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KUMIの句日記

写真と一日一句で綴るブログ。句の転載を禁じます。

落花と落椿

2023年04月02日 | 俳句
天気 曇一時雨

昨日は穏やかな花見日和だった。買い物がてら少し歩いて、公営住宅の何本かの満開の桜を眺めて。ソメイヨシノとオオシマザクラが並んでいる。昨日は花吹雪にはならなくて、散った花は前日の雨のせいだったのだろう。桜に並ぶ椿の木はほぼ散り尽くしていて、桜にバトンタッチをしたような感じだった。
その桜の下に蒲公英の群生。公営住宅なので、住民が草取りなどしていると思われるが、蒲公英や菫を旨く残して雑草を取っているようだ、



昨日に続いて今日も穏やかに花見日和が続くと思ったら、空気が寒くなった。昨日の体調からうって変って今日は目眩が・・でもあーちゃん親子が来るというので楽しみに起きたのに・・まあちゃんが鼻風邪をひいてしまった、と。鼻風邪でも、このホームでは先週は蔓延してしまい、下の階では隔離騒ぎもあったばかり。泣く泣く今年初めてのまあちゃんとの「面会」を諦めた。
まあちゃんの好きなパスタ屋さんに行こうと思っていたランチ、一人では入りにくい店なので、いつものカフェへ。ところが、暖房が効いていなくて寒い。いちばん奥の席にしたのに、それでも何となく隙間風が・・長居せずに出てきてしまった。

マスクを外してもあまり恐怖感がなくなったのが有難い。でも、駅周辺の人たち、相変わらず外であっても8割の人はマスク装着している。全然変わらない風景だ。でも、一つ変わったことがあった。久々に衣類売場でソックスなど買い、駅ビルのトイレへ行ったら、ハンドドライヤー(というのだっけ?)が動いていた。手洗いのあとに風で手を乾かしてくれる器械。有難い。病院などは手拭きのペーパーを置いてあったが、この駅ビルは綺麗にしてあるが、手拭きのペーパーはなかった。公衆トイレのようなものだから仕方がない。ハンカチを出すのがとっても面倒だった。
私みたいな籠り生活の続く病人が、コロナ禍の遠のいたことをようやく実感出来た体験だった。

存分の落花踏み来し靴の底  KUMI
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追憶・目黒川の桜

2023年04月01日 | 俳句
天気 晴のち曇

今日の写真は2011年の目黒川の桜。

実は、今いちばん辛いのは右手中指のヒョウ疽の再発の痛み。去年と同じ指の爪の別の場所に出来てきた。去年のように指まで化膿して腫れることはないのに、痛みだけは前の症状に劣らない。夜、ベッドに入ると痛みが増すようで寝付けない。仕方なく鎮痛剤を飲んで寝る、という情けなさが数日続いている。パソコン入力には何とか支障はないけれど、昨日はちょっとものを書く用事があり、それでひどく痛くなってしまった。文字だけは、右手でしか書けない。つくづく、若い頃右手を怪我した時に左で文字を書く訓練をしておけば良かった、と。
一年も続くと、右手の使い方まで忘れてしまいそうだ。
書きたいことはたくさんある。でも、長く入力していると、やはり使わない中指まで響いてくる。

2011年の目黒川の桜、あの東日本大震災のあと、一ヶ月とは立っていない訳で。近いのでいつでも行ける、と思うと行かない、という場所が都内には幾つもあったが、その一つだった。もっとも、人の多い都会まで行かなくても多摩に桜の名所はたくさんあるので、あまり魅力を感じなかったのかも。
若い頃、大混雑の上野公園へ行き「桜は井の頭か小金井の方が・・」と思ったかららしい。
写真が、古いパソコンの中でなぜか劣化したみたいで・・

2011年の春、震災のあと、東京の人たちは私も同じだったが、やたら花見に出かけた。出かけた先で交通機関が動かないような地震に遭ったら、というシュミレーションが出来上がっていたので、結構、遠くまで行ったりした。家に居ても震災のあれこれをテレビで見ることになり、たまらなく心が重くなる。おまけに原発事故の放射能問題が首都を暗くしていて、幼い子供を持つ母親たちにはギスギスした日々だったようだ。ならば、家で余震に脅えるよりも桜でも見て、いつ会えなくなるかもしれない友人たちと今の不安を話し合って・・
という気分だったのかもしれない。




目黒川の桜を見て、西郷公園へ行き、祐天寺へ出た。
西郷山からの写真。当時すでに、高層の建物に囲まれていた。今はもっと増えているのだろう。


実は私は目黒の生まれ。戸籍上の地番はもうないので、場所を知っている両親・兄姉とも逝ってしまい正確には解らない。このあたりだろう、ということで歩き廻った。父親は外地勤務、母と兄姉と私は目黒に居たが、首都空襲が激しくなったので、房総半島の母の実家の海辺の村へ疎開した。遠縁の家の隠居所を借り、疎開者とはいえあまり惨めな暮らしでもなかったようだ。母の実家は昔、江戸へ産物を運ぶ海鮮問屋、明治以後に落ちぶれたとはいえ、戦時中も叔父が精米業を営んでいて、自家用の田畑も所有していた。だから米にはほぼ困らなかったし。
それはそうと、私は「東京生まれ」と言ったって目黒のことはほぼ覚えていない。出身地を書かされる書類には、「千葉県」と書くことにしていた。へええ、東京の出身?などと言われても気が重い。両親ともに疎開先の出身だったし、ことば遣いは未だに荒っぽい房総育ちで、高齢になっても夫に「話し方が乱暴過ぎる」と言われてきた。仕方がない、血筋は剥いても剥いても房総の人間のようだ。
東京大空襲の前年に疎開しているので、大空襲で燃える東京の空は対岸の疎開先で見たものの、目黒、というのは戸籍の出生地に残るだけ。その地番は、今は使われていないので、どこが「わが生地」なのやら。私の生まれたときのことを3歳半上の姉は覚えていると言った。だから、自宅出産だった訳で。
空襲のあったとき、家から、西郷山の西郷家のお邸の燃えるのが見えた、という。西郷邸、というのは西郷隆盛の末裔の家で。広大な土地を持っていたらしい。今は小高い公園になっていた。

そこを眺められた、というのだから、多分このあたり、という所に姉の通っていたという、名前だけは記憶にある小学校を見つけた。
このあたりで産まれたのか~ 普通の都会の住宅地から西郷山の方を眺め、感慨にふける・・ということもなく、我が「生地探し」は終わった。

東日本大震災は、被災地の端っこである東京の人たちに、生きていることの価値を考えるよう教えた気がする。

高層のビルのほとりの花すみれ  KUMI
コメント (6)
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