」みたいな側面もあるのだと思います。でも・・・やっぱり僕は、誘惑に耐え切れず、約束を破ってしまう弱い人間に同情を禁じえないですね。



ところで、話はぜんぜん変わりますが、まいすたーさん、どこへ消えましたか!!(笑)やっぱり勉学に専念でしょうか?いずれにしても、もし新たな自己表現の場を設定なさっているようでしたら、教えてください。もちろん、mixi復活待望論も随所で高まっていると思いますよ。
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ミクシー (まいすた)
2006-05-09 23:58:03
ミクシーは今小休止中です。今年に入ってから忙しくなったというのが主な理由なんですが、その他にも直接の知り合いとミクシーで会って、あんまりいい加減なこと書けなくなってしまったというのがあります。別にどうってこともないんですが、特定の個人についての書き込みとか、愚痴を知り合いに見られるのは面白くないなぁと。でも、また暇になったらまたやりますんで、その時は宜しくお願いします。
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