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舶匝

堅く評 #大村知事のリコールを支持します #ピーチ航空は障碍者の敵 #静岡県を解体せよ モーリシャス関連は検索窓から

結局、健康管理し損ねた安倍晋三の自己責任。同情の余地なし。或いは、潰瘍性大腸炎だった岡村周一先生との比較。

2020-08-29 23:11:48 | 京都大学

の続き。

「体調異変」と説明した時期に連日会食、しかも仏料理にステーキ』
を読み返すと、

6月19日には、東京・虎ノ門のホテル「アンダーズ東京」のレストラン「ザ タヴァン グリル&ラウンジ」

6月20日にも永田町の「ザ・キャピトルホテル東急」のレストラン「ORIGAMI」

6月22日には、丸の内の「パレスホテル東京」の日本料理店「和田倉」

6月24日には赤坂の日本料理店「たい家」

これらの安倍晋三による暴飲暴食は、


よりも、前。


7月21日には松濤のフランス料理店「シェ松尾 松濤レストラン」

翌日22日には銀座のステーキ店「銀座ひらやま」

7月30日には、丸の内の「パレスホテル東京」内の「和田倉」で自民党の岸田文雄政調会長と会食している。和田倉は日本料理店だが、新聞各紙の報道によれば、安倍首相はここでもステーキを注文。鶏の生姜焼きを注文した岸田政調会長とビール、ウイスキーの水割りを酌み交わしたという。

病身の奴、特に、潰瘍性大腸炎を患っている奴がやってはならないことを悉く……

つまり、
安倍晋三の体調悪化は、
安倍晋三の暴飲暴食が招いた事態。
初歩的な体調管理を怠った結果。
自己責任じゃん。

これらの事情を念頭に置くと、


は、その通りだ、の一言に尽きる。
体調管理は、現代人の義務です(国民医療費を左右しますし)。

ちなみに、
潰瘍性大腸炎を患っていた行政法学者・岡村周一は生前、健康に気を使った生活をしていたようです。教育活動・研究活動に打ち込むという点を除けば。

岡村周一先生は、病室に数百枚の答案用紙を持ち込んで採点作業(京大法の専門科目成績は一点刻み。しかも学生の人生や京大法教官候補選びを左右するので、ストレスフルな作業)をしていたことも。
岡村周一先生、命削って教育活動・研究活動に打ち込む様子を目にしていただけに、
安倍晋三の暴飲暴食は、カチンとくる。

岡村周一先生は命削った末に、吐血により急逝。
一方、
無責任の限りを尽くした安倍晋三は、元気よく辞任会見。

これを理不尽を言わずして何というか。

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おまけ
こういうエスプリ、いいですねぇ。

悪いワンマンの下、蛇のように、アヒルのように生きた者たちは、向きを変えた時代の振り子の前で如何に動くか。

2020-08-29 16:56:54 | 俳句
六月半ば、


「悪いワンマン経営」の下にある人の反応は、二種類。
一、嫌気が差して出ていく・入らない。
二、(一時的か永続的かはともかく)道理を曲げてでも付いていく。


今の良心や私情に従うか、
未来の生活や公益に従うか、
という
各人による「組織にいれば直面しがちな古典的な二者択一」の結果が、ああいう状況。


「今の状況が何時までも続く」とは見ていないから官界から出ない、という方々もそれなりにいるでしょう。
(by 京大法卒。官界に居続けるには、それなりの賢さが必要です。)

と、コメント。

また、



「一貫性を希求しない」「理を突き詰めない」「矛盾を放置する」「骨がない」などの思想的だらしなさ。
それゆえの「巨大な胃袋」かと。
(実際、胃袋には骨、ないですし。)
仏教・神道では、
博士号すら取っていない人が高位の聖職者を務めることができるそうで……それ自体、カトリック界隈では驚きなのです。

とコメント。

それから約二か月半後、

悪いワンマンは再び、総理の椅子を投げた。


しかも、病状をわきまえない暴飲暴食の末に……


夜の秋 振り子も前の 時代蹴る (舶匝)

「振り子」関連記事





振り子に蹴られる「前時代」の人たち
 

100円ショップに並ぶ品々からも、垣間見えます。

実は、村中璃子とも地続き

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臨終前のやけ食い。安倍晋三編。或いは、余りに、軽くて胡散臭い「責任」という概念

2020-08-29 11:17:22 | 政治過程論


『安倍首相が会見で語った「病状」が矛盾だらけ!「潰瘍性大腸炎の兆候」「体調異変」と説明した時期に連日会食、しかも仏料理にステーキ』

これがほんとうに「潰瘍性大腸炎の再発の兆候」があり、「体調が悪化」した人の食生活なのだろうか。潰瘍性大腸炎の活動期は、消化しやすく、高たんぱく・低脂肪の大豆製品や鶏肉、魚類などが推奨され、脂肪の多い食品や、油を使用している料理、アルコール類は控えめにするよう指導されるはずなのだが……。

ただし、臨終前を悟っているならば、
食生活などお構いなしとなるでしょう。



器の小ささゆえに、そういう堕落した流れに至るでしょう。








ちなみに、

を以て、石垣のり子議員を叩く向きがある。 
しかし、このツイートは、
現代に生きる社会人の感性に即したツイート。 


ちなみに、
「けいおん!!」では、
 唯がじゃんけんに負けた結果重くて臭いギターケース(中身は五十万円のギータであると後に判明する)を持たされる場面が出てくる。
 ぼやく唯に、 
「自分の責任だ」
 と返す澪。
(しかし、その後、唯はじゃんけんで三連勝。唯は得意になっていた。)



石垣のり子議員は、
「軽くて胡散臭い」安倍晋三と安倍を担いだ連中に
「自分の責任だ」
と指摘したに過ぎない。澪のように。

しかし、自民党内には
「軽くて胡散臭い」安倍晋三と安倍を担いだ連中の
責任を問う動きは、ない。

「責任」とは、高校生までの概念なのだろうか。
「責任」とは、
勝っているときには、唯のように浮かれ気分の中で忘れ去られ
負けているときには、唯のようにボヤキの中で忘れ去られる
ものなのだろうか。


ゲッペルスの語録・人物評を読む。そして、少し手を加えてひっくり返す。村中璃子の駄文も例に

2020-08-29 10:32:53 | 文章の書き方・読み解き方
ゲッペルスは、
非常に頭が切れるが、信用は置けない。」(by カール・カウフマン) 人物であり、
腐っていなかった。ただ恐ろしいほどに危険な男だった。」(1979年、アルベルト・シュペーア) 

ゲッペルスの語録・人物評
のうち特に、目に留まった語録は

 人種は、あらゆる創造的な力の土壌である。人類、そんなものはひとつの仮定だ。現実なのはただ民族だけだ。人類とは、民族の多様性以外の何ものでもない。民族は有機的である。人類は、有機的になったにすぎない。
 有機的であるということ、それは、有機的な生命を産み出す能力をみずからのうちに蔵している、ということだ。
 森とは、樹木が多数あることにすぎない。
 ぼくは、民族を滅ぼして人類を維持することなど出来ない。同じように、森を大切にするために樹木を根絶やしにすることなど出来るものではない。
 樹木、それが全体としては森と呼ばれる。
 民族、それが全体としては人類と呼ばれる。
 樫の樹が力強く育てば育つほど、それはますます美しく森を飾るだろう。
 ある民族がどこまでも民族であればあるほど、それはますます生きいきと人類に奉仕する……。
 これ以外のものはすべて、頭で考え出されたものであって、自然に生え育ったものではない。だから、それは歴史に耐えることができない。

しかし、
実際には、仮定は民族で、
現実なのは、ただ人類だけ。 
八十年代に出た 「想像の共同体」によると。

プロパガンダに使われる表現は、
少し手を加えるだけで、
全く異なるものを伝えることができる。


 人類は、あらゆる創造的な力の土壌である。民族、そんなものはひとつの仮定だ。現実なのはただ人類だけだ。民族とは、人類の多様性以外の何ものでもない。人類は有機的である。民族は、有機的になったにすぎない。
 有機的であるということ、それは、有機的な生命を産み出す能力をみずからのうちに蔵している、ということだ。
 森とは、樹木が多数あることにすぎない。
 ぼくは、人類を滅ぼして民族を維持することなど出来ない。同じように、森を大切にするために樹木を根絶やしにすることなど出来るものではない。
 樹木、それが全体としては森と呼ばれる。
 民族、それが全体としては人類と呼ばれる。
 樫の樹が力強く育てば育つほど、それはますます美しく森を飾るだろう。
 ある人類がどこまでも人類であればあるほど、それはますます生きいきと人類に奉仕する……。
 これ以外のものはすべて、頭で考え出されたものであって、自然に生え育ったものではない。だから、それは歴史に耐えることができない。

手を加えた箇所は、
太文字部分だけ。

それだけで、民族概念を鼻で笑う「想像の共同体」販促文になります(若干、勢いで押し切った箇所もありますけど)。


「私たち」が必要と思う人を必要な時にPCR検査できるようにすること(たとえば流行が拡大してきたら、その地域の医療施設や介護施設のスタッフや患者さんを無症状でも検査する)と「誰でも、いつでも、何度でも」は全く話が別です。
世田谷区医師会のこの文章は本当によくまとまっているので皆にぜんぶ読んでほしい。

ちなみに、「世田谷区医師会のこの文章」とは
のこと。
 
要するに、

区よ、我々の仕事、増やすな

です。つまり、医師のわがまま。

新型コロナウィルスに限らす、
医療従事者どもの怠惰な都合の結果、
患者を蔑ろにするケースが世界各地で散在。

「私たち」が必要と思う人を必要な時にPCR検査できるようにすること
「私たち」とは、

非常に頭が切れるが、信用は置けず、恐ろしいほどに危険な医者たち
のこと。