毎日、毎日、同じ日常の繰り返しのようで、実は少しずつ変わっている。
お天気や温度、湿度、気圧。
ご近所お隣さんの気配、鳥の声、公園の落ち葉の数。
朝の光、風の音、雑踏の中、夕餉の匂い。。。
わたしたちは、同じような毎日の少しずつの変化、あるいは時折訪れる急転直下の大変化に、喜んだり笑ったり、焦ったり困ったりしながら、いろいろな経験を重ねてゆく。
生きるのに、誰かが決めたマニュアルなんか、本当はないんだ。
わたしたちは、戦後、高度経済成長を経て、いい高校、いい大学、いい会社に就職すれば、人生は安全に保証されると、ずっと思いこんできた。
だけど、同じ1日が2度ないように、時代も変化するし、思いこんで教え込まれてきたマニュアルが、もう通用しない。
わたしは、偏差値世代の最初の方の人間だから、十代のある時期、人の価値を「偏差値」の高い学校の出身か、低い学校の出身かで、区別してしまった時期があった・・・orz
さらにいうなら、お金を持っているかどうかで、人を区別していた時期もある…ああ、恥ずかしいよぉ~~。(一応、いいわけみたいにつけ足すなら、差別じゃなくて、区別ね)
その後の人生経験から、偏差値と人間性が比例するものではないということも、お金をたくさん稼ぐ人は、人の仕事を奪ったり、実はどこかで悪いことをしている可能性もあるのだということも、嫌というほど、悟ったのだけれど。
中途半端に大人になったつもりでいる子どもほど、ガキっぽいものはない。わかったつもりで表面的に人を区別し、怖いもの知らずで、バカなこと、恥ずかしいこと、人を傷つけるようなことを、平気で言ったりしたもんだ。海老蔵さんじゃないけど、未熟で大変申し訳ないことでした。
昔、中国に住んでいた、老子おじさんは、上善は水のごとし・・・と言った。宇宙にあふれる最上の善を、たとえて言うなら、水のようなものだと。
老子、言うところの宇宙にあふれる真理・タオ(道)は、わたしなりの解釈だけど、「パワーかフォースか」にある、パワーの部分じゃないかって思っている。
人にエネルギーを与えるのに、見返りを求めることもない。なぜなら、パワーがあることが、空気のように当たりきで、この世の存在そのものが、パワーによって生まれ生きていられるから・・・。
常に変化するものの中に生きているわたしたちを取り巻く不変の本質、それがパワーであり、道(タオ)であると私は解釈する。
それは地球においては、老子おじさんが上善を水とたとえたように、万物の命の源である、水に似ているものかもしれない。
また、老子おじさんは、水にたとえて、すぐれた為政者についてこうも言っている。
水は、手ですくうと、指の間から流れ落ちてしまう。丸・三角・四角、どんな形の器でも、自分が合わせて納めてしまう。はかなくも弱いように見える。
だけれど、洪水や津波のように、ひとたび力を出すと、誰もかなわない強大な力をもつ。
静かに絶え間なく落ちる小さな水の滴りが、いずれ岩に穴をあけてしまう。
最も弱いものが最も強い。
水はどこにもあって、止めようもなく、上から下に下にと流れてゆくのだ。
為政者が水のように弱く見えるなら、本当は強い。岩のように強固に見えるなら、本当は弱いのだ、と老子おじさんは言う。
攻撃的で挑発的なフォースの言葉は、一見強く感じるけれど、人の生きるエネルギーが奪われてしまう(潜在意識を傷つけている)から、頭で考えた顕在意識が納得しようがしまいが、潜在意識はノーと言う(それは体が教えてくれている)のである。
今、世界中のフォースが浮き立っているように見えるのだけれど、みな、消えるために表に出てきた大きな好転反応のようなものといえないだろうか。
ならば、我が家にとってターニングポイントともいえる、今年の春・夏・秋を通して現れた好転反応が、今、ようやく終息に向かっているように、いずれは消えてしまうのではないかと思う。
いつ終わるとは言えないところ、さらに強い好転反応になる可能性もあることが、好転反応のつらさだけど。でも、必ず終息する時が来るだろう。
この年になって、思うこと。
水のように生きたいなあと。
砂漠に水がしみていくように、乾いた心をうるおす水のように。
荒野にわき出て、旅人を癒す命の泉のように。
と、気取ってみたものの、自分が荒野で迷子になってヘタレまくっていたこの1年。
・・・だけど、それもまた、無為自然。(笑)
長くなってごめんなさい。
今年は、この記事をもちまして、ブログ納めとさせていただきます。
今年も、つたないブログにお付き合いくださった、奇特な心をお持ちの皆さん、大好きです!(笑)
本当にありがとうございました。
最後に今年のブログテーマであった「希望」の歌を皆さんにプレゼント。
あなたが、いつも笑顔でいられるように。
希望は、いつもそこにあります。
希望と喜びは、自分の心がそう思った時、目の前に開けてくるでしょう。
参考本:老子(明治書院)
★写真は、「写真素材足成」「写真素材ステーション」よりお借りしました。
お天気や温度、湿度、気圧。
ご近所お隣さんの気配、鳥の声、公園の落ち葉の数。
朝の光、風の音、雑踏の中、夕餉の匂い。。。
わたしたちは、同じような毎日の少しずつの変化、あるいは時折訪れる急転直下の大変化に、喜んだり笑ったり、焦ったり困ったりしながら、いろいろな経験を重ねてゆく。
生きるのに、誰かが決めたマニュアルなんか、本当はないんだ。
わたしたちは、戦後、高度経済成長を経て、いい高校、いい大学、いい会社に就職すれば、人生は安全に保証されると、ずっと思いこんできた。
だけど、同じ1日が2度ないように、時代も変化するし、思いこんで教え込まれてきたマニュアルが、もう通用しない。
わたしは、偏差値世代の最初の方の人間だから、十代のある時期、人の価値を「偏差値」の高い学校の出身か、低い学校の出身かで、区別してしまった時期があった・・・orz
さらにいうなら、お金を持っているかどうかで、人を区別していた時期もある…ああ、恥ずかしいよぉ~~。(一応、いいわけみたいにつけ足すなら、差別じゃなくて、区別ね)
その後の人生経験から、偏差値と人間性が比例するものではないということも、お金をたくさん稼ぐ人は、人の仕事を奪ったり、実はどこかで悪いことをしている可能性もあるのだということも、嫌というほど、悟ったのだけれど。
中途半端に大人になったつもりでいる子どもほど、ガキっぽいものはない。わかったつもりで表面的に人を区別し、怖いもの知らずで、バカなこと、恥ずかしいこと、人を傷つけるようなことを、平気で言ったりしたもんだ。海老蔵さんじゃないけど、未熟で大変申し訳ないことでした。
昔、中国に住んでいた、老子おじさんは、上善は水のごとし・・・と言った。宇宙にあふれる最上の善を、たとえて言うなら、水のようなものだと。
易性第八
-----上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪(にく)むところに処(お)る。ゆえに道に畿(ちか)し。
解釈:最上の善とは、水のようなものである。水は万物に利益を与えながら、他と争うことがない。そしてみんなが嫌がる低い場所にいる。それゆえに道に近い存在と言えるのである。
-----上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪(にく)むところに処(お)る。ゆえに道に畿(ちか)し。
解釈:最上の善とは、水のようなものである。水は万物に利益を与えながら、他と争うことがない。そしてみんなが嫌がる低い場所にいる。それゆえに道に近い存在と言えるのである。
老子、言うところの宇宙にあふれる真理・タオ(道)は、わたしなりの解釈だけど、「パワーかフォースか」にある、パワーの部分じゃないかって思っている。
人にエネルギーを与えるのに、見返りを求めることもない。なぜなら、パワーがあることが、空気のように当たりきで、この世の存在そのものが、パワーによって生まれ生きていられるから・・・。
常に変化するものの中に生きているわたしたちを取り巻く不変の本質、それがパワーであり、道(タオ)であると私は解釈する。
それは地球においては、老子おじさんが上善を水とたとえたように、万物の命の源である、水に似ているものかもしれない。
また、老子おじさんは、水にたとえて、すぐれた為政者についてこうも言っている。
任信七十八
------天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫(な)し。而も堅強を攻めるもの、能(よ)く勝るあるを知る莫し。其れ以てこれにかわるもの莫(な)し。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下に知らざるもの莫(な)きも、能(よ)く行うは莫(な)し。故に聖人云う、国の垢を受くる、これを社稷(しゃしょく)の主(しゅ)と謂(い)い、国の不祥を受くる、これを天下の王と謂う、と。正言は、反するが若(ごと)し。
解釈:世の中に柔弱なるものは、たくさんあるが水より柔弱なものはない。そもそも水に変わりえるものなどないのである。弱い者が強いものに勝ち、柔らかいものが強い者に勝つという道理は、世の中に知らないものがないが、それを実行できるものはない。だから聖人は言っている。「一国の恥辱を一身に負うもの、これを国家の主と言い、一国の不幸を一身に負うもの、これを天下の王と言う」と。
正しい言葉というものは、一見正反対のように見えるのである。
以上緑字:老子(明治書院)より抜粋
------天下の柔弱なるもの、水に過ぐるは莫(な)し。而も堅強を攻めるもの、能(よ)く勝るあるを知る莫し。其れ以てこれにかわるもの莫(な)し。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下に知らざるもの莫(な)きも、能(よ)く行うは莫(な)し。故に聖人云う、国の垢を受くる、これを社稷(しゃしょく)の主(しゅ)と謂(い)い、国の不祥を受くる、これを天下の王と謂う、と。正言は、反するが若(ごと)し。
解釈:世の中に柔弱なるものは、たくさんあるが水より柔弱なものはない。そもそも水に変わりえるものなどないのである。弱い者が強いものに勝ち、柔らかいものが強い者に勝つという道理は、世の中に知らないものがないが、それを実行できるものはない。だから聖人は言っている。「一国の恥辱を一身に負うもの、これを国家の主と言い、一国の不幸を一身に負うもの、これを天下の王と言う」と。
正しい言葉というものは、一見正反対のように見えるのである。
以上緑字:老子(明治書院)より抜粋
水は、手ですくうと、指の間から流れ落ちてしまう。丸・三角・四角、どんな形の器でも、自分が合わせて納めてしまう。はかなくも弱いように見える。
だけれど、洪水や津波のように、ひとたび力を出すと、誰もかなわない強大な力をもつ。
静かに絶え間なく落ちる小さな水の滴りが、いずれ岩に穴をあけてしまう。
最も弱いものが最も強い。
水はどこにもあって、止めようもなく、上から下に下にと流れてゆくのだ。
為政者が水のように弱く見えるなら、本当は強い。岩のように強固に見えるなら、本当は弱いのだ、と老子おじさんは言う。
攻撃的で挑発的なフォースの言葉は、一見強く感じるけれど、人の生きるエネルギーが奪われてしまう(潜在意識を傷つけている)から、頭で考えた顕在意識が納得しようがしまいが、潜在意識はノーと言う(それは体が教えてくれている)のである。
今、世界中のフォースが浮き立っているように見えるのだけれど、みな、消えるために表に出てきた大きな好転反応のようなものといえないだろうか。
ならば、我が家にとってターニングポイントともいえる、今年の春・夏・秋を通して現れた好転反応が、今、ようやく終息に向かっているように、いずれは消えてしまうのではないかと思う。
いつ終わるとは言えないところ、さらに強い好転反応になる可能性もあることが、好転反応のつらさだけど。でも、必ず終息する時が来るだろう。
この年になって、思うこと。
水のように生きたいなあと。
砂漠に水がしみていくように、乾いた心をうるおす水のように。
荒野にわき出て、旅人を癒す命の泉のように。
と、気取ってみたものの、自分が荒野で迷子になってヘタレまくっていたこの1年。
・・・だけど、それもまた、無為自然。(笑)
長くなってごめんなさい。
今年は、この記事をもちまして、ブログ納めとさせていただきます。
今年も、つたないブログにお付き合いくださった、奇特な心をお持ちの皆さん、大好きです!(笑)
本当にありがとうございました。
最後に今年のブログテーマであった「希望」の歌を皆さんにプレゼント。
あなたが、いつも笑顔でいられるように。
「希望の歌~交響曲第九番~」FULL
希望は、いつもそこにあります。
希望と喜びは、自分の心がそう思った時、目の前に開けてくるでしょう。
参考本:老子(明治書院)
★写真は、「写真素材足成」「写真素材ステーション」よりお借りしました。
また
来年も~
よろしくお願いします。
・・はなこころ
どうぞ、素敵なクリスマスとお正月を
お迎えくださいね。
本当に最高のお手本ですよね(^-^)
気体から液体になって固体にかわり、
また液体に、気体へと変遷する姿も
人間にそっくりだな~って思います。
今年も一年間、金木犀さんの素敵なお言葉と画像の数々にたくさんの感動をいただきました。
ありがとうございます(^-^)
来年も、宜しくお願い致します。
百合亜
そうですね、水って、変化しますよね。
気体の時は、見えないけど、やっぱりあるんですよね。
ゲゲゲの女房でも、よく使われていた
「見えんけどおる」
心だって、物理的に目に見えるものじゃないけど、確かにある。
そんなこんなも含めて、このような番組が評価を受けたこともうれしい1年でした。
希望の歌の歌詞に
「幸せだから笑うんじゃなくて、笑っているから幸せになる」
っていう部分があるでしょう。
思わず、ゆりあさんのことを思い出しちゃいましたよ。
どうぞよいお年を。
空気のようになりたい、水のようになりたい、柳のようになりたい、猫になりたい・・・がわたしの子供のころからの夢でした。
実現できているかどうかは、分かりませんが、なんとなく、ゆらゆらとふらふらと、気がつけば生き延びています♪
水は愛
空は愛
愛は∞
「希望の歌」いいですねー!
ありがとうございます。
思わず昨日の夜急遽書いた記事に貼り付けちゃいました。
命を愛す
https://blogs.yahoo.co.jp/shihihaida/16716673.html
7811
6925
3355
2010年は、本当に我が家の好転反応ともいうべき年で、かなり試練の年でしたが、なんとか乗り越えられて、この記事を書いたのは、ようやく一息ついたかな、という安堵感だったからかも。
長々といろいろなことを書いてしまったようです。
でも、この日からちょうど3ヶ月後に、3.11が起こりました。
命を救う水もあるけど、命を奪う水もある。
それを思うとちょっと「ひりっ」とした気持ちになります。
記事中の、老子の言葉。
「一国の恥辱を一身に負うもの、これを国家の主と言い、一国の不幸を一身に負うもの、これを天下の王と言う」
原発事故に立ち向かいながら脱原発を宣言、各方面からの妨害とバッシングで、ぼろぼろになってた菅善総理のことを思い、記事を書きました。
「この国の恥辱を一身に負うもの」
https://blog.goo.ne.jp/hanamiduki87/e/31832451f639d50bc98e3a6f564e3f03
藤澤ノリマサさんの歌は、ラジオで聞いて、いいなと思って、You Tubeで探しました。
>空気のようになりたい、水のようになりたい、柳のようになりたい、猫になりたい・
それいいですねー。私も猫になりたい(半分なってるかも)