作曲家から表題曲を献呈されたマルグリッド・ロンは,『ラヴェル-回想のピアノ』(音楽之友社)の中で該曲について次のように書いている。
作品は難しいものでしたが,最もたいへんな楽章は,どうやら間違いなく2楽章です。1楽章のすべての幻想とオーケストラのすばらしい妙技の後,ピアノ・ソロでこの長い,頗る長いメロディーを弾く難しさの前で,そして,すらすら流れるこの大きなフレーズをこんなにゆっくりしたテンポでうたい,守る難しさを前にして,毎回どれだけ不安な気持になるかを,私は或る日ラヴェルに言ったことがあります。すると彼は大声で「そう,流れているんです。だけど僕はこれを2小節ずつ積み重ねるように創っていったんですよ。もう死にそうだったんですよ。」と言ったのです。
モーリス・ラヴェルは,晩年,不可解な病気のためにほとんど作曲活動をすることができなかった。臨床神経学等がご専門の岩田誠先生(東京女子医科大学名誉教授)は,モンフォール・ラモリーにあるラヴェルの旧居を訪れたことをきっかけにラヴェルの病気に興味を持ち,その著書『脳と音楽』(メディカルレビュー社)の「第2章ラヴェルの病い」で,ラヴェルの病気に対するご自分の所見を述べておられる。岩田先生の診断は「メズラム」。「メズラム」とは,ボストンの神経学者メズラムが提唱した「全般性痴呆を伴わない緩徐進行性失語症」のことをいう。ラヴェルの,署名ができない,辞書の助けを借りながらちょっとした短信を書き上げるのにも1週間もかかる,といった表出性の障害の症状はまさに「メズラム」の特徴と合致するのだとか。
この病気で不思議なのは,表出性の障害の一方で,知能や情動などの一般的な知的能力はよく保たれているということ。ラヴェルもその例に漏れないことは,1933年11月に彼がヴァランティーヌ・グロスに語った言葉からもうかがえる。ラヴェルは,構想していたオペラ『ジャンヌ・ダルク』について詳細に語った後,突然それを打ち切り,「ヴァランティーヌ,僕はこの『ジャンヌ・ダルク』を書くことはできないだろう。僕の頭の中で,このオペラはもうできている。僕にはそれが聴こえている。だけどもう決して書くことができない。もうだめなんだ。僕は僕の音楽を書くことができないんだ。」と語ったという。ラヴェルが失ったものは,「内面の音楽そのもの」ではなく,「音楽を表出する術」だったのだ。この点,晩年のラヴェルを「廃人同様の生活を送った」などと書くものも見受けられるが,それは誤りである。ラヴェルは最期まで廃人などではなかった。
それにしても,何たる悲劇。「オーケストレーションの魔術師」とまで呼ばれた人がよりによってこのような病気に罹ってしまうとは・・・。
岩田先生によれば,ラヴェルの作品で病気の発症後に作曲されたことが明らかなのは,『ボレロ』(1928年),『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年),『ピアノ協奏曲』(1931年)及び『ドゥルネシア姫に思いを寄せるドン・キホーテ』(1932年)の4曲。
岩田先生が,当初,これらの作品の中に痴呆等の痕跡を見つけようとして着目されたものに,上掲のピアノ協奏曲に係る「僕はこれを2小節ずつ積み重ねるように創っていったんですよ。もう死にそうだったんですよ。」という言葉がある。おそらく,岩田先生は,この言葉の中に「名曲の誕生に彩りを添えるエピソードや言葉」とは異質なものを感じ取られたのだろう。しかし,岩田先生ご自身告白されているとおり,このピアノ協奏曲から聞こえてくるのは痴呆とは無縁の響き。友人から「病気が演奏に反映しているでしょうか?」と問いかける手紙と共に贈られたという,ロン独奏,ラヴェル指揮ラムルー管によるピアノ協奏曲の演奏(1932年録音)をお聴きになっても,「ここには彼の病いはその姿を現すことができませんでした。」と答えたい,とお書きになっている。センシティヴな表現からは,岩田先生の心優しさ,そしてラヴェルに対する敬愛の念が伝わってくる。
さて,表題は,1967年録音のアルゲリッチとアバドの初共演盤に収められたもの。40年以上前の録音だが,リズムの切れの良さなど,演奏の鮮度は今もって失われていない。ベルリン・フィルも優秀。第1楽章終結部など,彼らの表現意欲は実に旺盛だ。
いずれの楽章も素晴らしいが,やはり,白眉は第2楽章アダージョ・アッサイ。冒頭の3分近くにも及ぶピアノ・ソロから始まり,フルート → オーボエ → クラリネット → フルートと受け渡されていく旋律の美しさは,もはや,この世のものとは思えない。ラヴェルはこの楽章をモーツァルトのクラリネット五重奏曲のラルゲットを手本にしながら作曲したという。
久しぶりに聴き直し,気付いたことがある。それは,第2楽章後半にあるコール・アングレの素晴らしさ。録音によりピアノとのバランスが様々な箇所だが,表題の録音は,ピアノを幾分抑え気味にしてコール・アングレを浮き立たせるという行き方。その配慮に違わず,コール・アングレは,2分間,しみじみとした演奏をくり広げる。この楽章で求められるのは,大きな身振りなどではなく,慎ましさ。コール・アングレは,楽章の開始から6分46秒の辺りでほんの少し変化をつけているほかは淡々と吹きすすんでいく。これは滋味溢れる名演だと思う。
このコール・アングレは,もちろん,シュテンプニクによるものであろう。彼の名演と言えば『トゥオネラの白鳥』が有名だが,このラヴェルのピアノ協奏曲での演奏もそれに劣らないものだと思う。なるほど,フルトヴェングラーがオーボエからコール・アングレに移るよう懇請したというのも頷ける話し。因みに,ローター・コッホのベルリン・フィル入団は1957年。フルトヴェングラーが亡くなったのは1954年である。
ラヴェルが,脳腫瘍などの疑いから,クロヴィス・ヴァンサン教授による開頭手術を受けたのは1937年12月19日の月曜日のこと。大脳皮質の萎縮は認められたものの,腫瘍も血腫も見つからずに手術は終了した。手術後,ラヴェルはいったん意識を回復したが,その後昏睡状態に陥り,9日後の12月28日には帰らぬ人となった。
ところで,弟子のロザンタールによれば,手術は,当初,前週の金曜日に予定されていたのだが,他の緊急手術のため延期されたのだそうだ。そのため,ラヴェルはその週末を病院に近い友人ドラージュの邸で過ごすことになった。そして,この延期により,印象的なひとつのエピソードが残された。
日曜日,ラヴェルを囲む晩餐会でつけられたラジオからは,アルベール・ヴォルフ指揮パドゥルー管による『ボレロ』が流れてきた。折しも,パリではラヴェル・フェスティバルが開催されていたのだ。ラヴェルはこれを聴きながら大きな笑い声を上げて膝を叩き,次のように言ったという。
あぁ,ぼくが作曲をしていたなんて,うそみたいだよ。
作品は難しいものでしたが,最もたいへんな楽章は,どうやら間違いなく2楽章です。1楽章のすべての幻想とオーケストラのすばらしい妙技の後,ピアノ・ソロでこの長い,頗る長いメロディーを弾く難しさの前で,そして,すらすら流れるこの大きなフレーズをこんなにゆっくりしたテンポでうたい,守る難しさを前にして,毎回どれだけ不安な気持になるかを,私は或る日ラヴェルに言ったことがあります。すると彼は大声で「そう,流れているんです。だけど僕はこれを2小節ずつ積み重ねるように創っていったんですよ。もう死にそうだったんですよ。」と言ったのです。
モーリス・ラヴェルは,晩年,不可解な病気のためにほとんど作曲活動をすることができなかった。臨床神経学等がご専門の岩田誠先生(東京女子医科大学名誉教授)は,モンフォール・ラモリーにあるラヴェルの旧居を訪れたことをきっかけにラヴェルの病気に興味を持ち,その著書『脳と音楽』(メディカルレビュー社)の「第2章ラヴェルの病い」で,ラヴェルの病気に対するご自分の所見を述べておられる。岩田先生の診断は「メズラム」。「メズラム」とは,ボストンの神経学者メズラムが提唱した「全般性痴呆を伴わない緩徐進行性失語症」のことをいう。ラヴェルの,署名ができない,辞書の助けを借りながらちょっとした短信を書き上げるのにも1週間もかかる,といった表出性の障害の症状はまさに「メズラム」の特徴と合致するのだとか。
この病気で不思議なのは,表出性の障害の一方で,知能や情動などの一般的な知的能力はよく保たれているということ。ラヴェルもその例に漏れないことは,1933年11月に彼がヴァランティーヌ・グロスに語った言葉からもうかがえる。ラヴェルは,構想していたオペラ『ジャンヌ・ダルク』について詳細に語った後,突然それを打ち切り,「ヴァランティーヌ,僕はこの『ジャンヌ・ダルク』を書くことはできないだろう。僕の頭の中で,このオペラはもうできている。僕にはそれが聴こえている。だけどもう決して書くことができない。もうだめなんだ。僕は僕の音楽を書くことができないんだ。」と語ったという。ラヴェルが失ったものは,「内面の音楽そのもの」ではなく,「音楽を表出する術」だったのだ。この点,晩年のラヴェルを「廃人同様の生活を送った」などと書くものも見受けられるが,それは誤りである。ラヴェルは最期まで廃人などではなかった。
それにしても,何たる悲劇。「オーケストレーションの魔術師」とまで呼ばれた人がよりによってこのような病気に罹ってしまうとは・・・。
岩田先生によれば,ラヴェルの作品で病気の発症後に作曲されたことが明らかなのは,『ボレロ』(1928年),『左手のためのピアノ協奏曲』(1930年),『ピアノ協奏曲』(1931年)及び『ドゥルネシア姫に思いを寄せるドン・キホーテ』(1932年)の4曲。
岩田先生が,当初,これらの作品の中に痴呆等の痕跡を見つけようとして着目されたものに,上掲のピアノ協奏曲に係る「僕はこれを2小節ずつ積み重ねるように創っていったんですよ。もう死にそうだったんですよ。」という言葉がある。おそらく,岩田先生は,この言葉の中に「名曲の誕生に彩りを添えるエピソードや言葉」とは異質なものを感じ取られたのだろう。しかし,岩田先生ご自身告白されているとおり,このピアノ協奏曲から聞こえてくるのは痴呆とは無縁の響き。友人から「病気が演奏に反映しているでしょうか?」と問いかける手紙と共に贈られたという,ロン独奏,ラヴェル指揮ラムルー管によるピアノ協奏曲の演奏(1932年録音)をお聴きになっても,「ここには彼の病いはその姿を現すことができませんでした。」と答えたい,とお書きになっている。センシティヴな表現からは,岩田先生の心優しさ,そしてラヴェルに対する敬愛の念が伝わってくる。
さて,表題は,1967年録音のアルゲリッチとアバドの初共演盤に収められたもの。40年以上前の録音だが,リズムの切れの良さなど,演奏の鮮度は今もって失われていない。ベルリン・フィルも優秀。第1楽章終結部など,彼らの表現意欲は実に旺盛だ。
いずれの楽章も素晴らしいが,やはり,白眉は第2楽章アダージョ・アッサイ。冒頭の3分近くにも及ぶピアノ・ソロから始まり,フルート → オーボエ → クラリネット → フルートと受け渡されていく旋律の美しさは,もはや,この世のものとは思えない。ラヴェルはこの楽章をモーツァルトのクラリネット五重奏曲のラルゲットを手本にしながら作曲したという。
久しぶりに聴き直し,気付いたことがある。それは,第2楽章後半にあるコール・アングレの素晴らしさ。録音によりピアノとのバランスが様々な箇所だが,表題の録音は,ピアノを幾分抑え気味にしてコール・アングレを浮き立たせるという行き方。その配慮に違わず,コール・アングレは,2分間,しみじみとした演奏をくり広げる。この楽章で求められるのは,大きな身振りなどではなく,慎ましさ。コール・アングレは,楽章の開始から6分46秒の辺りでほんの少し変化をつけているほかは淡々と吹きすすんでいく。これは滋味溢れる名演だと思う。
このコール・アングレは,もちろん,シュテンプニクによるものであろう。彼の名演と言えば『トゥオネラの白鳥』が有名だが,このラヴェルのピアノ協奏曲での演奏もそれに劣らないものだと思う。なるほど,フルトヴェングラーがオーボエからコール・アングレに移るよう懇請したというのも頷ける話し。因みに,ローター・コッホのベルリン・フィル入団は1957年。フルトヴェングラーが亡くなったのは1954年である。
ラヴェルが,脳腫瘍などの疑いから,クロヴィス・ヴァンサン教授による開頭手術を受けたのは1937年12月19日の月曜日のこと。大脳皮質の萎縮は認められたものの,腫瘍も血腫も見つからずに手術は終了した。手術後,ラヴェルはいったん意識を回復したが,その後昏睡状態に陥り,9日後の12月28日には帰らぬ人となった。
ところで,弟子のロザンタールによれば,手術は,当初,前週の金曜日に予定されていたのだが,他の緊急手術のため延期されたのだそうだ。そのため,ラヴェルはその週末を病院に近い友人ドラージュの邸で過ごすことになった。そして,この延期により,印象的なひとつのエピソードが残された。
日曜日,ラヴェルを囲む晩餐会でつけられたラジオからは,アルベール・ヴォルフ指揮パドゥルー管による『ボレロ』が流れてきた。折しも,パリではラヴェル・フェスティバルが開催されていたのだ。ラヴェルはこれを聴きながら大きな笑い声を上げて膝を叩き,次のように言ったという。
あぁ,ぼくが作曲をしていたなんて,うそみたいだよ。
プロコフィエフ&ラヴェル:ピアノ協奏曲アルゲリッチ(マルタ),アバド(クラウディオ)ユニバーサル ミュージック クラシックこのアイテムの詳細を見る |