久々のテニスから帰宅、郵便受けに喪中葉書が来ていた。
差出人は?? まるで記憶に無い見知らぬ方だ。
不審に思って部屋に入り眼鏡をかけて本文を見ると、
「二月に義母 ○○美代子が八三歳にて永眠いたしました」
ええっ!!美代子先生が!! ・・・信じられないことが。
恩師の娘さんの御主人から見て「義母」と書いた喪中葉書であった。
美代子先生とは小学校の一年生と二年生の時の担任の先生である。
生涯忘れる事の出来ないまさに恩師であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/a8/785f0264a6b19093c7886e9ad0b3f1a5.jpg)
一年生 54人の友が写っている。 前列左から4人目が花おじ
小学校一年生の時から今日まで実に62年の間、絶えることなく年賀状をやりとりしていた。
毎年の年賀状には小さな美しいペン字で実に丁寧な言葉を書いて下さった。
今年の年賀状には、
「貴方との出会いから、早や六十数年。今もってかわいかったチビちゃんが瞼に焼きついています。不思議ですね。因みに私84才、ちょっと長生きし過ぎました。奥様によろしく」
と書いてあった。
ここ十数年は年賀状を頂いた後に必ず電話をかけて、直接お声を聞くのが楽しみであった。
しばし呆然としたあとで電話をかけた。すぐに出られたのが娘さんであった。
娘さんとは50年ほど昔に恩師の自宅を訪問した時に会っただけである。
当時、娘さんはまだ幼稚園か小学校の低学年であったと思う。
「私、美代子先生の教え子の○○です」と名乗ると、娘さんはご存知だった。
「母がいつも話して、写真も見せていましたので」と。
とってもお元気でいらしたそうだが、ある日仲良しの友達が集まって楽しい団欒の途中で、トイレに立たれ、その中で倒れられたそうだ。
くも膜下出血と心筋梗塞だったそうで、そのまま永眠されたと。
日頃から「ピンピンコロリ」がいいねとおっしゃっていたそうで、家族に介護させることなく天国に旅立たれたのだった。
☆*゜ ゜゜*☆*゜ ゜゜*☆*゜ ゜゜*☆*゜ ゜゜*☆*゜ ゜゜*☆*゜ ゜゜*゜゜*☆*゜ ゜゜*☆*゜ ゜゜*☆
幼かったあの頃、初めての夏休み。まだチビッ子だった一年生の同級生3~4人で、恩師のご自宅まで探検訪問した事があった。子供達だけで初めて乗る電車の大冒険。4区間ほどの駅で降りると、静かな田園風景が広がっていた。そこから歩いて200メートルほどだったろうか。先生のご自宅は精米所で、店先でご両親が働いておられる様子を遠くからそっと覗きながら、ワクワクする気持ちを抑えて訪ねて行った。
ご両親はとてもお喜びで、奥の部屋に声をかけられて、美代子先生が出てこられた。驚いたご様子だったがとても喜んで下さった。
教室で見るお姿とはまた違った先生にみんなで小さな胸をときめかした。
しばし楽しく遊んだ後で、先生は我らを引率して、電車で元の駅に送り届けて下さったのだ。
そして駅前の食堂で「きつねうどん」をご馳走して下さった。とっても美味しかったその味が今も蘇る。
味自慢のその店は成人してからも何度か立ち寄って、幼き日の思い出を新たにしたものだった。
今にして思えば、先生は当時まだ二十歳を少し越えたあたり。戦後6~7年頃だった。
敗戦から間もない貧しい時代であったろうに、あの頃の先生達はみな素晴らしい教育者であり、生徒も保護者も先生を心から敬ったものであった。
名作映画「二十四の瞳」の高峰秀子さん演じる女教師を観るにつけ恩師のお姿と重なり合うのである。
恩師のご冥福をお祈りし、いつの日にかまた天国でお逢いしたいと願うものである。